تسجيل الدخول応接室には珠那、圭、時田の三人だけが残った。 珠那の後ろには、長身の外国人男性が二人控えている。揃いのスーツに身を包み、隙のない立ち姿だった。「日本から来た私のスタッフよ。外で待っていて」 二人は静かに一礼すると、扉の外へ出ていった。 部屋に静寂が戻る。「急に押しかけてごめんなさい。アポイントもなしじゃ迷惑かと思ったんだけど……」「いえ」 時田は穏やかに首を振る。 一方の圭は、警戒を解いていなかった。(どうして、この場所が……) 珠那から差し出された名刺を受け取り、思わず目を見開く。 そこに記されていた名前は、『神山』ではなかった。 そして肩書きには、ジュエリーデザイナー。 圭はゆっくり顔を上げた。「圭さん」 珠那は柔らかな笑みを浮かべる。「あなたが日本を離れたあと、私と宙は婚約を解消したの」 窓辺へ歩み寄り、遠くの街並みを眺めながら静かに続ける。「……そう、だったんですか」 言葉に詰まる。「どうして、と聞かないの?」 少しだけ悪戯っぽく笑う珠那に、圭は困ったように笑い返した。「僕が聞くことじゃないと思って……」「構わないわ」 珠那は振り返る。「あなたが教えてくれたのよ。宙という人間が、私には合わないって」 その言葉に圭は息をのんだ。 あの日のパーティー。 宙の隣で穏やかに微笑んでいた珠那の姿が脳裏によみがえる。 あの人となら宙も変われるかもしれない。自分への執着も消えていくかもしれない。そう願っていた。 だが現実は違った。 胸が締めつけられ、右手がわずかに震え始める。すぐに時田が気づき、その手を優しく包んだ。「大丈夫か」「……ありがとうございます。大丈夫です」 そのやり取りを見て、珠那は小さく笑う。「あら、そういうことだったのね」 二人を交互に見つめる。「圭さんは、その方に支えられてここまで来たのね」「お世話になっているというか……」 圭が言葉を探していると、時田が一歩前へ出た。「圭は自分の意思で海外へ来た。俺はその手助けをしただけだ」 時田は穏やかな口調で続ける。「支えているつもりだったが、今では俺の方が何度も助けられている」 珠那は静かに頷いた。「いい関係ね」 そう呟くと、ソファへ腰を下ろす。「それと、どうしてここが分かったのか気になっているでしょう?」 圭と時田
一夜明け、モーニングのルームサービスを終えると、圭と時田は荷物をまとめ、ホテルの裏口から系列ホテルへ向かった。 移動中、時田はスマートフォンで誰かと連絡を取っている。 圭は周囲を見渡した。どこへ逃げても、宙が現れるのではないか。 その恐怖はまだ消えていない。 震え始めた右手を、そっと温かな手が包み込む。 時田だった。 何も言わない。ただ、その温もりだけで十分だった。 新しいホテルもまた格式高く、スタッフは何事もなかったかのように二人を部屋へ案内してくれた。 それでも圭の胸には申し訳なさが残る。(また迷惑をかけてしまった……) いつまでこうして守られ続けるのだろう。そんな思いが頭をよぎる。「先輩」 静かな部屋で圭は口を開いた。「今度、海外へ行く時……僕も連れて行ってください」 時田が驚いたように目を瞬かせる。「パスポートもあります。事故の前に更新していました。このまま日本にいても……また宙が追ってきます」 しばらく沈黙が流れた。時田は窓の外へ視線を向け、ゆっくりと言葉を選ぶ。「……本当は、最初から一緒に来てほしいと思っていた」 圭が顔を上げる。「仕事も一緒にしたい。その覚悟があるなら」 時田は圭の右手を見る。「そして、その手が治ると信じて治療を続けてくれるなら」 圭も右手へ視線を落とした。「明日の朝、紹介した医師のところへ行こう。診察を受けて、これからの治療方針を決める」 時田は少し笑う。「さっき電話していたのは、その件だ」「……先輩」「三年間、何もできなかった俺なりの償いだ。会社にも連絡して、海外勤務の準備を進めよう」 その言葉を聞いた瞬間、圭の頬を涙が伝った。 止めようとしても止まらない。ようやく未来が見えた。逃げるだけではない。治療をして、働いて、生き直せる未来が。 尊敬する時田の隣で。時田は何も言わず、圭の肩をそっと抱いた。 もう大丈夫。 その無言のぬくもりが、そう語っているようだった。右手の震えが少しだけ和らぐ。(治そう。この手を。先輩の隣で働くために) 圭は右手を左手で包み込み、小さく息を吐いた。 二年後。「Excellent.」 プレゼンテーションが終わると、会議室に拍手が響いた。「圭のデザインは本当に素晴らしい。AIにも真似できない表現だよ」 ビルオーナーが笑う
その頃ホテルの正面玄関では、一台の黒いセダンが静かに停車していた。 運転席には珠那が座っている。助手席のドアが乱暴に開き、宙が無言で乗り込んできた。 ドアを閉める音だけが車内へ重く響く。珠那はちらりと宙を見た。ネクタイは緩み、髪も乱れたまま。 目の下には濃い隈が浮かび、顔色も悪い。 あれほど身なりに気を遣う男とは思えない姿だった。 車を発進させながら、珠那は深くため息をつく。「……なんで私が迎えに来たか分かる?」 返事はない。宙は窓の外を睨みつけたまま黙っている。「ホテルから連絡があったのよ。」 珠那は淡々と続けた。「あなた、このままだと警察を呼ばれるところだったらしいじゃない。」「知らん。」 短く吐き捨てる。「そんなことより……」 宙はホテルを振り返った。「あいつ、まだあそこにいるのか。」 珠那はハンドルを握る手に力を込める。「……まだそんなこと言うの?」「……」「もういい加減にして。」 少しだけ声が強くなる。「なんで、あんな男にそこまで執着するの?」 沈黙。……しばらくして宙が低く呟いた。「……分からない。」「え?」「自分でも分からない。」 窓の外を見つめたまま続ける。「ただ……許せない。」「何が?」「俺の前から勝手にいなくなったことが。」 珠那は思わず息を呑んだ。「あなたが追い出したようなものじゃない。」「違う。」 宙は即座に否定する。「俺は追い出してない。」「散々傷つけておいて?」「……」「事故で助けてもらったのに、犬みたいに扱って。」「……」「他の男を家へ連れ込んで。」「……」「私との結婚まで決めて。」 珠那はハンドルを握ったまま首を振る。「それで逃げられたら、今度は必死に探し回るなんて……。」 小さく息を吐く。「自業自得よ。」「なんでだ!」 突然、宙が怒鳴った。珠那の肩がびくりと震える。「俺は捨ててない!」 ダッシュボードを拳で叩く。「捨てられてなんかいない!」 荒い息遣いだけが車内へ響く。珠那は言葉を失った。こんな宙を見るのは初めてだった。 冷静で、感情を表に出さず、仕事では誰よりも合理的だった男。 そんな彼が、子どものように感情をむき出しにしている。 信号待ちで車が止まる。宙はポケットから煙草を取り出した。窓を少し開け、火を点ける。 煙を
震え続ける圭の肩を支えながら、時田はホテルスタッフへ事情を説明した。 圭は自分の足で立とうとするものの、力が入らない。視線は虚ろで、呼吸も浅い。 スタッフは二人の様子を見るなりすぐに状況を察し、「こちらへ」と静かに頭を下げた。案内されたのは一般客の目に触れない従業員用の通路だった。 ラウンジとは反対方向へ続く静かな廊下を歩き、裏口側のエレベーターへ向かう。普段なら利用することのない裏動線。 圭は申し訳なさそうに俯いたまま歩いていた。 部屋へ戻ると、時田はカードキーで扉を開ける。「もう大丈夫だ」 その一言を聞いた瞬間だった。 張り詰めていた糸がぷつりと切れ、圭はその場へ膝から崩れ落ちた。「圭!」 時田は慌てて身体を支え、そのままゆっくりとベッドへ横にならせる。 肩はまだ細かく震えている。顔色も真っ青だった。「……すみません」 か細い声が漏れる。「まだそれを言うのか」 時田は苦笑しながら布団を掛けた。「今は何も考えなくていい。体を休めろ」「でも……ホテルの人たちにまで迷惑をかけてしまって……」「心配するな」 時田は穏やかな口調で言った。「ここは海外からの要人も利用するホテルだ。警備も対応も一流だし、こういうトラブルへの対処も慣れている」 圭は小さく首を振る。「でも……ロビーまで入り込んできたじゃないですか」「まぁ、それはそうなんだが」 時田は困ったように笑った。「だからこそホテル側も本気で動いてくれる。今は余計なことは考えなくていい」 圭は頷こうとするものの、動悸はなかなか収まらなかった。 胸が締め付けられる。目を閉じても、ロビーでスタッフへ詰め寄る宙の姿が浮かんでくる。 息が苦しい。震えが止まらない。 それでも、張り詰め続けていた身体は限界だった。 いつの間にか圭は眠りへ落ちていた。 それからどれほど眠っていただろうか。 目を開けると部屋は薄暗く、窓の外は夕焼け色に染まっていた。隣のリビングから時田の声が聞こえてくる。「……はい。ありがとうございます」 電話をしているらしい。話し方から察するにホテルスタッフだろう。 ほどなくして通話を終えた時田が部屋へ戻ってきた。「起きたか」 穏やかな笑みを浮かべる。「少しは落ち着いたか?」 圭はゆっくり頷いた。「ルームサービスを頼んでおいた
圭が姿を消してから、一週間が過ぎていた。 宙は以前のように仕事へ向かっていたが、もはや仕事になどなっていなかった。 デスクに座っても、目の前に積まれた書類へ視線を落とすだけ。 内容は頭に入らず、気づけば同じページを何度も開いては閉じている。 部下に話しかけられても返事は上の空。簡単な確認事項すら聞き返す始末だった。「神山さん、大丈夫ですか?」 心配そうに声を掛けられても、「ああ」 短く返すだけ。周囲もさすがに異変に気づき始めていた。 夜になれば会社を飛び出し、圭を探して街を歩く。 駅前。事故のあと二人で何度か訪れた公園。 コンビニ。よく立ち寄っていたカフェ。圭が好きだったパン屋。 行きそうな場所はすべて回った。それでも見つからない。 この数日、まともに眠っていないのか、自分でも分からなかった。 目の下には濃い隈ができ、無精髭まで伸び始めている。 以前の神山宙を知る者なら、誰もが別人だと思うほどだった。 そんなある日。 宙は自室で机いっぱいに広げられた資料を無言で眺めていた。 圭について調べられるものは、すべて調べ尽くした。 大学時代の知人。卒業アルバム。就職先の関係者。SNS。古いメール。事故以前の交友関係。 思いつく限りの情報を洗い出していた。 その中で、一枚のメモに書かれた名前が目に留まる。 ……時田。 その二文字を見た瞬間、宙の指先がぴたりと止まった。「……時田」 どこかで聞いた。いや、知っている。 圭が大学時代、よく口にしていた名前だった。『時田先輩がさ』『時田先輩に相談したら』『時田先輩なら分かると思う』 何気ない会話の中で何度も耳にしてきた名前。 あの頃は気にも留めなかった。ただの世話好きな先輩なのだろうと。 しかし今は違う。宙はすぐにパソコンを開き、「時田 建築」と検索をかけた。 画面に表示された人物紹介を見た瞬間、目を見開く。 海外を拠点に都市開発や再開発プロジェクトを手掛ける日本人建築家。 数々の受賞歴。世界各国で進行中の大型プロジェクト。 建築業界では知らぬ者はいないほどの成功者になっていた。「……時田」 さらに記事を読み進める。 そこには、近々一時帰国するというインタビュー記事まで掲載されていた。 宙はゆっくり椅子へ深く腰掛ける。 点だったものが一本の線になっ
珠那が帰ってからも宙は落ち着かなかった。スマートフォンには、発信履歴だけが増え続けている。 何十件。いや、百件近くになっているかもしれない。もちろん、圭が出ることはない。 メッセージを送っても既読はつかない。それでも宙は諦められなかった。GPSでもつけていれば場所はわかるのだろう。そうしておけば良かったと後悔してしまう。 「……どこにいる」 小さく呟き、再び電話をかける。返事はない。舌打ちをして車のエンジンをかけた。荒々しく。 向かった先は、圭が昔よく通っていた場所だった。建築雑誌をよく買っていた書店。事故のあとも何度か訪れていた公園。そして大学近くの喫茶店。喫茶店の店主に尋ねる。顔馴染みである。 「圭を見ませんでしたか」 「降谷くん? いやぁ、しばらく顔を見てないねぇ」 書店でも同じだった。 「申し訳ありません、お見かけしていません」 圭の同級生にも連絡する。食事会で会ったことある人物だ。しかし誰一人として居場所を知らない。 まるで、この世界から消えてしまったようだった。夕方になっても成果は何一つない。宙はハンドルを強く握り締めた。 (どこへ行った……スマホもきっとどこかに捨てただろう。金もそんなに持ってないはずだ……あの右手で一人暮らしなんてできるわけがない) 考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。焦燥だけが積み重なっていく。 夜。 珠那は高級レストランの予約時間を何度も確認していた。 ようやく宙が来たと思えば、その顔には疲労しか浮かんでいない。 「また探してたの?」 「ああ」 「……ねぇ」 珠那はため息をついてワイングラスを置いた。 「そこまでして探す必要ある?」 宙は答えない。 「あなた、結婚するのよ? ……この私と」 宙は少しだけ目を閉じる。 「……わかってる」 「わかってる人の顔じゃないわ」 珠那は苦笑する。 「最近のあなた、圭さんのことしか考えてないじゃない」 その言葉に宙は眉を寄せる。 「違う」 「違わないわ」 珠那ははっきりと言った。 「仕事も休みがち。食事もろくにしない。私との約束も全部後回し」 「……」 「そんな状態で結婚なんてできると思う?」 宙は返事をしなかった。返せなかった。自分でもわからな







