ログイン火事が起きた時、消防士長の夫は隣の家に飛びこんで、彼の幼馴染を抱きかかえて出てきた。 その後、インタビューで記者が、なぜ妊娠中の妻を先に助けなかったのかと夫に尋ねた。 夫はカメラに向かって、少しも悪びれずにこう言った。 「消防士長として、まず一般市民を助けなければなりません。 身内だからって、特別扱いはできません。公私混同は許されないのです」 その時、夫の幼馴染は彼の腕の中でか弱く震えながら、私に挑発するような視線を向けてきた。 足の間から流れる血を見つめ、私の心は冷えきってしまった。 「直樹、そんなに身内びいきを避けたいのなら、私たち、離婚しよう。 元妻になれば、私もただの一般市民。次はちゃんと、私を先に助けてね」 私は背を向けて救急車に乗り込んだ。今度こそ、もう我慢しない。
もっと見る雨がやんだあと、直樹のボートが帰る途中でひっくり返ったらしい。なんでも、由理恵がボートの上でパニックになって操縦を奪おうとしたせいで、漂流物にぶつかったんだとか。二人とも、水の中に落ちてしまった。直樹は泳ぎが得意だから、本当なら岸までたどり着けたはずだった。でも、由理恵に必死にしがみつかれて、動けなかった。それはまるで、2年前、あの火事の時に由理恵が直樹の首に必死に抱きついた光景とそっくりだった。ただ、今回そこにカメラはなかったし、拍手もなかった。あったのは、濁った水と、どこまでも続く暗闇だけ。二人が引き上げられた時、まだお互いに絡み合ったままだったらしい。由理恵の爪は直樹の肌に深く食い込み、彼の顔は恐怖と絶望でいっぱいだったという。聞いた話では、直樹は最後には力尽きてしまったそうだ。直樹はこの「一般市民」を振り払おうとしたんだろうけど、今回は、もうできなかった。これが、直樹が「身内びいき」を避けたことへの代償。……私と海斗との結婚式は、一ヶ月後に決まった。ウェディングドレスを試着していた日、海斗が私に尋ねた。「もしまた危険な目にあったら、俺が他の人を先に助けるんじゃないかって怖くなる?」私は、鏡の中で晴れやかに輝いている自分を見つめて、静かに首を横に振った。「ううん、怖くないわ。だって、私には自分の身を守る力があるから。それに、あなたは直樹とは違うって、わかってるもの。あなたは、くだらない評判なんかのために、一番大切な人を見捨てるような人じゃない」私は、少しふくらみ始めたお腹をそっと撫でた。そこでは、新しい命が育まれている。今度はもう、「身内びいき」なんて気遣いをさせたりしない。窓の外は、気持ちのいい日差しがさしていた。直樹と由理恵のこと?あの二人なんて、もうどうでもいい。とっくに雨に洗い流されて、もう跡形もない。
それからすぐ、この街は記録的な大雨に見舞われた。私の住んでるアパートのあたりは土地が低いから、あっという間に水浸しになった。水かさはどんどん増えて、一階はもう完全に水の下だ。二階のベランダに逃げ込んだものの、濁った水はゴミを巻き込みながら、どんどん高くなってくる。遠くから、救助ボートのモーター音が聞こえてきた。救助隊が来てくれたんだ。ボートが近づいてきて、へさきに立っている人を見て私は息をのんだ。まさか、直樹だったなんて。直樹はボランティア救助隊の隊員になったらしい。たぶん罪滅ぼしか、それとも日々の生活のためだろう。救助ボートはもう人でいっぱいで、空いている席は一つだけだ。そして助けを待っているのは、私のほかに、隣のベランダにいる由理恵もいた。由理恵はいつの間にか、こんな家賃の安いアパートに引っ越してきていた。しかも、ちょうど私の真下の部屋に。水はすでに由理恵の胸のあたりまで迫っている。「直樹!助けて!お願い、助けて!おぼれちゃう!」由理恵は最後のわらにすがるように、必死に手を振っていた。直樹は水の中にいる由理恵を見て、それから顔を上げ、二階にいて私を見た。でも今度は、直樹は迷わなかった。救助ボートは、私の方に向かってきた。「莉緒!早く飛び降りるんだ!席は一つしかない!水はまだ増え続けてるし、この建物は危ない、もうすぐ崩れるぞ!」直樹は手を差し伸べてくる。その目は焦っていて、でも真剣だ。「昔は俺が悪かった。今度こそ、お前を先に助ける!罪滅ぼしをさせてくれ!」由理恵が水の中から絶望したように叫ぶ。「直樹!ひどいわ!私はあなたにとって、一番大切な人じゃなかったの?」直樹は歯を食いしばり、由理恵の方を見ようともせず、ただじっと私だけを見つめていた。「莉緒、手を!」私は、ごつごつとタコだらけの直樹の手を見つめた。かつて、この手は私を突き放して、由理恵を抱きしめた。そして今、直樹はこの手で私を引き上げて、自分の罪悪感を洗い流そうとしている。私は、思わず笑ってしまった。笑っているのに、涙が雨と一緒に頬を伝っていく。「直樹、まさか私を選べば、私が許してくれるとでも思ってるの?」「違う……俺はただ、お前を助けたいんだ」「でも、そんな助けはいらないわ」私は一
あれから2年。私は辛い日々から立ち直って、自分のデザイン事務所もうまくいっている。私は、ちょっとだけ名の知れたインテリアデザイナーになった。この日、リフォームのプランを練るために、とある古い団地へ下見に行った。まさか、こんなところで、会いたくない人に会うなんて。団地の入り口に見覚えのある姿を見つけた。直樹だ。直樹はサイズの合わない警備員の制服を着て、車に乗った住民から指をさされてどなられていた。「番犬は番犬らしくしてろ!俺の車をここに停めて何が悪いんだ?さっさとバリケードをどけろってのに、グズグズしやがって!」直樹はうつむいて、何度も謝っている。「申し訳ありません。消防車用の通路なので駐車は……規則で決まっていまして……」「規則?うるせえ!この団地では俺がルールなんだよ!」住民はそう言うと、直樹の帽子を平手で叩き落とした。直樹が帽子を拾おうとかがんで顔を上げた時、そこに立っている私と目が合った。直樹は、その場で固まってしまった。その瞬間、その目には屈辱と動揺、そして深い劣等感が浮かんでいた。かつてあれほど自信家だった消防士長が、今では誰にでも罵倒される警備員に成り下がっていた。私は目をそらしたりせず、堂々と直樹の方へ歩み寄った。「あら、直樹。転職して、今は団地の平和を守っているの?」その住民は私を見ると、ぱっと目を輝かせた。「小川(こがわ)さんじゃないですか!どうしてこちらに?ああ、この警備員が何か、邪魔でしたか?」どうやらこの人が、今回のクライアントらしい。私は微笑んで言った。「いえ、お邪魔じゃないです。ただ、この警備員さん、どこかで見かけた気がしてますから」直樹は、指の関節が白くなるほど強く帽子を握りしめていた。「り……莉緒」直樹は、やっとのことで私の名前を呼んだ。「前は人目を気にしてたけど、もうその必要もなくなったわね」私は直樹を見つめて言った。「だって今の私たち、もう住む世界が違いすぎるもの」直樹の顔が、怒りと屈辱で赤黒くなった。その時、様子のおかしい女が走ってきて、直樹の足にいきなり抱きついた。「直樹!ねえ直樹、お金ちょうだい!バッグが欲しいの!コスメも買うんだから!」由理恵だ。まさか、刑務所から出てきたの?どうして、こんな姿にな
その後、私は録音データと集めた証拠を、まとめて弁護士と知り合いの記者に渡した。すぐに、【『人命救助の英雄』の裏の顔――仕組まれた放火と、愛のための隠蔽工作】というタイトルの特集記事が、報じられた。記事では、火事当日の不審な点が詳しく挙げられていた。火元は由理恵の家のオーブンで、原因は不適切な使い方だった。一番最初に現場へ駆けつけた直樹は、一般住民を避難させるより先に、火事を起こした由理恵を優先して逃がした。しかも、事後の報告書では、出火原因を「配線の老朽化」だと偽っていた。これで、世間は大騒ぎになった。消防支署は、その日のうちに特別調査チームを立ち上げ、再調査を開始した。直樹が警察に連行される日、私は警察署の前で彼を見かけた。直樹にはもう、いつもの自信に満ちた面影はなかった。無精ひげだらけの顔で、太陽の光を反射する手錠がやけに目に付いた。由理恵も、放火の容疑者としてパトカーに乗せられていた。由理恵はお化粧が崩れるほど泣きじゃくりながら、必死に叫んでいた。「私じゃない!直樹に言われた通りにしただけ!認めなければ保険金がおりるって言ったのよ!」結局は自分のことしか考えられないんだ。直樹は信じられないという顔で由理恵を見ていた。まるで、自分が20年も守ってきたこの女性を、初めて見るかのような目だ。「由理恵、お前……」「なによ!全部あなたのせいでしょ!ヒーロー気取りでかっこつけたりしないで、さっさと火を消してれば、こんなことにならなかったじゃない?」由理恵は、狂ったように、あたりかまわず喚き散らした。直樹は力なく笑うと、道端に立っている私の方に顔を向けた。私は黒いコートを着て、ただ静かにそこに立っていた。まるで、ばかげたお芝居のカーテンコールを眺めているみたいに。「莉緒……」直樹が口を開き、何かを言おうとした。私は、背を向けた。プライドの高い男にとって、無視されることほど絶望的なことはないから。3ヶ月にわたる調査と裁判が終わった。由理恵は失火罪で、懲役3年の判決を受けた。直樹は職権乱用と犯人隠避の罪で懲役2年。そして、懲戒免職となった。判決が言い渡された日、私は離婚届を手に、お墓へと向かった。会うことのできなかった、お腹の子のために、小さなお墓を建てた。「赤ちゃん、マ