LOGIN「ひよりを助けたいというお前の願いが叶って、ちょうど良かったじゃないか」
智哉さんのその言葉は、亮介の歪んだ正義感を真っ向からあざ笑う、皮肉な宣告だった。 「は?」 亮介の声は、間抜けなほどに掠れていた。智哉さんが何を言っているのか、その言葉の本当の意味を脳が拒絶しているみたい。 私はその、かつて頼りになると勘違いしていた人の情けない顔を見て、驚くほど冷めた気持ちでいた。 「そのためにここまで来たんだろ」 追い打ちをかけるような智哉さんの言葉。 亮介が私のためと称して家に押し入り、私を傷つけようとしたその行動そのものを、智哉さんは彼を破滅させるための絶好の理由に仕立て上げた。 「まさか、会社の情報を流したんじゃないだろうな」 亮介の声には、明らかな恐怖が混じり始めていた。 それは、亮介それからどれほどの時間が過ぎたのだろう。テレビの向こうで告げられていた予報通り、午後になると空は深い鉛色に沈み、窓を打ち付ける雨の音だけが、静まり返った広いリビングに響き続けていた。ソファーから動くこともできず、ただじっと胸の中で渦巻く怒りと理不尽さに向き合い続けた数時間。その果てに私が出した答えは、彼に従ってここで丸くうずくまることではなかった。パーティー開始まであと二時間。私は寝室の姿見の前に立ち、あのピンクのドレスに身を包んで、静かに鏡の中の自分を見つめていた。淡い桜色のシルク生地は、私の荒ぶる感情を覆い隠すように華やかな光沢を放ち、身体のラインにぴったりと寄り添っている。智哉さんの「今日は先に寝てていい」という冷徹な宣告が、再び耳の奥でよみがえる。彼にとって、私はただ大人しく帰りを待つだけの存在なのだろうか。私が慣れない店でどんなに迷い、どんな思いでこのピンクのドレスを選んだのか、彼は欠片も知らない。この淡いシルクに、彼と並んで歩くためのささやかな勇気を託したことなんて、想像もしていないはず。何よりやるせないのは、彼女が真っ直ぐに私に向けた「あなたに来てほしい」という言葉の重みを、彼が勝手に切り捨てたこと。私がその言葉をどう受け止め、どれほどの葛藤を抱えて今日という日を迎えたか。その心の揺らぎに触れようとすら、彼は初めからしていなかった。私の意思や感情なんて、端から彼の瞳には映っていなかった。──────冗談じゃない。胸の奥でくすぶっていた理不尽な怒りが、明確な決意へと形を変えていくのを感じた。私はドレッサーの前に座り直すと、いつもより少しだけ濃い色のリップを唇に引いた。ルージュの赤が、鏡の中の私に強い意志を宿らせていく。婚約者である私が公の場で不手際を起こせば、当然、彼の顔に泥を塗ることになる。だからこそ、彼は私を「安全な家」に閉じ込めておきたかったのだろう。彼が危惧するその理屈は、頭では痛いほど分かっている。でも、
「行ってらっしゃいませ」私は背筋をピンと伸ばし、口元に完璧な形の笑顔を作って彼を見送った。玄関のドアノブに端正な指をかけた智哉さんは、ふと動きを止め、振り返って私を一瞥した。 その冷徹で目的の読めない瞳が私を捉え、いつもの淡々とした口調で、静かに言葉を落とす。「今日は先に寝てていい」その短いフレーズが耳に届いた瞬間、私の胸の奥が冷たく、凍りついていくような感覚に襲われた。「はい。お気遣い、ありがとうございます」お礼の言葉が、自分の口からひどく虚しく転がり落ちていく。感謝なんて一ミリもしていないのに、口だけは従順な同居人のセリフをなぞっている。智哉さんは私の表情の急激な陰りに気づいたのか、怪訝そうに一瞬だけ釈然としない目をこちらに向けた。何かを言いかけるように微かに唇が動いたが、彼はすぐにそれを諦め、そのまま冷たい外の光の中へと消えていった。ガチャンと静かに、けれど決定的な重みを持って閉まった玄関の扉。その場に立ち尽くしていた私は、這うような足取りでリビングへと戻った。もうどこも痛まないはずの足が、なぜかひどく重く感じられる。パーティーの当日だというのに、結局彼の口からその事が話されることはなかった。あえて詳しく話さないことが、彼の下した答え。そう頭では痛いほど分かってはいても、彼が靴を履き替えるその最後の瞬間まで、どこかで「実は」と切り出してくれる奇跡を期待していた自分が、心の底から情けなかった。私は、広いソファーの端へ沈み込むように腰掛け、静寂を紛らわせるように手元のリモコンを押し、テレビをつけた。画面の向こうでは、カラフルなフリップを持ったお天気キャスターの姿が映し出される。「今日は雨か……」画面を見つめたまま、私の口から力なくその言葉がこぼれ落ちた。午後から本降りになるという。まぁ、一日中この広い家に一人で閉じこもっている私には、外が嵐になろうが関係ないんだけど。なんて、自分を突き放すような
「あの……今週の土曜日のことなんですが」 私が恐る恐る切り出したその言葉は、静まり返ったダイニングの空気に吸い込まれるように消えていった。 ただ単に予定を聞くだけのことなのに、どうしてこんなにも心臓がうるさく鳴っているのだろう。 「土曜?」 彼は、口元に運ぼうとしていたコーヒーカップの動きを止めた。 「何か約束でもしていたか」 持っていたコーヒーカップをソーサーに置き、私に向かって眉を寄せた。 「いえ、そうではなくて」 私が小さく首を横に振り、パーティーについて切り出そうと決意を固めた、まさにその時だった。 「土曜日は少し帰りが遅くなる」 私が口ごもっているのを、単なる予定の確認だと自己完結したのか、智哉さんは淡々とした事務的な口調でそう告げた。 その表情には何の感情も浮かんでおらず、ただの同居人に週末のスケジュールを伝達しているだけの、冷ややかな業務報告にしか聞こえなかった。 遅くなる。その言葉が意味するのは、間違いなくあの華やかなパーティーの夜のことだ。 彼女がわざわざ私に招待状を渡しにきたあのイベント。それなのに、彼はその具体的な内容については一切触れようとしない。 「え……?」 私はただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。ダイニングの暖かい照明が、急に冷たい色を帯びたように感じられる。 彼の中には、今週末のパーティーに私を同伴するという選択肢は最初から一ミリも存在していないのだと、暗に突きつけられたような気がした。 「夜に外せない用事がある。夕食は要らない」 私の戸惑いなど全く意に介する様子もなく、智哉さんはさらに追い打ちをかけるように短い言葉を重ねた。 外せない用事。なんて便利な言葉なのだろ
「え、でも……」思わず口を突いて出た私の声は、ひどく頼りなく震えていた。私たちはお互いの利益のために結ばれただけの関係で、契約書にはこの関係が偽装であることを外部に悟られてはいけないという絶対的な条件が含まれている。もし、こんな風に会話も交わさない冷え切った二人を見てシェフが怪しんだらどうなるだろう。見えない誰かに常に監視され、妻としての価値を評価されているような気がして、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っていた。「気にする必要はない。彼はうちの専属シェフだ」焦る私を落ち着かせるように、彼は静かに、けれど揺るぎない口調で言葉を継いだ。「専属、シェフ……?」「あぁ。もちろん、厳格な契約も交わしている」契約ということは、私と交わしたような守秘義務が彼との間にも存在しているということだろうか。私と同じように、彼もまたビジネスとして。私の同じ…。そこまで考えて、私は急いでぶんぶんと頭を振った。私の契約には、『親密な振る舞いに応じなければならない』という恥ずかしい条件まで含まれていたことを、ふいに思い出してしまったから。「ここで俺たちがどんな態度でいようと、彼がそれを外で話すことはない」彼の絶対的な自信が滲む言葉を聞いて、私は胸を撫で下ろし、小さく息を吐き出した。「……なるほど。そう、だったんですね」亮介の家で常にまとわりついていた、息の詰まるような監視の目は、ここにはない。体裁を気にして、必死に完璧を演じる必要もない。「無駄な気遣いはいい。冷めないうちに食べろ」そう言い捨てると彼は再び銀のフォークを手に取り、私への関心をすっぱりと切るように手元の料理へと視線を戻した。「はい。……ですが、幸せというのは私の本心でしたよ」静寂を取り戻した食卓で、私はふと湧き上がった素直な気持ちを口にしていた。そう言うと、ナイフを動かそうとしていた彼の動きがピタ
結局、私はどうしても落ち着かず、自室のクローゼットを開けた。 亮介の家で着ていたような、体のラインが出る窮屈なドレスやフォーマルなワンピースは選ばなかった。代わりに、少しゆとりのあるシンプルなブラウスと、落ち着いた色合いのロングスカートに袖を通す。 いくらなんでも、あの部屋着のままでディナーの席につくのは気が引けた。 バスルームから出てきた智哉さんは、着替えた私の姿を視界の端に捉えたけど、特に何も言わなかった。 せっかく必要ないと言ったのに、それても体裁を気にする私に内心呆れているのかもしれない。 言い訳をするタイミングを逸してしまい、私はただ気まずく視線を落としていた。 それから間もなくして、手配されていたシェフが家にやってきた。 シェフは手短に挨拶を済ませてキッチンへ向かうと、無駄のない手つきで準備を進めた。 静まり返ったリビングに、微かな調理の音や、食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始める。 やがて、シェフが料理とボトルを載せたサービングワゴンとともに、ダイニングテーブルへとやってきた。 料理が並べられるより先に重厚なボトルから、芳醇な香りを放つ赤ワインが二人のグラスへと静かに注がれる。トクトクという控えめな音が耳に心地よく、照明の光を反射した深紅の液体が、薄張りのグラスの中で美しく揺れた。 そして広々としたテーブルの上に、繊細な手仕事で色鮮やかに盛り付けられた料理が手際よく並べられていく。 「お待たせいたしました。本日の前菜は、真鯛と彩り野菜のカルパッチョでございます。柚子とホワイトバルサミコのソースで仕上げております」 穏やかで耳障りの良い声で、流れるように料理の説明をしていく。一通りの説明を終えると、「ごゆっくりどうぞ」と深く一礼し、再びキッチンへと下がっていった。 二人きりになったダイニングで、智哉さんは無言のまま、手元のワイングラスを軽く上に掲げ
それから数時間が経ち、窓の外がすっかり暗くなった頃。玄関のドアを解錠する重たい電子音が響き、私はびくっと肩を揺らした。急いで玄関へと向かうと、そこには少し疲れた表情でネクタイを緩める智哉の姿があった。「おかえりなさい」努めて平坦な声を意識したつもりだったが、少しだけ上ずってしまった。彼はこちらをちらりと一瞥すると、短く応えた。「……あぁ」ジャケットを脱ぎながらリビングへと向かう彼の背中に、私はおずおずと声をかける。「あの、お風呂、もう沸かしているんですけど……先に入られますか?」その言葉に、彼の動きがピタリと止まった。振り返った彼の鋭い視線が、私を真っ直ぐに射抜く。「……お前、何もしなくていいと秘書から言われなかったのか?」呆れたようなその低い声に、私は思わず身を縮めた。「言われました。けど……一日中ここにいて、お風呂の準備くらいなら私にもできると思って……」言い訳がましく言葉を濁す私を見て、彼は何かを探るように目を細めた。彼の手が、頭痛を堪えるように眉間を押さえる。「……まさか、掃除までしたのか」その静かな追及に、私は図星を突かれて気まずく視線を泳がせた。ピカピカに拭き上げられたローテーブルと、整然と片付けられたクッションの存在が、今さらになってひどく目につく。「……リビング、だけ」私が消え入るような声で白状すると、彼は深々と溜息をついた。「……勝手な真似を。それで足を痛ませても知らないからな」「はい」冷たく言い放たれた言葉に、私は短く頷いた。そして彼はネクタイを緩めながら、思い出したように告げる。「あとからシェフがくる」「あ、伺っています。急いで着替えます」私が慌てて自室へ向かおうとすると、彼は怪訝そうに眉をひそめた







