LOGIN***店を出た時には。午後十時を過ぎていた。約束した一時間は。もう終わっている。「駅まで送る」「隼人くんは?」「車」「明日も診療でしょう」「うん」「早く帰った方がいいよ」「綾香ちゃんも」同じ言葉を。互いに言う。それでも。すぐには別れなかった。夜の通りを。ゆっくり歩く。駅へ向かえば。十分もかからない。けれど。どちらも。少しだけ歩く速度が遅かった。人通りが減った場所で。隼人くんの腕が。綾香の腕へ触れる。偶然かと思った。けれど。次の瞬間。指先が。綾香の手へ触れた。確かめるような。短い接触。綾香は。手を引かなかった。隼人くんの指が。ゆっくりと絡む。手をつなぐ。何度も。したことがあるわけではない。それなのに。久しぶりに触れたせいか。手のひらだけで。身体の内側まで熱くなった。隼人くんは。何も言わない。綾香も。何も言えなかった。ただ。握られた手に。少しだけ力を返す。その瞬間。隼人くんの指が。強くなる。会えなかった時間が。その力へ表れているように思えた。駅へ近づく。人が増える。それでも。隼人くんは。手を離さなかった。「このまま」隼人くんが。前を向いたまま言う。「帰したくない」低い声だった。綾香は。足を止めた。隼人くんも。同じように止まる。目が合う。仕事中には見ない目。自分の部屋で。キスをした時に見た。少し熱を含んだ視線。「……うん」何への返事か。自分でも分からなかった。帰りたくない。そう答えたのかもしれない。隼人くんの目が。少しだけ揺れる。それから。つないでいた手を引かれた。強くではない。一歩だけ。近づくように。綾香は。隼人くんの前へ立つ。人の少ない建物の陰。通りの明かりが。隼人くんの横顔だけを照らしている。近い。互いの息が。分かる距離。隼人くんの手が。綾香の頬へ触れる。指先が。耳の近くへ髪をよける。触れ方は。以前と同じように丁寧だった。それなのに。今日は。その丁寧さが。少し苦しかった。もっと。近づいてほしい。そう思った。隼人くんが。表情を確かめる。綾香は。顔を背けなかった。次の瞬間。唇が重なった。最初から。以前より深かった。久しぶりに触れたから。互
金曜日。午後八時を過ぎた頃。プロジェクトの会議が終わった。最後の資料が閉じられ。席を立つ人たちの声が。会議室の中へ広がっていく。綾香は。机の上の資料をまとめながら。壁の時計を見た。八時十二分。隼人くんとの約束は。九時。病院から会議の会場へ移動し。そこから。待ち合わせの店までは。三十分もかからない。今日は。間に合う。それだけで。少しだけ肩の力が抜けた。ここ数日。予定が延びるたびに。今日も会えないかもしれないと。何度も思った。でも。今夜は。仕事が終わった。スマホを開く。『終わった』送ると。すぐに既読がついた。『俺も』続けて。『先に着いてる』思わず。足が速くなる。***待ち合わせは。駅から少し離れた。小さな店だった。遅い時間でも。軽い食事ができる。照明は落ち着いていて。店内の席も。ほとんど埋まっていない。扉を開ける。奥の席に。隼人くんがいた。白衣ではない。濃い色のシャツ。髪は。いつものように後ろで束ねている。片手で。グラスへ触れながら。入口の方を見ていた。目が合う。その瞬間。表情が変わる。大きく笑うわけではない。けれど。目元が。はっきりと柔らかくなる。それを見ただけで。胸の奥にあった疲れが。少しだけ消えた。「お待たせ」隼人くんの前まで行く。「待ってないよ」「先に着いてるって」「十分くらい」「それは待ってる」「綾香ちゃんを待つのは」少しだけ笑う。「嫌じゃないから」綾香は。向かいの席へ座った。久しぶりに。仕事の途中ではなく。二人きりで向かい合う。それだけなのに。どう座ればいいのか。少しだけ分からなくなった。クリニックでは。白衣を着たまま話す。病院では。郁人先生や。他の医師と。患者のことを話す。隼人くんとの連絡も。最近は。短いメッセージばかりだった。今は。目の前にいる。手を伸ばせば。触れられる距離。そのことを。急に意識した。「疲れてる?」隼人くんが尋ねる。「少し」「会議、長かった?」「今日は予定通り」「よかった」「隼人くんは?」「普通」「その顔」「何?」「普通じゃない時の顔」言うと。隼人くんが。少し笑った。「ばれるようになったね」「見るって決めたから」「
***夜。隼人くんから電話が来た。入浴を終え。髪を乾かしている途中だった。「もしもし」『今、大丈夫?』「うん」電話の向こうから。小さく息を吐く音が聞こえる。『今日、ごめん』「仕事だから」『ほとんど話せなかった』「うん」否定できなかった。『顔は見たけど』隼人くんが。少しだけ笑う。『会った感じしなかったね』綾香は。ドライヤーの電源を切った。部屋が。急に静かになる。「私も」それだけ答えた。画面越しではなく。電話の声だけでもなく。近くで。何でもない話をしたかった。仕事の途中ではなく。次の予定を気にせず。隼人くんの顔を見たかった。『次』隼人くんが言う。『いつ空いてる?』綾香は。ベッドへ座り。カレンダーを開いた。「来週の火曜日」『俺、父親と会う』「水曜は?」『診療の後、採用の面談』「木曜日」『綾香ちゃん、オンコールでしょう』「うん」「金曜日は?」少し間が空く。『夜なら』綾香は。自分の予定を見る。「プロジェクトの会議」『何時まで?』「たぶん八時」『じゃあ、その後』「隼人くん、次の日も診療でしょう」『綾香ちゃんも病院でしょう』どちらも。相手を止める理由にはならない。でも。無理をさせたいわけでもない。「一時間だけ?」綾香が尋ねる。『うん』「遅くなっても?」『会いたい』迷いのない声だった。胸の奥が。小さく熱くなる。「私も」今度は。すぐに返した。金曜日。午後九時。互いのカレンダーへ。予定を入れる。一時間だけ。それでも。会える日が決まったことで。少し安心した。『今度は』隼人くんが言う。『仕事だけで終わらせないようにする』「仕事の途中で呼ばれたら?」『その時は仕方ない』「物件の話が延びたら?」『抜ける』「それは駄目でしょう」『じゃあ急いで終わらせる』綾香は。少し笑った。「私も」『うん』「会えるように終わらせる」言った後。自分の言葉に。少しだけ引っかかった。仕事を急いで終わらせる。無理をする。そういう意味ではない。ただ。会うことを。空いた時間に回さない。隼人くんも。同じように思ったのかもしれない。『無理はしないで』「隼人くんも」『でも会おう』「うん」短い沈黙。電話越しに。互い
隼人くんに会いに行った夜から。また。顔を見ない日が続いた。病院へ行き。患者を診る。帰宅して。翌日の予定を確認する。疲れて眠り。朝になれば。また病院へ向かう。その繰り返しの中で。隼人くんとのやり取りは。少しずつ短くなっていた。『今日、何時に終わる?』昼休みに送る。返事が来たのは。夕方だった。『診療の後、物件の担当と会う』『綾香ちゃんは?』『たぶん七時くらい』『今日は難しいね』画面を見つめる。会おうと約束していたわけではない。それでも。今日も会えないと分かると。少しだけ残念だった。『うん。また今度』送る。それ以外に。返す言葉がなかった。***翌日は。隼人くんの方が早く仕事を終えた。『近くまで行こうか』夕方。そう届いた。綾香は。患者の記録を確認しながら。時計を見る。予定では。あと一時間ほどで終われるはずだった。『たぶん七時半には出られる』『待ってる』その言葉だけで。胸が少し軽くなった。今日は会える。病院の外で。短い時間でも。顔を見られる。そう思っていた。けれど。退院を予定していた患者の状態が。夕方になって変わった。家族への説明が必要になり。確認しなければならないことが増えた。時計の針だけが。先へ進む。七時半。八時。隼人くんから。催促は来なかった。代わりに。『まだかかりそう?』とだけ届いた。綾香は。廊下の端で立ち止まり。短く返信する。『ごめん。まだ終われない』少しして。『分かった』続けて。『今日は帰って寝て』綾香は。画面を見つめた。会いたかった。せっかく。隼人くんが近くまで来てくれようとしていた。でも。今から急いでも。疲れた顔で。数十分会えるだけ。翌朝も早い。隼人くんの言う通りだった。『ごめんね』送る。『謝らなくていいよ』すぐに返ってくる。優しい。だからこそ。余計に寂しかった。***病院では。郁人先生と顔を合わせることが増えていた。手術のある日。患者の引き継ぎ。病棟で確認が必要な時。会えば。自然に言葉を交わす。「白松先生」名前を呼ばれ。振り返る。「昨日の患者さん」「朝はどうでしたか」「落ち着いています」「そうですか」短い会話。それで終わる。郁人先生とは。予定を
「そういえば」話が途切れたところで。綾香は。今日見た名前を思い出した。「病院に来てる先生で」「うん」「前に話した」「最初のオンコールの日に来てくれた外科の先生」隼人くんが頷く。「郁人先生?」「うん」名前を知っていることに。少し驚いた。以前。一度だけ話したことを。覚えていたらしい。「今日」綾香は続けた。「手術予定の書類で」「フルネームを見たの」隼人くんの表情が。少しだけ変わる。「何て?」「綾瀬郁人先生」一度。短い沈黙が落ちた。隼人くんは。驚くというより。頭の中で。何かをつなげたような顔をした。「兄貴だね」やはり。そうだった。「多分」綾香は。少しだけ笑う。「お兄さんじゃないかと思って」「そう」隼人くんが。小さく息を吐いた。「その病院に来てたんだ」「知らなかった?」「どこで手術してるかまでは」「いちいち聞かないから」隼人くんらしい答えだった。「似てる?」隼人くんが聞く。「顔?」「うん」綾香は。少し考えた。「言われたら」「少しだけ」「少しだけなんだ」「雰囲気が違いすぎるから」「兄貴は」隼人くんが。少しだけ笑う。「隙がないでしょう」「うん」すぐに答えると。隼人くんの笑みが。少し深くなった。「やっぱり」「でも」綾香は続ける。「冷たい人ではないと思う」「そうだね」返事は。思っていたより早かった。「郁人兄貴とは」少しだけ間を置く。「別に仲悪くないよ」“郁人兄貴とは”。ほんの少しだけ。言葉に含みがあるように聞こえた。でも。綾香は。そこを追わなかった。家族の中に。それぞれ違う距離があることくらい。不自然ではない。隼人くんが。今。話したいところまででいい。「どういう人?」綾香が聞く。「もう会ってるでしょう」「病院でしか知らないから」隼人くんは。少し考えた。「見たままだよ」「説明になってない」「ちゃんとしてる」「それは分かる」「自分がやることと」少し言葉を探す。「やらないことが、はっきりしてる」郁人先生の。淡々とした話し方を思い出す。必要なことには。きちんと答える。けれど。自分から。余計な説明はしない。「この前」綾香は言う。「別の病院で働いてるんですかって聞いたの」「うん」
その日。綾香は。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。綾香は顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。綾香も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。綾香は。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく







