LOGINそれは、私の娘の内田奈々(うちだ なな)百日祝いの席でのことだった。 夫の内田彰人(うちだ あきと)が連れてきた女性秘書・藤堂紬(とうどう つむぎ)が、平然と彼の腕に手を絡ませながら言う。 「ねえ、見て見て、彰人。ネイル変えたんだ。それに、あなたが買ってくれたダイヤの時計もつけてきたの。 それと、何だか喉が乾いちゃった。でも、ここには私が飲みたいものがないの。彰人、ちょっと買ってきてくれない?」 その場にいた内田家の親族たちは、驚いて彰人を見つめる。 しかし彰人は何ひとつ文句を言わず、紬のために飲み物を買いに席を立った。 その瞬間、私の心の中で何かがぷつりと切れた。 自分の何年も着古した服と、ガサガサになった自分の手を見つめる。 紬のために飲み物を買って帰ってきた彰人が、冷たい声で私に言った。 「妻は夫の顔っていうだろ?それなのに……なんだ?お前のその冴えない様子は。 外で働いて稼ぐわけでもないし、俺の世間体も気にしてくれない。この家に何の役にも立ってないじゃないか。 まあ、そういうことだから、明日から生活費は全て折半にしよう。お前に金を使うくらいなら、投資に回した方が断然いいからな。その方が有意義な使い方だろ?」 私は何も言い返さず、ただ静かに「わかった」と答えた。 そしてそのまま、兄の加藤琉生(かとう るい)に電話をかけた。 「お兄ちゃん、彰人の会社への出資を引き揚げて。 私、もう離婚することにしたから」
View More慎也はとても優しく、そして、私を大切にしてくれた。1年後。奈々が4歳の誕生日を迎えた日、慎也は小さな誕生日パーティーを開いてくれた。そこで慎也は皆の前で改めて私にプロポーズしてくれた。彼がシンプルな指輪を差し出す。指輪には、私と奈々のイニシャルが刻まれていた。「梓。この1年、頑張っている君の姿と、奈々ちゃんの成長を側で見てきた。だから、改めて思ったんだ……君たちを一生守り抜きたいって。これからの人生、俺の全てを捧げて君たちを愛すると約束する。二度と、辛い思いはさせない」慎也の声は優しく、そして力強いものだったし、とても愛おしそうに私を見つめてくれた。奈々が私の手を引き、おぼつかない口調で言う。「ママ、いいよって言って?私、パパが欲しいの。3人で家族になろうよ」両親も琉生も、笑顔で私を見つめ、祝福してくれている。この状況を目にし、私は涙を堪えることができなかった。悔し涙ではなく、感動による嬉し涙。私は頷いて手を差し出し、慎也が指輪をはめてくれるのを待った。それから数日後、家族と親しい友人だけを招いた結婚式を挙げた。式は決して大きくは無かったが、そこにはとても温かな時間が流れていた。小さなドレスを着た奈々に手を引かれ、私は慎也のもとへと歩んでいく。慎也は私の手をしっかり握ると、耳元で優しく囁いた。「これからは、俺がいる」たった一言。だけどそれは、一生の安心感を与えてくれる言葉だった。結婚生活は、穏やかで幸せな日々だった。慎也は進んで家事を手伝い、奈々の寝かしつけや絵本の読み聞かせだってしてくれる。私が仕事で忙しいときには、家事を全て終わらせ待っていてくれた。慎也は私の仕事を応援してくれていた。「女性だから」といって、何かを諦めさせることはなかった。私に離婚歴があることも、全く気にせず受け入れてくれた。互いに助け合い、認め合って、私たちは穏やかな家庭を築いていった。そんなある日、彰人がまた私を探しに実家まで来たが、追い返すかどうか、と琉生から連絡がきた。私はどうでもいいと答える。なぜなら、もう彰人のことなど、何とも思っていないから。聞いたところによると、全てを失った彰人は日雇いの仕事で何とか食いつないでいるようだった。工事現場で働き、食堂で皿洗いをする日々。周囲
それでも、すやすやと眠る奈々の小さな顔を見ていると、かつての自分の弱さや妥協が胸をよぎり、もう一度、踏み出す勇気が湧いてくるのだった。私はもう、男の顔色を窺ってばかりいた弱気な女ではない。自分らしい生き方をして、奈々にとっても頼れる存在でありたい。半年の月日を経て、ブランドを正式に立ち上げることができた。評判はとても良く、売り上げも右肩上がりに伸びていく。画面に表示される止まらない注文や、スタッフたちの笑顔を見ると、大きなやりがいを感じることができた。自分の力で勝ち取った成功は、何かに依存するよりもずっと自信に繋がる。それからも会社の仲間たちと共に、日々努力を重ねてきた。忙しくも充実した毎日はあまりにも早く過ぎ去り、気づけば二年という歳月が流れていた。そんなある日、パーティーの場で、私は一人の男性と出会った。彼の名前は斎藤慎也(さいとう しんや)。紳士的で、凛々しく、そして誠実な慎也。私たちはすぐにお互いを意識し始めた。慎也は身勝手な彰人とは、まるで正反対だった。慎也のほうから歩み寄ってきて、穏やかな口調で声をかけてくれたし、見下すような気配は微塵もなく、かといって取り入ろうとする様子もない。その後も、仕事の付き合いで何度か顔を合わせるようになり、お互いの話をするようになった。慎也は私の過去を知っていたようだが、詳しくは詮索してこない。自分のことを話してくれたり、仕事への的確な助言をくれたり。あるとき、大事な案件があって徹夜続きだった私は、倒れてしまった。すると、慎也が家まで看病に来てくれたのだ。奈々にもおもちゃや人形を買ってきて、一緒に遊んでくれた。「ママ。私、斎藤さんと遊ぶの大好き!」奈々はまだ幼いので、分からないことだらけだ。それでも慎也が優しい人だというのは分かるのだろう。そう思った瞬間、何だか胸の奥が温かくなるのを感じた。彰人と別れてから、誰にも頼らず、全部一人で背負い込むのが当たり前になっていた。しかし慎也の存在が、ずっと忘れていた安心感を思い出させてくれたみたいだった。慎也は奈々に媚びる様子もなければ、私に無理やり迫るようなこともしない。ただ私が困っていれば、さりげなく助けてくれる。そんな優しさがとてもありがたかった。それからというもの、慎也は私たち親子
私に嫌悪感を抱いたり、傷つけて来たりする彰人とは大違い。この夜は、ここ数年で一番よく眠れた気がする。朝目覚めると、専属の料理人が朝食を用意してくれていた。私は大富豪の令嬢としての暮らしを取り戻し、どの服を着て、どんな車で出かけようか、そんなことで悩む日々が始まった。そうして1ヶ月が過ぎた頃。出かけようとしたある日、家の前で額を地面に擦り付けながら、土下座をしている彰人の姿が目に入った。あれから1ヶ月しか経っていないというのに、再び彰人を見ても、私の心は驚くほど静かだった。「何しに来たの?」彰人はひどく焦った様子だった。「梓、そんな言い方はないだろ?俺のこと、愛してくれてたんじゃないのか?もしかして、もう愛してなんか……」私は鼻で笑う。「ええ、愛してなんかいないよ」彰人の浮気を知ったあの瞬間から。これまで、彰人が私をどれだけ嫌っていたか知ったあの瞬間から……そんな人間を、どうして愛せるというのだろうか?今では愛してくれる家族がいて、奈々にも専門のベビーシッターがいるし、元の生活にも戻れた。彰人なんて、口先だけで、私のことを一度だって本気で考えてくれたことはない。挙げ句の果てには、私を平気で矢面に立たせるような男だ。愛していないどころか、今の私は、この男がすべてを失い、乞食同然に生きるしかなくなればいいとすら思っている。「そんな……俺たち、今まで一緒にやってきただろ?なのに、なんでこんなにも冷たくなれるんだよ……」後になって知ったのだが、私が加藤家に戻った頃、彰人の会社はもう完全に潰れていたらしい。社会的信用もすべて失った上に、莫大な借金を背負ったのだ。もう二度と這い上がってこれないだろう。紬に至っては彰人と同じで、今やどこへ行っても煙たがられる存在だ。どの会社も、彼女を雇おうとはしない。「あなたが私にしてきたことに比べたら、私がしたことなんて可愛いもんでしょ?早くここから立ち去った方がいいよ。うちの家族に見つかったら、もう二度と帰れなくなるから」私の言葉に、彰人は心底怯えたみたいだった。彼が今日ここに来たのは、ただ私に許してほしかったからだ。けれど、今の私の華やかな姿を目にして、かつて一緒に過ごした日々のことを思い出したのだろう。欲に目がくらんでさえいなければ、こん
しかし、心の中にすっきりする感覚は生まれなかった。ただ、胸くそ悪くなるだけ。この二人を見ているのが、ひどく不快だった。彰人は、紬の怯える様子をじっと見つめていた。そして、紬のせいで加藤家と対立し、こんな状況になっているのだと、彰人は思った。怒りが彰人の心を包み込んでいく。彰人は紬に詰め寄ると、その髪を強くつかんで罵声を浴びせた。「全部お前のせいだ!お前が俺のことを誘って来なかったら、俺だって梓を裏切るような真似はしなかったし、こんなことにだってならなかったはずなんだ!俺に梓と『折半』するように仕向けたのも、お前だったよな?梓、早くこいつを訴えてくれ。全部こいつのせいなんだ。俺はただ気の迷いで……」焦った紬が、身をよじりながら言い返す。「彰人、ネックレスだって時計だって、なんでもあなたが買ってくれたんでしょ?それに、自分だって梓さんのこと嫌がってたじゃない。私は関係ないから!裏切り者!落ちぶれた途端に人のせいにするなんて……自業自得のくせに!」千春も地面から立ち上がると、見苦しい姿で私の足元にすがりつこうとした。しかし、すぐに使用人によって引き離される。千春は声が枯れるくらい叫んでいた。「梓。あんな酷いことをして、本当にごめんなさい。彰人と一緒にあなたをいじめてしまったなんて……奈々ちゃんのためにも許してちょうだい。これからは、あなたたちを大切にするから……」ふん。何を今さら、都合のいいことばかり言っているのだろう。聞こえの良い言葉を並べれば、また以前のように私が、大人しく内田家に戻るとでも思っているのか?それに、許してほしいだと?そんなの、答えは一つだ。嫌に決まっている。「その言葉、藤堂さんに言ったらどうですか?」私の言葉で何を思ったのか、千春はそのまま紬へ襲いかかった。「全部あんたのせいよ!あんたがいたから、彰人は加藤家と縁を切る羽目になったんだから!それに、彰人が加藤家の婿になるチャンスもなくなったじゃない!」激しく揉み合う二人の髪は乱れ、服もボロボロになり、先ほどの気品は微塵も無くなっていた。入念に準備された祝いの席は、彰人と紬を笑い物にする醜いショーに成り果てた。もう彼らに興味がなくなった私は、ベビーシッターから奈々を受け取った。奈々は天使
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