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妊娠中の妻を見捨てた消防士、後悔の業火

妊娠中の妻を見捨てた消防士、後悔の業火

作家:  炎完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

逆転

ドロドロ展開

ひいき/自己中

クズ男

妻を取り戻す修羅場

クズ成敗

火事が起きた時、消防士長の夫は隣の家に飛びこんで、彼の幼馴染を抱きかかえて出てきた。 その後、インタビューで記者が、なぜ妊娠中の妻を先に助けなかったのかと夫に尋ねた。 夫はカメラに向かって、少しも悪びれずにこう言った。 「消防士長として、まず一般市民を助けなければなりません。 身内だからって、特別扱いはできません。公私混同は許されないのです」 その時、夫の幼馴染は彼の腕の中でか弱く震えながら、私に挑発するような視線を向けてきた。 足の間から流れる血を見つめ、私の心は冷えきってしまった。 「直樹、そんなに身内びいきを避けたいのなら、私たち、離婚しよう。 元妻になれば、私もただの一般市民。次はちゃんと、私を先に助けてね」 私は背を向けて救急車に乗り込んだ。今度こそ、もう我慢しない。

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第1話

第1話

火事が起きた時、消防士長の夫は隣の家に飛びこんで、彼の幼馴染を抱きかかえて出てきた。

その後、インタビューで記者が、なぜ妊娠中の妻を先に助けなかったのかと夫に尋ねた。

夫はカメラに向かって、少しも悪びれずにこう言った。

「消防士長として、まず一般市民を助けなければなりません。

身内だからって、特別扱いはできません。公私混同は許されないのです」

その時、夫の幼馴染は彼の腕の中でか弱く震えながら、私に挑発するような視線を向けてきた。

足の間から流れる血を見つめ、私の心は冷えきってしまった。

「直樹、そんなに身内びいきを避けたいのなら、私たち、離婚しよう。

元妻になれば、私もただの一般市民。次はちゃんと、私を先に助けてね」

私は背を向けて救急車に乗り込んだ。今度こそ、もう我慢しない。

救急車のドアが閉まる瞬間、葛城直樹(かつらぎ なおき)がまだ彼の幼馴染である藤田由理恵(ふじた ゆりえ)をなだめていた。

由理恵は、ばっちりメイクの顔に涙を浮かべている。直樹の防火服の裾をぎゅっと掴んで、まるで怯えた子ウサギのようだ。

それにひきかえ、私は全身ずぶ濡れ。煙で喉は焼けつくように痛む。お腹の奥からは、ドリルで抉られるような激痛が突き上げてきた。

「患者さんはひどい出血です!急いで産婦人科に連絡して、受け入れ準備を!」

看護師の声が、頭の上で鋭く響いた。

なんとか目を開けると、つけられた酸素マスクが、私の息ですぐに白く曇った。

スマホに手を伸ばし、直樹に電話をかけようとした。

でも、持ち上げた腕は、すぐにだらりと垂れてしまった。

かけたって、何になるっていうんだろうか?

さっき、炎の中で、必死に彼の名前を叫んだのに。

「直樹、お腹が痛いの。お願い、赤ちゃんを助けて」って。

ドア一枚を隔てて、直樹の冷静な声がはっきりと聞こえた。

「由理恵は足をひねった。煙もすごいし、彼女は喘息持ちなんだ。先に外へ運ばないと。

莉緒(りお)、お前は俺の家族だろ。覚悟を決めろ。自分で濡れタオルを口にあてて、床を這って出てこい!」

這って出てこい、だって?

私はもうすぐ産まれそうな妊婦なのに……

黒い煙が充満して、目の前は灰色と黒だけだった。

少しでも動こうとすると、足の間から生暖かいものがどっと流れ出るのを感じた。

結局、向かいの部屋の人が、鍵のかかったドアを斧で無理やりこじ開けてくれたのだ。

その人は煙の中に飛び込んできて、床に倒れていた私を、なんとか安全な廊下まで引きずり出してくれた。

私は冷たい床にぐったりと倒れ込み、視界がかすんでいた。

でも、そんな中でも、由理恵を宝物みたいに抱きかかえて階段を駆け下りてくる直樹の姿がはっきりと見えた。しかも彼は、集まってきた報道陣のカメラの前で、これ見よがしにヒーロー気取りだった。

「身内は特別扱いできません」

その軽い一言が、まるで釘のように私の心臓を貫いた。そして、私の最後の希望を粉々にしたのだ。

病院に着くと、私はすぐに救急処置室に運び込まれた。

無影灯がパッと明るくなった時、私はぼんやり考えていた。

もし赤ちゃんが助からなかったら、直樹は、ほんの少しでも後悔してくれるのかなって。

いいえ、あの人は後悔なんてしない。

直樹はきっとこう言うだろう。「これは大義のための尊い犠牲で、誇りに思うべきだ」って。

意識がもうろうとする中、医者の持つ器具がカチャリとぶつかる冷たい音がした。

「胎児の心音がない。

母体だけでも、絶対に助けるぞ」

涙がこめかみを伝って髪にしみこみ、ひんやりとした感覚だけが残った。

直樹、あなたの言う「特別扱いしない」っていうのは、自分の子どもの命を生け贄にすることだったんだね。

手術は三時間もかかった。

病室のベッドに戻された時、スマホには何十件もの通知がたまっていた。

全部、ニュースの速報だ。

【炎の中のヒーロー!消防士長、火災現場で妻より隣人を救う!偉大なる自己犠牲の精神!】

【これぞ鑑!消防士としてのお手本のような救助活動】

動画の中の直樹は、焼け跡の灰にまみれていた。その腕の中では、由理恵が彼の首にしっかりと抱きついていた。

コメント欄は、称賛の嵐だ。

【これぞ本物の男だ!公私をしっかり分けてる!】

【奥さんがかわいそうだと思うの、私だけ?】

でも、このコメントはすぐに非難のコメントで埋め尽くされた。

【奥さんは自分で救急車に乗れるくらいだから、大したことなかったんじゃない?】

【ほんとそれ。何を大げさに騒いでるんだか。隣の女性は喘息持ちだったんでしょ、命に関わるって、わからないわけ?】

私はスマホの画面を消した。点滴のチューブに、じわっと血が逆流しているのが見えた。

痛いかって?

心の痛みに比べたら、どうってことない。

その時、病室のドアが開いた。

直樹かと思った。

でも、入ってきたのは由理恵だ。

由理恵は綺麗な服に着替えて、手にはフルーツバスケットを提げていた。そのなまめかしい歩き方からは、足を痛めているようには少しも見えない。

「莉緒さん、大丈夫?」

由理恵はフルーツバスケットをサイドテーブルにドサッと置いた。もう、心配するふりをする気もないみたいだ。

「直樹はまだ消防支署で報告書を書いてるの。今回の救助が大成功だったから、表彰されるそうよ」

由理恵は私の耳元に顔を寄せると、悪魔みたいにささやいた。

「あんたの負けよ。

あんたのお腹にいた子は死んだけど、おかげで直樹は英雄になれたわね。

ほらね。彼の心の中では、やっぱり、この私っていう『一般市民』のほうが大事だったってわけ」
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第1話
火事が起きた時、消防士長の夫は隣の家に飛びこんで、彼の幼馴染を抱きかかえて出てきた。その後、インタビューで記者が、なぜ妊娠中の妻を先に助けなかったのかと夫に尋ねた。夫はカメラに向かって、少しも悪びれずにこう言った。「消防士長として、まず一般市民を助けなければなりません。身内だからって、特別扱いはできません。公私混同は許されないのです」その時、夫の幼馴染は彼の腕の中でか弱く震えながら、私に挑発するような視線を向けてきた。足の間から流れる血を見つめ、私の心は冷えきってしまった。「直樹、そんなに身内びいきを避けたいのなら、私たち、離婚しよう。元妻になれば、私もただの一般市民。次はちゃんと、私を先に助けてね」私は背を向けて救急車に乗り込んだ。今度こそ、もう我慢しない。救急車のドアが閉まる瞬間、葛城直樹(かつらぎ なおき)がまだ彼の幼馴染である藤田由理恵(ふじた ゆりえ)をなだめていた。由理恵は、ばっちりメイクの顔に涙を浮かべている。直樹の防火服の裾をぎゅっと掴んで、まるで怯えた子ウサギのようだ。それにひきかえ、私は全身ずぶ濡れ。煙で喉は焼けつくように痛む。お腹の奥からは、ドリルで抉られるような激痛が突き上げてきた。「患者さんはひどい出血です!急いで産婦人科に連絡して、受け入れ準備を!」看護師の声が、頭の上で鋭く響いた。なんとか目を開けると、つけられた酸素マスクが、私の息ですぐに白く曇った。スマホに手を伸ばし、直樹に電話をかけようとした。でも、持ち上げた腕は、すぐにだらりと垂れてしまった。かけたって、何になるっていうんだろうか?さっき、炎の中で、必死に彼の名前を叫んだのに。「直樹、お腹が痛いの。お願い、赤ちゃんを助けて」って。ドア一枚を隔てて、直樹の冷静な声がはっきりと聞こえた。「由理恵は足をひねった。煙もすごいし、彼女は喘息持ちなんだ。先に外へ運ばないと。莉緒(りお)、お前は俺の家族だろ。覚悟を決めろ。自分で濡れタオルを口にあてて、床を這って出てこい!」這って出てこい、だって?私はもうすぐ産まれそうな妊婦なのに……黒い煙が充満して、目の前は灰色と黒だけだった。少しでも動こうとすると、足の間から生暖かいものがどっと流れ出るのを感じた。結局、向かいの部屋の人が、鍵のか
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第2話
私は由理恵の得意げな顔を見て、思わず笑ってしまった。笑うと、傷口がズキズキと痛んだ。「由理恵、忘れた?ここには防犯カメラがあるのよ」私は部屋の隅を指さした。由理恵の顔がこわばったけど、すぐにいつもの猫をかぶった表情に戻った。「莉緒さん、何を言ってるの?ただ心配で来ただけなのに」「私が死んでるかどうか、心配してくれたってこと?」私は手の甲の点滴針を引き抜いた。血がぷっくりにじんだけど、眉ひとつ動かさなかった。「出て行け!」由理恵は口を曲げて言った。「せっかく心配してあげたのに。これじゃあ直樹が莉緒さんを助けたくなくなるのも無理ないわ。いつも仏頂面で、本当に縁起が悪い」由理恵が帰ろうと踵を返した時、ちょうどドアを開けて入ってきた直樹とぶつかった。由理恵は、わざとらしくその場に倒れ込み、「きゃっ」と声をあげた。「直樹……莉緒さんは機嫌が悪いのね。今押されたけど、私は大丈夫だから。莉緒さんを責めないで」私服姿の直樹は、険しい顔で眉をひそめていた。直樹は床に倒れている由理恵を一瞥し、それからベッドに座る顔面蒼白の私に目をやった。でも、最初の言葉は私の体を気遣うものではなかった。直樹は由理恵に駆け寄って助け起こすと、私を指さして怒鳴った。「莉緒!いい加減にしろ!由理恵は怖い思いをしたばかりなのに、わざわざお前の見舞いに来てくれたんだ。それなのに、その態度はなんだ?」私は枕にもたれかかり、五年も愛したこの男を見つめた。急に、彼がまるで別人のように思えた。「直樹、私がなぜ入院しているか知ってるの?」直樹は苛立たしげに由理恵を椅子に座らせた。「少し煙を吸っただけじゃないか?医者も容体は安定してるって言ってたぞ。そんなにカリカリするなよ。俺は消防士だ。人命救助が最優先なんだ。あの時は由理恵のほうが危険だった。家族なんだから、少しは俺のことも理解してくれ」理解、ね。仕事が忙しい直樹を理解して、妊婦健診はいつも一人で行った。直樹の給料が十分じゃないのも理解して、私も働いて家計を支えてきた。直樹のプライドを傷つけないように、外で愚痴ひとつこぼしたことはなかった。それなのに、その結果が?「直樹、お腹の子、もういないの」私は淡々と、事実を告げた。由理恵にお湯を注いでいた
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第3話
退院の日、迎えに来てくれる人は誰もいなかった。直樹からメッセージがきた。【こっちで表彰式があって、抜けられない】表彰式?自分の子どもの命と引き換えの勲章なんて。それを胸につけて、心が痛まないわけ?私は返信しないで、一人でタクシーを拾って家に帰った。玄関のドアを開けると、そこにはピンクのハイヒールが置いてあった。リビングに入ると、由理恵が私のシルクのパジャマを着て、ソファにあぐらをかきながらお菓子を食べていた。それは母が私の安産を願いつつ、わざわざ田舎から送ってくれたお菓子だった。すると直樹がエプロン姿で、フルーツの盛り合わせを手にキッチンから出てきた。私の姿を見て、二人は一瞬きょとんとしていた。「莉緒、なんで一人で帰ってきたんだ?俺が迎えに行くって言っただろ?」直樹はフルーツをテーブルに置いて、少し責めるような口調で言った。「メッセージしたのに返事もないからさ。もう何日か病院にいるのかと思ってたよ」私は、由理恵の着ているパジャマを見つめた。あれは結婚記念日に買った、とっておきのパジャマ。もったいなくて一度も着ていなかったのに。それが今、この女に着られているなんて、皮肉な運命としか言いようがない。「どうしてこの人がここにいるの?」私は由理恵を指さして聞いた。由理恵はお菓子を置くと、びくっと肩をすくめて、直樹の後ろに隠れた。「莉緒さん、誤解しないで。私、あの日のショックで一人でいるのが怖くて……そうしたら直樹が、家に空き部屋があるからって、何日か泊めてくれることになったの……」「泊めてる?」私は冷たく笑って由理恵に近づき、そのパジャマの襟をぐいっと掴んだ。「うちが保護施設かなにかだとでも?それとも、このまま主寝室に住み着いて、私の代わりになるつもり?」「莉緒!なにするんだ!」直樹が駆け寄ってきて、私を突き飛ばした。まだ本調子じゃない私の体は、ふらついて数歩後ずさりした。そして、テーブルの角に腰をぶつけ、激しい痛みが走った。直樹は由理恵をかばいながら、心底がっかりしたという顔で私を見た。「なんでそんなに訳の分からないことを言うんだ?由理恵はお客さんだぞ。それに喘息持ちなんだ。もし一人でいる時に発作が出たらどうするんだよ?いざという時、俺がそばにいればすぐ対応できるだ
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第4話
私はSNSの運営をしている。ここ数年は妊活のために仕事量を減らしてはいたけど、使えるツールやアカウントはまだ手元にある。ホテルで過ごすようになって三日目。直樹を表彰する動画は、まだ再生回数を伸ばしていた。中には「分別がある」妻である私に、取材を申し込んでくるマスコミまでいた。直樹からメッセージが届いた。【テレビ局がお前の取材をしたいそうだ。家族の陰ながらの支えについて話してほしいってさ。俺の昇進に大事なことなんだから、身なりを整えて、余計なことは言うなよ】【あの日のことは、お前が自分から頼んだことにしろ。世間から変な噂を立てられないようにな】そのメッセージを読んで、私は怒りで逆に笑いがこみ上げてきた。この男は、私の子どもの亡骸を踏み台に出世するだけじゃなく、私まで利用するつもりなんだ。私は一言だけ返信した。【わかった】そっちが有名になりたいなら、私が炎上させてあげる。インタビューは、消防支署の会議室で行われた。直樹はパリっとした制服を着て、胸には勲章を飾り、正義感あふれる顔つきをしていた。由理恵は客席に座って、まるでヒーローを崇めるような目つきで直樹を見つめていた。記者の人が、私にマイクを差し出した。「奥さん、あの危険な状況で、ご主人が他の方を助けに行くのを見て、どう思われましたか?ご主人のこと、誇りに思いましたか?」カメラが私の顔を捉える。隣にいる直樹が、少しだけこちらを向いて、目で「協力しろ」と警告してきた。私はカメラに向かって、痛ましい笑みを浮かべた。「誇り?もちろん、誇りに思ってますよ。その誇りのために、私は妊娠七ヶ月の子どもを失いましたから」会場は、水を打ったように静まり返った。記者の人は呆然として、マイクを落としそうになっていた。「え……なんですって?」私はカバンから血のついたエコー写真と、病院の死産証書を取り出して、カメラの前に突きつけた。「皆さん、はっきり見えますか?これが、この人の言う『身内に特別扱いをしない』ための結果です。周りからえこひいきだと思われないように、彼は妊娠中の妻を火事の現場に置き去りにしたんです。そして、足を捻挫しただけで自分で階段を降りられる幼馴染を、抱きかかえて助けに行きました。救急車の中でも、彼は『びっくりした』だ
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第5話
この騒ぎが大きくなって、消防署はすぐに直樹を停職処分にし、内部調査を始めた。直樹は焦った。彼は母親の葛城美希(かつらぎ みき)を連れてきて、私が泊まっているホテルの部屋の前で待ち構えていた。私がドアを開けた途端、いきなり平手打ちが飛んできた。「この疫病神!」美希は、肉づきのいい顔を怒りでぷるぷる震わせていた。「自分のせいで死産したくせに、直樹のせいにするんじゃないわよ!あんたのせいで、みんな不幸になるんだわ!直樹は、やっと昇進できそうだったのに、あんたが騒いだせいでめちゃくちゃよ!いったい、どういうつもりなの?」私は叩かれた頬を押さえながら、美希の後ろに立つ直樹を見た。直樹は止めるそぶりも見せず、むしろ目にはどこかスッとしたような色が浮かんでいた。まるでこの平手打ちが、うっぷんを晴らしてくれたみたいだ。「母さん、こいつと話しても無駄だ。釈明のコメントを出させろ。『産後うつで、わけのわからないことを言いました』ってな」直樹は襟元を直し、冷たい声で言った。「莉緒、お前が声明を出して俺の名誉を回復してくれるなら、今までのことは水に流す。そうすれば、また前みたいにやり直せるだろ」「前みたいにやり直せる?」とんでもない冗談だ。「直樹、現場の煙で頭でもおかしくなったの?私、死産したばっかりで、体だってまだボロボロなのに、あんたは自分の昇進しか頭にないの?」美希はその場にどさりと座り込むと、自分の太ももをバンバン叩きながら泣きわめき始めた。「あんまりだわ!こんな家をめちゃくちゃにする嫁をもらってしまって!ささいなことで、夫の将来を台無しにする気なのよ!みんな、ちょっと見てよ!この女が、うちの息子を追い詰めてるのよ!」廊下では、何人かの宿泊客がドアから顔をのぞかせていた。直樹は腕を組んで、「さあ、どうする?」とでも言いたげな顔で私を見ていた。「莉緒、釈明しないなら、母さんはここから一歩も動かないぞ。会社の人たちに、お前がこんなに冷酷だって知られたくはないだろ?」私を、脅すつもり?スマホを取り出すと、迷わず110番に電話をかけた。「もしもし、警察ですか?ホテルの廊下で騒いでいる人がいて、暴力を振るわれました」直樹は顔色を変えた。「本気か?母さんを警察に突き出す気か?」「ええ
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第6話
離婚の準備のため、一度家に戻った。家の中はぐちゃぐちゃで、出前の容器がそこらじゅうに散らかっていた。由理恵は、どうやら家事ができる人じゃないみたい。書斎で不動産の権利書などを探していたら、偶然、直樹の引き出しの奥から保険証書を一枚見つけた。保険の契約者は直樹で、受取人は……なんと、由理恵だ。保険金は、四千万円。契約日は、半年前。私はゾッとした。半年前?ちょうど、私の妊娠がわかった頃だ。夫が、妻の私じゃなく、由理恵を受取人にして高額の保険に入ってたなんて……いったい、どういうつもり?万が一の時のための、深い愛情の印ってわけ?ちょうどその時、玄関のドアが開く音がした。由理恵が、直樹の腕にからみつくようにして入ってきた。私に気づくと、由理恵はとっさに腕をほどこうとした。でも、直樹がそれを許さず、彼女の肩をぐっと抱きよせた。「なにを隠すことがある?ここはもう、お前の家なんだ」直樹は私の手にある保険証書を見て、息をのんだ。でも、すぐに落ち着きを取りもどした。「見られたんなら、もう隠してもしょうがないな。由理恵は体が弱いんだ。一人ぼっちだし、俺が助けなくて誰が助けるんだ?莉緒、そんなに心が狭いことを言うなよ。この保険は、ただ由理恵の将来のための保障なんだ」私は保険証書を握りしめたまま、あまりのばかばかしさに呆れてしまった。「直樹、私たち夫婦のお金で、自分の保険をかけて、受取人を理恵にするってどういうこと?これが財産分与をごまかすつもりだって分かってるの?」直樹は、ふん、と鼻で笑った。「俺が稼いだ金だ。どう使おうが、俺の勝手だろ」「あなたが稼いだお金?」私は保険証書を、直樹の顔に叩きつけた。「あなたの給料で家のローンが払えるわけないでしょ?家のローンも車のローンも、全部私が払ってるのよ。あなたが着てるそのブランドスーツだって、私が買ったものじゃない!私の金で愛人を囲っておいて、『助ける』だって?直樹、本当に、吐き気がする」床に落ちた保険証書を拾いあげると、由理恵はとたんに目に涙をうかべた。「莉緒さん、私のことを見下してるのはわかってるわ。でも、私と直樹は、ソウルメイトなのよ……」「ソウルメイト?」私は大股でちかよると、由理恵の髪をつかんで、むりや
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第7話
その後、私は録音データと集めた証拠を、まとめて弁護士と知り合いの記者に渡した。すぐに、【『人命救助の英雄』の裏の顔――仕組まれた放火と、愛のための隠蔽工作】というタイトルの特集記事が、報じられた。記事では、火事当日の不審な点が詳しく挙げられていた。火元は由理恵の家のオーブンで、原因は不適切な使い方だった。一番最初に現場へ駆けつけた直樹は、一般住民を避難させるより先に、火事を起こした由理恵を優先して逃がした。しかも、事後の報告書では、出火原因を「配線の老朽化」だと偽っていた。これで、世間は大騒ぎになった。消防支署は、その日のうちに特別調査チームを立ち上げ、再調査を開始した。直樹が警察に連行される日、私は警察署の前で彼を見かけた。直樹にはもう、いつもの自信に満ちた面影はなかった。無精ひげだらけの顔で、太陽の光を反射する手錠がやけに目に付いた。由理恵も、放火の容疑者としてパトカーに乗せられていた。由理恵はお化粧が崩れるほど泣きじゃくりながら、必死に叫んでいた。「私じゃない!直樹に言われた通りにしただけ!認めなければ保険金がおりるって言ったのよ!」結局は自分のことしか考えられないんだ。直樹は信じられないという顔で由理恵を見ていた。まるで、自分が20年も守ってきたこの女性を、初めて見るかのような目だ。「由理恵、お前……」「なによ!全部あなたのせいでしょ!ヒーロー気取りでかっこつけたりしないで、さっさと火を消してれば、こんなことにならなかったじゃない?」由理恵は、狂ったように、あたりかまわず喚き散らした。直樹は力なく笑うと、道端に立っている私の方に顔を向けた。私は黒いコートを着て、ただ静かにそこに立っていた。まるで、ばかげたお芝居のカーテンコールを眺めているみたいに。「莉緒……」直樹が口を開き、何かを言おうとした。私は、背を向けた。プライドの高い男にとって、無視されることほど絶望的なことはないから。3ヶ月にわたる調査と裁判が終わった。由理恵は失火罪で、懲役3年の判決を受けた。直樹は職権乱用と犯人隠避の罪で懲役2年。そして、懲戒免職となった。判決が言い渡された日、私は離婚届を手に、お墓へと向かった。会うことのできなかった、お腹の子のために、小さなお墓を建てた。「赤ちゃん、マ
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第8話
あれから2年。私は辛い日々から立ち直って、自分のデザイン事務所もうまくいっている。私は、ちょっとだけ名の知れたインテリアデザイナーになった。この日、リフォームのプランを練るために、とある古い団地へ下見に行った。まさか、こんなところで、会いたくない人に会うなんて。団地の入り口に見覚えのある姿を見つけた。直樹だ。直樹はサイズの合わない警備員の制服を着て、車に乗った住民から指をさされてどなられていた。「番犬は番犬らしくしてろ!俺の車をここに停めて何が悪いんだ?さっさとバリケードをどけろってのに、グズグズしやがって!」直樹はうつむいて、何度も謝っている。「申し訳ありません。消防車用の通路なので駐車は……規則で決まっていまして……」「規則?うるせえ!この団地では俺がルールなんだよ!」住民はそう言うと、直樹の帽子を平手で叩き落とした。直樹が帽子を拾おうとかがんで顔を上げた時、そこに立っている私と目が合った。直樹は、その場で固まってしまった。その瞬間、その目には屈辱と動揺、そして深い劣等感が浮かんでいた。かつてあれほど自信家だった消防士長が、今では誰にでも罵倒される警備員に成り下がっていた。私は目をそらしたりせず、堂々と直樹の方へ歩み寄った。「あら、直樹。転職して、今は団地の平和を守っているの?」その住民は私を見ると、ぱっと目を輝かせた。「小川(こがわ)さんじゃないですか!どうしてこちらに?ああ、この警備員が何か、邪魔でしたか?」どうやらこの人が、今回のクライアントらしい。私は微笑んで言った。「いえ、お邪魔じゃないです。ただ、この警備員さん、どこかで見かけた気がしてますから」直樹は、指の関節が白くなるほど強く帽子を握りしめていた。「り……莉緒」直樹は、やっとのことで私の名前を呼んだ。「前は人目を気にしてたけど、もうその必要もなくなったわね」私は直樹を見つめて言った。「だって今の私たち、もう住む世界が違いすぎるもの」直樹の顔が、怒りと屈辱で赤黒くなった。その時、様子のおかしい女が走ってきて、直樹の足にいきなり抱きついた。「直樹!ねえ直樹、お金ちょうだい!バッグが欲しいの!コスメも買うんだから!」由理恵だ。まさか、刑務所から出てきたの?どうして、こんな姿にな
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第9話
それからすぐ、この街は記録的な大雨に見舞われた。私の住んでるアパートのあたりは土地が低いから、あっという間に水浸しになった。水かさはどんどん増えて、一階はもう完全に水の下だ。二階のベランダに逃げ込んだものの、濁った水はゴミを巻き込みながら、どんどん高くなってくる。遠くから、救助ボートのモーター音が聞こえてきた。救助隊が来てくれたんだ。ボートが近づいてきて、へさきに立っている人を見て私は息をのんだ。まさか、直樹だったなんて。直樹はボランティア救助隊の隊員になったらしい。たぶん罪滅ぼしか、それとも日々の生活のためだろう。救助ボートはもう人でいっぱいで、空いている席は一つだけだ。そして助けを待っているのは、私のほかに、隣のベランダにいる由理恵もいた。由理恵はいつの間にか、こんな家賃の安いアパートに引っ越してきていた。しかも、ちょうど私の真下の部屋に。水はすでに由理恵の胸のあたりまで迫っている。「直樹!助けて!お願い、助けて!おぼれちゃう!」由理恵は最後のわらにすがるように、必死に手を振っていた。直樹は水の中にいる由理恵を見て、それから顔を上げ、二階にいて私を見た。でも今度は、直樹は迷わなかった。救助ボートは、私の方に向かってきた。「莉緒!早く飛び降りるんだ!席は一つしかない!水はまだ増え続けてるし、この建物は危ない、もうすぐ崩れるぞ!」直樹は手を差し伸べてくる。その目は焦っていて、でも真剣だ。「昔は俺が悪かった。今度こそ、お前を先に助ける!罪滅ぼしをさせてくれ!」由理恵が水の中から絶望したように叫ぶ。「直樹!ひどいわ!私はあなたにとって、一番大切な人じゃなかったの?」直樹は歯を食いしばり、由理恵の方を見ようともせず、ただじっと私だけを見つめていた。「莉緒、手を!」私は、ごつごつとタコだらけの直樹の手を見つめた。かつて、この手は私を突き放して、由理恵を抱きしめた。そして今、直樹はこの手で私を引き上げて、自分の罪悪感を洗い流そうとしている。私は、思わず笑ってしまった。笑っているのに、涙が雨と一緒に頬を伝っていく。「直樹、まさか私を選べば、私が許してくれるとでも思ってるの?」「違う……俺はただ、お前を助けたいんだ」「でも、そんな助けはいらないわ」私は一
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第10話
雨がやんだあと、直樹のボートが帰る途中でひっくり返ったらしい。なんでも、由理恵がボートの上でパニックになって操縦を奪おうとしたせいで、漂流物にぶつかったんだとか。二人とも、水の中に落ちてしまった。直樹は泳ぎが得意だから、本当なら岸までたどり着けたはずだった。でも、由理恵に必死にしがみつかれて、動けなかった。それはまるで、2年前、あの火事の時に由理恵が直樹の首に必死に抱きついた光景とそっくりだった。ただ、今回そこにカメラはなかったし、拍手もなかった。あったのは、濁った水と、どこまでも続く暗闇だけ。二人が引き上げられた時、まだお互いに絡み合ったままだったらしい。由理恵の爪は直樹の肌に深く食い込み、彼の顔は恐怖と絶望でいっぱいだったという。聞いた話では、直樹は最後には力尽きてしまったそうだ。直樹はこの「一般市民」を振り払おうとしたんだろうけど、今回は、もうできなかった。これが、直樹が「身内びいき」を避けたことへの代償。……私と海斗との結婚式は、一ヶ月後に決まった。ウェディングドレスを試着していた日、海斗が私に尋ねた。「もしまた危険な目にあったら、俺が他の人を先に助けるんじゃないかって怖くなる?」私は、鏡の中で晴れやかに輝いている自分を見つめて、静かに首を横に振った。「ううん、怖くないわ。だって、私には自分の身を守る力があるから。それに、あなたは直樹とは違うって、わかってるもの。あなたは、くだらない評判なんかのために、一番大切な人を見捨てるような人じゃない」私は、少しふくらみ始めたお腹をそっと撫でた。そこでは、新しい命が育まれている。今度はもう、「身内びいき」なんて気遣いをさせたりしない。窓の外は、気持ちのいい日差しがさしていた。直樹と由理恵のこと?あの二人なんて、もうどうでもいい。とっくに雨に洗い流されて、もう跡形もない。
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