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02

Author: さぶれ
last update Last Updated: 2025-08-06 08:16:48

 夜――。

 残業の空気が、部の中を重く満たしていた。

 今日はどうにも集中できなかった。

 資料整理に追われていたが、何度見直しても数字が頭に入ってこない。

 ミスをしたせいもあるし、なにより――離婚した翌日に、通常運転で仕事をしている自分にも、やりきれなさを感じていた。

(いつもみたいに処理できない……)

 他人には言えない。言いたくもない。

 でも、心の中だけでは何度も繰り返してしまう。

「離婚したんだよ、私……」

 目の奥がじんわりと重たくなった頃、ようやく最低限の仕事を終えた。

(お疲れ様、私。今日はよく頑張った)

 誰も褒めてくれないので、自分で自分を褒めると言う虚しい行為をしながらロッカー室へ向かう。

 あとは荷物をまとめて帰るだけ。そして、最低最悪な今日という日を終わらせよう。そう思っていたのに――

「中原」

 背後から呼び止められた名前に、びくりと肩が跳ねた。

 振り返ると、そこに立っていたのは御門本部長だった。

「……はい?」

 緊張で背筋が伸びる。やだよやだよ、今さら追加残業なんて~っ!

「5分、時間をくれ。休憩室で話そう」

 淡々とした口調でそう言い残し、彼は何の説明もなく歩き去った。

(え……マジなの?)

 御門本部長が、私に直接“休憩室”を指定するなんて。

 怖い。絶対怖い。もしや、なにかの通告?

 今日ミスしたし、怒られる? もしかして解雇? いや、それは困る!!

「……今日はこのまま帰りたかったのに……」

 小声でぼやきながら、私は肩を落として休憩室へと足を向けた。

 これも残業代に入れてほしい。――なんて。切実すぎる…。

 終業後の休憩室は、空気がひんやりしていた。

 窓の外ではオフィスビル群の灯りがちらちらと瞬いていて、その景色がなんだか他人事のように見えた。

(誰もいない……当然か)

 薄暗い照明の中、私は深くため息をつく。仕事を辞めてくれと言われた時のシミュレーションが頭によぎる。

 離婚したばかり。

 元ダンナの残した借金のせいで貯金ゼロ。

 もし今、仕事まで失ったら――どうやって生きていけばいいの、と泣き落とし――これしかない!

 扉が開く音がして、御門が入ってきた。呼び出しておいて私より後から来るなんて、と文句のひとつもぶつけてやりたい。

「来ました……お話って、なんでしょうか?」

 彼は無言のまま、椅子に座り、私を見つめた。

「まどろっこしいのは嫌いだから、単刀直入に言う」

「あ、はい」

 身構えた。今日でお前はクビだ、と唇が動くのかと思いきや――

「俺と、結婚してくれ」

「……は?」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

 なにかの冗談? それとも別の“結婚”の話?

 私の脳が固まっている中、御門本部長は平然と続けた。

「結婚といっても契約だ。形式だけの関係だから」

(え? なに言ってるのこの人……)

「……っ、すみません、本気で言ってます?」

「本気だ」

 真顔。無表情。

 いかにも“御門蓮司”という顔で、彼はそれを口にした。

「なぜ、私なのですか? 本部長もご存じだと思いますが、私、今日、離婚が成立したばかりなんですけど……」

「わかってる。だから頼んでいるんだ」

「え、どういう意味ですか……?」

 離婚したての女性に契約婚持ち掛けるなんて、どうかしてるよ!

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  • 捨てられ妻となったので『偽装結婚』始めましたが、なぜか契約夫に溺愛されています!   01

    ――離婚届って、こんなに軽いんだっけ。 ペラリとした一枚の紙。緑色の淵で彩られた用紙を、私は区役所の窓口に差し出した。  記入漏れも修正印もない。事前に全てチェック済のものだから、問題は無いと思う。 ふたりで出さないといけないのかと思いきや、夫――いや、正確には【元】夫は欠席だった。定職も就いていないくせに、最後の最後まで逃げて終わった。私の前に姿を見せることなく、予めサインだけ済ませた書類を郵送してきたのだ。あいつは浮気しただけじゃなく、借金までして貯金を食いつぶし、挙句、愛人を妊娠させて私の前からドロン(逃げた)した。「……これで、終わり、か」 無意識に漏れた声が書類を受け取った窓口の職員に聞こえたらしく、軽く頷かれた。「お疲れさまでした」 まるで区役所を出るときの「よい一日を」くらいのテンションで言われ、私は無言でその場を後にした。 これで、私、山川ひかり(30)――は、旧姓の中原ひかりに逆戻りし、おひとりさまとなった。 たった2年の結婚生活にピリオドが打たれた。 東京の空は晴れている。見上げると憎らしいくらい青かった。だけど胸の内はどんよりと曇っていた。 ※「おい、資料はもう送ったのか?」 声が飛んできたのは、社内で“氷の上司”と噂される本部長――御門蓮司(みかどれんじ)・御年35歳のデスクからだった。 シゴデキ、ルックス良し、愛想ナシの行き遅れ男。仕事は早く無駄が一切ない。この人のプライベートに関わる女性は、さぞ完璧を求められて大変だと察するに余る。 私は椅子から立ち上がり、資料の束を胸に抱えて歩み寄る。「はい。クライアントには先ほどメールで……」 言い終える前に、彼の視線が私のミスを見つける。彼は一瞥するだけで、間違いを指摘してきた。「この数値、前回の資料とズレてる。確認したのか?」「あ……すみません。修正して再送します」「“すみません”で済むなら営業は要らない。次はないと思え」 怒鳴らないが痛いところを静かに突く。淡々と、鋭く、冷たい。でもそれが彼のいつものスタイル。 そして部下にとって、なによりも厳しいのは――期待されていない事実だった。 御門本部長に褒められる部下を、私は見たことがない。 むしろ、彼の信頼を勝ち取った人間がいるのかすら謎だ。 私は静かに席に戻り、震える指で修正作業に取りかかった。

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