Mag-log in実家へ着いたときには、夜がすでに深くなっていた。
駅からタクシーで十分ほどの住宅街は、見慣れているはずなのに、その夜はどこか色を失って見えた。街灯の白さが道路の端に細く落ち、並んだ家々の窓には、それぞれの生活の灯りがともっている。誰かが風呂に入り、誰かが夕飯の片づけをし、誰かがテレビを見ている。そういう普通の夜の中に、和希の実家だけが急に別の用途の家になってしまった気がした。
玄関の灯りはついていた。
インターホンを押す前に、鍵は開いた。父だった。ネクタイを外していないワイシャツ姿のまま、顔だけがひどく疲れている。泣いた顔ではない。むしろ逆だった。感情をどこかへ押し込みすぎて、輪郭だけが硬くなっている顔だった。
「来たか」
父の声は低く、乾いていた。
和希は頷いた。
「うん」
それ以上の言葉が続かない。お疲れ、とも、どうなってる、とも、何も言えないまま靴を脱ぐ。玄関には母の靴と、見慣れない黒い革靴が一足並んでいた。葬儀社の人間だろうと思う。玄関マットの端が少しめくれている。父か母がさっき足を引っかけたのかもしれない。そんなことだけがやけにはっきり目に入った。
リビングへ入ると、空気が少し乾いていた。暖房は入っているのに、家の中の温度が人の心まで温めていない感じがする。ダイニングテーブルには書類が広がり、黒いスーツ姿の男が一人座っていた。葬儀社の担当者らしく、胸元に社名入りのネームプレートをつけている。母はソファの端に座っていて、膝の上にハンカチを握ったまま顔を上げた。
「和希」
呼ばれた声は、電話のときよりも細かった。
母の目元は赤い。泣き続けたせいで腫れているというより、涙が出たり止まったりを繰り返したあとの顔だ。頬の色も悪い。いつもはきちんと留めている髪が、今日は耳の横で少し崩れていた。
和希は母の前まで行き、何か言わなければと思ったが、結局「うん」としか返せなかった。抱きしめるでもなく、肩に手を置くでもなく、そのまま立っている。そうするしかなかった。
葬儀社の男が丁寧に立ち上がり、名刺を差し出してくる。和希はそれを受け取り、名前だけ目で追う。読む気があるわけではない。ただ受け取る、という行為の形を守るために見ているだけだ。
「ご到着のところ恐れ入ります。いま、お父さまと日程のご相談をしておりまして」
男の口調は穏やかで、こういう場に慣れている人間の静けさがあった。必要以上に同情を乗せず、事務的にもなりすぎない。声の温度まで整えられている。
和希は椅子を引き、テーブルの端に座った。そこから先は、ひどくスムーズだった。
通夜をいつにするか。告別式はどこで行うか。僧侶への連絡はどうするか。火葬場の空きは。親族は何人来る見込みか。会葬者が増えた場合の席数は。香典返しの目安は。遺影写真に使えそうなものはあるか。
質問が一つ来るごとに、父は少し考えて止まり、母はハンカチを握ったまま答えきれず、そして和希がつい口を挟む。
「叔父さんのところには俺から連絡する」
「火葬場、明後日の午後しか取れないなら、そこに合わせたほうがいいと思います」
「会社関係は家族葬の範囲で絞ったほうがいいですか」
誰かに頼まれたわけではなかった。けれど、答えが空白になるたびに、その空白を埋めるのが自分の役目みたいに身体が動く。そうしないと話が止まる。止まったところへ、別の現実が入り込んでくる気がする。美里が死んだという、まだ固まりきっていない事実が。
だから和希は、段取りのほうを先に進めた。
母がふいに小さく鼻を鳴らす。泣き声というより、呼吸の途中でどこかが痛んだ音だった。和希は反射的にそちらを見るが、母は「大丈夫」と小さく言ってハンカチを目に当てる。その大丈夫が、本当に大丈夫な意味ではないことは分かっている。それでも、誰もそこへ踏み込まないまま、話は続いた。
時計が九時を回るころには、おおよその流れが決まっていた。通夜、告別式、火葬の時間。会場。会食の有無。最低限連絡すべき親族のリスト。担当者が帰る段になって、父は立ち上がろうとしたが少し動きが鈍く、和希が先に玄関まで見送った。
「ご長男さま、しばらく大変かと思いますが」
担当者は靴を履きながらそう言った。
ご長男さま。
その呼ばれ方が、妙に遠かった。和希は自分が誰としてそこに立っているのか、ようやく形式上だけ理解する。息子。長男。喪主ではまだないが、少なくとも今この家の不足を埋める位置にいる人間。
「はい」
短く返す。声はまだ落ち着いていた。
玄関の扉が閉まると、家の中は急に静かになった。さっきまでそこにあった他人の声が消え、暖房の風の音だけが残る。その静けさの中で、母がソファに座ったまま小さく泣き始めた。
大きな声ではなかった。声を上げて崩れるのではなく、肩だけが少し震え、喉の奥で細く詰まるような泣き方だった。父はダイニングテーブルの書類を見たまま動かない。背中だけが、さっきより少し小さく見える。
和希は立ったまま、何をすればいいのか一瞬分からなかった。
母に水を持っていくか。父に休むよう言うか。テーブルを片づけるか。やるべきことはいくらでも思いつくのに、どれも決定打にはならない。結局、キッチンへ行ってコップに水を入れ、母の前へ置いた。
「飲んで」
母は泣きながら頷いたが、すぐには手を伸ばさなかった。
そのあとも、和希は動いた。親族の連絡先を父の古い手帳から拾い、叔父と叔母へ電話をかけ、明日の朝にもう一度詳細を送ると伝える。母のスマートフォンには近所の人からのメッセージが何件か来ていて、返信は後でいいからと父に言う。仕事用のメールを最低限だけ整理し、来週の会議を別のメンバーへ引き継ぐための文を送る。そうしていると、感情は表面へ出てこない。出てくる暇がない。
だが、人の言葉はそれとは関係なく刺さってくる。
叔母は電話口で、声をひそめながら言った。
「美里ちゃん、最近会ってたの」
和希は一瞬、言葉を探した。
「いや、たまに連絡は取ってた」
嘘ではない。実際、まったく疎遠だったわけではない。季節が変わる頃に短いメッセージを送り合い、たまに実家のことを確認し、近況を一言二言やりとりするくらいの関係は続いていた。
それだけだ。
それだけなのに、その「たまに」が自分の喉を切る。
叔母は悪気なく続ける。
「同じ東京なら、時々顔見てたんでしょう」
「いや、仕事もあったし……」
言いかけて、語尾が曖昧になる。言い訳みたいに聞こえたからだ。仕事があった。たしかにそうだ。美里にも仕事があっただろう。お互い忙しかった。それは本当だ。だが本当であることと、十分であることは違う。
電話を切ったあと、和希はそのままスマートフォンを見下ろした。黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。さっきタクシーの窓に映っていたのと同じ顔だった。少し疲れた会社員の顔。妹を亡くした兄の顔には、まだ見えない。
母が泣き止みかけた頃、ふいに言った。
「この前ね、美里が送ってきたお菓子、まだあるのよ」
和希は顔を上げる。
母はハンカチを握ったまま、ダイニングの棚の方を見た。
「会社の近くで買ったんだって。甘いもの苦手なお父さんでも食べられそうなの選んだって」
その声に、泣き声とは別の痛みが混ざっていた。
和希は棚を見た。たしかに見覚えのない箱がひとつ置いてある。包装紙もそのままで、開けられていない。美里はそういうことをする。季節のものや、出張帰りの小さい土産を、義務みたいでなく、でも忘れずに送る。あまり大げさではない品を選ぶのもうまい。送って終わりではなく、ちゃんと相手の好みまで考えている。
拒絶されていたわけではない。
その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。
和希は数日前のトーク画面を思い出した。
今度ごはん行こう。
また予定見て連絡するね。
それだけだった。拒まれてはいない。ただ曖昧に流された。和希はその曖昧さを、忙しいのだろうと解釈した。無理に追わなかった。今度でいいかと思った。今度は来ると思っていた。
その「今度」が、もう来ない。
だが、その痛みはまだはっきりした形にならない。ただ、喉の奥に何か薄いものが貼りついたみたいに、うまく飲み込めない感覚だけが残る。
夜も更け、父がようやく書類を片づけ始めた頃、警察経由で戻ってきた美里の所持品がテーブルの端へ置かれた。紙袋にまとめられたそれらは、遺品というより、本当にさっきまで使っていたものの延長にしか見えなかった。
バッグ。
財布。
ポーチ。
ハンカチ。
鍵。
スマートフォン。
どれもきれいに並べようとすると、逆に生々しい。母はそれを直視できず、父も手を伸ばさない。だから結局、和希が袋から出して確認することになった。
誰かに頼まれたわけではない。ただ、その場で動けるのが自分しかいなかった。
バッグは黒に近いネイビーの革で、角が少し擦れていた。仕事用に使っていたのだろう。持ち手には美里の癖が残っているような気がする。右肩にかけることが多かったのか、片側だけがわずかに柔らかい。ファスナーを開けると、内側からごく薄く、化粧品と布と生活の匂いがした。女物の香水の強い匂いではない。ハンドクリームか、柔軟剤か、そういう日常の匂いだ。
和希はそこで初めて、息を少し止めた。
生きていた。
当たり前のことが、その匂いだけで急に現実になる。使っていた。持ち歩いていた。毎朝これを肩にかけて、電車に乗って、仕事へ行って、帰りにコンビニへ寄ったかもしれない。その生活が、このバッグの重さと匂いに残っている。
財布の中には現金が少しと、ポイントカード、ドラッグストアのレシートが入っていた。日付はつい最近のものだ。ハンカチは洗い立ての匂いがし、鍵には見慣れないマンションのキーホルダーがついている。スマートフォンは電源が切られていた。黒い画面に、部屋の灯りと和希の指が映る。
父が低く言った。
「明日、部屋の方も行かなきゃならん」
和希は頷いた。
「うん」
その返事が、自分の口から出たとき、また何かが少しだけ冷えた。部屋へ行く。美里の部屋。そこにまだ歯ブラシも、洗いかけの皿も、途中まで読んだ本も、着ていた服もあるのだろう。それを片づけるという現実が、いま急に手触りを持つ。
母が小さく言う。
「スマホ……中、見ないといけないのかしら」
和希は答えられなかった。見るべきなのだろう。連絡先もあるし、何か手がかりもあるかもしれない。でも、黒い画面の向こうにあるものを、自分が開く場面をまだ想像できなかった。そこにはきっと、数日前までの生活の続きが入っている。自分との何でもないやり取りも、その中にある。
「明日、落ち着いてから考えよう」
そう言うのが精一杯だった。
その夜、和希は実家に泊まることになった。自分の部屋はそのまま残っているが、大学時代の名残みたいな狭さがある。クローゼットには昔のスーツが何着か吊ってあり、今の体には少しだけ肩が窮屈だ。だが通夜に出るにはそれではだめだと分かり、結局、父の予備の礼服を借りることになった。
着替えるために鏡の前へ立つ。
黒いスーツ。白いワイシャツ。黒いネクタイ。喪服の黒は、仕事のスーツの黒とは少し違って見える。艶がなく、重い。布そのものが、着る人間の言葉数を減らすような色をしている。
和希はネクタイを結んだ。
指は迷わなかった。いつも通りの手順で、結び目を作り、襟元まで引き上げる。左右の長さを整え、ワイシャツの襟を直す。鏡の中の自分は、ごく普通に礼服を着た男だった。乱れていない。ネクタイの形もきれいだ。肩線も収まっている。そういう「いつも通り」が、急にたまらなく嫌になった。
妹は死んだのに、自分は普通にネクタイを締められる。
そのことに、遅れて吐き気に似た嫌悪がこみあげる。
鏡の中の男は、泣いていない。取り乱してもいない。明日の段取りを確認し、親族の前へ出て、喪服を着て立つことができる顔をしている。その整い方が、和希にはひどく気味悪かった。
兄として、何をしていたんだろう。
その問いが、初めてはっきりしない形のまま胸に現れた。
何をしていた、というほど何かを怠ったわけではないかもしれない。連絡は取っていた。たまに飯に誘った。実家のことも気にしていた。完全に遠かったわけではない。近かったはずだ。同じ東京にいて、名前を呼べば届く距離にいた。
それなのに届かなかった。
その事実だけが、まだ輪郭を持たないまま、黒い喪服の重さと一緒に肩へ乗ってくる。
和希は鏡から目を逸らせなかった。黒いネクタイの結び目が、喉元でひどく正確に締まっていた。
目を開けた時、部屋の中にはもう朝の気配が満ちていた。カーテンは半分だけ開いていて、その隙間から入る白い光が、床とテーブルの縁を静かに照らしている。夜の名残はまだ完全には消えていないのに、空気だけは確かに朝へ傾いていた。和希はしばらく動かず、その薄い明るさを見ていた。隣の気配はもう起きているらしい。シーツの皺の向こうに残る体温だけが、夜がたしかにここにあったことを示していた。小さな音がする。キッチンでカップが触れ合う音。湯が細く落ちる音。床を踏む足音。どれもごく小さいのに、不思議なくらい自然に耳へ入ってきた。以前なら、こういう朝の静けさはどこか居心地が悪かったかもしれない。体温の残り方も、カップの音も、窓から入る光も、どこか自分には早すぎるもののように思えただろう。けれど今は、強い違和感がない。ただ、朝が来ていて、自分はその朝の中にいるのだと、静かに分かる。和希は上半身を起こした。テーブルの上には、飲み終えたカップが二つ置かれている。どちらも底に少しだけコーヒーの色を残したまま、もう役目を終えた顔をしていた。特別な幸福の朝という感じではない。誰かの部屋で、ただ一日が始まりかけているだけの光景だった。芳人は背を向けてネクタイを締めていた。白いシャツの襟元に指を入れ、いつもの手つきで結び目を整える。その横顔は落ち着いていて、夜の余韻をわざわざ確かめようとはしない。和希はその背中を見ながら、胸の奥にある静かな重さを意識した。窓の外の光が、少しだけ強くなる。美里は、こういう朝をもう見ない。その事実が、不意に胸へ落ちた。痛くないわけではない。むしろ、いつでも少しは痛いのだろうと思う。けれど今の和希は、その痛みから目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま胸の内へ置いておける。もういない。それでも朝は来る。そして自分は、その朝をちゃんと生きるしかない。言葉にしたわけではない。けれど気持ちは、自然にその方向へ向いていた。芳人が時計を見て、ジャケットを手に取った。鍵の触れ合う小さな音がする。振り向いたが、長い確認はしない。
ドアが開いたとき、芳人は何も聞かなかった。深夜に近い時間だった。廊下の白い灯りを背に立つ和希を一目見て、ただ身体を半歩だけ引き、入れるための隙間を作る。それだけだった。どうしたとも、何があったとも言わない。和希もまた、言い訳のような前置きはしなかった。靴を脱ぎ、部屋へ入る。芳人の部屋は、前と同じ静けさを持っていた。けれど今夜、その静けさは和希を追い詰めなかった。整いすぎた家具の輪郭、低い灯り、窓の向こうの夜の薄い気配。どれも知っている。知っているまま、前とは違う場所のように見える。芳人はキッチンへ向かった。湯を沸かす、小さな音がする。和希はソファの端に座り、テーブルの木目を見た。自分から来たくせに、喉の奥だけが少し乾いている。ここに来るまでの道で、何度も引き返すことはできた。メッセージだって、送らずに済ませることはできた。それでも来た。今夜は、それで十分だった。マグカップが目の前に置かれる。湯気がかすかに立っている。芳人は向かいではなく、少し離れた位置へ腰を下ろした。近づきすぎない。手も伸ばさない。その待ち方だけで、以前と違うのだと分かる。和希はカップに口をつけた。熱が舌に触れ、喉を落ちる。そのあいだ、芳人は何も言わなかった。沈黙は長かったが、重くはなかった。言葉を急かされないことが、今夜はむしろ必要だった。和希はしばらく視線を落としていた。手の中の熱、部屋の静けさ、芳人の気配。どれも近いのに、奪うような圧がない。そのことに、少しずつ呼吸が整っていくのを感じる。前は違った。最初の夜、自分は払う側だった。妹のため、復讐のため、自分を罰するため、そういう理由を重ねて、自分を差し出した。芳人に触れることも、その熱に沈むことも、全部どこかで代価の形をしていた。苦しい夜には麻酔として使い、壊れそうなときには自分を罰するために求めた。好きだからではない、と何度も言い聞かせながら、結局はその言い訳ごと芳人の方へ落ちていった。今夜は違う。その違いをどう言えばいいのか、さっきまでうまく分からなかった。だが、いまこうして黙って向かい合っていると、その言葉だけは、ようやく形になった。
部屋に戻ると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い音だった。靴を脱ぎ、鍵を置き、ネクタイを緩める。どれも毎日の終わりに繰り返している動作なのに、今夜はそのひとつひとつが、少しだけ軽かった。軽いと言っても、何かが消えたわけではない。美里のことも、白燈院のことも、鳴海の乾いた声も、まだ身体のどこかに残っている。ただ、前のように、扉を閉めた瞬間に全部がいっせいに胸へ押し寄せてくる感じではなかった。部屋は静かだった。以前なら、その静けさはすぐに別のものへ変わった。何も音がしないだけで、自分の頭の中の声ばかり大きくなる。遅かった、救えなかった、もっと早く気づいていれば、という同じ場所を、何度でも思考が巡っていた。静かさは休まるためのものではなく、罪悪感が形を持つための器みたいなものだった。今夜も、静かではある。けれど、その静けさの底が少し違う。和希は上着を椅子の背にかけ、キッチンで水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちる。窓の外では、遠くで車が一台通り過ぎた。部屋の中はそれきりまた静かになったが、息が詰まる感じは来なかった。代わりに、もっと別の感覚がじわじわと浮いてくる。何だろうと考えるより先に、ひとつの気配が頭に差した。芳人だった。会っていたときの顔ではない。給湯室で告げられた重すぎる言葉でも、訴状の前に座る弁護士の横顔でもない。もっとどうでもいい断片だった。駅前で紙カップを二つ持って待っていたこと。砂糖は入れないだろうと、当然みたいに無糖のコーヒーを渡した手つき。何も話さないまま、歩幅だけを合わせて隣を歩いた帰り道。別れ際の短い「またな」。その程度のことが、妙にはっきり胸に残っている。和希は流しの縁に片手をついたまま、少しだけ目を閉じた。今までの自分なら、こういう夜に誰かを思い出す理由は、もっと切迫していたはずだった。考えたくないから。眠れないから。壊れそうだから。埋めてもらわないと持たないから。そういう理由が先にあって、その先に芳人がいた。今は違う。今日、誰かに追い詰められたわけではない。録音を聞いた夜みたいに息が壊れているわけでもない。白燈院の文書を読
仕事を終えたあと、和希は駅前の小さなコーヒースタンドで芳人と落ち合った。約束らしい約束はなかった。昼過ぎに、仕事が終わったら少し顔を見るか、と短いメッセージが来て、それに和希が、遅くなるかもしれない、とだけ返した。結局、少し遅れて着いたときにも、芳人は何も言わなかった。ただ、紙のカップを二つ持って店先の脇に立っていた。「こっち、熱いから気をつけろ」差し出されたカップを受け取る。砂糖もミルクも入っていない匂いがして、和希はそれだけで少しだけ息をついた。以前なら、そういうことに気づかれるのが嫌だったかもしれない。今は違う。気づかれていること自体より、それをわざわざ言葉にしないまま置かれる方が、胸に静かに残る。駅前はまだ人が多かった。会社帰りの流れが途切れず、信号のたびに小さな塊ができてはほどけていく。二人はそのまま歩き出した。行き先を先に決めるでもなく、ただ大通りを外れて、少し静かな裏道へ入る。芳人は、必要なことしか聞かなかった。「今日、佐伯から連絡はあったか」「来た」「鳴海は」「来週、また出るらしい」それだけで会話は途切れる。途切れても、埋める必要がない。以前の二人なら、その沈黙の裏にはいつも別のものがあった。緊張だったり、欲だったり、どちらかがどこまで踏み込むかを測る気配だったり。今はそういう棘が薄い。和希は歩きながら、横の芳人を見た。相変わらず、表情は大きく変わらない。ネクタイを少し緩め、上着のポケットに片手を入れたまま、歩幅だけを和希に合わせている。無理に近づいてくることもなければ、妙に気を遣った言葉を足すこともない。ただ、隣にいる。それが前と違うのだと、和希にも分かった。以前の芳人は、もっと分かりやすく引き寄せようとしていた。和希が崩れそうになれば、その重さごと自分の側へ寄せようとしたし、和希もまた、考えずに済むための熱としてそれに触れた。今は違う。芳人はもう、抱えて片づけようとしない。慰めの形へ誘導もしない。欲しがっている気配が消えたわけではないのだろうが、それを前へ出してこない。和希の方も、それを完全には言葉にでき
しゃがみ込んだまま、和希はしばらく動けなかった。スマートフォンの画面はまだ明るく、短いやり取りだけが白く残っている。今度ごはん行こう。忙しい。じゃあまた今度。その四文字の軽さが、逆に息を詰まらせた。約束ですらない、いつでも作り直せるはずだった予定の断片。だからこそ、その先が永遠に来ないことが、容赦なく分かってしまう。部屋は静かだった。窓の外の光はもうほとんどなく、棚の輪郭も少しずつ暗さへ溶けていく。和希はようやく画面を伏せ、床に落ちていた小さなポーチへ視線をやった。前にも見たことのある、何でもない布のポーチだった。淡い色で、端が少し擦れている。化粧品か、目薬か、飴でも入れていたのだろうと、いつもそれくらいにしか思っていなかった。手を伸ばして拾い上げる。軽い。中には細いリップクリームと、小さな包み紙の切れ端、それから丸めたレシートが一枚入っていた。レシートの店名はコンビニで、甘いパンとカフェラテの文字が読める。日付はもう数か月前だった。そのとき、和希の頭に、ごく小さな場面が不意に戻った。美里は甘いものを選ぶとき、少しだけ迷う顔をした。大げさに悩むわけではない。棚の前で数秒だけ立ち止まり、結局、いちばん無難そうなものを手に取る。派手な新商品ではなく、何度も買ったことのある、安い焼き菓子とか、クリームの入ったパンとか、そういうものを選ぶ。そのくせ一口目だけは、いつも少しだけ嬉しそうだった。どうでもいい記憶のはずなのに、その顔だけが妙にはっきり浮かぶ。白燈院とは何の関係もない。不倫とも、中絶とも、録音とも関係ない。ただコンビニで甘いものを選ぶ、美里の顔だった。和希はポーチを膝の上へ置いたまま、静かに息を吐いた。胸の奥にあった硬いものが、少しだけ違う形へ変わる。痛みが消えるわけではない。ただ、同じ痛みの中に、別の温度が混じり始める。スマートフォンの履歴に残っていた他愛ないスタンプも、ふと頭に浮かんだ。返事が面倒なときに美里がよく送ってきた、やる気のない猫のスタンプ。笑っているのか眠いのか分からない、微妙な顔のやつで、あれが来ると、ああ今は深く話したくないんだなと、何となく分かった。気を遣わせないように、け
夕方の光が薄く傾くころ、和希はまた美里の部屋へ来ていた。この部屋へ入るたび、最初に感じるのは静けさではなく、音のなさの不自然さだった。人が住んでいればあるはずの、ごく細かな生活の気配がない。冷蔵庫の開閉も、水道の一瞬の音も、床を踏む体重の揺れもない。そのくせ、目に入るものはどれも、いまでもここで暮らしが続いているみたいな顔をしている。カーテンの端。棚の上の雑誌。ヘアゴムの置き方。小さなゴミ箱の脇に立てかけられた紙袋。そういうものが、主を失った部屋のくせに、まだ生活の途中みたいに見える。和希は玄関を閉め、しばらくそこに立っていた。訴訟が始まり、会見が終わり、白燈院は崩れ始めた。御影の顔も、黒瀬の数字も、前のようには人を飲み込めないところまで来ている。それは確かなことだった。崩せたものはある。奪い返せたものもある。理屈では、そう言える。けれどこの部屋の前に立つと、その理屈はひどく遠かった。ここには、白燈院を崩すための証拠だけが残っているわけではない。むしろ逆だった。役に立たないものの方が多い。使いかけのハンドクリーム。裏が少しだけ破れた菓子の箱。付録つきの雑誌。洗面所の隅に残った細いヘアピン。そういう何でもないものばかりが、かえってこの部屋を美里のものとして強く残している。和希は部屋の奥へ入り、テーブルの前で立ち止まった。前に来たときは、ノートや履歴や予約メールや、読むべきものばかり見ていた。そこに残る意味を探して、繋がる線だけを追っていた。今は違う。今日は最初から、何かを調べに来たわけではない。それでも足がここへ向いたのは、静かになったあとにだけ戻ってくる現実が、この部屋に一番濃く残っている気がしたからだった。テーブルの端に、小さく折られたレシートがあった。買い物の途中で財布にしまいそびれたまま置いたのだろう。ドラッグストアの印字は少し薄れ、日付だけがかろうじて読める。洗剤、ヘアオイル、ティッシュ、ミネラルウォーター。どれも生活そのものみたいな品目だった。白燈院とも、供養とも、裁判とも、何の関係もない。なのに、そういうものの方が、和希には胸の奥へまっすぐ刺さる。美里はその日、確かにここで暮
芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた
白い花は、近くで見ると少しだけ冷たい。菊も百合も、会場の照明の下ではきれいすぎるほど整っていて、触れれば水気を含んだ花弁が指にひやりと張りつきそうだった。祭壇の前には、同じ高さに揃えられた供花が並び、そこへ細い香の煙がゆっくりと上がっている。煙は真っ直ぐではなく、空調の弱い流れに押されるように揺れ、会場全体へ薄く溶けていく。和希は遺族席の横に立ったまま、何人目か分からない会葬者へ頭を下げた。「本日はありがとうございます」その言葉は、もうほとんど反射だった。相手の顔を見て、会釈の角度を少し変え、香典を受け取り、係の人に渡し、ま
昼を少し過ぎた頃、芳人の事務所の窓には、白すぎる秋の光が斜めに差し込んでいた。夜の調査と違って、昼の光の下では、書類も端末も輪郭がはっきりしすぎる。机の上に並べたファイル、社員証、名刺入れ、スケジュール帳、会社の封筒。どれも昨日までは、ただの勤務先の持ち物に見えただろう。だが今は、その一つひとつが、美里の私生活へ続く別の入口みたいに思えた。和希は美里の社員証を指先で持ち上げた。細いストラップのついたプラスチックのケースに、証明写真が収まっている。少しだけ口元を引き締めた、仕事用の顔だった。私服でも、実家でも、兄と飯を食う時でもない、美里が会社で使っていた表情。名札の下には社名と部署名が
十月の終わりにしては、空が妙に白い夕方だった。和希は営業企画部の島で、ようやく今日最後の修正ファイルを閉じた。画面の右下に表示された時刻は、十八時四十分を少し回っている。会議用の資料を先方へ送り直し、上司から返ってきた確認メールに短く返信し、デスクの隅に寄せてあったマグカップを手に取る。コーヒーはもう冷え切っていて、表面に薄い膜が張っていた。オフィスには、まだ人が残っていた。電話を終えた誰かの椅子が軋み、少し離れた席ではキーボードを打つ音が細かく続いている。天井の蛍光灯は均一に白く、窓の向こうの夕方の色をほとんど消していた。ガラスの反射には、向かいの席の男