เข้าสู่ระบบ「り、亮介さんは……大変お忙しい身ですから。私が、お仕事の邪魔になるから無理をなさらないでと申し上げたのです」
紫苑さんは必死に声を裏返しながら、亮介さんがいない理由を弁明し始めた。 「俺が予定より少し遅れてきたことには、散々文句をつけていたようだが。主役の婚約者がこの場に一切姿を見せていないことの方が、よほど問題では?」 智哉さんは紫苑さんから視線を外し、先ほどまで扇子越しに私を嘲笑っていた純白のご令嬢たちへと、氷のような眼差しを向けた。 「それについて、君たちは彼女に何も言わないらしい」 その言葉に込められた痛烈な皮肉と静かな怒りに、名指しされた令嬢たちはビクッと肩を震わせ、一斉に顔を伏せた。 「このボロボロのドレスと散乱した荷物の有様を見る限り、君たちは集団で寄ってたかって、俺の婚約者を吊るし上げていたようだな」 その言葉に、彼女たちの顔を真っ青に染め上げていった。自彼に腕を引かれるまま通りを歩くことおよそ五分。大通りから一本路地に入った閑静なエリアに、その店はひっそりと佇んでいた。全面ガラス張りの洗練された外観には、ロゴすら控えめにしか印字されておらず、一見すると何のお店なのか分からない。けれど、ショーウィンドウに飾られたたった一体のマネキンが纏うドレスの質感と、重厚感のあるエントランスから漂う只者ではない雰囲気から、私のような庶民が決して足を踏み入れてはいけない超高級ブティックであることは明らかだった。彼が扉を開けると、ほのかに甘く上品な香りが鼻腔をくすぐる。奥から現れた黒いスーツ姿の女性店員が、完璧な所作で深く一礼し、にこやかに口を開いた。「朝倉様、本日はご来店いただき誠にありがとうございます」高級店のスタッフが、彼を一目見ただけで名前を呼び、敬意を払う。それだけで、彼が華やかな業界に身を置き、こんな場所で日常的に買い物をするような雲の上の存在なのだということが分かる。「この子に似合う服を全身見繕ってあげてくれる?」ただでさえ一着数万円、いや数十万円は下らないであろうこの空間の服を、全身コーディネートで買う気なのだろうか。ただのコーヒーのシミ一つに対する詫びとしては、あまりにも釣り合わない異常なスケールだ。「かしこまりました。お連れ様にぴったりのお品を、ご提案させていただきます」そう言うと、私の顔立ちや体型を鑑定するようなプロの目で瞬時に観察する。「あ、あのっ、やっぱり私、お気持ちだけで十分です」私が踵を返して出口へ逃げ出そうとした瞬間、長い腕をスッと伸ばし、私の目の前に立ち塞がった。「ここまで来たのに、そのまま帰るなんて駄目だよ」これ以上私が拒絶を続ければ、逆に彼を意固地にさせ、この空間の空気を悪くするだけだということが嫌でも理解できた。私が肩を落とし、完全に抵抗する気力を失って立ち尽くしていると、先ほどの女性店員が私に微笑みを向けてきた。「さあ、どうぞこちらへ」私は観念して小さく
これほどまでに華やかで整った容姿を持ち、洗練されたオーラを纏っているのだから、俳優やモデル、若手起業家とか…世間に顔の知られた有名な人物であることは想像に難くない。それなのに、彼が誰なのか全く見当がつかない。相手が誰であれ、自分が知られていて当然という環境にいる人に対して、ぽかんと間抜けな顔を晒してしまったのは失礼極まりない。 私は慌てて頭を下げた。 「す、すみません……! 私、本当に世間知らずで……有名人の方だなんて全く知らなくて」 私の必死の謝罪に対しても、彼は気を悪くするどころか、どこか面白がるように肩をすくめた。 「有名人……まぁ、あの業界ではある意味有名人、かな」 「あ、じゃあその記事を見たということは…」 母が亮介の会社でアルバイトをしていると、面白おかしく書かれていたあの記事を…。 不安で押し潰されそうになっている私の様子を見て、彼はサングラスの奥の目を少しだけ細め、何かを察してくれたようだった。 「まぁ、ただの噂をそれっぽく書き立ててるだけの記事なんで、そんなに気に病む必要ないですよ」 彼がどこまで記事の詳しい内容を覚えているのかは分からないけれど、少なくとも目の前にいる彼自身は、そのゴシップを鵜呑みにして私を蔑むような人間ではないということが伝わってきて、少しだけ胸のつかえが下りた。 彼の言う通り、世間は面白おかしく脚色されたストーリーを好むし、週刊誌やゴシップ誌に書かれていることが全て真実であるわけがない。 とはいえ、たとえ嘘や憶測であったとしても、文字として活字になり、多くの人の目に晒されることの暴力性は計り知れない。智哉さんの完璧な経歴に、私という存在が泥を塗り続けている事実に変わりはないのだから。 「そう……ですよね。ありがとうございます」 私がか細い声で答えると、彼はふと視線を落とし、微かに自嘲するような笑みを口元に浮かべた。その瞬間、彼の周囲に漂っていた華やかで軽快なオーラが、急に薄暗く重たいものに変わったように見えた。 「ああいう人達
家から歩いて二十分ほどの距離に、そのカフェはあった。 アンティーク調のレンガ造りの外観は、スマホの小さな画面で見た以上に魅力的で、どこか隠れ家のような落ち着いた雰囲気を漂わせている。 重厚な木製のドアを押し開けて中に入ると、カランと控えめなベルの音が鳴り、同時に焙煎されたばかりのコーヒーの芳醇な香りがふわりと鼻先をかすめた。 店内は数人の客がまばらに座っているだけで、静かでゆったりとした時間が流れていた。 偵察のつもりで来たけれど、この空間なら少し羽を伸ばせそうだ。私はホッと息をつき、注文をするためにレジカウンターへと歩み寄った。 その時だった。 死角になっていた通路の角から、不意に大きな影が飛び出してきて。 「あっ……」 目の前に現れた背の高い男性と正面から思いきりぶつかってしまい、私は数歩よろめいた。 彼の手にはテイクアウト用の紙コップが握られており、衝突の反動で中に入っていたコーヒーが波打つように宙を舞った。 そして、茶色い液体が私の着ていたカーディガンの袖口からスカートの裾にかけて、バシャリと容赦なく降り注ぐ。 「うわっ、やば。すみません!」 ぶつかった相手の男性は、ひどく焦ったような声を上げて慌ててポケットを探り始めた。茶色く染まった私の袖とスカートを見て、完全にパニックに陥っているようだ。 彼が引っ張り出してきたのは、上質な素材の清潔なハンカチ。 彼はそれを無造作に広げると、私の服についたコーヒーの染みをどうにか吸い取ろうと、急いで手を伸ばしてくる。けれど、見ず知らずの若い男性に服を拭かれるのはさすがに抵抗があった。 私は彼の親切心を無下にするようで申し訳ないと思いつつも、咄嗟に一歩後ろへ下がり彼の手を避けた。 「あ、いえ……大丈夫です。お気になさらないでください」
冷たく閉ざされた扉と、彼の言葉が頭を巡って、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまった。 静まり返ったリビングのソファに、深く体を沈める。 智哉さんは朝早くに家を出ていった。足音が聞こえた時、顔を合わせる勇気が出なくて、思わずベッドの中でたぬき寝入りをしてやり過ごしてしまった。 「あんな簡単に吐き捨てられ……」 無意識にこぼれた言葉に、私は慌てて首を振った。 違う。あの大雨の夜、自分の劣等感から先に「向いていない」と逃げの言葉を口にしたのは、私の方だ。 売り言葉に買い言葉のようになってしまったけれど、まだ正式な書面を交わして契約を破棄したわけじゃないし。どのタイミングで荷物をまとめて出て行けばいいのかも分からなかった。 「……あ、そうだ」落ち込んでいる場合じゃない、昨日の夜、必死にバイトを探してたんだった。 もし本当に契約破棄になったら、智哉さんに肩代わりしてもらっている母の莫大な借金を返していかなきゃいけない。お母さんが亮介のところでバイトしていたとはいえ、とてもじゃないけどそれだけで到底返せるような額じゃない。それに、智哉さんと契約してたから、お母さんが亮介のところで働くのは辞めさせてしまったし。つまり、私がなんとかするしかない。 ベッドの中でその事実に気づいた途端、すっと血の気が引き、暗闇の中で急いで求人情報を漁った。 そこで見つけたのが、隣町にあるカフェの募集だった。 時給もなかなかいいし、お店の雰囲気も良さそうで。 今の私は、「婚約者の振り」をする役割すら失いかけた無職だ。冷静に考えれば、無職のまま莫大な借金を抱えて放り出されるなんて、絶望的すぎる。 けれど、すぐに「応募」のボタンを押すことはできなかった。 もし契約破棄をせずに婚約者の振りを続けることになった場合、無断でアルバイトなど始めれば「篠原家の体面に傷がつく」と彼をさらに怒らせてしまうかもしれないから。 とにかく、正式に
智哉さんは何も言わず、少し乱れた前髪の奥から私をじっと見下ろしている。怒鳴られるわけでも、冷たく突き放されるわけでもない。ただ、対処の難しい問題に直面して沈黙しているような、そんな静かな時間が流れた。あの大雨の夜、車の中で私が口走ってしまった言葉を、彼はどう受け止め、どう処理しようとしていたのか。やがて智哉さんは、小さく、自嘲するような乾いた息を吐き出した。「……契約破棄をすると言っていた人間が、俺のことを知りたいと?」彼の言う通り、自分から向いていないと突き放しておきながら、今になって相手の気持ちを探ろうとするなんて、あまりにも身勝手で矛盾している。「その事についても、話しをさせてください」私が落ち着いた声でそう返すと、彼は私の言葉を真っ向から受け止めるのを避けるように、小さく首を振る。「今日は疲れ……」「疲れていても、大事な話なので時間を作ってください」私は彼の言葉を遮ったことに微かな罪悪感を覚えながらも、できるだけ静かに、けれど引き下がるつもりはないという意思を込めて言葉を紡いだ。じゃないと明日も明後日も、同じように仕事という理由で避けられ続けるだろうから。「……そんなに」普段の彼からは想像できないほど、張りのない静かな声だった。「え?」私の小さな声に、智哉さんは一度だけゆっくりと瞬きをした。「そんなに俺との契約を破棄したいのか」私が深夜まで起きて彼を待ち伏せし、「大事な話がある」と引き留めたのは、彼との契約を正式に白紙に戻すためだと。彼は本気でそう思っているらしい。それを悟り、私は慌てて否定の言葉を口にした。「いえ、そういうわけでは……」 私が言葉を濁しながら否定すると、智哉さんはもう私の目を見ようとはしなかった。「したいのなら勝手にしろ」その言葉を残し、智哉さんは私の横を通り抜けていった。彼が自室のドアノブに手をかけ、
あの大雨の夜、車の中で「話の続きは家に帰ってからだ」と言われたはずだった。それなのに、到着するなり智哉さんは足早に自室へと入り、そのまま鍵を下ろしてしまった。あの強引な保留から今日で五日が過ぎた。話し合いの場が設けられるどころか、私たちは同じ屋根の下に住んでいながら一度も顔を合わせていない。私が「何時に帰りますか?」とメッセージを送っても、返ってくるのは決まって「飯はいらない。先に寝ていろ」という冷たい定型文だけだ。「避けられてる…?」そう考えるのが自然な状況。だけど、私はハッとして首を振る。いけない、また一人で勝手に勘違いをして、彼の気持ちを決めつけようとしている。前回の紫苑さんの件で学んだはずだ。だから今日こそは、逃げずにちゃんと顔を見て話し合うんだ。…なんて思っていたけど、時計の針はとっくに深夜の二時を回っていた。重たいまぶたを必死に擦りながら、徹夜をしてでも彼を捕まえると心に決めていたその時。静まり返った屋敷の玄関で、重厚な扉の鍵がガチャリと開く音が響いた。私はソファから立ち上がり、急いでリビングの扉を開けて廊下へと飛び出した。「おかえりなさい」深夜に出迎えられるとは思っていなかったのか、革靴を脱ごうとしていた智哉さんの広い背中がビクッと大きく揺れる。私と目が合った瞬間、彼の表情からスッと感情が抜け落ち、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように気まずそうに視線を逸らした。重い沈黙が降りた後、彼は気怠げにネクタイに手をかけながら、低く掠れた声でぽつりと呟いた。「……まだ起きていたのか」この五日間、彼からの連絡を待ちわびて、どれだけ不安な夜を一人で過ごしてきたか。あの夜、私が言いかけた「契約破棄」の言葉を有耶無耶にしようと、意図的に時間を稼いでいるようにしか思えない彼の不誠実な態度に、私の中で燻っていた悲しみが徐々に静かな怒りへと変わっていくのを感じた。「まるで、寝ていて欲しかったような言い方ですね」







