LOGIN夫の中村健吾(なかむら けんご)は、病的なほど疑い深かく、心配性だった。 しかし、その脆さが、たまらなく美しく魅力的だった。 プライドも何もかも捨て、私はなりふり構わず健吾にアプローチをして、彼と一緒になることができた。 結婚するときは、健吾に安心してほしくて、私の方から婚前契約書にサインし、さらには離婚の際の財産分与もいらないと明記した。 ただ証明したかったのだ。 私が健吾と一緒にいるのは、お金のためではないということを。 しかし、私が妊娠すると、健吾はまた何かに不安を抱き始めたようだった。私のお腹を見つめては、何かを言いたそうにしているのだが、結局は口を閉ざしてしまう。 「瞳(ひとみ)……羊水検査、受けてくれないかな?別に、何かあるってわけじゃなくて、ただ確認したいだけなんだ……」 胸がずきりと痛んだ。 まだ、私のことを信じてくれていないのだろうか? 私の愛情を証明するために、様々なことをしたのに。それでもまだ足りないらしい。 そんなある日、インスタを見ていたら、健吾が秘書の斉藤理恵(さいとう りえ)と目隠しダーツで遊んでいる動画が流れてきた。 目隠しをされた理恵は、怖いのかダーツを握ったまま、なかなか投げられずにいる。 そんな理恵に、健吾が優しく声をかけた。 「理恵、思い切って投げてごらん。もし、当たっても、君が投げたのなら本望さ」
View More東都に戻った健吾は、すぐに国内外の精神科の専門家を呼び寄せた。自分の病気を一刻も早く治したかった。しかし、期待した効果はあまり得られなかった。ある専門家が、とうとう我慢できなくなってこう言った。「中村社長、精神的な治療で一番大事なのはリラックスすることなんですが、あなたは少し張り詰めすぎています。そんな状態では、いくら優秀な専門家でもお手上げですよ」健吾は何も言わなかった。彼はこのことを誰にも話していなかったが、瞳がいなくなってから、健吾は毎晩夢でうなされていた。夢で見るのは、無理やり忘れようとしていた昔の出来事。それが毎晩、繰り返し夢に出てくるのだ。どこにも逃げ場はなかった。以前のことも思い出していた。まるで太陽みたいに瞳が自分の世界に現れる。その笑顔はまるで特効薬のようだった。でも、瞳が笑わなくなってしまったのは、いつからだっただろう。健吾にはそれが分からなかった。健吾は一日中、病院にこもっていた。ある日、執事の仁が慌てて報告に来た。「健吾様、斉藤さんがいなくなりました」理恵の本性が分かってから、健吾は彼女を何度も平手打ちすると、屋敷の地下室に閉じ込めた。健吾は精神が不安定になるたび、地下室へ行って理恵を鞭で激しく打ちのめしていた。理恵はもはや人の姿とは思えないほどに痛めつけられた。彼女は地面にひざまずいて、命乞いもした。しかし、健吾は聞く耳を持たなかった。それどころかボディーガードに命じて、毎日ほんの少しの食べ物しか与えさせなかった。生かさず殺さず、ただ息をさせているだけ。理恵は骨と皮だけになるほどまで痩せ細った。一日中地下室で泣きわめき、悪態をついていた。そして遂に、理恵は地下室の換気ダクトから逃亡をはかった。毎日、飢えで目がくらむほどだった理恵は、このままでは、もうすぐ死んでしまう……そうはっきりと感じていた。だから最後の力を振り絞った。換気ダクトを這って、なんとか地上に出る。そして、一歩、また一歩と人通りのある大通りまではっていった。そこで、ひとりの通行人を引き止める。理恵の頬はこけ、皮膚はしわしわで、明らかに虐待されたその姿は、あまりにも悍ましかった。「警察を……助けて……」通報した通行人は理恵の姿を撮影し、ネット
それからの日々は、仲間たちと動物を保護したり、牧場を回って牛や羊の治療をしたりして過ごした。そんなある日、私たちは密猟者グループを発見した。私は仲間たちと止めようとしたが、捕まってしまった。「女がいるじゃねえか。ちょうどいい。俺たちで遊んでやろうぜ!」品の無い密猟者たちが、気味の悪い視線を向けてくる。その言い方に、私は吐き気がした。幸い、私たちは先回りして警察に通報していた。幸い、私たちは事前に警備隊に連絡していたので、すぐに彼らが駆けつけてくれ、密猟者たちを取り押さえることができた。私たちも助かったし、捕まっていたカモシカたちも無事に保護されたので、私は仲間と共に嬉し涙を流した。生きていることを心から実感したし、警備隊員の人たちの凄さを改めて知った。この一件をきっかけに、私は前田啓太(まえだ けいた)と知り合った。啓太は山岳警備隊の隊長で、厳しい自然で鍛えられた肌は、黒く艶やかに光っていた。そんな啓太が、私には風のように自由な黒豹みたいに見えたし、その力強い生命力が周りの人まで元気にする力があるように感じたのだった。ある日、彼らの事務所で一匹の警備犬が出産を控えていたので、私はお産の介助を頼まれた。お産は夜中までかかり、犬も私も血だらけになってしまっていた。しかし、子犬たちが生まれた瞬間、そんな苦労も全部吹き飛んだ。草原の夜は本当に真っ暗だったので、啓太が四駆でテントまで送ってくれた。車を降りる時、啓太が自分の上着をそっと私の肩にかけた。その温もりが、冷えた体を一瞬で包み込む。私は断らなかった。なぜなら、本当に寒かったから。「ありがとう」なにげなくお礼を言ったのだが、そのとき、暗闇の中でキラリと光る啓太の瞳が見えた。心がきゅっと締めつけられるように高鳴る。しかしその瞬間、目の前に人影が飛び出してきた。まるで、私と啓太の間に割って入るみたいに。啓太がその人を取り押さえて、私は初めて相手が誰だか分かった。健吾。どうして健吾が、こんなところに?「瞳、こいつは誰だ?」そう私に話しかける健吾は、正気とは思えなかった。彼はトラウマを克服するため、薬をいつもの倍も飲んだらしい。ただ、一刻も早く私に会いたい一心で……しかし、昼も夜も車を飛ばして、吹雪
そう言って、仁が健吾の前に書類を一枚差し出した。健吾はそれにさっと目を通す。しかし、内容をはっきりと理解した途端、息が止まりそうになった。それは羊水検査の報告書だった。「病院の話では、瞳様はひと月も前に結果を受け取られていたとのことです」しかし、瞳はそれを持ち帰ってはいなかった。健吾は報告書にはっきりと書かれた文字を見つめる。【生物学上の父子関係にある】健吾は目を真っ赤に充血させながら、報告書を固く握りしめた。手当てした傷が再び開き、白い報告書を鮮やかな赤に染めていく。それでも、痛みはまったく感じなかった。ただ報告書を胸に強く押し当て、数日間抑えつけてきた感情を全て爆発させた。傷ついた獣のように、嗚咽しながら泣き崩れる。「瞳、俺が間違ってた。本当に俺が間違ってたんだよ!俺は君を失ってしまったのか?俺を責めているよな?俺が悪かったって認めるから、もう帰ってきてくれないか?今度こそ、もう二度と君を疑ったりしない。病気だって、もう……」しかし、健吾に返ってきたのは、どこまでも続く静寂だけだった。仁はまだ別の書類の束を握りしめていた。しかし、こんな健吾の様子を見てしまい、渡すのを躊躇っていた。しばらく葛藤した末、仁は意を決して資料を健吾に渡した。自分が小さい頃から面倒を見てきた健吾がこんな姿になっているのを見て、仁は痛ましげな表情を浮かべる。昔トイレに閉じこもって出てこなかった、幼い頃のままのように思えた。「健吾様。ここ数年、健吾様のご病状は良くはならずとも、落ち着いてはおりました。ですがこの数ヶ月、お体の調子がかなり悪く、薬を増やすほどでしたよね?私はそれを、ずっと不思議に思っていたんです。そこで勝手ながら血液を検査に提出させていただきました。そうしたら案の定、血液から精神に影響を与える成分が見つかりまして……」絶望に打ちひしがれていた健吾だったが、仁の言葉を聞いてはっとした。健吾は人を総動員し、屋敷内をしらみつぶしに捜索させた。3日3晩。寝る間も惜しんでの捜索が続いた。そしてついに、執務室のアロマディフューザーから、幻覚を引き起こす特殊な薬が発見された。監視カメラの映像を復元した結果、毎朝、誰もいない隙に理恵が薬を入れている姿を、健吾ははっきりと目にした。「あ
健吾が茶封筒の中を覗いてみると、そこには一枚の紙が入っていた。その紙を取り出した健吾は固まった。なぜなら、それは健吾の戸籍謄本で、瞳の欄には『除籍』との文字が書かれていたのだった。その瞬間、健吾の中で何かがプツンと切れた。「これは偽物だ!偽物に決まってる!なんで瞳の欄に『除籍』なんて書いてあるんだよ?俺と瞳は離婚なんてしてないぞ!」健吾は戸籍謄本をずたずたに引き裂く。「きっとあれだ!瞳は偽の戸籍謄本で俺を怒らせたいんだ。瞳は怒ってるから。そうだ、きっとそうに決まってるさ!」健吾は携帯を取り出すと、何度も瞳の番号を呼び出した。しかし、聞こえてくるのは同じアナウンス。「おかけになった電話番号は、現在……」着信拒否されているのは明らかだった。部屋にいる他の者たちは、息を潜めただ震えている。仁はその様子を見て、すぐさま病院へと電話をかけた。しかし、返ってきた返事は、院内を隅々まで何度も探したが、瞳の影も形も見つからなかった、というものだった。「探し出せ!」健吾は割れた酒瓶の破片の真ん中に座り込み、両手も自分で叩き割った瓶のかけらで切ったのか、血まみれだった。しかし、健吾はそんなこと気にも留めなかった。頭の中は、自分を捨てて他の男と楽しそうにしている瞳の姿でいっぱいだった。その時、理恵がちらりと目線を動かす。そして、なにか含みを持たせた口ぶりで言った。「健吾さん。きっと瞳さんはわざと隠れて、あなたを心配させてるんだよ。今ごろ、どこか見えない場所から、あなたの焦る姿を見て楽しんでるのかもね」理恵は健吾を抱きしめようと、彼に駆け寄る。しかし健吾は、理恵を乱暴に突き飛ばし、憎しみのこもった目で睨みつけた。「消えろ!自分の立場をわきまえろ」理恵は息をのんだ。まさか、健吾がこんな口調で自分に話すなんて、思ってもみなかったのだ。健吾の命を救ったあの日から、健吾はずっと、とても優しく接してくれた。だから、自分は特別な存在なのだ……そう思っていたのに。健吾は冷笑を浮かべて理恵を見た。今となっては、彼女の存在は吐き気がするほど不快なものになっている。「もう貸し借りはなしだ」そう言った健吾は、もう理恵に視線を向けることすらなかった。理恵が命の恩人なのは確かだった。しかし