تسجيل الدخول病院へ着く頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
綾香は受付を済ませると、急ぎ足で病室へ向かう。
廊下には消毒液の匂いが漂い、静かな足音だけが響いていた。
病室の扉を開けると、父はベッドの上でゆっくりと身体を起こしていた。
「お父様!」
綾香は思わず駆け寄る。
父は少し疲れたような笑みを浮かべた。
「心配をかけたな」
「本当に……よかった」
涙があふれそうになる。
父は優しく綾香の頭を撫でた。
「大げさだな」
「少し休みが必要だと、先生に叱られただけだ」
「少しじゃないわ」
綾香は首を横に振る。
「倒れたのよ」
「救急車で運ばれたの」
「そうだったか」
父は苦笑する。
「仕事が少し忙しかったからな」
「少し、じゃないでしょう」
綾香は思わず
『見送り行こうか?』 綾香はしばらくその文字を見つめていた。 もちろん、来てほしくない。 父が何時の便に乗るのかも、どの空港を使うのかも教えたくなかった。 けれど、露骨に拒絶すれば、それはそれで不自然だ。 少し考えてから返信する。『大丈夫よ。朝早いし、私が送るから』 これだけでいい。 出発日も時間も書かない。 すぐに既読がついた。『そっか』 続けて、『御影さんによろしく言っといて』『分かった』 それで会話を終わらせる。 綾香はスマートフォンを伏せた。(これ以上、聞いてこないで) 北海道へ行くことまで知られてしまったのは仕方がない。 けれど、ホテルも出発日も便も知られていない。 あと三日。 その三日を何事もなく過ごせればいい。◇◆◇ 翌日から、綾香は父の荷物を準備し始めた。「そんなに持っていかなくても、向こうで買えるよ」「一か月いるかもしれないのよ?」「だからこそ、全部持っていく必要はないだろう」「薬は?」「あるよ」「見せて」「綾香……」「確認するだけ」 父が苦笑しながら薬を取り出す。 綾香は薬の名前と数を確認した。 以前、遥臣に確認してもらったものと同じだ。「これは手荷物に入れてね」「分かってる」「預ける荷物に入れちゃ駄目よ」「はいはい」「あと、向こうでなくなりそうになったら、勝手に何か買ったりしないで連絡して」「薬局で薬を買うくらい――」「駄目」 強い声が出た。 父が目を瞬く。 綾香は慌てて声を和らげた。「……この前のことがあるでしょう。飲み合わせだってあるんだから」「ああ、そういうことか」「だから、何か飲むならお医者様か薬剤師さんに確認して」「分かったよ」 父は素直に頷いた。 綾香は薬をケースへ戻す。(これで大丈夫) 少なくとも、今持っている薬は確認できた。 向こうで何かあれば、自分に連絡が来る。 それでも不安は消えない。 薬だけとは限らないからだ。「お嬢様」 声に振り返る。 橘が部屋の入口に立っていた。「旦那様のお荷物でしたら、私が――」「大丈夫。もうほとんど終わったから」「そうですか」「今回は私がお父様を行かせるんだもの。最後までやらせて」 橘は穏やかに笑った。「承知いたしました」 その反応を見ると、胸が痛む。 橘が何かしたとい
「旦那様の静養について、確認しておきたいことがございます」 綾香は一瞬だけ迷ってから、ノートパソコンを閉じたまま立ち上がった。「入って」「失礼いたします」 橘が部屋へ入ってくる。「旦那様から、しばらく静養なさる予定だと伺いました」「ええ」「北海道とのことですが、日程はもうお決まりですか?」「だいたいはね」「でしたら、航空券や宿泊先の手配を――」「もう私がやってるわ」 橘が少し意外そうな顔をした。「お嬢様が?」「私がお父様に勧めたんだもの。今回は私がやる」「そうでしたか」 橘は穏やかに頷いた。「では、旦那様のお荷物はこちらで準備いたしましょう」「それも大丈夫」「しかし、長期になるのでしょう?」「だからこそよ。何を持っていくか、お父様と一緒に決めるわ」 あまり拒みすぎても不自然になる。 綾香は少し考えてから続けた。「その代わり、お父様がいない間のことはお願いしていい?」「もちろんです」「一か月くらいになるかもしれないから、屋敷のこともあるでしょう?」「そうですね」「お父様も、橘が残ってくれた方が安心だと思う」 橘は特に疑う様子もなく頷いた。「承知いたしました。こちらのことはお任せください」「ありがとう」「何か必要なことがございましたら、いつでもお申しつけください」 橘はそれだけ言って部屋を出ていった。 扉が閉まる。 綾香はようやく息を吐いた。(よかった……) 少なくとも、同行するつもりではなさそうだ。 これなら父だけを屋敷から離せる。◇◆◇ 数日後。「本当に全部お前がやったのか?」 父はダイニングのテーブルに並べられた書類を見て、感心したように言った。「そうよ」「飛行機も?」「取った」「向こうの車は?」「予約した」「ホテルは?」「もちろん」「ずいぶん頼もしくなったな」「そのくらいできるわよ」 綾香は少し得意になって答えた。「出発は三日後。朝の便だから、寝坊しないでね」「子供じゃないんだから」「お父様、仕事してたら時間忘れるでしょう」「そこまでひどくないよ」「信用できない」 父が苦笑する。「それで、どこのホテルなんだ?」 綾香の手が止まった。 当然、父には教えなければならない。「これ」 予約内容を表示したスマートフォンを父へ差し出す。「ずいぶん立派
「御影さん、北海道に行くの?」 理央は何でもないことのように尋ねた。 綾香はタブレットを伏せる。「そうみたいね」「そうみたいって、綾香が決めたんじゃないの?」「静養したらって勧めただけよ」「北海道まで?」「暑いから、涼しいところがいいかなって」 できるだけ普段通りに答える。 理央に警戒していると悟られたくない。「いつから?」「まだ決めてないわ」「どの辺?」 綾香は理央を見る。「どうしてそんなに気になるの?」「別に。ただ聞いただけ」「だったら、決まってからでいいでしょう」「……まあ、そうだけど」 理央は笑った。「一か月くらい行くの?」「それもまだ分からない」「綾香も一緒?」「どうして?」「一人で行かせるのかなと思って」 やはり、妙に細かく聞いてくる。 けれど、ここで露骨に嫌がるのも不自然だ。「私は行かないわよ。お父様の静養だもの」「じゃあ父さんもついてく?」「さあ。そこまでは決めてない」 綾香はわざと曖昧に答えた。「そうなんだ」 理央はそれ以上聞かなかった。「じゃあ、決まったら教えて」「どうして?」 思わず聞き返した。「御影さんには世話になってるから。見送りくらいしたいだろ」「そう」 綾香は短く答えた。 理央は軽く手を振り、そのまま廊下の向こうへ消えていく。 姿が見えなくなってから、綾香は息を吐いた。(やっぱり、詳しいことは言わない方がいい) ただの会話だったのかもしれない。 けれど、今の綾香には理央の言葉を素直に受け取ることなどできなかった。◇◆◇
北海道。 そう決めてから、綾香はさらに候補を絞っていた。 札幌は便利だが、静養という雰囲気ではない。 かといって、山奥の温泉地では遥臣に言われた条件から外れてしまう。「病院が近くて、温泉もあって……」 いくつものホテルを見比べる。 長期滞在となれば、部屋の広さも重要だ。 一か月以上、普通の客室だけで過ごすのは窮屈だろう。 仕事をするならデスクも必要になる。 できれば食事も毎日同じではない方がいい。「ここ……いいかも」 目に留まったのは、温泉設備のあるリゾートホテルだった。 都市部からは離れているが、車を使えば大きな病院にも行ける。 長期滞在向けの広い部屋もある。 館内だけでなく、周辺にも食事ができる場所があった。(東京から来るなら飛行機に乗って、そのあとも移動が必要) 理央が気軽に来られる距離ではない。 もちろん、来ようと思えば来られる。 けれど、今の屋敷のようにいつでも父のそばへ近づける環境とはまるで違う。「ここにしようかな……」 まだ予約はしない。 まず父に見せる必要がある。◇◆◇「お父様」 夕食を終えた父を、綾香はリビングで捕まえた。「今度は何だ?」「静養先の候補を見つけたの」「まだ諦めてなかったのか」「諦めるわけないでしょう」 綾香は父の隣へ座り、タブレットを差し出した。「ここ」「北海道?」「うん」 父が画面を見る。「ずいぶん遠くまで探したな」「せっかく環境を変えるなら、このくらい離れた方が気分転換になるでしょう?」「北海道まで行く必要があるか?」「今の時期なら涼しいし」
翌日。 綾香は自室の机にノートパソコンを広げ、昨日よりさらに条件を絞って静養先を探していた。 父から、長期滞在そのものについては反対されなかった。 橘を屋敷に残すことにも、それほど抵抗はなさそうだった。 なら、あとは場所を決めればいい。「軽井沢……やっぱり近いのよね」 静養先として考えれば、悪くない。 夏でも過ごしやすく、長期滞在向けの宿泊施設も多い。 けれど、東京からのアクセスがよすぎる。(理央が来ようと思ったら、すぐ来られる) 箱根も同じだった。 伊豆も場所によっては近い。「もっと遠く……」 そう呟いて、綾香は遥臣に言われたことを思い出す。『医療機関へのアクセスは考えておけ』 遠ければいいわけではない。 父の身体を守るための静養なのだ。 綾香は地図を開いた。 東京からはある程度離れている。 けれど、現地には病院がある。 長期滞在できるホテルもあり、父が仕事をする環境も整っている。「……難しいわね」 いくつか候補を保存していると、スマートフォンが鳴った。 遥臣だった。『親父がお前の父親に電話した』「えっ」 綾香はすぐに電話をかける。「もしもし。九条先生、何て?」『休めって』「それだけ?」『他に何を言うんだ』「もうちょっとあるでしょう」『無理して仕事する必要はない。一度環境を変えて休むのもいいんじゃないかって』「それで、お父様は?」『俺が知るか』「あ、そっか」 綾香は苦笑した。「でも、これで少しは行く気になってくれるかも」『まだ探してるのか』「うん。候補が多くて決められないの」『本人に選ばせればいいだろ』「ある程度は私が絞りたいの」『好きにしろ』「ねえ、遥臣ならどこにする?」『俺が行くわけじゃない』「参考に聞いてるの」 電話の向こうで、小さなため息が聞こえた。『条件は?』「長く泊まれて、仕事もできて、食事に困らなくて、病院も近いところ」『前と同じだな』「あと、東京から少し離れてるところ」『どのくらい』「……結構」『曖昧だな』「新幹線で一時間とかだと、あんまり休んだ感じがしないでしょう?」 口にしてから、自分でも少し苦しいと思った。 けれど遥臣は特に気にした様子もなかった。『なら飛行機使うところでも探せばいい』「飛行機?」『北海道とか九州とか』
父と橘を見送ったあと、綾香はしばらくその場に立っていた。(橘を一緒に行かせるわけにはいかない) 橘が理央に協力しているとは限らない。 むしろ、これまでの様子を見る限り、綾香のことを気遣ってくれているようにも思える。 それでも、理央の父親だ。 何も知らないまま、息子に父の滞在先を話してしまう可能性だってある。 今は少しでも危険を減らしたい。(でも、お父様に橘を連れて行かないでなんて言ったら……) 当然、理由を聞かれる。 うまく説明できる自信はなかった。◇◆◇ その日の午後。 綾香は静養先を探しながら、別のことも考えていた。 どうすれば、父だけを屋敷から離せるのか。「……付き添いがいらない場所?」 一か月も滞在する。 父一人では不便だから橘を連れていく、という話になるのなら。 最初から身の回りのことをすべて任せられる場所にすればいい。 食事。 掃除。 洗濯。 必要なら荷物の受け取りや車の手配まで頼める。 普通の温泉旅館より、長期滞在に対応したホテルの方がよさそうだ。(それなら、橘がいなくても困らないわよね) 綾香は検索条件を増やした。 長期滞在。 ルームサービス。 ランドリーサービス。 送迎。 近隣の医療機関。 仕事のできるデスクとインターネット環境。「結構あるのね……」 候補を見ているうちに、ふと手が止まった。(でも、お父様が仕事をするなら……) 橘は身の回りの世話だけをしているわけではない。 仕事に関する予定や連絡も把握している。 父が「橘がいた方が楽だ」と言えば、それまでだ。「難しい……」 綾香は椅子の背にもたれた。 どうすれば不自然にならず、橘を屋敷に残せるのか。 しばらく考えていると、一つの考えが浮かんだ。「……逆?」 橘を連れて行かせない理由を作るのではない。 橘が屋敷を離れられないようにすればいい。 父が一か月も不在になるのだ。 その間、屋敷の管理をする人間は必要になる。 父がいないからこそ、橘にはこちらに残ってもらう。(これなら、おかしくないかも) むしろ長年屋敷を任されてきた橘なら、自然な役目に思える。 綾香は少しだけ気持ちが軽くなった。◇◆◇ 夕方。 帰宅した父を捕まえ、綾香はさっそく話を切り出した。「お父様」「今度は何だ?」「まだ何も言







