LOGIN以前矢絃は、百合に警告をした。妻夫木秋明に潰された人間を、何人も見てきたと。だからしばらくは警戒をしていたが、秋明は契約通りに百合と藤子の安全を保証してくれている。
それだけでなく、流産した百合のケアまでしっかりしてくれている。妻夫木秋明は、熊谷矢絃が言っていたような人間なのだろうか?
(けど、あのふたりは……)
前の職場で百合に危害を加えたふたりは、最初から存在していなかったかのように扱われた。それは秋明が圧力をかけたからなのではないか?
考えれば考えるほど分からなくなり、疑心暗鬼になる。
「はぁ、やめやめ。私が考えたところで、どうにかなる問題じゃないわ」
言葉にして割り切ると、風呂に入った。疑念は残るが、材料がないのにあれこれ考えたって仕方がない。
キッチンに行くと、豪華な食事が用意されている。
「すごい……!」
「出たか。はやく座れ」
席に座ると、シャンパンが開けられ
ほどなくして救急車が来た。百合は車から降りると、手を大きく振って居場所を知らせた。「ナイフで腕を切られたんです。一応消毒はしてあります」「腕も心臓の上で固定して、適切な処置ですね。動けますか?」「あぁ……」 秋明は弱々しく返事をすると、救急隊員の肩を借りながら救急車に乗る。 百合は一緒に救急車に乗ると、紫苑に自分が誘拐されかけたこと、秋明が自分をかばって怪我をしたこと、今救急車に乗っていること、病院に向かっていることをメールで伝えた。 紫苑からすぐに返事が来て、どこの病院に搬送するか分かったら教えてほしいと書かれていた。 百合は救急隊員達の会話に耳を傾け、病院が分かると、紫苑にメールで知らせる。 病院につくと、傷を縫うために秋明は処置室に連れて行かれる。「奥様……!」 紫苑は息を弾ませながら、廊下のベンチに座る百合に駆け寄る。「はやかったわね」「ちょうど近くにいたので。秋明様はどちらに?」「今、傷を縫合してるわ」 医者が出てくるのとほぼ同時に、百合のスマホが鳴った。ディスプレイを見ると非通知設定になっていた。いつもなら出ないが、嫌な予感がする。「紫苑、電話してくるから、代わりに話を聞いておいてくれる?」「はい、かしこまりました」 百合は外に向かいながら電話に出た。「今病院なの。どこの誰か知らないけど、ちょっと待って」 それだけ言うと、スマホを耳から離して外に出る。切れてるかもしれないと思いながら耳にあてると、小さな物音がした。「もしもし?」『俺を待たせるとはいい度胸だな』 それは矢絃の声だった。「矢絃さん……! あなた、どういうつもり?」 矢絃の連絡先はすべてブロック済みだ。きっと部下のスマホでも借りているのだろう。『うるさい。お前は俺のところに帰ってこい』「嫌よ。ね
「ぐがあっ!?」 矢絃と揉み合っていると、男の悲鳴が聞こえた。 百合も矢絃も何事かと男の方を見ると、彼は倒れて痙攣しており、男を冷たい目で見下ろし、スタンガンを片手にした秋明がいた。 秋明は倒れた男を蹴り飛ばし、催涙スプレーをかける。男は悶絶してアスファルトの上を転げ回った。「ぎゃああああっ!!! 目、目がああぁっ!」 男は両手で目を押さえ、足をバタバタさせる。彼の大きく長い足は、ワゴン車を何度も蹴り飛ばした。「秋明さん!」 途端に希望で胸が満ち、彼の名前を呼ぶ。矢絃は百合を行かせまいと、彼女の腕を強く握った。「なんでここに!?」「俺のものに手を出すとは、いい度胸だな」「お前が百合を手に入れても、意味なんかないだろうが!」 矢絃は百合を後部座席に押しやると、秋明に殴りかかる。百合が起き上がる前に秋明は矢絃の拳を避け、彼の腹に蹴りを入れた。「ぐっ! くっそ……!」 矢絃は後部座席から出てきた百合を見て嫌な笑みを浮かべると、ナイフで百合に襲いかかる。「死ねアバズレ!」(逃げなきゃ!) 頭では分かっていても、体は恐怖で動けない。「チッ……!」 秋明が百合の前に躍り出るのとほぼ同時に、秋明の悲鳴が聞こえた。彼の大きな背中で隠れて見えないが、アスファルトに鮮血が垂れ流れるのが見え、彼が怪我をしたと知る。「秋明さん!」「お前は下がってろ!」 秋明の傷を見ようと隣に行こうとするも、怒鳴られて動きを止める。 秋明はネクタイを外して手に巻き付けると、矢絃を殴った。「がっ……!」 鈍い音と悲鳴。そして矢絃が倒れる音。恐る恐る秋明の後ろから覗き込むと、矢絃は腹を抱えて倒れていた。 矢絃は腹を抱えながらふらふら立ち上がると、車に入る。「今日のところは引いてやる。けど、鍵を手に入れても、金庫は俺
「分かりました。では、まずはあなたのご両親についてお聞かせください」「はい……」 百合は知っていることをすべて探偵に話した。探偵はメモをしながら話を聞く。「なるほど……。何か分かったら連絡します」「お願いします」 百合は探偵に一礼すると、探偵事務所を後にしてまっすぐ帰る。(これで何か分かればいいけど……) 不安を胸に車を走らせる。百合は財閥が持つ紋章の意味を知らない。紋章どころか、家紋の知識すらない。 同じ紋章ということは、血縁者の可能性もある。なんとなくそんな気がしている。もし万が一、秋明と血の繋がりがあったらと思うと、気が気でなかった。 3日後、探偵事務所から連絡が来た。仕事帰りに探偵事務所に行く。「この獅子の紋章は、財閥一族の紋章だということが分かりました」「一族? それって、血縁者ってことですか?」「いえ、財閥の一族は少々特殊でして。一族というより、連合や同盟と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね」「同盟?」「はい。例えば、A家とB家は、赤の他人ですが、思想が同じです。両家は助け合うことを誓い、同じ紋章を持つ、といった感じですかね」 探偵の説明に、百合は安堵する。どうやら秋明とは血の繋がりはないようだ。だが、ひとつ新しい疑問が生じる。「ということは、母さんは、財閥令嬢だったってこと、ですか?」「えぇ、そうです。現在分かっているのはそれだけで、あなたのお母様が分家の人間なのか、本家の人間なのかはまだ分かりませんが……。藤子様のお父様、百合さんのお祖父様ですね。お祖父様は宝石店を起ち上げ、成功を収めていたそうです」「宝石店? それに本家に分家って?」 宝石店と聞いて、秋明が百合にやたらジュエリーデザイナーにならないか聞いてきたことを思い出す。(そのことと関係があるのかしら?)「一族のリーダーを本家、それ以外を分家と呼ぶんです。宝石店の方ですが、店の名前などはまだ不明ですが、成功していたというのに、忽然と消えたのですよ。ですので、情報を集めるのが少々困難でして」 百合は100万円をテーブルの上に置く。これは百合の貯金から捻出した100万円だ。秋明のことを調べるのに、彼からもらったお金を使うのは気が引けた。「お金はいくらでも払います。徹底的に調べてください」「分かりました。何か掴めたら、またご連絡します」「お願
「話は以上だ」 秋明は書斎に入っていく。百合は出されたチョコやオレンジジュースを口にしてから2階に行った。 入浴後、百合はひとり用寝室で、パスポートの取得方法を調べてから眠った。 1ヶ月後、広々とした会場で、百合は白いマーメイドドレスを着て、秋明の隣に立っていた。 壇上で挨拶をした後、秋明と一緒に挨拶をして回る。秋明は誰が何をしている人なのか教えてくれるが、百合はそれどころではない。(どうしてあの紋章がここにあるの?) ちらりと壇上を見る。壇上のバックには妻夫木家の紋章旗が飾られている。その紋章は、以前母から受け取ったシグネットリングに刻まれていた獅子の紋章と同じデザインだ。(母さんは、私は、何者なの?) そのことが気になって、パーティーどころじゃなかった。「百合、大丈夫か? ぼーっとしてるけど……。もしかして、具合悪い?」 秋明は気遣わしげに百合の顔を覗き込んでくる。「ごめんなさい、緊張しちゃって……」「そうか、こういう場に慣れてないもんな。百合ならすぐに慣れるさ」「そうだといいけど……」 百合は隙を見て、紋章旗の写真を撮った。(調べなきゃ……。これは流石に、偶然で片付く問題じゃない) 撮った写真を確認すると、秋明の元へ行き、良き妻を演じた。 パーティーが終わってリムジンに乗ると、百合は背もたれに身を預けた。(私には、慣れそうにないわ……) 社交の場には何度か顔を出しているが、おべっかの言い合いにも、きらびやかな会場にも慣れない。落ち着ける場所がなくて、息が詰まりそうになる。「百合、俺に何か隠してるな?」 鋭い視線と言葉を投げかけられ、ドキッとする。その顔はさっきまでの理想の夫から、冷徹な財閥会長に変わっていた。「隠し事はするな。契約違反だ」「ここじゃちょっと……。帰ったら話すわ……」 百合は紫苑と運転席をちらりと見てから言う。「分かった」 それ以上
迎えに来たルリに礼を言い、一緒に帰る。家につくと、秋明は既に帰っていた。安物のパーカーではなく、いつも通りブランド品のシャツを着ている。(秋明さん。あなたは路地裏で何を手に入れたの?) 心の中で問うが、もちろん返事などない。「帰ったか。エトワールはどうだ? うまくやれそうか?」「えぇ、皆親切でいい人ばかりだったわ」「そうか。酔って帰ってきたところ悪いが、話がある。座れ」「なにかしら?」 緊張しながら秋明の隣に座ると、ルリがオレンジジュースと水とチョコレートを出す。「チョコもオレンジジュースも、アルコールの分解を助けてくれますので。それと、できるだけたくさん水分を取ってください」「ありがとう、ルリちゃん」「いえ、ごゆっくり。明日の朝は、しじみ汁を出すように、マリに伝えておきますね。それでは、私はこれで」 ルリは一礼し、帰っていく。 百合はチョコレートを1枚頬張り、オレンジジュースを飲むと、秋明を見上げた。「それで、話って?」「この前のパーティーで、俺達が結婚してたことを話しただろ? だから、正式に発表する場を作ろうと思ってな。ついでに、結婚式の希望を聞いておきたい」 アルコールが残っているせいか、言葉をうまく理解できない。「発表する場って?」「結婚を発表するためのパーティーを開く。セレブっていうのは、いちいちパーティーを開きたがるから困る」 秋明は呆れ返ったように言う。なんとなく察していたが、やはり秋明は、パーティーがあまり好きではないようだ。「パーティー開くのはあなたでしょ」「しかたなくだ。個人的には、式さえすればいいだろうと思っているが、この世界にいると、婚約や結婚したことを発表するパーティーも必要になってくる。理由は聞かないでくれ」「式とは別にってこと……? 手間ね」「あぁ、まったくだ。今は仕事が立て込んでいて、結婚式は先になるが、正式発表のパーティーはしておかないといけないんでな
以前矢絃は、百合に警告をした。妻夫木秋明に潰された人間を、何人も見てきたと。だからしばらくは警戒をしていたが、秋明は契約通りに百合と藤子の安全を保証してくれている。 それだけでなく、流産した百合のケアまでしっかりしてくれている。妻夫木秋明は、熊谷矢絃が言っていたような人間なのだろうか?(けど、あのふたりは……) 前の職場で百合に危害を加えたふたりは、最初から存在していなかったかのように扱われた。それは秋明が圧力をかけたからなのではないか? 考えれば考えるほど分からなくなり、疑心暗鬼になる。「はぁ、やめやめ。私が考えたところで、どうにかなる問題じゃないわ」 言葉にして割り切ると、風呂に入った。疑念は残るが、材料がないのにあれこれ考えたって仕方がない。 キッチンに行くと、豪華な食事が用意されている。「すごい……!」「出たか。はやく座れ」 席に座ると、シャンパンが開けられる。秋明はグラスにシャンパンを注ぎ、百合の前に置いた。「ありがとう」「また誰かにつけられているような気がしたら、すぐに俺に連絡しろ。いいな?」「えぇ、次からはそうするわ。……次がないのが1番だけど」「違いない」 食事を終えると、先に寝室に行く。片付けをしようとしたが、秋明に止められてしまった。 ベッドに入って、再び考える。やはり秋明は白な気がする。タイミングがタイミングだから疑ってしまったが、秋明だったら、やっぱりプロを雇って百合に気づかれないようにするだろう。(今はただ、秋明さんじゃないって分かっただけでいいわ) 百合には裏社会のことなどひとつも分からない。分からないものを考えても仕方がない。きっと、秋明が守ってくれる。なら、そこまで不安がる必要もないだろう。安心すると、急に眠くなった。 秋明が来る前に夢の世界に沈んだ。 それから百合は、習い事と仕事の準備に時間を費やした。 外に出る
ビルから出ると、リムジンが停まっていた。ボディガードのひとりがドアを開ける。秋明は何食わぬ顔でリムジンに乗ると、困惑しながら立ったままの百合に目を向ける。「何ぼさっと突っ立ってるんだ。はやく乗れ」「え、えぇ……」 おずおずとリムジンに乗り、百合は目を見開く。L字型をした革張りの座席があり、その向かいには小さなバーカウンターを想起させるテーブルがある。小型の冷蔵庫と食器棚もあり、食器棚の中には高そうなグラスが並んでいた。「お前は俺の隣に座るんだ」「分かったわ」 少し距離を作って座ると、秋明はあからさまに不機嫌になる。どうしたらいいか分からずにいると、秋明は距離を詰め、百合の肩に手
百合は疲れ切った顔で家に帰る。あの後、秋明と情報を共有していて遅くなってしまった。彼は百合が矢絃の家に住んでいると知ると、新しい家を用意するからすぐに出られるようにしろと言っていた。 これは百合にとって嬉しい話だ。1秒でもはやく、この家から出たいと思っている。(色々話したいけど、母さんはもう、寝てるだろうな……) 腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。早朝から仕事がある母はきっと寝ているはずだ。(私も、シャワー浴びてはやく寝よう……) 自室に戻ることを考えながら玄関の前に立つと、ドアが開いた。「母さん……!」「おかえり、百合」 パジャマにカーディガンを羽織った母・藤
「何がおかしいの? 言っておきますけどね、私ひとりの稼ぎでも、母とやっていけるのよ」 更に言葉を続けるも、矢絃の勝ち誇った顔が崩れることはない。「出て行くだと? お前の母親は終身サービス契約にサインしている。違約すれば8千万だ」「8千万!? どういうこと……!?」 母の藤子は、矢絃が副社長を務める会社で清掃員として働いている。母は常々、「今の生活があるのは熊谷さんのおかげなんだよ」と言っていた。百合はてっきり、母は矢絃が自分を雇ってくれたことに感謝しているのかと思っていた。(そういえば、最近そういう言葉聞かなくなった……)「聞いてなかったのか? お前の母親が、契約書をまともに読ま
平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。







