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last update Tanggal publikasi: 2026-06-13 18:28:50

 翌日の午前10時。春菜は都心から電車で数駅離れた、下町の商店街を歩いていた。

 駅前のロータリーを抜けると道幅が狭くなり、個人経営の八百屋や精肉店が並んでいる。

 アスファルトは舗装のひび割れて、その上を自転車がベルを鳴らしながら通り過ぎていく。

 九条不動産のような巨大資本が入り込む隙間のない、昔ながらの生活の場だ。

 ぐぅぅ、と春菜のお腹が遠慮のない音を立てた。

 一昨日の昼のまかないから、口にしたのはおにぎり1個とネットカフェのコーンスープだけだ。夕食も朝食も抜いている。

(エネルギー不足で頭の回転が落ちてきたわ。でも、お金は節約しないと)

 空腹で足元がふらついた。

 春菜は意識を逸らすため、両側の店に注意を向けた。

 ショーウィンドウには、庶民的な惣菜が並んでいる。

 魚屋の店先に並ぶアジの目のは、思いの外輝いていた。

(キャビアやトリュフなんて高級食材がなくても、料理の本質は変わらない。温度の緻密な管理と、塩分濃度の正確な計算。食

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  • 捨てられ料理人は諦めない   91

    「大衆的な洋食店に合うよう、外装と内装を急ピッチで手配した。中を見てくれ」 礼司が鍵を開けて中に入る。  客席は温かみのあるオレンジ色のペンダントライトが吊るされて、木目を活かしたテーブルがゆったりと配置されていた。 春菜はテーブルに手を置いてみた。  木の温もりが感じられる、質の良い木材が使われている。(私が思い描いていた通りの、誰もが気軽に入れるお店だ)「奥が厨房だ」 礼司の後に続き、ホールの奥へ進む。  スイングドアを押し開けると、そこは客席の温かな雰囲気とは打って変わり、ステンレスが銀色に光る空間が広がっていた。「すごい……」 春菜は思わず感嘆の声を漏らした。 ピカピカに磨き上げられたステンレスの調理台が鎮座している。  壁面には最新型のスチームコンベクションオーブンが2台並んで、その横には大型の真空包装機が設置されている。  食材を保管する業務用冷蔵庫には、デジタルで温度がミリ単位で表示されていた。「客席は大衆的だが、厨房の機能は一流店以上のものを揃えた。動線も君の身長と歩幅に合わせて設計し直してある」 春菜は調理台の前に立ってみた。  右手を伸ばせばコンロの火力調整ダイヤルに届き、振り返ればすぐに冷蔵庫の取っ手がある。(無駄な動きが一切必要ない。ここでなら、自分のベストのパフォーマンスが出せる) 深い満足感と興奮が、足元から湧き上がってくるのを感じた。「こっちへ来てくれ」 礼司は厨房の壁面に埋め込まれた、薄型の大型タブレット端末の前に春菜を呼んだ。「これが、我が社が開発したAI店舗管理システムだ」 画面には、カレンダー、天気予報、さらにはグラフが表示されている。「AIが過去のデータ、本日の天候、近隣のイベント情報を分析し、来店予測客数を算出する」 画面をタップすると、数字が瞬時に切り替わった。「例えば今日は晴れで、近隣の公園でフリーマーケットがある。ファミリー層の来店が増えると予

  • 捨てられ料理人は諦めない   90

     それから数日後。 春菜はビストロ『シエル』の仕事を退職して、新しいスタートを切っていた。  真壁は別れを惜しんでくれて、感謝と激励の気持ちを伝えてくれた。『春菜さんほどの料理の腕と経営のセンスがあれば、どこへ行っても大丈夫。ましてや御堂ホールディングスという大企業がスポンサーなんだ。大成功間違いなしだよ。お店がオープンしたら、僕も食べに行かせてくれ』『ええ、もちろんです。正式にオープンしたら、ご招待しますよ』『それは嬉しいな。僕も負けていられないね。デリの販売とディナー営業、どちらも頑張るよ』 別れ際の言葉は、今でも春菜の耳と心に残っている。 シエルで彼女は、小さいお店ならではの経営と仕込みを学んだ。  客席が少ないとは言え、オーナーシェフ1人で店を回すためには効率的に動かなければならない。 限られた予算で納得できる食材を見つけ出し、妥協せずに料理の腕を振るう。  また、接客もオーナーシェフの仕事だ。  少ない客席だからこそ客との距離が近く、人間同士の付き合いができる。 真壁はただ料理を提供するシェフではなく、店主として心から客をもてなしていた。  かつて春菜が働いていたレストラン『一ノ瀬』では、行われていなかったことだ。(みやこ食堂も、赤狸も、シエルも。どれも素敵なお店だった。たくさん教えてもらったわ) これまでの経験を思い出すと、心が温かくなる。 そして今、春菜が地下鉄の駅から地上に出ると、夏の風が頬を撫でた。 駅から徒歩10分程度。  高層ビルが立ち並ぶオフィス街と、生活感のある住宅街のちょうど境界線。  アーケードが続く商店街の入り口に、春菜は立っていた。「へいらっしゃい! 今日のトマトは甘いよ!」 八百屋の店主が威勢のいい声を張り上げている。「お肉屋さんのコロッケ、2つちょうだい」「はいよ、揚げたてだから気をつけてね」 買い物袋を提げた主婦と肉屋の店主が、笑顔でやり取りをしている。  周

  • 捨てられ料理人は諦めない   89

     佐伯春菜。その名前にギクリとしながら、梨沙は拾い上げた書類に目を落とした。 見覚えのある書類の債務者は、確かに『佐伯春菜』になっている。  間違いない。翔太と組んで春菜に借金を押し付けた時の書類だ。 それがどうして、御堂ホールディングスの名前で送られてきたのか。(春菜は御堂ホールディングスをスポンサーにつけたの? 確かにあの会社は、レストランポータルサイトを運営している……!) 梨沙の頭の中で最悪の予想が組み上がった。(そんな馬鹿な。春菜の悪評を流して業界から追い出してやったのに、一体どうやって?) 冷や汗が流れる中、彼女は父親に向かって必死に言い訳を始めた。「誤解です。私はただ、あの女に少し痛い目を見せようと……」「言い訳は聞かん。御堂のトップ弁護士チームが動いているんだ。お前が個人的な感情でグレーな契約を主導した証拠も完全に揃っている。会社にどれほどの損害と信用の失墜をもたらすか、分かっているのか」 父親の目は完全に冷え切っていた。「お前は関連プロジェクトの責任者から即刻外す。あのレストランへの資金援助も今日限りで凍結だ。自宅で頭を冷やせ」「お父様、お待ちください! 資金援助を止めたら、あのお店は……」 インフルエンサーを使った強引なテコ入れで客足を戻したが、その効果も切れつつある。  放置すれば最悪、倒産まで転がり落ちるかもしれなかった。 しかし九条社長は怒りの表情のまま続けた。「下がれ」 もはや取り付く島もない。 梨沙は唇を噛み、社長室を退出した。 廊下に出た途端、手元のスマートフォンが振動する。翔太からだ。  梨沙は苛立ちに任せて応答ボタンを押した。『梨沙! 大変だ、業者が俺のところに1千万払えって言ってきた!』「うるさいわね。あなたのせいで私はお父様に叱られたのよ。資金援助もストップよ。もう私に連絡してこないで」 梨沙は一方的に通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。  保身で手一

  • 捨てられ料理人は諦めない   88

     翔太は舌をもつれさせそうになりながら、言い返した。「えっ、ちょっと待ってください。あれは佐伯春菜が払う約束で、契約書でもそうなってるはず……」「そんなもん通用しねえんだよ。御堂ホールディングスの法務部から直接連絡が来てんだ。こっちもあんなバカでかい企業相手に揉め事はごめんだよ。あんたが借りた金だ、あんたが払え。明日までに1千万、まずは指定の口座に振り込むんだ」 一方的に通話が切れる。ツー、ツーという電子音が、無慈悲に響いた。(ど、どういうことだよ! あの借金は春菜名義で間違いないだろうが。梨沙がそういう書類を作ったのに! 1千万なんて大金、あるわけない!) 翔太はパニックに陥って、慌ててスマホの連絡先を開く。 何度も間違えながら、ようやく梨沙の番号をタップした。 コール音が長く続いた後に、ようやく繋がる。「梨沙! 大変だ、業者が明日までに1千万払えって……」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 電話の向こうの梨沙の声は、かつてないほど冷え切っていた。 翔太の言葉を聞かず、電話はすぐに切れた。 後には呆然とした翔太だけが残された。◇ 同じ頃、九条不動産本社ビルで。 最上階にある社長室の重たげな扉の前で、梨沙は息を整えていた。 今日は父親である九条社長に呼び出された。 父はプライベートでは娘に甘いが、仕事上の線引きははっきりとしている。 その父が社長として梨沙を呼び出した。(何事かしら) 梨沙は少々の緊張とともに、ドアを開けた。 中に入ると、広大なデスクの奥で九条社長が鋭い視線を投げかけてくる。「お父様、お呼びでしょうか」 社長は無言のまま、デスクの上にあった数枚の書類を荒々しく放り投げた。 バサッと音を立てて紙が散らばる。「梨沙、これを見ろ。御堂ホールディングスの法

  • 捨てられ料理人は諦めない   87:翔太と梨沙の焦り

     レストラン『一ノ瀬』のバックヤード、スタッフルームにて。 ディナータイム前の休憩中、一ノ瀬翔太はパイプ椅子に腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた。(最近、どうも客足が鈍いな。インフルエンサーの宣伝効果が落ちたか) 彼は活気を失った厨房を眺めた。 多くのスタッフが辞めていった後、穴埋めでアルバイトを雇ったが、やはり経験が浅い者たちの動きは悪い。 何度もクレームになって、翔太はその度にスタッフへ怒鳴り散らしていた。 おかげでスタッフたちは萎縮してしまい、さらに動きが悪くなる。 怒鳴られるのが怖くて、ちょっとしたことも自分たちで判断できない。 いちいち翔太にお伺いを立てるので仕事が進まない。 まさに悪循環だった。 だが、翔太はどうして悪循環が発生しているのか理解していない。 だから何も改善しないどころか、時間が経つほどに事態は悪くなっていく。(これも新人たちの動きが悪いせいだ。あとでもう一度、叱ってやらないと。それに……春菜がいた頃の常連はすっかり来なくなったし) 昔の常連はいつの間にか、姿を見せなくなっていた。 以前は月に一度は必ず来ていた客も、今では全く顔を見せない。 純粋に料理を楽しんでいた上客、良客ほど先に消えたのに、翔太はやはり気づいていない。 だからインフルエンサーという即時的な手段を取って、後は放置していた。 けれどインフルエンサーの宣伝で呼び込んだ客は、リピーターになる率が非常に低かった。 彼らは一度来ただけで、二度と『一ノ瀬』に来ようとしない。 当然だった。 宣伝に釣られて来た客は、料理の味に無関心だ。 彼らは一時の「画面映え」だけを求めて、すぐに飽きてしまう。 そんな客層がリピーターになるはずがない。 少し考えれば、誰でも分かることだ。 だが翔太と梨沙はその失敗を認めたくなくて、あえて意識の外に押しやっていた。 と。 小さな振動音が鳴る。テーブルの上に置いて

  • 捨てられ料理人は諦めない   86

    「大衆的な洋食店だと? 我が社の次世代AIシステムのショーケースだぞ。そんな地味なコンセプトで、世間の注目を集められると思っているのか」「集められます」 春菜は即答した。「AIによる自動化の真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮されるはずです。高級店は元々スタッフの人数が多く、手厚いサービスが売りです。システムを導入しても、その恩恵は伝わりにくい。ですが、薄利多売の大衆店がAIの力で効率化されて、その分料理の質を高められたらどうでしょう」 春菜は言葉を続ける。「仕入れや予約管理のコストを限界まで削り、浮いた予算をすべて食材に回す。そうして手間暇をかけた極上の洋食を、大衆店の価格で提供する。そのコストパフォーマンスの高さこそが、最大の宣伝になります」 礼司は黙り込んだ。 彼の頭の中で、春菜の提示したモデルが急速に計算されて評価されているのが分かる。(お願い。分かってほしい。ただの高級店を作っても、意味がないんだって) 数秒の沈黙の後、礼司は小さく息を吐いた。「……AIの真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮される、か。確かに、システムの普及を考えるなら、高級店限定のシステムと思われるよりも、大衆店での成功例を見せる方が市場へのインパクトは大きい」 礼司はモニターの電源を切り、春菜を見つめた。「分かった。君の理想とするコンセプトで進めよう。銀座の物件はキャンセルする。もっと親しみやすく、かつ集客の見込める土地を探し直そう」「ありがとうございます!」 春菜は顔を輝かせた。「ただし、条件がある」 礼司は人差し指を立てた。「君の言う『極上の洋食』が、本当に私のシステムに見合うだけの集客力を持つのか。それを証明してもらう。メニューの完成度には一切の妥協を許さない」「望むところです。最高のハンバーグとオムライスを作ってみせます」 春菜の力強い宣言に、礼司は満足げに頷いた。 年配弁護士へ向かって指示をする。「物件探しの条件を変

  • 捨てられ料理人は諦めない   6

     彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。  長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。  これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。  その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。  春菜だからこそあの味が出せた。  部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。

  • 捨てられ料理人は諦めない   5:八方ふさがり

     レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。  濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣

  • 捨てられ料理人は諦めない   4

     翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待

  • 捨てられ料理人は諦めない   3:捨てられた心

     レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」 

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