LOGIN翌朝、朝食前に身支度を整えていると百合のスマホが鳴った。ディスプレイを見ると、会社からの電話だ。
「こんなはやくに、何かしら?」
電話に出てみると上司からで、今日から1週間休むようにとのことだ。理由を聞いても、「色々大変だったでしょ」と曖昧なことしか言われず、電話は切れた。
きっと、祐介の件が上に伝わったのだろう。百合はスーツからラフな服装に着替え直し、キッチンに行く。秋明が珈琲を飲みながら新聞を読み、ルリが朝食を作っている最中だった。
「秋明さん、ルリちゃん、おはよう」
「あぁ、おはよう」
「おはようございます。奥様、何か飲みますか?」
「紅茶をお願い」
「かしこまりました」
ルリは手を止め、紅茶を準備し始める。向かいに座っている秋明は、ちらりと百合を見ると、新聞に視線を戻す。
「いつもと服装が違うな。仕事は休みか?」
「急遽お休みになったのよ。たぶん、昨晩の件の影響だと思うわ」
「当然と言えは当然だな。
数日後、秋明が退院して帰ってきた。紫苑が付き添いと荷物持ちをし、一緒に家に入ってくる。「おかえりなさい、秋明さん。帰って来るなら、連絡くれればよかったのに」「色々立て込んでてな。百合、少し話がある。リビングに行くぞ」「え? えぇ」 百合は戸惑いながらも秋明と共にリビングへ行く。ルリがすかさず3人分のお茶を持ってきた。少し遅れて紫苑が来ると、秋明は自分の向いに座るように促した。「紫苑、お前も座れ」「はい」 秘書である紫苑が座ることは滅多にない。百合はとんでもないことが起きているのだと身構える。「実はここ数日、妻夫木財閥が抱える会社の売上や株が、ほぼ同時に下がっていてな」 秋明は紫苑に目配せをする。紫苑は小さくうなずき、口を開く。「各社の責任者達に聞いた結果、優秀な社員達が次々に辞めているんです。そちらも、示し合わせたように、同時期に……」「それって、誰かが裏で辞めるように仕向けてるってこと?」 百合の問いに、秋明がうなずく。「どうやら、そうらしい。まだ、しっかりした証拠は出てきていないが、幹部の山本五郎という男が怪しい。専属の探偵に調べさせているところだ。まだ推測の域を出ないが、山本が他社と組んで、引き抜きに協力している可能性が他界。」「ねぇ、どうして私にそんな話を? 会社の話をされても、私には知識なんてないわ……」 できることなら力になりたいが、一介のファッションデザイナーが出る幕ではない。「熊谷矢絃が絡んでる可能性がある。だからお前に話した」「なんですって!?」 驚くのと同時に、矢絃の執念にぞっとする。いったい何がそこまで彼を動かしているのか、百合には分からない。「斎賀を呼べ」 秋明は紫苑に命じる。「斎賀って、斎賀梓さん? 彼女を呼び出してどうするの? 彼女、デザイナーであって、幹部とかじゃないでしょ」「ある意味、幹部よりも信頼できる」「連れてきます」
百合はマリを連れ、藤子の家に行った。マリは家庭菜園を眺めながら、外で待機する。「百合、おかえりなさい。外で待ってる子は?」 藤子は訝しげな目で、外にいるマリを見ている。「ただいま、母さん。あの子はマリちゃん。お手伝い兼護衛なの。秋明さんが、最近物騒だから連れて行けって言うから、ついてきてもらったの」「そうだったの……。入れてあげたいけど、事が事だから……。そうだ、ちょっと待っててくれる?」 藤子は台所に行く。彼女はペットボトルのお茶を持ってきて、百合に手渡した。「マリちゃんに渡してきてくれる?」「分かったわ」 百合は外に出ると、マリにお茶を差し出す。「マリちゃん、これ。母さんから」「わぁ、ありがとうございます」 マリは嬉しそうに受け取ると、早速ひと口飲んだ。「はぁ、生き返る……。藤子様に、ありがとうございますと伝えていただけますか」「えぇ、もちろん。マリちゃん、なんなら近場で涼んできてもいいのよ?」「いえ、今回は護衛ですので、お庭で待たせていただきます」「そう? つらくなったらすぐに言って」 百合はちらりと空を見る。9月上旬の曇りだが、まだ蒸し暑い。「お気遣い、ありがとうございます。暑さでやられそうになったら、車に避難するので大丈夫です」「できるだけはやく終わらせるから」 百合は家の中に戻ると、藤子の向かいに座った。藤子は1通の古びた封筒を、百合に差し出す。「これが、お父さんからの遺言書よ。中身は見てないから、私にも、何が書かれてるのか分からないの」「父さんからの……」 百合は慎重に封筒を手にする。カサリとした手触りとかすかに漂う古びたにおいが、短い歴史を感じさせた。「ねぇ、父さんって、どんな人?」 百合は初めて父について藤子に聞いた。父に関する記憶は、ほとんどない。父親
「大丈夫でしたか?」 正樹の病室から出ると、紫苑が心配そうに百合の顔を覗き込む。「えぇ、大丈夫よ。秋明さんの病室に戻りましょう」「はい」 百合は秋明の病室に戻ると、正樹から聞いたことすべてを伝えた。「ふん、思わせぶりな態度を取っておきながら、大した情報がない。つまらん男だ」 話を聞いた秋明は、吐き捨てるように言う。これには百合も同意だ。「ここまでの失敗をしたんだ。熊谷矢絃には、見捨てられただろう。中務正樹は、もう警戒する必要はない」「そうね。けど、あの誘拐が囮だったっていうのが気がかりだわ……」「分かってる。紫苑、調べておけ」「かしこまりました」「百合、念の為出かける時はあの双子を連れて行け。何かあったら困る」「分かったわ」「奥様、家までお送りしますよ」「ありがとう」 百合と紫苑は病室を後にすると、家に帰る。紫苑は百合を下ろすと、調べごとがあるからと行ってしまった。「厄介なことにならないといいけど……」 紫苑を見送りながら、ぽつりと呟く。 スマホが鳴り、メールが来たことを知らせる。「誰かしら?」 確認してみると母からで、遺言書を取りに来いとのことだった。 その頃秋明は、第2秘書に内密に持ってこさせたノートパソコンを枕の下から出し、起動させる。「やはり秘書は、2、3人いたほうがいいな。紫苑に頼んだら、持ってきてもらえるどころか、説教される……」 起動するのを待つ間、そんな独り言を言う。前回怪我で入院した時も、怪我人は安静にしてろと言われ、パソコンを持ってきてもらえなかったのだ。 秋明は自社ブランドの株や売上をチェックし、渋い顔をする。「おかしい……」 過去のデータを何度も見返す。どういうわけか、ほぼ同時期に、何10社もの株や売上が緩やかに落ち始めているのだ。ほんの2、3社なら、ただの偶然で済ませることができただろう。 さすがに20社以上の売上が同時期に落ちるのは、どう考えてもおかしい。秋明は紫苑に電話をかけた。『秋明様、どうなさいました?』「20社以上の売上が、同時期に下がっている。なにがあったのか調べてくれ」『かしこまりました。ですが、秋明様?』「なんだ?」『どうやってパソコンを持ち込んだんですか?』 紫苑の声は明るいが、どこかヒヤッとするものがある。「スマホで株を見てただけだ」『つくならもう少
「深い意味はあらへんよ。ただ、君だけ呼ぶって、映画のワンシーンみたいで、意味深な感じせぇへん?」「は?」 理解できずに思わず素っ頓狂な声を出すと、正樹はケタケタ笑う。「あっはは! えぇ反応するなぁ。っと、いたた……」 傷に障ったのか、顔をしかめる。それでも正樹はどことなく楽しそう。「はぁ、銃弾なんか受けるモンやないなぁ。百合ちゃんも気ぃつけるんやで」 どう返していいか分からずに黙っていると、正樹は力なく笑った。「ここ、笑うところなんやけど」「いいから、話して」「はいはい。相変わらずそっけないなぁ。ま、そういうところも好きやけど」 軽口を叩く正樹にイラっとした百合は、バッグを振り上げた。「冗談やって。妻夫木の妻やっとるだけあって、怖いなぁ」「はやく話しなさい」「その前に、百合ちゃんはシオン、やっけ? あれから話は聞いとるん?」「そうよ、だからここに来たの」「そらそうか。失礼しました。あの秘書くんにも言うた通り、熊谷サンとは手ぇ組んどるよ。前に商業パーティーで、君と熊谷サンがバチバチしとったやろ? あそこに俺もおったんや」 初めて参加した商業パーティーのことを思い返す。あの時百合は、熊谷矢絃とその恋人のマキに、パクリだなんだと言われたのだ。確かにあの会場には、和ニカケの新作も展示されていた。「それで熊谷サンと手ぇ組めば、妻夫木財閥に傷をつけるくらいはできる思うたんや」「そんな理由で、あの人と組んだの?」「和ニカケは、ある意味まっさらな会社なんよ。裏との繋がりなんて、なーんもあらへん。そないな会社が妻夫木財閥に喧嘩売っても、潰されるだけや。けど、熊谷サンも、妻夫木財閥と同じく裏との繋がりがあるやろ? その上、妻夫木財閥を恨んどる。せやから手ぇ組んだわけやけど、あかんかった……」 正樹は虚空を見つめる。彼が何を思っているのか、百合には想像することすらできない。「私の誘拐に、あの人はどれくらい関わってるの?」「君を眠らせた睡
「盗み聞きとは悪趣味だな、紫苑」 秋明は睨みつけるが、紫苑は楽しそうに笑っている。(流石は幼馴染……。秋明さんの怖い顔に動じないなんて……) 童顔で可愛い顔をした紫苑だが、その見た目に反して肝が据わっている。秋明は凄んでも無駄だと悟ったのか、ため息をつく。「いつからそこにいた?」「秋明様が奥様に、何故辞めたのか聞いたあたりからですね」「ほとんどずっとじゃないか」「大事な話をしていたので、廊下で待ってました」「まったく……。それで、何しに来た?」「中務正樹のところに行ったので、ご報告に」 中務の名前を聞き、百合に緊張が走る。すっかり忘れていたが、あの男も銃弾が当たって入院していた。「熊谷矢絃との繋がりを認めました」「熊谷だと?」 秋明は眉間にシワを寄せる。「百合の誘拐に、あの男も関わってたのか……」「中務の言葉を信じるのなら、関わっているといっても、ガッツリ関わってるわけではなさそうです」「間接的にってことか?」「おそらく。熊谷矢絃と手は組んだけど、今回の誘拐は、少し手を貸してもらっただけ、としか答えないんです」「そこまで喋ったなら、全部話せばいいものを……」「それが……。奥様になら、全部お話するとおっしゃっていまして……」 紫苑は困ったように百合を見て、秋明はテーブルを叩いて怒りを露わにする。指名された本人は、困惑した。「どうして私なのかしら?」「まずは当事者に話すのが筋だとか……」「俺も充分当事者だがな」 秋明は苦い顔をする。脇腹を撃たれた秋明は、医者から絶対安静を言い渡されており、ベッドから出られない。正樹は正樹で太ももを撃たれて思うように動けないだろう。「私、中務のところに行くわ。紫苑、案内してちょうだい」「バカなことを言うな。病院とはいえ、何をするか分からない相手のところに、お前を行かせられるか」「言ったでしょ、守られてばかりはもう嫌って。大丈夫、無理はしない」 しばらく見つめ合っていたが、秋明はため息をつき、ベッドにもたれかかる。「紫苑、案内してやれ。中務の病室前で待機だ」「はい、秋明様。奥様、行きましょうか」「えぇ。ありがとう、秋明さん」 秋明はそっぽを向き、返事もしない。それでも、秋明に少しだけ認められた気がして嬉しかった。 紫苑の案内で、中務正樹の病室に行く。秋明のふたつ隣のVIP用
秋明が入院している間、百合は忙しなく動いていた。護身術や経営についてを学び、習得していく。護身術は体を動かして学べるからいいが、経営について学ぶのは苦労した。分からないことも、考えることも多すぎる。 経営セミナーや護身術教室に通い、合間に自分なりに経営について勉強をする。 本当はジュエリーデザイナーの勉強もしたいが、今は経営の勉強で精一杯だ。「秋明さんは、利益を投げうって私を助けてくれたんだもの……。このままじゃいけないわ」 中務正樹に誘拐された時、百合は秋明が来るとは思わなかった。来てもボディガードか紫苑だと思っていた。だからこそ、秋明が商談ではなく自分を選んだことがこれ以上ないくらい嬉しかった。 利益より感情と人命を優先してくれた秋明に見合うためには、最低限でも自立は必要だ。そのためにも会社を設立するつもりだ。できればアレグリアのためにもジュエリーデザイナーとしての知識や実力をつけておきたかったが、残念ながらそこまでの余裕はない。 学び始めてから3日目、秋明からメールが来た。「なにかしら?」 本当は見舞いに行きたかったが、今は少しでも休んでほしくて、あえて顔を出していなかった。メールを開き、百合は困惑した。『話がある。できるだけはやく病院に来い』「話って、なんなの……」 そわそわして落ち着かない。何か特別にトラウマがあるというわけではないが、昔から「話がある」と言われると、身構えてしまうのだ。 護身術教室から帰ってきたばかりで、ジャージ姿だ。汗もかいている。百合はシャワーを浴びて外行きの服に着替えると、病院に足を運んだ。「失礼しまーす……」 恐る恐る病室のドアを開けると、秋明は怪訝な顔をして百合を見る。「はやく来い」「え、えぇ……」 曖昧に笑い、ベッドの横にある椅子に座る。気分は説教を待つ子供だ。「それで、その……。話って?」「お前、エトワールを辞めたそうだな。どういうつもりだ?」 それは純粋な問いかけ。言葉の裏に、刺々しさは一切ない。(相談せずに辞めたのは、よくなかったわね……) 今更ながら、勝手に辞めたことを反省する。「勝手に辞めたのはごめんなさい。けど、私なりに考えがあるの」 百合はまっすぐ秋明を見つめる。ベッドにその身を横たえている秋明は、少し小さく見えた。「私は今まで、何も知らずに、秋明さんに頼り切
「何がおかしいの? 言っておきますけどね、私ひとりの稼ぎでも、母とやっていけるのよ」 更に言葉を続けるも、矢絃の勝ち誇った顔が崩れることはない。「出て行くだと? お前の母親は終身サービス契約にサインしている。違約すれば8千万だ」「8千万!? どういうこと……!?」 母の藤子は、矢絃が副社長を務める会社で清掃員として働いている。母は常々、「今の生活があるのは熊谷さんのおかげなんだよ」と言っていた。百合はてっきり、母は矢絃が自分を雇ってくれたことに感謝しているのかと思っていた。(そういえば、最近そういう言葉聞かなくなった……)「聞いてなかったのか? お前の母親が、契約書をまともに読ま
平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。
ビルから出ると、リムジンが停まっていた。ボディガードのひとりがドアを開ける。秋明は何食わぬ顔でリムジンに乗ると、困惑しながら立ったままの百合に目を向ける。「何ぼさっと突っ立ってるんだ。はやく乗れ」「え、えぇ……」 おずおずとリムジンに乗り、百合は目を見開く。L字型をした革張りの座席があり、その向かいには小さなバーカウンターを想起させるテーブルがある。小型の冷蔵庫と食器棚もあり、食器棚の中には高そうなグラスが並んでいた。「お前は俺の隣に座るんだ」「分かったわ」 少し距離を作って座ると、秋明はあからさまに不機嫌になる。どうしたらいいか分からずにいると、秋明は距離を詰め、百合の肩に手
百合は疲れ切った顔で家に帰る。あの後、秋明と情報を共有していて遅くなってしまった。彼は百合が矢絃の家に住んでいると知ると、新しい家を用意するからすぐに出られるようにしろと言っていた。 これは百合にとって嬉しい話だ。1秒でもはやく、この家から出たいと思っている。(色々話したいけど、母さんはもう、寝てるだろうな……) 腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。早朝から仕事がある母はきっと寝ているはずだ。(私も、シャワー浴びてはやく寝よう……) 自室に戻ることを考えながら玄関の前に立つと、ドアが開いた。「母さん……!」「おかえり、百合」 パジャマにカーディガンを羽織った母・藤