LOGIN私は、地下アイドルLUMINAのセンター、白咲香織。
昔よく一緒に遊んでいた男の子に、男の子だと勘違いされたのが悔しくて──
それがきっかけで、小中学生の頃はモデルをしていた。
でも、成長するにつれて需要は減り、仕事も激減。
ちょうどその頃、両親が離婚して、私と妹・弟の3人は母に引き取られた。
そんなある日、当時所属していたモデル事務所の社長が言った。
「知り合いが地下アイドルの事務所を始めるんだけど、やってみないか? 興味があったら連絡してほしい」
迷いはあったけれど、新しいことを始めたい気持ちが勝った。
アイドルなんて自分にできるのか、わからなかったけど……勇気を出して電話をかけた。
初めて事務所に足を運んだ日、社長の隣には一人の女の子がいた。
「この子は黒瀬あんじゅ。香織ちゃんと同い年で、グループのリーダーをやってもらおうと思ってる」
「香織ちゃん、よろしくね。黒瀬あんじゅです!」
──これが、あんじゅとの出会いだった。
そのあと、秋庭るい、風花ほのか、南雲つむぎが加入。
最初は、観客が数人しかいないような、底辺地下アイドルだった。
それでも、がむしゃらにレッスンして、必死で歌って、笑って、時には泣いた。
気づけば、仲間と過ごす日々が宝物のようになっていた。
そんなある日、ライブ後の特典会で、彼に出会った。
「こんにちは。今日はありがとう……初めましてですね、僕は奏です」
(あのとき、ずっと私を見てくれてた子……奏くん、なんだか懐かしい雰囲気を持ってる)
「こんにちは! 来てくれてありがとう、奏くん!」
「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われて来たんですが……一目惚れしました」
(えっ……そんなこと、初めて言われた……)
「嬉しいなあ。そんなふうに言ってもらえると、すごく励みになるよ!」
「これからも応援します。無理しないでくださいね」
(やさしい……また来てくれたら嬉しいな)
「ありがとう、奏くん。あなたの応援が何よりの力になるよ。次のライブも、待ってるね」
──そして次のライブにも、彼は来てくれた。
「こんにちは、香織さん! また来ちゃいました。あの日のパフォーマンスが忘れられなくて……。それに、“待ってるね”って言ってくれたのが、すごく嬉しくて」
(パフォーマンスを褒めてくれて嬉しい。私は努力を見てもらえたんだ……)
彼は、ライブのたびに来てくれた。
気づけば2年が経ち、LUMINAのファンも少しずつ増えていった。
でも、それも束の間だった。
ある日のレッスン中、マネージャーの加賀さんが血相を変えてスタジオに飛び込んできた。
「香織ちゃん……お母さんが倒れたって!」
職場で過労による貧血で倒れ、救急車で運ばれたと聞いて、私はレッスンを抜けて病院へ向かった。
病室の前には、母の職場の同僚と、泣きじゃくる妹と弟の姿があった。
「君が香織ちゃんか。お母さん、自慢してたよ。しっかりした娘だって」
「ご迷惑をおかけして、すみません……」
「先生の話では、3〜4日ほど入院になるみたいだよ。じゃあ、俺は職場に戻るね」
男性が去り、私は千鶴と良助と3人で面会時間ギリギリまで病室にいた。
面会時間が終わり、
「さて、千鶴、良助。帰るよ」
「えっ、お母さんは?」と良助が不安そうに尋ねる。
「お母さんはね、少し病気で。しばらく帰れないの」
「じゃあ、俺も帰らない!」と泣き出してしまう良助を、必死になだめながら、家に連れて帰った。
──数日間母の代わりに、妹と弟の世話をしなければならなくなった。
母の入院中、私はレッスンと家事と面会を両立する日々に追われた。
そのうち、自分でも気づかないうちに心が削れていった。
(お母さん……お仕事しながら、一人でこなしてたの…もう、お母さんに無理はさせられない。)
何度も、悩んで、苦しんで。そして、私は決めた。──アイドル、辞めよう。
そう思った翌日。私は、リハーサルスタジオの鏡の前で、ポニーテールを結び直しながら、ふとため息をついた。
「……やめよう。アイドル、やめよう」
その言葉は、誰にも聞かれなかったけれど、自分の中に確かに落ちた。
休憩中、あんじゅが声をかけてくれた。
「香織、顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」
「うん、大丈夫。ちょっと考えごとしちゃってて……」
──私がいなくなったら、センターはどうなる? グループは?
そんなこと、誰にも言えるわけがなかった。
夜。妹と弟を寝かしつけたあと、私は近所の公園のブランコに一人座った。
LUMINAの曲を口ずさみながら、ただ、風に身を任せていた。
「……香織?」
振り向くと、そこには奏くんが立っていた。
浴衣姿の彼は、少し驚いたように、でもどこか安心したように微笑んでいた。
気づけば、誰にも言えなかった気持ちを、奏くんにだけ話していた。
(なんで奏くんに……でも、不思議と苦しくなかった)
まるで、ずっと背負っていた荷物を、そっと降ろせたみたいだった。心がふっと軽くなった。
そして、少し黙っていた奏くんが、静かに口を開いた。
「……香織が決めたことなら、もちろん尊重するよ。でも、正直言うと……まだ、ステージに立ってる香織を見ていたいんだ」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
「香織みたいなアイドル、他にいない。いや、俺にとっては……香織がいない人生なんて、考えられないんだ」
まっすぐに、迷いのない瞳でそう言われて、私は何も言えなくなってしまった。
(そんなに……そんなに私のことを思ってくれてたんだ)
嬉しかった。信じられないくらい、心が揺れた。
でも、それでも私は――
(……ごめん。決めたことなの)
その数日後、私の生誕祭が発表された。
――「LUMINA・香織の生誕祭、8月17日に開催決定!!」
(これが最後の生誕祭になるかもしれない)
そう思って、衣装にもこだわり、アンコールで歌う曲は、自分で作詞作曲した。
LUMINAのメンバー、そしてファンに向けた、感謝と祈りの歌。
リハーサル中、あんじゅたちの様子がどこかよそよそしくて──
「なに話してたの?」
「ん? 香織、今日なんか用事あるって言ってたよね〜」と、るいが笑って誤魔化した。
(……なんだろう?)
そして、生誕祭当日。
「香織〜! フラスタ、めっちゃ届いてるよ!」
「えっ……すごい……!」
見れば、私宛のフラワースタンドがずらりと並んでいた。
中には奏くんの名前が書かれたものもあった。
(……ありがとう、奏くん)
ついに、生誕祭は本番を迎えた。
ライブは、今までで一番いいパフォーマンスができた。
緊張もあったはずなのに、体が自然に動いていた。
振り返れば、不安や迷い、涙もあった日々──でも今、私はちゃんと笑えている。
「アイドルって、こんなに楽しかったんだ……」
気づけば、そんな想いが胸をいっぱいにしていた。
──辞めたくない。
そんな強い気持ちが、心の奥からこみあげてくる。
その瞬間、アンコールの時間がやってきた。
マイクを握り直し、深呼吸をひとつ。
「それでは、これが最後の曲です。聴いてください──」
そう言いかけたとき、あんじゅがマイクを持ってステージに出てきた。
「ちょっと待った! 香織に、私たち、そしてファンのみんなからプレゼントがあるの!」
「モニターを見て!」
ステージ背後のスクリーンに、映像が流れはじめた。
──メンバーからのサプライズメッセージ。
練習中の様子、思い出の写真、ひとつひとつの言葉にこめられた想い。
そして続く、ファンたちからの動画メッセージ。
笑顔で語る人、涙ぐみながら言葉を届けてくれる人──どの声も温かくて、まっすぐだった。
(こんなに……私は、愛されていたんだ……)
ぽろぽろと涙がこぼれて、止まらなかった。
この場所が、自分にとってどれだけ大切だったのか、今さらのように気づいてしまった。
アイドルを辞めようとしていた自分が、情けなかった。
誰かを笑顔にしたくて始めたはずなのに、私は勝手にひとりで限界を決めていた。
──映像の最後。
画面に映ったのは、奏くんだった。
「香織……君の歌や姿に、俺は本当に救われました。ありがとう。
今日だけじゃない。これからも、ずっと応援させてください」
その瞬間、客席が白いスローガンと大閃光の光で埋め尽くされた。
誰かが用意してくれたその景色に、言葉をなくす。
ケーキが運ばれ、メンバーやファンと一緒に、ろうそくの火を吹き消す。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
震える声で、でも確かな想いで、私は心から感謝を伝えた。
マイクを再び握り直す。
ステージの中心へと、ゆっくり歩いていく。
ラストのアンコール曲が始まる。
タイトルは──「ここにいた証」
それは、ステージに立ち続けた私の足跡であり、
そして、支えてくれたすべての人たちへの贈り物だった。
---
ここにいた証を 音に変えて届けたい
笑ってた日も 泣いてた日も 全部が宝物だから今 歌うよ 君の心の中に
ちゃんと残るように──♪---
スポットライトが優しく香織を照らす。
彼女の歌声が、客席を、会場を、空気ごと包み込んでいく。
その瞬間、香織は確かに「ここにいた」。
大きな歓声と、深い余韻とともに──
生誕祭は、幕を閉じた。
そして特典会。
白いタキシード姿で、私の前に立ったファンの人。
少し緊張したような笑みを浮かべて、でもどこか懐かしい空気をまとっていた。
「よ、香織」
その声に、胸の奥がぎゅっとなった。
誰かと思えば――奏くんだった。
一瞬、言葉が出なかった。でも、気づいたら口が動いていた。
「……かなくん……?」
彼の名前を呼んだ瞬間、あの夏の日々が、一気に胸によみがえってきた。
無精ひげに眼鏡姿が当たり前だった奏くん。
でも今日は、ひげもそり、眼鏡も外し、コンタクトで来てくれていた。
あの頃の、やわらかく笑う“かなくん”の面影が、そこにあった。
(まさか……ずっと気づけなかった)
こんなことが、本当にあるだろうか。
昔好きだった男の子が、今――
ファンとして、支えてくれていたなんて。
胸が熱くなった。嬉しさ、驚き、恥ずかしさ、いろんな感情が一気に押し寄せてきて、
その時の私は、ただもう――ごまかすので精一杯だった。
特典会が終わり、メンバーたちと一緒に事務所へ戻る道すがら。
香織は、夜風に当たりながらぽつりとつぶやいた。
「……みんな、本当にありがとう。あんな素敵な動画、すごく嬉しかった」
すると、横を歩いていたるながふっと笑って、いたずらっぽく言った。
「実はね、それ、私たちじゃなくて奏っちの企画なんだって! ねー、あんじゅ」
「えっ……?」と香織が思わず聞き返すと、今度はあんじゅがやさしく笑って補足した。
「うん。奏くんの友達のヒロくんがね、私のオタクなの。で、そのヒロくんを通して動画の企画
を相談してきてくれて……。それだけじゃないよ。メッセージカードも、フラスタも、ケーキも、スローガンも、大閃光も。ぜんぶ奏くんが準備したんだって」香織は思わず足を止めた。
胸の奥が熱くなり、じんわりとこみ上げてくるものを、言葉にできなかった。
(奏くん……私のために、そんなにも……)
知らないところで、こんなに想ってくれていたなんて。
「……愛が、大きすぎるよ……」
その言葉は思わずこぼれて、香織の唇から夜空にふわりと溶けていった。
生誕祭の余韻がまだ心に残る中、LUMINAの活動はしばらくオフ。
妹の千鶴と弟の良助は、それぞれ友達の家に遊びに行っていて、久しぶりに家にいるのは母と私だけだった。
少し早めの夕食の後、湯飲みにお茶を注ぎながら、私はそっと切り出した。
「……お母さんに、話したいことがあるの」
「え? なにかあったの?」
母は少し驚いたように手を止め、私の顔をまっすぐに見つめる。
「実はね、お母さんが入院したとき……千鶴と良助の世話、すごく大変だった。
そのとき、自分がどれだけお母さんに甘えてたか、ようやく気づいたの」
言葉を探しながら、私は続ける。
「それで……アイドルを辞めて、これからはお母さんを支えようって、一度は思ったんだ。でも――この間の生誕祭で、ファンのみんなから、メンバーから、たくさんのエールをもらって……。もう一度、アイドルを続けたいって思えたの。ごめんね、お母さん」
しばらく沈黙が流れたあと、母はふっと微笑んだ。
「……最近、香織、元気なかったでしょ? 母さん、自分のせいで香織がアイドルを辞めちゃうんじゃないかって……ずっと心配だったのよ」
そう言って、母は私の手を優しく包む。
「ごめんね、入院して……香織に、たくさん気を遣わせちゃった。
でもね、母さんは――香織がアイドルとして輝いてるのが、ほんとうに自慢なの。 職場でも、どれだけ自慢してると思ってるの?」「え……あ、あの人……」
(そういえば、お母さんが入院してたときに一緒にいてくれた同僚の男性が、“自慢の娘だって聞いてたよ”って言ってたな……)
「もう、恥ずかしいよ……」
そう言いながらも、心の奥がじんわり温かくなる。
母は笑って、でも真剣なまなざしで言った。
「母さんも、これからはもっと健康に気をつける。千鶴と良助のことは任せて。香織は――あなたは、あの場所で輝き続けなさい」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
「……ありがとう、お母さん」
その夜、私は布団にくるまりながら、ずっと天井を見つめていた。
生誕祭のステージと、母の言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
アイドルとして、まだまだやりたいことがある。
もう、迷わない――
その後LUMINAのLINEグループから通知があった。
──
るな:「明日新宿の神社でお祭りやってるらしいよ、みんなでいかない?」あんじゅ:「賛成」
ほのか:「人がいっぱいいるところ怖い」
つむぎ:「了解」
香織:「了解」
るな:明日花園神社の前に18時ね。
──集合し、出店などを見に行っていたら、私は人混みでメンバーたちとはぐれてしまった。
境内のベンチで、ひとり座っていると──
「……香織?」
名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
そこに立っていたのは──奏くんだった。
「えっ、奏くん……? こんな偶然、あるんだね」
「うん、会社の同僚に誘われて来てたんだ。まさか、香織がいるとは」
私は一度視線を落とし、そっと言った。
「……奏くん、私の生誕祭のために、色々してくれてありがとう。
メッセージカードも、フラスタも、ケーキも……」
少し間を置いて、ほんの少し声を震わせながら続けた。
「……特に、アンコール前のビデオ。あれは、反則だよ」
彼は少し目を丸くしたあと、はにかんだように笑った。
「香織が、もう一度前を向けたなら、それでよかった」
私は笑った。でもその笑顔の奥に、正直な想いがあふれそうで、ぎゅっと息を飲んだ。
「……あんなの見せられたら、辞められるわけないじゃん」
静かに、けれどしっかりと、彼に伝えた。
「もう一度、ちゃんとアイドルやりたいって、初めて自分の意志で思えたの。
奏くんが、背中を押してくれたからだよ」
言葉を重ねるたびに、自分の中にあった曖昧な感情が、はっきりと輪郭を持ちはじめる。
(……気づいてしまった)
私は、奏くんに惹かれていた。
ファンとして、じゃない。
私を見てくれて、支えてくれて、励ましてくれた「ひとりの人」として──
そう。私は彼を、人として、好きになっていた。
少し先を歩きながら、屋台の灯りに照らされる彼の背中が、あたたかくて、まぶしく見えた。
私はこの気持ちを胸に、またステージに立ちたい。
あの日歌った「ここにいた証」は、ただの過去形じゃない。
今も、そしてこれからも、私はここにいると、歌い続けたい。
──あなたの心に、ちゃんと残せるように。
「ゴホッ、ゴホッ……」「香織ちゃん、大丈夫?」「るい……お見舞い、ありがとう」「親友でしょ。そんなの当たり前だよ」今、LUMINAは大型フェスに向けたセンター&立ち位置を決める人気投票の真っ最中。……そんなタイミングで、私はまさかの夏風邪を引いてしまった。明らかに不利。推しが出ない現場に来るオタクなんて、ほとんどいないのに。「ねえ、香織ちゃん、聞いてる?」「ん? なに?」「いやだから、奏っちがさ……」「え、どうしたの? 奏くんが? ゴホゴホッ」「風邪引いてるのに、大声出しちゃダメ〜!」「いやさ、奏っち。香織ちゃんいないのに、ライブ毎回来てるんだよ」「えっ、奏くんが……?」「こないだ全員握手会もあったんだけど……」そう――とある握手会の日。「うわぁ、香織ちゃんいないのに参加って……まさか浮気?」「ははっ、まさか〜」(でも……奏っち、目が笑ってなかった)「人気投票、今香織休んでるだろ? 俺1人が頑張ってもどうにもならないのかもしれないけど……。香織の悲しい顔、もう見たくないんだ」るいの言葉が、頭の中で繰り返された。(そんなこと……言ってくれる人、他にいないよ……)胸の奥が、熱くなる。嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからなかった。「……って話なんだけど、香織ちゃん、顔すごい赤いけど大丈夫?」「な、なんでもないよ。熱ぶり返したかな」「えっ、じゃあ私、帰ったほうが――」「…&helli
カレー作りが終わり、夜になった。キャンプファイヤーの炎がパチパチと音を立てる中、みんなで輪になってカレーを食べていた。もちろん、俺の隣には――キャンプファイヤーの炎より暑苦しい、いや、情熱的な男・ヒロがいた。「おい、奏」「ん?」ヒロが俺の肩を小突いてくる。「香織ちゃん、さっきからちょっと落ち込んでる感じだったけど……なんかあった?」「え? いや、特には。でも、ちょっと元気ないかもな……」「にしても、このカレーうめぇな」「特に“香織がといだ米”、最高すぎだろ」「いや、俺も米担当だし」「ヒロ、夢を壊すな……」和やかな笑いがこぼれる中、香織は少し離れた場所で、静かにスプーンを動かしていた。「はぁ……」その小さなため息を聞きつけたのは、輪から少し離れた木陰に座っていたあんじゅだった。「香織、どうしたの?」あんじゅが声をかける。リーダーとしての気配りが自然とにじみ出る、穏やかな口調。「……なんでもないよ」香織はスプーンを止め、俯きがちに答える。「また、アイドル辞めようとしてたときみたいに、自分で抱え込んでない?」あんじゅの言葉に、香織はピクリと肩を揺らす。「……」火の粉がふわりと宙に舞う。沈黙が、ほんの少しだけ、場の空気を張りつめさせた。ほのかが怪我をして、奏が救護室に付き添って行った。私も心配で、少し時間を置いてから向かった。ドアの前に立つと、中からかすかに話し声が聞こえた。ほのかの声と――奏の声。「香織ちゃんじゃなくて、私じゃダメですか?」その瞬間、息が止まりそうになった。「それって……推し変してほしいってこと?」「そ、そうじゃなくて。アイドルとファンじゃなく、1人の女の子として……」冗談だよね。そう思いたかった。でも、耳に届く声は真剣だった。「冗談じゃないです! 奏さんって、オタクとしてもすごいけど……1人の人として、素敵だなって思ってます」胸がぎゅっと締めつけられた。ほのかが奏くんを、そんなふうに見ていたなんて――。私たちはアイドル。ファンと恋なんて、許されるはずがない。でも、1人の女の子として見たら、それはきっと自然な感情だ。……それでも。なんで、よりによって奏くんなの。私のファンでいてくれて、どんなときも支えてくれて、あの笑顔で、私の全部を肯定してくれた、あの人を。胸の奥がざわつい
私は、アイドルが大好きだった。小さな頃からテレビの前で踊って、笑っていた。アイドルが歌って、笑って、誰かの心を照らすたび、「私もいつか、あんなふうになりたい」って──ずっと思ってた。夢が大きくなったのは、中学の頃。私も、誰かを笑顔にしたい。その想いは、自分の中で揺るぎないものになっていた。私は幼い頃からクラシックバレエを習っていて、ダンスには少しだけ自信があった。だからきっと、夢を叶えられるはずって信じてた。でも。いざ親に話したときの反応は、あまりにも冷たかった。「アイドル?そんなもの、将来性がないだろ。もっと現実を見なさい」──父の言葉は、まるで冷水みたいだった。それでも私は、諦めきれなかった。誰かの夢を照らす存在に、どうしてもなりたかった。高校に入り、バイトをいくつも掛け持ちした。制服のままコンビニへ直行して、帰るころには日付が変わっていた。自分で貯めたお金で、養成所に通いはじめた。ダンスはずっと得意だったけど、歌はどうしても弱かった。何度もオーディションを受けた。書類で落ちて、一次審査で落ちて、最終審査で落ちて。何度、もう無理かもって思ったか、分からない。でも──“誰かの希望になりたい”という気持ちだけは、誰にも、負けてないと思ってた。とある日の午後、公園の広場で、私はひとりダンスの練習をしていた。何度も何度も、同じ振り付けを繰り返す。バイトを掛け持ちしながら、わずかな時間をぬって練習して。ボーカルトレーニングにも通って。それでも、オーディションにはなかなか受からない。努力は、すぐには報われないってわかってるけど──それでも。足が止まった瞬間、視界がぼやけた。気づけば、涙が頬をつたっていた。
生誕祭のあとも、変わらず香織のオタクとして、LUMINAの現場に通い続けていた。今日はショッピングモールでの外部イベント。イベントの最後には、メンバー全員との握手会が行われることになっていた。香織以外のメンバーには、まだ顔を覚えられていない気がして、ちょっと緊張する。最初に現れたのは、黒髪ロングでスタイル抜群、落ち着いた雰囲気のリーダー・黒瀬あんじゅ。まさに“頼れるお姉さん”という言葉がぴったりだ。「こないだの生誕祭はありがとな」と声をかけると、あんじゅは優しく笑った。「香織のためだし、ヒロくんに頼まれちゃったしね。素敵な生誕祭だったよ。……これからも、香織のことよろしくね」「こちらこそ、香織を支えてやってくれ。あと、ヒロもな」「あら、ヒロくんの扱いが軽くない?」と、くすっと笑う彼女にちょっと救われた気がした。続いて現れたのは、小柄で内気な雰囲気の風花ほのか。ステージ上では力強いダンスを見せる、メインダンサーだ。「こんにちは」と声をかけると、彼女はしばらく黙っていた。戸惑っていると、小さな声で「奏さん……」とつぶやく。「僕のこと知ってくれてたんだ、ありがとう」「そ、それは……」と言いかけた瞬間、スタッフが声を飛ばす。「お時間でーす!」「またね」と手を振ると、彼女は「あ……」と何か言いかけたまま、視線を落とした。次に現れたのは、金髪が目を引く元気な美少女・秋庭るい。LUMINAのメインボーカルだ。「あー!奏っちだー!香織からよく聞いてるよ!」「えっ、まじか。どんな話されてるか気になるな……」「それはヒミツ♪」と、いたずらっぽく笑う。「でもね、香織が言ってたよ。『奏くんって頼りになるオタクなんだよ』って。一緒に香織を支えていこうね、奏っち」「頼りになる……か。う
私は、地下アイドルLUMINAのセンター、白咲香織。昔よく一緒に遊んでいた男の子に、男の子だと勘違いされたのが悔しくて──それがきっかけで、小中学生の頃はモデルをしていた。でも、成長するにつれて需要は減り、仕事も激減。ちょうどその頃、両親が離婚して、私と妹・弟の3人は母に引き取られた。そんなある日、当時所属していたモデル事務所の社長が言った。「知り合いが地下アイドルの事務所を始めるんだけど、やってみないか? 興味があったら連絡してほしい」迷いはあったけれど、新しいことを始めたい気持ちが勝った。アイドルなんて自分にできるのか、わからなかったけど……勇気を出して電話をかけた。初めて事務所に足を運んだ日、社長の隣には一人の女の子がいた。「この子は黒瀬あんじゅ。香織ちゃんと同い年で、グループのリーダーをやってもらおうと思ってる」「香織ちゃん、よろしくね。黒瀬あんじゅです!」──これが、あんじゅとの出会いだった。そのあと、秋庭るい、風花ほのか、南雲つむぎが加入。最初は、観客が数人しかいないような、底辺地下アイドルだった。それでも、がむしゃらにレッスンして、必死で歌って、笑って、時には泣いた。気づけば、仲間と過ごす日々が宝物のようになっていた。そんなある日、ライブ後の特典会で、彼に出会った。「こんにちは。今日はありがとう……初めましてですね、僕は奏です」(あのとき、ずっと私を見てくれてた子……奏くん、なんだか懐かしい雰囲気を持ってる)「こんにちは! 来てくれてありがとう、奏くん!」「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われて来たんですが……一目惚れしました」(えっ……そんなこと、初めて言われた……)「嬉しいなあ。そんなふうに言ってもらえると、すごく励みになるよ!」「これからも応援します。無理しないでくださいね」(やさしい……また来てくれたら嬉しいな)「ありがとう、奏くん。あなたの応援が何よりの力になるよ。次のライブも、待ってるね」──そして次のライブにも、彼は来てくれた。「こんにちは、香織さん! また来ちゃいました。あの日のパフォーマンスが忘れられなくて……。それに、“待ってるね”って言ってくれたのが、すごく嬉しくて」(パフォーマンスを褒めてくれて嬉しい。私は努力を見てもらえたんだ……)彼は、ライブのたび
香織の生誕祭が終わり、LUMINAの現場もしばらくお休み。仕事も夏季休暇に入ったので、俺は久しぶりに実家のある八王子へ帰省することにした。同じ都内といっても、帰るのは半年ぶりだ。「母さん、ただいまー」「おかえり奏。ごはん作って待ってたわよ」「ありがと。ちょうど腹減ってたし、助かる。荷物置いて着替えたら食べるわ」「はーい、ゆっくりしていってね」いつもの会話。少し懐かしい、実家の空気。自室がある2階に上がり、押し入れをがさごそと探る。「そういえば、この辺に……あった、あった」引っ張り出したのは、幼少期のアルバムだった。ページをめくると、記憶の中で引っかかっていたあの一枚が目に飛び込んできた。「あー……この子だ。俺のこと“かなくん”って呼んでた……あの“男の子”」手にした写真を持って、リビングに降りる。「ねえ母さん、この男の子って誰だったっけ?」「うん? ああ、この子ね……男の子じゃないのよ。女の子。髪短くて活発だったから、あんたが勘違いしてたのも無理ないけどね」「えっ……じゃあ、名前は?」「うーん……相当昔のことだし、ちょっと待ってね……」「しっかりしてくれよ、母さん」「言うじゃないの。でも、なんで急にこの子のこと思い出したの?」なんて答えようかと考えていると、母がふと思い出したように口を開く。「……あっ、思い出した。香織ちゃんよ。その子。白咲香織ちゃん」(──やっぱり……香織だったのか)「その子がどうかしたの?」「いや、なんでもない。ただの偶然。……せっかく作ってくれたごはん、冷めちゃう前に食べよ。いただきます」食後、久しぶりにのんびりと実家の空気に身を任せていたら、スマホにLINEの通知が入った。──ヒロ:「奏、今なにしてる?」俺:「実家だけど」ヒロ:「じゃあ新宿で飲まね? 八王子だろ? 中央線一本じゃん」(……めんどくせぇ。でも、生誕祭で世話になったしな)俺:「わかった。今から出る。アルタ前18時な」ヒロ:「了解!」────ということで、中央線に揺られて、新宿まで向かうことに。アルタ前で待っていると、「奏ー!」「ヒロ。誘ったくせに来るの遅いな」「すまんすまん。じゃ、いつものとこ行こうぜ」居酒屋までの道中、ヒロの“最近調子いい”っていう自慢話を聞き流しながら、俺の頭の中は、あのアルバムに







