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拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された
拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された
Author: 金招き

第1話

Author: 金招き
矢崎香織は結婚したが、新郎は一向に現れなかった。

白無垢の衣装、壁に飾られた飾り、その華やかな装飾の一つ一つが、まるで彼女の顔を平手打ちをしているのようだった。

なんという屈辱!悔しい!

しかし、どうしようもない。

生まれた時から、彼女の人生は他人に握られておりそれは結婚も例外ではなかった。

水原家に嫁ぐのも、ただ彼女の強欲な父親のせいだった。

彼女の祖父はかつて水原先生の運転手だった。しかしある事故の際、水原先生を救うために命を落とした。

家族が経営する小規模企業は巨額の借金を抱え、破産の危機に瀕していた。抜け目ない父親は水原家にお金を求めれば、その恩はすぐに無くなることが分かっていたため、さらに利己的な方法を考えた。そこで、水原先生の孫である水原圭介と自分の娘の結婚を提案した。

水原家の財産であれば、多額の結納金が得られるし、

水原家との縁もできる。

水原家は面子を重んじるために、断ることができなかった。

この結婚は圭介に多大な不満を募らせた。そのため、結婚式に姿を見せることもなく、彼女が外で妻と名乗ることも禁じた。

この一連の出来事では無い。、誰も彼女の意志を問うことはなかった。

彼女は明るい瞳を開き、長い睫毛が微かに震え、その奥にはいくらかの頑固さを秘めていた。

新婚初夜をどう過ごすか悩んでいた時、同僚からのメッセージを受け取った。

同僚との代わりに夜勤を頼まれたのだ。

彼女はタクシーに乗って病院へ向かった。

白無垢の衣装は白衣に変わった。

ガチャリという音とともに、当直室のドアが急に激しく開かれた。

彼女が顔を上げようとした瞬間、パチンと音がして、部屋の電気が消えた。

香織は驚いて、毛が逆立った。

「誰……」

その言葉を言い終わる前に、彼女は机の上に押し倒された。ガチャッという音とともに、机上のものが床に転がり落ちた。そして鋭いナイフが首に押し当てられ、「黙れ!」と脅された。

薄暗い光の中、彼女が見えたのは血まみれの男の顔と鋭い瞳だけだった。

鼻先に漂う強烈な血の匂いから、彼女はこの男が傷を負っていることがわかった。

しかし職業柄のおかげで、彼女は冷静さを保っていた。

彼女はそっと脚を曲げ、男の急所を狙おうとした。だがその動きはすぐに男に気づかれ、不安定な足を強く挟まれた。

「こっちに来たのを見たが」

足音がドアに向かって迫ってきた。

彼らの様子からして、すぐにドアが開けられそうだった。

急迫した状況に迫られ、男は彼女の唇にキスをした。

香織は抵抗し男を少し押し返したが、男は手に持っていたナイフを使おうとはしなかった。

彼女は一瞬、戸惑った。

ガチャリ!

ちょうどその時、ドアの取っ手が回された。

香織は意を決して仰向けになり、男にキスをし彼の首に腕を回した。

彼女の声は震えていたが、手はしっかりと男を掴んでいた。「助けてあげるわ」

男の喉仏が上下に動き、次の瞬間には彼は主導権を握り返し、熱い吐息が彼女の耳元にかかった。そして低くてセクシーな声で言った。「必ず責任を取る」

しかし、男は誤解してた。彼女はただ演じていただけだったのだ。

突然、部屋のドアが開け放たれた。

彼女はテレビドラマを真似して、わざと甘い喘ぎ声を漏らした。その官能的な声に男は魅了された。

それの声はドア前の男たちの心さえも揺さぶった。

「マジ?病院で不倫か?本当に刺激的だな」

ドアが少しだけ開かれ、廊下の光が斜めに差し込んだ。香織の体に光が当たり、男が彼女の体を押さえつけ、ドア口の男たちの視線を遮った。薄暗い光の中で、交わる影だけが見えた。

「絶対に水原じゃない。あいつはあんなに傷ついていたんだ、こんなことは無理だ」

「あの女、すごい声だぞ」

「くそっ、早く行こう。あいつを見つけないと終わりだ」

バタバタと音を立て、足音が遠ざかっていった。

男はその一行が去ったことを分かっていたが、自分がこの見知らぬ女性に覚えのない欲望を感じていることに気づいた。

雰囲気がそうさせたのだろうか。それともあるいは二人の体勢があまりにも親密すぎたのもあるだろう。そのとき香織の抑えきれない反抗心が爆発した。

彼女の人生はいつも他人に左右され、暗闇に包まれていた。

彼女は自分を放縦することで、それに抵抗しようとしていたのだ!

香織はほとんど抵抗せず、男に自らの全てを差し出した。

……

事後、男は彼女の頬に軽くキスをし、低い声で囁いた。「君を必ず探しに来る」と言い残して素早くその場を去った。

香織はしばらく動けなかった。腰が机の縁に当たったせいで、焼けるように痛んだ。

その時、机の端に落ちかけていた電話が鳴った。

彼女は手を伸ばして取り、通話ボタンを押すと向こうから焦った声が聞こえた。「平沢先生、救急センターに交通事故の重傷者が運ばれてきました。早く来てください」

香織は声を整え、冷静に答えた。「分かりました。すぐに行きます」

電話を置いて、数秒間呆然としていた。さっきのことは……

乱れた服と下半身の違和感が、さっきの出来事が夢ではなく、現実であったことを告げていた。彼女は新婚初夜に見知らぬ男と……

それは彼女の人生で最も反抗的な行動だった。

しかし、今はそれを考えている場合ではない。彼女は服を着て急いで救急センターに向かった。

そして一晩中忙しく過ごした。

当直室に戻ると、部屋は依然として散らかっていた。

昨夜のことを思い出し、彼女の手は微かに震えた。

「矢崎先生、夜勤を代わってくださって本当にありがとうございます」平沢美穂が笑顔で近づいてきた。

香織は無理矢理唇を動かし、微笑んだ。「どういたしまして」

「用事が済んだので、休んでください」美穂は部屋の散らかり具合に気づき、眉をひそめた。「これはどうしたんですか?」

香織は顔をそむけ、目の動揺を隠すように、「すみません、私がうっかり落としてしまったんです。あなたが来たのなら、私は先に失礼しますね」と言った。

美穂は彼女が変な感じがしたが、特に気に留めることなく、部屋の片付けを始めた。

ところが、その時、院長が圭介の助手である井上誠を連れて現れた。
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