会議室の空調の音が遠くで唸っている。夕方のオフィスは静まり返り、キーボードの打鍵音や電話のコール音もまばらだった。美咲は自席のパソコンに向かいながらも、何度もスマートフォンの画面を盗み見てしまう。あの日から、日々のルーティンが少しずつ狂い始めていることを、美咲はうすうす自覚していた。仕事のメールをいくつ片付けても、指先のどこかに佐山の気配が残っているようで、意識がまともに一点に集まらない。周囲の同僚たちの会話や、打ち合わせの声も、何もかもがぼやけて聞こえる。
「今夜、会えますか?」
そのメッセージがLINEに届いたのは、ちょうど午後四時を過ぎた頃だった。画面に佐山の名前と、その短い文が並ぶ。それだけで、体の内側がぐらりと揺れた。シンプルな問いかけ。そのくせ、こちらの欲望をすべて見透かしているような自信に満ちていた。美咲は思わず、スマホを机の上に伏せる。心臓が、まるで小さな獣のように跳ね回っている。
「……落ち着きなさい、私」
誰にも聞こえないように小さくつぶやく。年下の部下の誘いに胸を高鳴らせるなんて、冗談じゃない。これは単なる「大人の遊び」だ。そんなつもりで始めた関係じゃなかったのかと、何度も自分に問いかける。けれど、手のひらの汗はごまかせない。
すぐに「いいわ」と返事をしたい衝動がこみ上げる。けれど、即答すれば、自分の心の中を全部見透かされてしまいそうで怖かった。LINEの通知をわざと未読のまま数分放置する。パソコンの画面を開き直し、業務のフリをしてみせる。けれど、手元の資料の文字は全く頭に入ってこない。部下から話しかけられても、どこか上の空になってしまう。
何事もなかったふうにごまかしても、内心は収まりのつかない焦燥と熱でいっぱいだった。机の引き出しに入れた小さな鏡をこっそり取り出し、そっと覗き込む。思った以上に頬が紅潮している。目元に艶が宿り、どこか甘さを含んだ表情になっていた。まるで、自分のものではない顔。こんな顔で仕事をしていたなんて、我ながら驚く。
パソコンの画面を何度も切り替えながら、ようやく意を決してLINEの返信画面を開く。「ごめんなさい、今日はちょっと忙しくて」と、駆け引きのつもりで一文を打ち込んでみる。しかし、そ
佐山は薄闇の部屋に独り、ベッドの上で背中を壁に預けて座っていた。夜明け前の都市はすでに雨を上がらせていて、窓の外には高層ビルの影がぼんやりと浮かぶ。部屋の明かりは消したまま、スマートフォンの淡い光だけが佐山の指先と横顔を浮かび上がらせていた。手のひらに収まるスマホの画面には、佐伯からのメッセージが通知されている。「また会いたい」たったそれだけの短い文面。時間は深夜零時を過ぎている。佐山は指で画面をなぞり、既読にしないままそのまましばらく眺めていた。新しい通知が届く気配はない。未送信の履歴が下書きのまま何度も保存されていることも知っていた。佐伯の不器用な執着が、画面の端々から滲み出ている。微かに口元が緩んだ。けれど、それは愛情からくるものではない。佐伯がこちらに心を奪われていくのを感じるたび、計画の歯車が音もなく噛み合っていく確かな手応えに、満足の陰が浮かぶだけだった。画面をスクロールし、過去のやりとりを繰り返し読み返す。「今日は楽しかった」「次はもっと、二人きりで」淡白に装いながら、時折見せる佐伯の焦燥や欲望の色。それを引き出すことは、想像以上に容易だった。佐山はスマホをベッドサイドに置き、壁に頭を預ける。部屋の隅で冷えた空気が足元を撫でる。時計の針がゆっくり進んでいく音が、遠くに感じられた。佐伯の依存は、計画の推進力そのものだ。だが、そこには微かな危うさも潜んでいる。手のひらに残る佐伯の熱。行為の最中、身体を貫かれる痛みと快楽の入り混じる感触。自分が誰かに渇望されることに、嫌悪も、快楽も、どちらも混ざり合っているのをはっきりと自覚する。もし本当に自分がただの道具でしかないなら、これほど相手の反応に心が揺れたりはしないはずだ。佐伯からの通知を何度も読み返し、言葉にこめられた執着を味わい尽くそうとする。それでも、姉を奪われた夜から自分の内側は空洞のままだ。誰に抱かれても、どんな快楽を味わっても、その空虚さは少しも埋まらない。佐山は立ち上がると、カーテンの隙間から街を見下ろした。ビルの谷間を縫うように、夜明け前の微かな光が路面に滲む。まだ眠りにつくことのない都市の静けさ。歩道の上には、誰もいない。雨上がりの舗道にだ
時計の針が零時を回ったことに気づいても、佐伯は立ち上がる気になれなかった。雨上がりの街が窓の外に広がり、時折、車のヘッドライトが濡れたアスファルトを淡く照らしていく。リビングのソファに沈み込むように座り、佐伯は手元のスマートフォンをじっと見つめていた。暗い画面には、何度も書いては消した「また会いたい」の文字列が、未送信のまま残されている。ソファのクッションに沈んだ自分の体が、妙に重く感じる。ワイシャツの袖口から覗く手首の皮膚に、ほんの微かに昨日の夜の余韻が残っている気がした。佐山の指が、自分の胸をなぞった感触。爪先が太腿に食い込む細やかな痛みと、ベッドの中で耳元に落とされた低い囁き声。そのすべてが、今も皮膚の奥で消えずに疼いている。佐伯はスマホの画面を指先でなぞり、打ちかけては消す。「また会いたい」「今度は、いつにする?」「すぐに会えないか」メッセージ欄は、すぐ真っ白になる。送信すれば何かが壊れるような気がして、最後の一押しができない。雨上がりの湿気がガラス窓にうっすらと曇りをつくり、街路樹の葉から時折雫が落ちる。リビングの時計はまるで誰かの意志で止められたかのように、音も立てずに進み続けていた。佐伯は膝に肘を乗せ、首をうなだれる。佐山と過ごした夜のことを反芻するたび、喉の奥がじくじくと痛む。美咲の姿が脳裏に浮かびかけるたび、罪悪感が腹の底を重くする。それでも、佐山の顔や手の熱を思い出すだけで、もう何もいらないと思ってしまう自分がいた。あれほど飽きることがなかった美咲の体温でさえ、今はまるで遠い記憶のようだ。今この瞬間、何よりも欲しいのは、佐山の指先と息遣いだけだった。ソファの脇に置いたグラスの氷は、すでにほとんど溶けてしまっている。冷えた酒を一口喉に流し込む。アルコールの刺激も、心の乾きには届かない。右手の親指でスマホの画面を何度もスクロールし、佐山との過去のやりとりを辿る。仕事のやりとり、社内の軽口、そして最近ではほとんど深夜の約束ばかりだ。「今日も会えませんか」「まだ帰りたくない」そんなメッセージが、佐山の淡白な返事の隙間に何度も埋まっている。佐伯はふと
佐伯の中で、何かが壊れる音がした。佐山の身体を貫いたまま、最後の一線を越えた瞬間、全身が痙攣するほどの快感が走り抜けた。思わず呻き声がこぼれ、指先がシーツを掴む。深く、奥まで熱いものを吐き出しながら、佐伯は自分が今まで知っていたものとは違う、まったく別の悦びに捕らえられていることを実感していた。息が荒く、喉の奥で何度も空気を掻きむしる。汗で濡れた額から髪が垂れ、佐山の細い腰をしっかりと抱きしめている自分の腕の力に、呆れるほどしがみついていると気づく。佐山の肌はじっとりと汗ばんで滑り、吐息がまだ震えていた。「……っ、は……」声にならない声が喉を抜けていく。佐山の体温が、まだ自分の奥に残っている。佐伯は抜け殻のように、しばらくそのまま動けなかった。美咲と抱き合ったときに感じた快感とは、まるで質が違う。女の柔らかさや温かさでは埋まらなかった何かが、今、佐山の中で満たされている。その異物感さえも、快楽へと変わってしまう。自分の欲望の底が、いまさら恐ろしいほど知れてしまう。佐山は、息を整えながら、佐伯の肩に額を落とした。白い指先が背中に回り、汗のにじむ肌をやさしく撫でる。その動きに安堵を覚えつつ、同時にどうしようもない寂しさが胸に広がった。やがて佐山はそっと腕をほどき、ベッドから身を離す。髪をかきあげる仕草が妙に艶やかで、口元に浮かぶ笑みはまるで何もなかったかのように穏やかだった。「シャワー、してきます」そう言いながら、佐山はバスルームへ向かう。足取りは軽く、背中には一切の未練も感じさせなかった。残されたベッドに、佐伯だけが取り残される。天井の淡い明かりが、乱れたシーツに影を落とす。佐伯は、ぐしゃぐしゃに湿ったシーツの感触を指先でなぞる。そこには、汗と精液と、佐山の体温がまだ残っていた。自分の体からも、彼の匂いがじっとりと立ち上る。喉が渇き、無意識に喉を鳴らして唾を飲み込んだ。「……もう戻れないな」呟いても、返事をする者はいない。先ほどまで佐山の身体を抱いていた自分の両腕が、今はやけに重く感じる。「また、抱きたい」その欲望は、もは
佐山は天井の淡い灯りを見つめていた。すぐ頭上を照らす照明が、滲んだ視界のなかでぼんやりと広がっている。シーツの上、佐伯の身体が自分を覆っている。その重みと熱が、肌の奥まで浸透してくる。佐伯の手が腰をつかみ、奥深くまで貫かれるたび、体の内側が揺れる。頭がぐらりと揺れ、浅い呼吸が唇からこぼれた。佐伯の動きは、もう理性では止められないものになっていた。腰の奥まで押し込まれるたび、締めつけては、さらに強く求めてしまう。佐山は指でシーツを握り、背中をわずかに反らせて、その感覚に応える。痛みと快感が背骨を伝って交錯する。汗ばんだ佐伯の肌が、自分の首筋に落ちる。熱い息が耳にかかるたび、意識が遠のきそうになる。だが、どれだけ身体が震えていても、佐山の心の奥は、どこか冷静なままだった。この状況こそ、自分が望んだもの。姉を奪われ、何も守れなかったあの日から、佐山はすべてを計算し直した。美咲だけでなく、その夫さえも自分の手で壊す――この肉体を差し出し、快楽ごと相手を支配する。佐伯の背中に腕を回しながらも、心の底で静かに呟く。これは復讐だ。自分の中に流れ込む佐伯の熱を、他人事のように感じる瞬間がある。だが、そのたびに理性とは別の自分が、甘い痺れと疼きを求めてしまう。佐山は幼いころから、男女どちらにも欲望を感じることがあった。だが、どこかでずっと自分を外側から見ていた気がする。相手を選ぶのも、身体を開くのも、合理的な判断でしかなかった。だからこそ、男に抱かれるのが本当に嫌なら、こんな復讐の方法など選ぶはずがない。「もっと、奥まで……」そう囁いた声が自分のものだとは思えなかった。佐伯の動きがさらに激しくなる。体内を満たす硬さが、内壁を何度も擦りあげる。そのたびに快感の波が全身を突き抜ける。涙がにじむ。唇が震え、白い太腿がベッドに絡む。佐山は喘ぎながらも、心の奥で冷静に観察していた。佐伯の目は熱に曇り、ただ欲望だけを宿している。男の手が自分の腰を強く引き寄せ、身体ごと貫かれていく。佐山は喉の奥で小さく喘ぎながら、佐伯の表情を横目で捉えた。汗に濡れた額、唇を噛みしめたまま堪える声。ここまで夢中にならせたのは、自分の身体だ――そう実感すると、胸の奥で微かな
佐山の体温が手のひらに伝わる。佐伯は佐山のシャツを脱がせ、そのまま細い腰を引き寄せた。照明の淡い光の下、佐山の肌は驚くほど白く、滑らかで、思わず見とれてしまう。女の裸には何度も触れてきたはずなのに、佐山の骨ばった肩や薄い胸板、しなやかな肋骨の浮き方には違う種類の美しさがあった。首筋から鎖骨へと汗が薄く流れている。息を詰めるほど近くで見ると、喉仏が小さく上下し、腹の奥に不思議な熱が灯る。佐山は身じろぎもしない。むしろ、無防備なほど素直に体を委ねてくる。佐伯の手が腰骨をなぞると、白い腹筋がかすかに緊張した。その動きさえも美しいと思った。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。佐山の指先がそっと佐伯の頬をなで、目線が絡み合う。睫毛の長い目が少し潤んでいて、艶やかな唇が息を吸い込むたび微かに震える。「もっと……触って」佐山が囁いた。佐伯は躊躇いながらも、胸を撫で、乳首を指先でつまむ。佐山はわずかに身を震わせ、唇から甘い吐息を漏らした。その音が部屋の静けさに溶けていく。佐山の手が佐伯の太腿を撫で上げる。気づけば、指先がジーンズのファスナーに触れていた。「……いいですか」佐山の声は、濡れた夜気に似ていた。返事もできずに、佐伯は頷いた。佐山はゆっくりとファスナーを下ろし、下着越しに指を這わせてくる。その手つきが慣れていることに、佐伯は息を呑んだ。恥ずかしさよりも、なぜか安堵の方が勝った。佐山は膝をつき、目線を下から絡めてくる。唇が、布越しに佐伯のものを軽く噛む。そのまま下着を口でずらし、ゆっくりと舌を這わせた。佐伯は思わず腰を引いたが、佐山の手がしっかりと太腿を掴み、逃がさない。温かく湿った舌が、先端をなぞる。呼吸が早くなる。佐山は一度深く咥え込み、喉の奥まで受け入れる。その動きは柔らかく、熱を伝えてきた。佐伯は何度か声にならない声を漏らした。女がしてくるのとは全く違う、舌と唇の巧みな動きに、足元が震える。佐山は口を離し、ローションの小瓶をベッドの端から取り出した。その仕草が自然すぎて、佐伯は思わず驚く。佐山は自分でキャップを開け、白い指に透明な液体をまとわせた。何のためらいもなく、自分の後ろへと指を添える。佐伯は
ソファのクッションが深く沈む。佐伯はグラスをテーブルに置いたまま、静かに体を佐山の方へ向ける。空気が張り詰めていくのを感じながら、自分の指先が小さく震えていることに気づいた。佐山は、目を伏せて髪を耳にかける。濡れた前髪が頬にかかり、白い肌を際立たせている。唇にはグラスの水滴が残り、薄く光っていた。佐伯は、その柔らかな輪郭に目を奪われた。意識しないようにしていた熱が、腹の奥から湧き上がってくる。逃げ場はない。もう引き返せないと、どこかでわかっている。だが、理性が言い訳を探す。これは自分が誘った。部下の気持ちに流されたわけじゃない。酔いのせいだ。たまたまの気まぐれだ。そうやって心のなかで理由を並べ立てながら、佐伯はゆっくりと佐山に近づいた。「こっちを向け」低く押し殺した声が部屋に落ちる。佐山はほんの少しだけ首を傾け、素直に顔を向けた。睫毛がふるえ、かすかに赤みを帯びた頬が照明に浮かび上がる。佐伯はその顔に唇を重ねた。最初は確かめるような軽いキスだった。だが、すぐに自分でも抑えがきかなくなる。濡れた唇が重なり、息が混ざる。佐山は微かに身体を震わせ、佐伯のキスを受け入れる。だが、その唇がわずかに開き、舌先が差し込まれた瞬間、佐伯は自分のペースが崩れるのを感じた。佐山の舌はやわらかく、だが明確に佐伯の舌を探し、絡みついてくる。その熱に、佐伯の心臓が跳ね上がる。唇の隙間から湿った吐息が漏れ、キスは深くなった。睫毛が震えている。佐山の目は薄く開かれ、冷たい光が底に沈んでいる。表情は熱にほだされていながらも、どこか醒めていた。唇は濡れて、微かに光る。佐伯はその顔を片手で支えながら、唇を強く吸った。濡れた指先が佐山の顎に滑り、微かな汗と酒の匂いが混ざり合う。「……お前、こういうの、平気なのか」かすれた声で囁いた。佐山は一度だけまぶたを閉じ、またゆっくりと目を開く。その瞳は深く、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているようだった。「僕、男も好きですよ」佐山は囁く。その声はやけに静かで、肌にしみこむようだった。佐伯は思わず息を呑む。身体の芯が熱くなり、脚の奥がじくじくと疼く。