LOGIN年明け、夫の賀川明輝(かがわ はるき)の教え子たちがわざわざ学校へ遊びに来て、彼が食事をご馳走することになった。 学生たちは口々に「先生」「奥さん」と親しげに呼んできた。 ただ、初めて私を見た時の視線にはどこか驚きの色が混じっていた。 個室で明輝が私の手を握ると、皆が一斉にひやかした。 「お二人、本当にラブラブですね。超羨ましいーー!」 私、桜庭柚月(さくらば ゆずき)は照れたようにうつむき、トイレに行くと言って席を立った。 すると、廊下で女子学生二人の話し声が聞こえてきた。 「さっきびっくりした!奥さんって水城澪(みずき みお)先輩かと思ったもん!」 「でも澪先輩にそっくりよね、入ってきた時、マジで見間違えるところだった」 私はその場に呆然と立ち尽くした。 澪が明輝の元カノだということは知っている。 けれど、実際に会ったことは一度もなかった。 冷たい水が手に当たるのを感じながら、鏡に映る念入りにメイクした自分を見つめていると、突然吐き気がこみ上げてきた。
View More私は時間通りに区役所の前に現れた。明輝はすでにそこで待っていた。手には分厚い書類の束を抱え、目は真っ赤に充血していた。深い後悔を滲ませながら、懇願するように言った。「ゆず……これ、全部君に渡す。家も、車も、貯金も……だから、どうかサインだけは……」私はその言葉を遮った。「私の分だけもらえればいい」私の決然とした目を見つめ、しばらく黙り込んだあと、明輝は力なくうなずいた。二人で役所の中へ入った。書類提出、サイン、押印。その間、私たちは一言も交わさなかった。澪が少し離れた階段の下に立っていた。明らかに明輝を待ちに来ていた。彼が出てくるのを見ると、その視線を自分へ引き戻そうとして、甘えた声で呼びかけた。「明輝……」しかし明輝は、彼女がそこにいることさえ見えていないかのようだった。死んだような目で、そのまま彼女の横を通り過ぎ、反対方向へ歩いていった。私は離婚届の受理証明書をバッグにしまった。そのとき、支社の同僚からメッセージが届いた。【今夜、独身復帰のお祝いしない?みんなで鍋でも行こうよ】思わず口元が上がり、笑いながら返信した。【いいよ。今日は私がおごる】初秋の澄んだ空気を深く吸い込み、スマホをバッグに戻した。明るい陽光を浴びながら、私は地下鉄の駅へと歩いていった。……区役所を出たあと、どうやって家まで運転して帰ったのか、明輝は覚えていなかった。見慣れた家のドアを押し開けると、迎えたのは重苦しいほどの静寂だった。部屋の家具は何一つ変わっていない。ソファの上には、相変わらず小花柄のクッションが置かれている。けれど、玄関の暖かな黄色い灯りの下で「今日もお疲れさま」と優しく声をかけてくれた人は、もう二度と戻らない。クローゼットの中には、白いフレンチ風のワンピースと淡いブルーのニットが、きれいに並んで掛けられていた。柚月が出ていくとき、持っていったのは自分が持ち込んだ古い服だけだった。それ以外は一着も持っていかなかった。まるで腐った肉を切り離すように、彼女はきっぱりと去っていった。明輝という存在を、人生から完全に切り離して。床に崩れ落ち、白いワンピースを強く握りしめながら、明輝はその中に顔を埋めた。この瞬間になってようやく、遅すぎた痛み
明輝のあまりにも堂々とした言い草を聞いて、思わず可笑しくなった。「拗ねてなんかいない」「自分が澪の替え玉だってこと、知ってた。あなたが今でも彼女を忘れられないこともね」明輝の瞳が鋭く縮まり、顔に浮かんでいた怒りが一瞬で凍りついた。私は彼の目をまっすぐ見つめたまま続けた。「ずっと彼女のこと、愛してるんでしょう。彼女が戻ってきた今、私は身を引いて、あなたたちを自由にしてあげるよ。もう私を探しに来ないで」そう言って振り返らず、そのまま朔と一緒に地下鉄の駅へ入った。明輝はその場に立ち尽くしたままだった。冷たい秋雨が容赦なく彼の体を打ちつけていた。私がすべての真実を知っていたことに衝撃を受け、頭の中が真っ白になっていたのだろう。ふと、明輝の中でこの三年間の記憶が次々とよみがえる。いつも彼に合わせていたこと。好みに合わせて着ていた白いワンピースのこと。その優しさも歩み寄りも、決して当たり前のものではなかった。すべて、私が彼を愛していたからだった。あの家には、今この瞬間も私の面影が至る所に残っている。澪が戻ってきても、彼の心の空虚は埋まらなかった。むしろ、それによってようやく気づいたのだ。自分が執着していたのは、手の届かない幻の初恋なんかじゃない。この三年間、確かにそばにいてくれたのは私だったのだと。彼はただ、その場に立ち尽くしていた。雨は一晩中降り続いた。彼はその雨に打たれ続け、ついには高熱を出して倒れてしまった。……二週間後、私は支社の代表として、この街で開催される大規模な業界公開サロンに出席していた。病み上がりの明輝も、早くから会場に来ていた。偶然にも、澪も大学側の代表としてこのサロンに出席していた。休憩時間。私は会場の隅で仕事のメッセージに返信していたが、澪はコーヒーカップを手に取り、何気ないふりをしてこちらへ近づいてきた。そばを通り過ぎようとした瞬間、いかにもわざとらしく「あっ」と声を上げた。体を私の方へ傾け、誰かにぶつかったふりをする。同時に手首をひねり、カップの口を下へ向けた。コーヒーが、そのまま私のスカートへと降りかかってきた。気配を察して素早く半歩後ろへ引いたが、それでもスカートの裾には大きなシミが広がってしまった。少し離れ
そのフォルダの中には、五百二十通のメールが入っていた。順番に開いていく。どれも澪に宛てて書かれたものだったが、ただの一通も送信されていない下書きだった。最も新しいものは、三年前――明輝が私にプロポーズする一ヶ月前のものだった。どの言葉にも、叶わぬ恋への想いと絶望が滲んでいた。【澪、留学してもう二年が経ったね。今日、俺たちがよく行っていたあのデザート店の前を通って、また君の好きな栗のケーキを買ってしまった。でも向かいの席には、もう君はいない】【家族からの結婚のプレッシャーがひどくて、正直もう疲れた。君じゃないなら、誰と結婚したって意味なんてない。だから、君がまだそばにいるふりをするしかない。俺たちにまだ未来があるふりを……】画面に映るその言葉を、私は静かに見つめた。最初から、私と明輝の結婚は、彼にとって仕方のない妥協にすぎなかったのだ。胸の奥の深いところから、鈍く痛みが広がっていく。私はゆっくりと息を吐き、お茶を一口飲んだ。それから冷静にマウスを握り、フォルダ内のすべてのメールを選択し、一気に削除した。そのとき、新しく買ったスマホが震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。【桜庭さん、突然のご連絡失礼いたします。水城澪です。ここ数日、勝手な振る舞いと突然の失踪のせいで、明輝がとても困っています。桜庭さんが代役に過ぎないことは分かっていますが、この三年間、私の代わりに彼の面倒を見てくれたことには、一応感謝しています。私が戻ってきた以上、これからはもう桜庭さんが気を遣う必要はありません】思わず冷笑した。ずいぶんと軽く見てくれるものだ。【あの男、中古品みたいなものだから、気に入ったなら持っていっていい。わざわざお礼のメッセージなんて、送らなくて結構】送信してから、その番号もブロックした。ほんの数日で、私は支社の新しい部門のリズムにすっかり慣れていた。余計なことに気を取られなくなった分、仕事に集中でき、成果も目に見えて上がっていった。金曜日の退勤時、天気は最悪で、突然の土砂降りになった。街全体を灰色の水煙で包み込むように、秋雨は冷たさを含んでいた。私はオフィスビルのガラスの自動ドアの前に立ち、外の雨を見ながら少し眉をひそめた。「桜庭さん、傘、持って
テーブルの上の離婚届を目にしたとき、明輝の最初の反応は「意味がわからない」というものだった。昨日、手術に付き添わなかったせいで拗ねているだけだろう。最初はそう思っていた。だが、翌日の午前になっても電話は繋がらなかった。それで、苛立ちを抱えたまま車を走らせ、彼は私の元の職場へ向かった。「桜庭さんですか?昨日付けで手続きを済ませて、支社に異動されましたよ。桜庭さんの……旦那さんですよね?ご存じなかったんですか?」受付の若い女性が、驚いたように聞き返した。その瞬間、明輝の頭は真っ白になった。そのまま大学へ車を走らせた。どうやって私を見つけるか、そのことだけが頭の中をぐるぐると回っていた。ぼんやりとした足取りで廊下を歩く。教員室のある曲がり角に差しかかったとき——扉一枚隔てた向こうから、数人の学生のグループ通話の声が聞こえてきた。声の主はあの日の学生代表だった。今日は母校に遊びに来ているらしい。「ねえ、聞いた?奥さんが、賀川先生と離婚するらしくて、もう家を出たんだって!」「やったね。どうせ身代わりみたいな存在じゃない。三年も賀川先生を独り占めして、とっくに水城先輩に譲るべきだったのよ」もう一人の女子学生が続けた。「ほんとそれ。水城先輩と同じスタイルの服を着てるの見るたびに、笑えてきてたし」「ただ真似してるだけでしょ。賀川先生だって、暇つぶしに付き合ってただけでしょ」その言葉を聞いた瞬間、明輝は凍りついた。全身の血が一気に頭へ上る。数秒後、勢いよくドアを押し開けた。驚いて青ざめる学生たちの視線の中、学生代表の手からスマホを奪い取る。「水城先輩親衛隊」という名前のグループチャットには、私への嘲笑や露骨な悪意が、隠すこともなく並んでいた。怒りと衝撃が胸を突き抜けた。普段はおとなしい学生たちが、陰でこれほど卑劣なことをしていたとは。そのとき、澪が書類を持って廊下を歩いてきた。学生代表からすでに、私が離婚を切り出して家を出たことを聞いていたらしい。そのことを、内心では喜んでいるようだった。明輝の隣に立ち、昔からの友人のような顔で、軽い調子の嫌味を口にした。「そんなに怒って、どうしたの?まさか、あの可愛い奥さんを怒らせて逃げられちゃった?」その言葉を聞