LOGIN「皆様があまりに責め立てるから、ひよりさんのご気分が優れないみたいだわ」
紫苑さんの口から紡がれたその言葉は、蜂蜜のように甘く、そして猛毒のように私の全身を蝕んでいった。「あら、私たち、間違ったことは何一つ言っておりませんのに。正論を言われただけで具合が悪くなるなんて、ずいぶんと繊細でおひ弱ですこと」クスクスという、上品で冷酷な笑い声が私の鼓膜をチクチクと刺す。誰か一人でも、私の言葉に耳を傾けてくれる人はいないのか。助けを求めるように視線を泳がせても、令嬢たちの冷ややかな瞳が一切の逃げ道を塞いでいた。「ええ、本当に。それか……その派手なピンク色のドレスのせいで、ご自身で目がチカチカしてしまったんじゃないかしら?」その容赦のない嘲笑に、周囲から同調の笑いが起こった。私が智哉さんの隣に立つために、少しでもこの場に相応しいものをと、祈るような気持ちで選び抜いたドレスなのに。「何か誤解が生じているようですが……私は間違いなく、指定私が信じられない思いで事の成り行きを見守る中、私を腕の中に抱き寄せた智哉さんは、さらに冷気を帯びた声で佐々木さんを追及し始めた。 「親父に情報を流し、ひよりの感情を揺さぶった。違うか」 智哉さんのその絶対的な威圧感を真っ向から浴びながらも、佐々木さんは決して怯むことはなかった。 「……その通りでございます。今日、私は会長に意図的に『ひより様は何もご存知ない』と密告し、黒崎様の携帯に電話が入るよう誘導いたしました」 「じゃあ、あの絶妙なタイミングの電話も…すべて、佐々木さんがわざと……?」 「ええ。どうしても、ひより様のお気持ちを確かめたかったのです。パーティーを放り出してでも、智哉様を迎えに行ってくださるかどうかを」 私を抱き寄せる彼の腕に、ギリッと骨が鳴るほどの強い力が込められる。 「だからといって、こんな土砂降りの冷たい雨の中に走らせていい理由にはならない。ひよりを、くだらない試しに使ったことだけは許すわけにはいかない」 智哉さんの凄まじい剣幕にも、佐々木さんはただ目を伏せ、深く、美しい所作で頭を下げた。 彼女は最初から、この越権行為が発覚すれば即座にクビになることを覚悟していた。 彼女の声には一片の悔いもなく、ただ達成感と覚悟だけが満ちていた。 「出過ぎた真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。どのような罰でも、お受けする覚悟はできております」 自身の罪を潔く認め、一切の弁明をしない佐々木さんに対し、智哉さんの瞳から僅かな温度すらも消え去った。 彼は冷酷な顔のまま、彼女の解雇を、あるいはそれ以上の報復を宣言しようと薄い唇を開いた。 「なら───────」 彼の口から取り返しのつかない処罰の言葉が発せられようとしたその瞬間、私は咄嗟に彼の胸元から身をねじって抜け出した。 「と、智哉さん!
「智哉さん……?何を、おっしゃっているんですか……?」 智哉さんの口から紡ぎ出されたその言葉の意味が理解できず、私は思わず彼に問い返していた。 「一体何のお話でしょうか」 佐々木さんは、突然の追及に戸惑ったように目を瞬かせ、引きつった愛想笑いを浮かべた。 「答えろ」 佐々木さんの誤魔化しを一切許さない、地を這うような低い声。 当事者ではない私でさえも思わず肩をビクッと跳ねさせて息を呑んだ。智哉さんの纏う空気がさらに一段階冷え込み、周囲の温度が急激に下がったように感じられる。 「私のような一介の家政婦に、少々買い被りすぎかと存じます。何か誤解をなさっているのでは……?」 智哉さんの凄まじい気迫を前にしてもなお、佐々木さんは最後の一線を守ろうと必死に抗っていた。 「……本当に、そのつまらない嘘を突き通す気か? 俺の追及をはぐらかした代償がどういうものか、お前なら理解しているはずだ」 それは、これ以上嘘を重ねるなら、それ相応の容赦のない報いを受けさせるという宣告だった。 佐々木さんの顔からスッと血の気が引き、仮面のような笑みが完全に崩れ去る。 「そこまで断言なさるということは、もう既に何かご存知のようですね」 佐々木さんの態度が豹変したのを目の当たりにし、私は信じられない思いで息を呑んだ。 「佐々木さん…?」 目の前で起きている現実がどうしても信じられず、私は震える声で彼女の名前を呼んだ。 佐々木さんが私を騙していたなんて、嘘だと思いたかった。 佐々木さんは真っ直ぐに私の方を向き、深く、そしてひどく痛ましげに頭を下げた。 「今まで騙していて申し訳ございません。ひより様、私は会長の命でこの屋敷に潜入していた、スパイでございます」
ピカピカに磨き上げられたエントランスの大理石の床に、私たちの足元からポタポタと冷たい雨水が水たまりを作っていく。その異様な惨状をエントランスの奥からいち早く察知した佐々木さんが、血相を変えてバスタオルを抱えながら私たちの元へと駆け寄ってきた。彼女の目は限界まで見開かれ、信じられないものを見るように私たちを交互に見比べている。「ひより様……!? どうしてそのようにずぶ濡れに……篠原様まで、一体何があったのですか!?」私が婦人会へ向かい、智哉さんが別の用事で出かけていたはずなのに、なぜ二人が揃って、しかも泥だらけの姿で帰ってきたのか。私は、心配そうにタオルを広げてくれる佐々木さんに対し、自身の濡れた前髪を指先で少しだけ弄りながら、ふにゃりと緩んだ笑顔を向けてしまった。「ちょっと、雨に降られてしまって」私がまるで水遊びをして怒られた子供のように、恥ずかしさを含みながらもひどく幸せそうに笑ったのを見て、佐々木さんは完全に虚を突かれたように言葉を失った。「お二人ご一緒だったんですか?婦人会は?」佐々木さんの声には、深い戸惑いが滲んでいた。彼女は私がこの日のために、どれほど緊張し、どれほど念入りに準備を重ねてきたかを知っている。東条の人間として恥をかかないように、そして何より、篠原智哉の妻として相応しくあるために、私が必死に社交界の情報を頭に叩き込んでいた姿を一番近くで見てくれていたのだから。「……パーティーには、行かなかったんです」私が一切の未練も後悔も感じさせない、澄み切った声でそう断言したことに、佐々木さんは「えっ」と小さく息を呑んだ。彼女は私の泥だらけのドレスの裾を案じるように見つめながら、恐る恐る、声のトーンを落として尋ねてきた。「行かなかった……? それは一体どういう……。道中で、何かトラブルでもございましたか?」彼女の過剰な心配を解くために、私はすぐさま首を横に振った。「いえ。ただ、パーティーよりも、私にとってずっ
「お前は、本当に…」彼は私から視線を逸らしたまま、これ以上私に何かを言い返す言葉を見つけられない様子で、ただ小さくため息を吐き出す。「だって、智哉さんは何でもかんでも、自分一人だけで抱え込んでしまわれるじゃないですか」私の言葉に、智哉さんの肩が微かに揺れた。篠原グループのトップとして常に完璧を求められ、同時に、亡きお母様と私の父に対する底知れない贖罪の念を、誰にも相談することなくたった一人で背負い続けてきた彼。他人に頼ることを知らず、己をすり減らすことでしか愛情や責任を表現できない彼の不器用さを、私はもう放っておくことができなかった。「俺には、そうするだけの責任と義務がある」低く落ち着いたその声には、彼がこれまで歩んできた過酷な道のりと、上に立つ者としての絶対的な自負が滲んでいた。彼にとって一人で抱え込むことは、単なる意地や強がりではなく、多くの社員とその家族の人生を背負う経営者としての、当然の覚悟なのだろう。「人の上に立つということは、それだけ重い責任を伴うと同時に……きっと、想像もつかないほど孤独なことでもありますよね」誰もが彼を完璧で、冷徹な経営者と称賛し、その結果だけを求める中で、彼が抱える孤独の正体に寄り添おうとする人間は、これまで彼の周囲にはいなかったのかもしれない。私もそう。噂だけを信じて、彼が本当はどんな人間なのか知ろうとしなかった。「誰かが隣に居てくれるだけで、心が救われることだってあるはずです。今度からはもう、一人で悩んだり、抱え込んだりしないでくださいね」私の提案に、智哉さんはしばらくの間、言葉を失ったように私を見つめていた。「……悪いが、その約束はできないな」智哉さんはこれからも、何か大きな問題が起きれば、きっと一人で矢面に立とうとするだろう。私が彼の仕事の重圧を代わってあげることはできないし、彼の過去のトラウマを完全に消し去る魔法も持っていない。けれど、冷たい雨の中で彼に傘を差し掛け、その背中を抱きしめて温める
冷え切っていた私たちの身体を、暖房の心地よい温風が優しく包み込む。 運転席の黒崎さんが、ミラー越しに安堵の表情を浮かべながら、後部座席の私たちにふかふかの乾いたバスタオルを何枚か手渡してくれた。髪からもスーツからもボタボタと雨水をしたたらせているというのに、智哉さんは受け取ったタオルを迷うことなく私の頭からバサリと被せ、自然な手つきで私の濡れた髪を拭き始めた。 彼の大きな手が、タオルの上から私の頭を優しく撫でるように動く。 「と、智哉さん、私のことは大丈夫ですから、まずはご自身の身体と髪を拭いてください」 私は自分の頭を拭いてくれている彼の手をそっと制止した。 「俺のことはいい。お前と違って、俺はこれくらいで風邪なんて引かない」 ひどく真面目な顔で自分は健康だと言い張る彼の言葉に、私は思わず眉根を寄せてしまった。 「なんですか、その根拠のない自信は」 いくら彼が体力に自信があるとはいえ、氷水のような雨に打たれ続けて無事で済む人間などいるはずがない。 「事実だろう。少し目を離せばすぐに怪我をしたり熱を出したりする、手のかかるお前の方を優先するのは当然だ」 確かに、彼に迷惑をかけてばかりなのは事実だ。けれど、だからといって彼が自分自身を犠牲にしていい理由にはならない。 私は強い決意を持って、頭に乗せられていたタオルをガバッと奪い取った。 「私が嫌なんです」 今度は私が彼の濡れた前髪にタオルを押し当て、少し乱暴に彼の髪を拭き始めた。 智哉さんは完全に虚を突かれたように固まってしまった。普段、誰かに世話を焼かれることのない彼にとって、髪をわしゃわしゃと拭かれるという行為は想定外だったのだろう。 数秒遅れて自身の状況を理解した彼は、慌てた様子で私の手首を掴んだ。 「もういい、自
どれくらいの時間が経過しただろうか。周囲を包み込むのは冷たい雨音と、彼から伝わってくる力強い心臓の鼓動だけだった。私の肩に顔を埋めたまま、智哉さんはただ静かに、深く息を吐き出しながら私を抱きしめ続けている。彼はずぶ濡れのままで、これ以上この雨の中に立ち尽くしていたら、本当に倒れてしまう。私は名残惜しさを感じつつも、彼の広い背中を撫でていた手を止め、優しく声をかけた。「智哉さん。そろそろ、車に戻りましょうか」私が耳元でそう囁きかけると、智哉さんの大きな身体がピクリと動いた。けれど、彼は私の腰に回している腕の力をさらに一段階強め、私の首筋にすりすりと額を擦り付けてきた。まるで、まだ動きたくないと駄々をこねる大きな子供のように、彼は声も出さずに小さく首を横に振って見せる。その可愛らしい行動に、心の中でクスッと笑ってしまったけれど、彼の身体の冷え具合は冗談抜きで深刻だ。私は彼の背中をぽんと軽く叩き、もう少しだけ現実的な言葉で彼を諭そうと試みた。「いくらなんでも、ずぶ濡れのままでは限界ですよ。絶対に寒いはずです」私が理詰めで彼の体調を案じても、智哉さんは頑として動こうとしなかった。「このままここにいたら、私まで風邪を引いてしまいますよ……?」その言葉を口にした瞬間、私の腰に巻き付いていた腕が弾かれたようにビクッと解け、智哉さんの身体が私から離れた。勢いよく上げられた彼の顔は水滴で濡れそぼっており、ほんのりと目元が赤く染まっていた。「寒気がするのか」目を大きく見開き、ひどく焦った様子で私を問い詰める彼の姿がおかしくて、そしてどうしようもなく嬉しかった。「いえ。今はまだ大丈夫です」私が笑いながら否定しても、智哉さんの焦りは完全には収まらなかった。彼は眉間に深い皺を寄せたまま、自身の大きく冷たい手のひらを、私の首筋にそっと添えてきた。「……ひどく冷え切っているじゃないか。すまない。お前にまで無理をさせた」
翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてな
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約
今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じ







