LOGIN夫の宮城瑛人(みやぎ えいと)は天才ピアニストだが、その偏執ぶりにおいてもある意味天才だった。私への執着は、もはや病的と言えるほどだった。 結婚して八年。私は仕事を持たず、家中の隅々まで監視カメラが仕込まれていた。知らない男と一言交わすことさえ許されない。 そんなある日、私は彼が絶対に触らせてくれなかった金庫の中に、十年分の誕生日プレゼントを見つけてしまった。 どのカードにも、たった一人の名前が刻まれていた。 「愛しき夏見へ」 霧島夏見(きりしま なつみ)。それは、瑛人の少年時代の初恋の人だった。 瑛人はプレゼントを奪い去り、その瞳を暗くして私を睨みつけた。 「死んだ人間のことに、いちいちこだわる必要はないだろう」 彼は冷たく言い放つと、私の顎を掴んで無理やり顔を上げさせた。 「それより、お前、今日の宅配業者を一瞬でも見つめたのはどういうことだ?」 だが、その直後、彼の秘書がこっそり送ってきた写真が、私の心を抉った。瑛人が、ある女性を抱き寄せ、涙を拭っている。その優しさは、まるで壊れやすいガラス細工に触れるかのようだった。 その女性は、夏見に酷似していた。 私は暗闇の中でずっと座っていた。 その時、突然、スマホの通知音が鳴り響いた。 【昨夜は興奮しすぎた。胸元のキスマーク、ちゃんと隠しとけよ。旦那さんが見たらマジでキレるぞ?】
View More私の体は重くなったが、陸生の世話は行き届いていた。彼は淡い水色の壁に、不器用な星と月を描き、ベビーベッドを組み立てた。瑛人という名前は、ほとんど話題に上らなくなった。彼がその後のツアーを全てキャンセルし、人目を避けて暮らし、行方が知れないという噂を、時折耳にするだけだった。この日の午後、陸生は庭で私の腰に手を添えながら、ゆっくりと散歩していた。地面のでこぼこを慎重に避けてくれた。私たちは夕食に何を食べようかと話していた時、外から車のエンジンが止まる音が聞こえた。瑛人が車から降りてきた。私は一瞬、瑛人だと認識できなかった。彼は痩せ細り、スーツはぶかぶかだ。顔色は、まるで陽の当たらない場所で育ったかのように青白かった。深く沈んだその眼差しが、私の腹部に触れた途端、絶望にも似た光を灯した。「梓……」彼は口を開いた。声は掠れている。「少しだけ話させてくれ。話し終わったらすぐ帰る」陸生は拒否しようとしたが、私がそっと彼の袖を引いた。完全に決着をつけるべきだ。瑛人は許しを得て、一歩よろめきながら前進したが、陸生の警告の視線に立ち止まった。彼はもう近づこうとはせず、ただそこに立ち尽くし、背中はわずかに丸まっていた。「秋穂との件は綺麗に片付けた」彼の手はひどく震えていた。「彼女に強要したんだ。子供は……堕ろさせた」彼は一瞬言葉を止め、呼吸が荒くなった。泣き顔よりも歪んだ笑みを浮かべ、私を執拗に見つめた。「お前が気にしないのは知っている。俺を嫌悪しているかもしれないが、俺はそうしなければならなかった。あの子は、存在すべきではなかったんだ。最初から間違いだった。俺が魔が差したんだ……申し訳ない。お前を苦しめた。もう、何もない」彼の声は低くなり、卑屈さを帯びる。「何もかもなくなった。梓、俺にはもう何も残っていないんだ。俺が汚れてる。腐りきってる。お前にふさわしくない。最初からずっとふさわしくなかった」彼の言葉は支離滅裂だったが、一つひとつが嗄れた声で強く響いた。「産んでくれ!俺が育てる!俺が実の子として迎え入れる!俺の全てをこの子に捧げる!やり直そう、頼む、梓。お前がいなければ、俺は死ぬ。本当に死んでしまう……」彼はそう言いながら、前に進もうとし、あの紙袋を私に押し付けよう
離婚判決書を受け取った。手に取った紙の軽さに、ふと息を飲む。私はそれを引き出しの底に沈め、驚くほどの静けさが胸を満たした。陸生が残りの荷造りを手伝ってくれていた。彼が古い楽譜を手に取ると、その中に枯れた銀杏の葉が挟まっていた。「取っておくのか?」彼が尋ねた。「ええ、取っておくわ。ずいぶん昔、実家のピアノで練習していた時に舞い込んできたの」それは、両親がまだ離婚していなかった頃の、実家でのことだ。陸生は私の髪を優しく撫でた。私は笑ってその葉を手に取り、懐かしむように匂いを嗅いだ。そうして、私たちの新しい生活が始まった。陸生のスタジオはマンションの最上階にあり、彼はスケジュールを調整し、私の妊婦健診やヨガ教室に付き添ってくれた。彼の気遣いは自然で、息苦しさを感じさせない。瑛人は姿を消さなかった。時折、高級な健康食品が届いたり、新しいレコードが送られてきたりする程度だ。ある日、陸生の友人が主催する小さなアートサロンに、気分転換にと誘われた。ガラス張りの温室は、日差しが心地よく、陸生は私の椅子の背に手を置きながら、彼の音楽制作の面白いエピソードを低い声で話してくれた。瑛人も来ていた。彼はスーツ姿で、顔色は土気色だった。まっすぐ私たちのテーブルに向かってきた。その目は私を凝視し、久しぶりに会えたことへの切望に満ちていた。「少しだけ話せないか? 慰謝料の手続きについてだ」拙い口実だと分かっていた。陸生が口を開こうとしたが、私は彼の腕を軽く引いて止めた。私は瑛人を見た。彼はひどく痩せ、目の下には隈があり、髪も乱れていた。だが、その奥深くの瞳には、あの偏執的な光が消えていなかった。「手続きの件は、全て弁護士に一任してるわ」瑛人は顎を食いしばった。「俺はただ……」彼の声は小さくなったが、再び強く上げた。「そこまでしなければならないのか?皆の前で、彼と一緒にいるなんて」彼は陸生を睨みつけ、次に私の腹部を凝視し、苦痛に顔を歪めた。陸生が立ち上がり、私の前に立ちはだかった。「宮城瑛人、場をわきまえてください。梓は今、俺のフィアンセだ」「フィアンセ?」瑛人は衝撃を受け、陸生を睨みつけ、そして私を哀願するように見た。この眼差しは、私がこれまで一度も向けられたことのない
私は訴訟離婚の準備を進めた。瑛人からのアプローチは執拗だった。最初は知らない番号からの電話、応答しても、返ってくるのは沈黙だけだった。私は切って、着信拒否にした。次にショートメッセージ。そして、私の住所の下に現れるようになった。瑛人の車は人目につかない場所に停められ、一晩中動かなかった。陸生の秘書が何度か追い払ったが、翌日には瑛人は別の車に乗り換えて現れる。頑なに、その存在を誇示し続けた。陸生はもっと隠密な住居に移ることを提案したが、私は断った。「逃げる必要はない。逃げるべき人は私じゃない」決定的な爆発は、雨の降る夜に起こった。私と陸生がマタニティヨガの教室から傘を一つで出てきた時だ。雨幕の中、瑛人の高級スーツが濡れて体に張り付き、彼は憔悴しきって立っていた。その目は、私の膨らんだ腹部に、狂おしいほどに釘付けになっていた。瑛人はひどく掠れた声で言った。「梓……少しだけ話そう」陸生はすぐに前に出て、私を庇った。瑛人は陸生を無視した。「五分でいい。二人きりで話そう」「話すことは何もない」私は冷静に答えた。指先をわずかに丸めたが、陸生はそれに気づき、私を安心させるようにそっと触れた。この仕草が、瑛人の最後の理性を焼き切った。彼は背筋をぴんと伸ばし、雨に打たれながら叫んだ。「相沢陸生!彼女に触るな!何様のつもりだ!人のモノに手を出すな!」陸生は冷笑し、私を背後でさらにしっかりと守った。彼は一つのファイルバッグを取り出し、勢いよく瑛人の濡れた胸に叩きつけた。「よく見ろ、畜生」ファイルは雨水で急速に濡れたが、データは依然として鮮明に読み取れた。それは、法的に有効な親子鑑定のコンサルティング報告書だった。「法的に見て、これ以上の証拠は必要ない」陸生の声は怒りを押し殺していた。「この子は、お前が彼女を見捨て、あの化け物どもに晒した夜にできた子供だ。お前が彼女を絶望の淵に突き落とし、その結果、お前の手で彼女を俺のそばに押しやったんだ!」雨水が瑛人の青白い顔を伝い落ちた。彼は俯き、それを凝視し、ファイルを握る手が微かに震えていた。すべてが、自分を欺いていた幻想だったとは。「いいえ、ありえない!」彼は呟いた。瑛人は顔を上げ、血走った目で陸生を睨みつけた。まるで全
私は再生ボタンを押した。レコーダーからは、瑛人の醜い言葉がはっきりと流れてきた。「子供が生まれたら、お前に母親の役割を演じさせてやる」「俺は昔、夏見に誓ったんだ。将来、二人で子供を持つって」「この八年間、毎晩終わった後に飲ませていた体調を整える滋養スープには、ずっと避妊成分が入っていた」「秋穂が子供を産んだら、お前は母親になれる」秋穂の顔から、一瞬で血の気が失せた。彼女は泣くことも忘れ、ただ驚愕と信じられないという表情で床にへたり込んだ。周囲は騒然とし、ざわめきと嘲笑が急速に広まった。録音が再生し終わると、私は瑛人を見た。瑛人は激しい怒りと屈辱に顔を歪ませていた。何か言おうと口を開いたが、大勢の視線の前では、どんな反論も虚しく滑稽に見えた。私は床の秋穂を見下ろした。彼女のわずかに膨らんだ腹部を見た。「霧島さん、お腹の子は、ただの彼の執着の産物に過ぎませんよ」瑛人の体がわずかに震えた。陸生が人々の間を縫って、大股で歩み寄ってきた。彼は自分の上着を脱ぎ、ためらうことなく私の肩に羽織らせ、私をしっかりと包み込んだ。陸生は私の前に立ちはだかり、いつもの温和さは消え、鋭い表情で言った。「宮城瑛人、お前の女の管理くらい、ちゃんとやれよ。次があれば、俺は喜んで、この高慢な天才ピアニストが、裏でどうやって自分の妻に、愛人との子供を育てさせようとしたのかを、もっと多くの人々に聞かせてやる。ついでに、お前がこの女のために大金を投じ、果てはコネを使って医療記録を改ざんした請求書も公開してやろうか」「相沢陸生!」瑛人が低く唸った。陸生は冷笑し、一歩も引かなかった。「だったら、今すぐ友人に頼んで、全部バラ撒かせてやろうか?」瑛人は拳を固く握りしめ、殺意を剥き出しにした。だが、彼は動かなかった。周囲のカメラのフラッシュが、彼の行動を牽制していた。陸生は私を庇いながら、出口へとまっすぐ向かった。彼の腕は力強く、周囲の冷たい視線を払いのけてくれた。車は音楽ホールを離れ、喧騒を遥か後方に置き去りにした。私はシートにもたれかかり、目を閉じた。張り詰めていた力が一瞬で抜け、指先が制御不能に震える。陸生は何も言わず、ただ静かにエアコンの温度を上げた。愛とは不思議なものだ。時には長い歳月の中で消耗し、時に