LOGIN「り、亮介さんは……大変お忙しい身ですから。私が、お仕事の邪魔になるから無理をなさらないでと申し上げたのです」
紫苑さんは必死に声を裏返しながら、亮介さんがいない理由を弁明し始めた。 「俺が予定より少し遅れてきたことには、散々文句をつけていたようだが。主役の婚約者がこの場に一切姿を見せていないことの方が、よほど問題では?」 智哉さんは紫苑さんから視線を外し、先ほどまで扇子越しに私を嘲笑っていた純白のご令嬢たちへと、氷のような眼差しを向けた。 「それについて、君たちは彼女に何も言わないらしい」 その言葉に込められた痛烈な皮肉と静かな怒りに、名指しされた令嬢たちはビクッと肩を震わせ、一斉に顔を伏せた。 「このボロボロのドレスと散乱した荷物の有様を見る限り、君たちは集団で寄ってたかって、俺の婚約者を吊るし上げていたようだな」 その言葉に、彼女たちの顔を真っ青に染め上げていった。自「奥様…?」 窓の外の景色をぼんやりと見つめていた私は、ふいに鼓膜を揺らした穏やかな声にハッと肩を跳ねさせた。 彼女は湯気の立つティーセットを重厚なテーブルに置きながら、私をじっと見つめていた。 「あ、はい…っ」 声の主は、数日前にこの邸宅へやってきた家政婦の佐々木さん。 私よりもいくつか年下で、いつも元気いっぱいの彼女が、今は心配そうに小首を傾げてこちらを覗き込んでいる。 「どうかなさいましたか……?」 「いえ、少し考え事をしていて」 明日のレセプションパーティーのこと。あの恐ろしい戦場を前に、準備に追われているうちにあっという間に時間が過ぎてしまった。 プレッシャーで押し潰されそうになる胸を、温かいティーカップの熱で必死に落ち着かせる。 「そうですか。ご気分が悪いわけじゃないなら良かったです」 彼女の裏表のない子犬のような笑顔に、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。 「それより、佐々木さんはこちらでの生活には慣れましたか?」 私が突然話を振ると、彼女は少しだけ意外そうな顔をして瞬きをした。 少しの間の後、彼女は手元のトレイを胸の前でしっかりと抱え直し、恭しく頭を下げてから、ゆっくりと口を開いた。 「まだ数日しか経っていないのでなんとも言えませんが…控えめに言って、ここは天国だと思います!」 予想外の少し大袈裟な表現に、私は思わず目を丸くした。 智哉さんは仕事に厳しく、この広大な邸宅の管理も決して楽な仕事ではないはず。それなのに天国とまで言い切る彼女の言葉の真意が読めず、私は首を傾げる。 「天国……ですか?」 私が不思議そうに問い返すと、佐々木さんはどこか夢見るような笑みを口元に浮かべた。
邸宅に到着し、美しくライトアップされた広大な庭園をエントランスに向かって歩いていた時だった。私はギュッと握りしめていた小さな紙袋の感触に勇気をもらい、前を歩く彼の広い背中へと思いきって声をかけた。「あの、智哉さん。少しだけいいですか……?」立ち止まった智哉さんが、ゆっくりとこちらを振り返る。その整った顔に浮かぶのは、いつもの読み取れない無表情。けれど、私がひどく緊張しているのを察したのか、威圧感を消すようにわずかに目元を和らげてくれた。「……どうした」私は早鐘を打つ心臓を押さえながら、背中に隠していた小さな紙袋をそっと差し出した。彼が私のために用意してくれた数々の贈り物に比べれば、ささやかすぎるものだ。それでも、どうしても渡したかった。「これ…もし良かったら、受け取ってください」智哉さんは少し驚いたように目を瞬かせると、私の目と、差し出された箱を交互に見つめた。そして手を伸ばし、そっとそれを受け取ってくれた。「……なんだ、これは」片手で器用に包装を解き、小さな箱を開ける。ベルベットのクッションの上に鎮座しているのは、一切の無駄を省いたシンプルなシルバーのネクタイピン。その裏側には、私が密かにお願いしたピンクサファイアが埋め込まれている。「先ほどのスーツにも、普段のお仕事着にも合わせやすいデザインかと思って……。もし、お気に召さなかったら、遠慮なく捨てていただいて構わ─────」自信のなさから、つい早口で自虐的な言葉を並べてしまう。けれど、智哉さんは私の言葉を遮るようにふっと息を吐くと、箱からネクタイピンを取り出し、今身につけている自身のネクタイへと一切の躊躇なくスッと滑り込ませた。「……どうだ」庭園の柔らかな照明を反射して、ネクタイピンが上品な光を放つ。智哉さんは自身の胸元を軽く整えながら、私の評価を待つように真っ直ぐに見下ろしてきた。その思いがけない即座の行動に、私
「まるで、俺から甘い言葉を言ってほしいみたいに聞こえるな」智哉さんの低く掠れた声音が、閉ざされたエレベーターの空気を熱く震わせる。その言葉の奥底に孕んだ独占欲と、男としての剥き出しの迫力に、私は喉の奥まで詰まったような感覚を覚えた。「なっ……! ち、ちがいます、そんなつもりじゃありません!」私は顔を真っ赤に染め上げて必死に否定の声を上げた。逃げ場のない体勢のまま、トントンと彼の胸を軽く押して距離をとろうとするが、びくともしなかった。「……冗談だ。そんなに慌てるな」からかうような低い声とともに、智哉さんはわずかに口元を緩め、からかいを含んだ呆れたような笑みを浮かべた。その余裕のある態度に、私は自分のペースを完全に乱されていることに気づき、悔しさと恥ずかしさでさらに身を縮こまらせる。私は動揺を隠すように顔をそむけ、小さく息を吐き出しながら、なんとか声を絞り出した。「と、とりあえず…もう離れてください……」彼の瞳から先ほどの冗談めいた色が消え、代わりに底知れぬ真剣な光が宿る。壁に添えられていた彼の大きな手がわずかに動き、私の逃げ場を完全に塞いだまま、彼は逃げられない重みを持った声で私をまっすぐに見据えた。「だが、お前を庇ったのも、守りたいと思ったのも、すべて俺の意志だ」その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が激しく波立った。演技だと思い込もうとしていた彼の優しさが、すべて彼の本心だと言われてしまったら、私の理性が保てなくなってしまう。私は潤んだ瞳で彼を見上げ、震える声をどうにか抑え込みながら、必死に現実へと引き戻そうとした。「そん、なわけ……だって私たちは、ただの契約──────」私の掠れた抗議の声を遮るように、智哉さんは微かに眉をひそめ、不機嫌そうな低い唸り声を漏らした。「そんな言葉で片付けようとするな」その真剣すぎる声音に、私は息を呑んで言葉を失った。まるで本当に私を愛してい
無機質な金属の扉が閉まり、VIP専用の豪奢なエレベーターの中は、私と智哉さんの二人きりの密室となった。外界の喧騒から完全に遮断された静寂の中、かすかなモーター音だけが響く。私は背中に隠し持った小さな紙袋をギュッと握りしめ、彼の広い背中を恐る恐る見上げた。先ほどの私の振る舞いが、出過ぎた真似だったのではないかと不安でたまらなくなった。「あの……もしかして、さっきの会話、聞いてましたか……?」私が恐る恐る問いかけると、智哉さんはゆっくりとこちらを振り返った。その表情はいつものように冷徹で読み取れないが、隠し事など一切通用しない漆黒の瞳が私を捉える。「……あぁ。途中からな」彼の短く肯定する言葉に、私は心臓が跳ね上がる。でしゃばった真似をして彼の顔に泥を塗ってしまったかもしれないと、慌てて頭を下げた。「す、すみません……っ!勝手に偉そうなことを言ってしまって」私の謝罪を遮るように、微かなため息が頭上から降ってきた。怒られる、と身をすくめた次の瞬間。私の頭に、大きくて温かい手のひらがそっと乗せられた。そして、まるで壊れ物を扱うかのように、私の髪をゆっくりと優しく撫で始めた。その不器用で甘い手つきに、私は驚いて息を呑んだ。「怒っているわけじゃない。……よくやった」普段の彼からは想像もつかないほど、穏やかな声。「え……?」呆然と顔を上げた私と、至近距離で視線が絡み合う。「篠原の妻として、一歩も引かずに完璧な振る舞いだったと褒めているんだ」それは私にとって最高の褒め言葉であるはずなのに、同時に、これはあくまで契約上の役割に対する評価なのだという現実を突きつけられた気がした。彼の優しさは、私が完璧な防壁として機能したことへの報酬でしかないのだと。そう思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。「……もうここには誰もいませんから、優しくする必要なんてないんですよ」これ以上彼の甘い
「侮辱していないと…?」 「はい…っ!」 あんなことを言っておきながら、よく平気で嘘をつけるものだ。 素直に謝ってくれれば、少しは許せるのに。 「地味で冴えない女が篠原家の奥様だなんて、恥ずかしい。…あぁ、それから、智哉さんが調子に乗っているとも言っていましたね。愛人を囲っているとも」 「それは、なにかの聞き間違えで…」 これ以上、この人の自己保身のための見苦しい嘘を聞いてあげる義理はない。 「言い訳なら結構です」 私の真っ直ぐな言葉に、彼女は完全に返す言葉を失い、「私はただ…っ」と情けない声を漏らして顔を蒼白にした。「私は、あなたみたいな方に認められる人間にはなりたくありません」表面的な価値や地位だけで人を値踏みし、陰で嘲笑う。そんな薄っぺらい世界で生きる彼女に評価されたいなどとは微塵も思わない。毅然と突き放した私の言葉に、彼女の瞳が大きく見開かれた。「奥様……っ」すがりつくような哀れな声が廊下に落ちる。けれど、彼女に情けをかける気はなかった。 「あなたが裏でどう思っていようと、彼が私を選んでくれた事実も、彼の本当の価値も、決して揺らぐことはありませんから」左手の薬指で光るプラチナリングの重みを確かめるように手をギュッと握り込み、震える彼女の目を真っ直ぐに見据えて、力強く宣言した。「おね、お願いです……っ。このことは、どうか……!」彼女が言わんとしていることは明白だった。智哉さんや責任者に報告されては、自分のキャリアが終わってしまう。なりふり構わず保身のためにすがりついてくる哀れな姿を見下ろし、私は静かに息を吐いた。「彼に報告するつもりはありません」私のその穏やかな言葉を聞いた瞬間、彼女の引き攣った顔にパッと安堵の色が広がり、最悪の事態を免れたとばかりに深く頭を下げよ
後輩たちを前にして、ズタズタにされたプライドを取り繕うとしているのだろう。 「慣れてるじゃない…」 誰かに陰口を叩かれることなんて、慣れてるんだから。 聞かなかったことにしよう。 私はギュッと目を閉じた。 私がここで腹を立てて騒ぎを起こせば、それこそ「篠原の妻は品がない」と笑われるだけだ。 けれど…私は膝の上の手を強く握りしめた。 私が笑われるのはいい。でも、私がここで黙って引き下がれば、智哉さんの悪評へと直結してしまう。 一言だけ。私を馬鹿にするのは勝手だけれど、智哉さんの妻としての立場は弁えていると、それだけは伝えてこよう。 意を決して立ち上がり、カーテンの方へ一歩足を踏み出した、その瞬間だった。 「大体、篠原様も篠原様よ。若くしてトップに立ったからって調子に乗ってるんじゃないかしら? 」 ピタリと、私の足が止まった。 「あんな価値の分からない小娘を溺愛するフリをして…どうせ裏では、モデルか女優の愛人でも囲ってるに決まってるわ。あんなの、すぐボロが出て社交界の笑い者になるわよ」 頭の中で、何かがプツンと音を立てて切れる。 私を馬鹿にされるのは耐えられた。でも、不器用ながらも必死に私を守り、私のために優しい言葉をかけてくれた彼を。誰よりも真摯に篠原グループという重圧と戦っている智哉さんを、何も知らない他人が侮辱することだけは、絶対に許せなかった。 気がついた時には、私は従業員室を仕切る分厚いカーテンを、力任せに勢いよくめくり上げていた。 「…っ!?」 急に開かれたカーテンとそこに立つ私の姿に、ベテラン店員と、彼女を宥めていた数人の店員たちがヒッと息を呑んで硬直した。 私は自分でも驚くほど冷たく、怒りを湛えた声で、怯えるベテラン店員を真っ
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
この日が、とうとう訪れてしまった。私はパーティー会場の端で、ワインを片手に静かに佇んでいた。煌びやかなシャンデリアの光が眩しく、笑い声とグラスの音が絶え間なく響く中、心だけが冷たく孤立している。扉が開いた瞬間、亮介が園田家の令嬢を伴って登場する。その姿はまるで見せつけるための演出のようで、私の胸を鋭く抉った。周囲から「お似合いだわ」という声が漏れ聞こえ、華やかな祝福の空気が広がる。この場にいること自体が罰なのだと、痛感せずにはいられなかった。「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。皆さまに改めてご報告申し上げます。私どもはこのたび、婚約いたしました」その言葉が響い
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約
「どうして私が…それより、どうして私の名前────」 言葉を最後まで続けることはできなかった。 胸の奥から湧き上がる疑問と恐怖を、声にしようとした瞬間、彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。 近すぎる距離に心臓が跳ねる。抗う間もなく、彼の唇が私に重なった。 問いかけは宙に消え、答えを知る前に沈黙が支配する。 彼は唇を離すと、ただ静かに微笑んだ。その笑みは優しさとも冷たさとも取れる曖昧なものだった。 「何をしている……







