朝の光が、いつもよりやけに白く感じた。
目覚ましが鳴る前に目を覚ました俺の胸には、昨夜の香織の言葉が冷たく沈んでいる。
──「私、アイドル辞めようと思ってて」
あの声が、何度も頭の中でリフレインして離れない。
スマホを手に取り、何気なくタイムラインを開く。
そこには、いつも通りLUMINAの話題があふれていた。
でも、その裏で香織がひとりで悩み、涙を流していたなんて――誰も知らない。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、自問する。
(俺に、何ができる?)
推しのために何かしたいと思っても、俺はただの一ファンにすぎない。
オタクは、近いようで遠い存在だ。
どれだけ想っても、どれだけ時間と金を注ぎ込んでも、
その心の奥まで手を伸ばすことなんて、できるわけがない。
現場でペンライトを振るくらいしか、俺にできることはないのかもしれない。
――そう思うと、情けなくて、悔しかった。
でも、何もしないで後悔するくらいなら――やってみよう。
推しのステージを、この目で見届けに行こう。
いつも通り、キンブレとチェキケースをバッグに入れて、玄関の扉を開ける。
少しだけ冷たい風が、気持ちをしゃんと引き締めてくれた。
駅へ向かう道すがら、心はどこか落ち着かない。
昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、街は変わらず騒がしい。
途中のコンビニでエナドリを買い、缶を開ける音でようやく現実に引き戻された気がした。
駅前では、オタク仲間たちがいつも通り軽口を交わしていた。
彼らの明るい声が耳に入ってくるたびに、自分だけが何か重たいものを背負っているような気がして、少しだけ足取りが重くなる。
ライブハウスに到着すると、入場列に並んだ。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(本当に……やるんだな、今日も)
間もなく、ライブが始まった。
あんなことがあった翌日だというのに、香織の歌もダンスも、そして表情も――いつもと変わらなかった。
(……これが、アイドルってやつか。やっぱ、香織はすごいな)
ライブが終わり、メンバーたちの挨拶が順に始まる。
最後に香織がマイクを手に取り、静かに口を開いた。
「私からNox(LUMINAのファンネーム)のみんなに、お知らせがあります」
スクリーンに映像が流れ出し、ざわついていた空気が一気に熱を帯びた。
「8月17日、渋谷のライブハウスで私の生誕祭を開催します。……私に、Noxのみんなの時間をください」
一瞬の静寂のあと、場内は歓声に包まれた。
その瞬間、俺の胸に火が灯るのを感じた。
(……これだ)
あの夜、香織が見せた涙。
こぼれた弱音。
全部、ひっくり返してやりたい。
“アイドルを辞めたい”なんて、二度と言わせない。
「よし……やってやるよ」
俺は、香織のオタクとしてだけじゃない。――“俺”という人間として、香織の力になると決めた。
生誕祭の発表から数日。
仕事帰り、駅近くのカフェでノートPCを広げて作業していた俺の肩を、誰かが軽く叩いた。
「……おす! 奏!」
顔を上げると、そこにはオタ仲間――ヒロの姿があった。
ヒロはオタク名で、本名は藤田大輝。俺より3つ年上で、頼れる兄貴みたいな存在だ。
そして、初めてLUMINAの現場に連れて行ってくれた張本人でもある。
「ヒロ……お前、なんで?」
「今、別の地下アイドルの現場の帰りでさ。このカフェの前を通ったら、しかめっ面でPCと睨み合ってるお前を見かけてよ」
「お、おう……」
「そんな顔して、どうしたんだよ。お前の兄貴だろ? なんでも話してみろよ」
その言葉に、俺はあの日の夜のことをすべて話した。
「……えっ? 香織ちゃんがアイドル辞める!?」
「バ……バカ、声でけぇよ! LUMINAのオタクに聞かれたらどうすんだよ!」
「あ、すまん……つい。で、だから生誕祭を盛り上げようと、こんなに必死に準備してたのか」
ヒロは、どこか嬉しそうに笑いながら言った。
「いや……奏がさ、誰かのためにこんなに頑張ってるのが、嬉しくてさ。
2、3年前なんて、まるで抜け殻だったろ、お前。人をまた本気で好きになれたんだなって思って」
「まあな。でも、そんなときヒロがLUMINAの現場に誘ってくれて……香織に出会わせてくれた。マジで、ありがとな。感謝してる」
「そっか……だったらさ、俺にも手伝わせてくれよ。香織ちゃんの生誕祭、ぶち上げようぜ」
「いや、でも……悪いよ。お前、LUMINA以外の現場も通ってて忙しいだろ?」
「もちろん。お前のためってのもあるけどさ……推しのあんじゅに、“ヒロくんカッコいい”って思われたいし?」
「……それが本音だろ、完全に」
「ははっ、バレたか。そりゃ……推しにちょっとでもカッコよく見られたいじゃん?」
「……ま、いっか。一人でやるの正直しんどいと思ってたし。よろしく頼むわ、ヒロ」
「おう、任せとけって。お前の兄貴だからな!」
仲間ができたことで、俺の気持ちは一層強くなった。
ヒロが手を差し伸べてくれたおかげで、一人で抱え込んでいた不安や迷いが、少しずつ和らいでいくのを感じる。
「で、奏は何をするつもりなんだ?」
「うーん……地下アイドルの生誕祭といえば、フラスタやメッセージカード、大閃光にスローガン。そういうのはもちろんやるつもり。だけど、それにプラスして――香織の心に“ちゃんと届く何か”を考えてるんだ」
「なるほどな……でも、二人でできることって限られてるしな。そもそも、なんでだろうな。俺ら、LUMINAの現場で微妙に浮いてるよな」
「それな。なぜかは俺にもわからん……」
二人して顔を見合わせて、苦笑する。
「ま、とりあえず今日はここまでにしよう。カフェも閉まっちまうし、家でまた考えてみるよ」
カフェの前でヒロと別れたあと、家に帰ってベッドに寝転び、なんとなくTikTokを眺めていた。
スクロールしていると、「#10年後の自分の子どもへ」というタグが目に留まった。
未来のわが子へ向けて語りかける人たちの言葉が、まっすぐ心に届いてくる。
「元気にしてる? いつか会える日を楽しみにしてるね」
そんな何気ない言葉が、不思議と胸を打つ。
(……これだ)
誰かを想って紡いだ言葉には、ちゃんと力がある。
香織のために、ファンのみんなに呼びかけて、“声”を集めよう。
あのステージに、もう一度立ちたいと思ってもらえるような――そんな動画を作ろう。
……そう決意したはずなのに、
「どんな構成がいいだろう」
「どんな言葉なら届くんだろう」
気づけば、動画サイトをあちこち巡っては、参考になりそうな演出を探していた。
夜はとっくに更けて、スマホの画面の光がまぶしく感じる。
でも、どうにも頭が冴えてしまって――結局、その夜はなかなか眠れなかった。
朝の光が、いつもよりやけに白く感じた。目覚ましが鳴る前に目を覚ました俺の胸には、昨夜の香織の言葉が冷たく沈んでいる。──「私、アイドル辞めようと思ってて」あの声が、何度も頭の中でリフレインして離れない。スマホを手に取り、何気なくタイムラインを開く。そこには、いつも通りLUMINAの話題があふれていた。でも、その裏で香織がひとりで悩み、涙を流していたなんて――誰も知らない。洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、自問する。(俺に、何ができる?)推しのために何かしたいと思っても、俺はただの一ファンにすぎない。オタクは、近いようで遠い存在だ。どれだけ想っても、どれだけ時間と金を注ぎ込んでも、その心の奥まで手を伸ばすことなんて、できるわけがない。現場でペンライトを振るくらいしか、俺にできることはないのかもしれない。――そう思うと、情けなくて、悔しかった。でも、何もしないで後悔するくらいなら――やってみよう。推しのステージを、この目で見届けに行こう。いつも通り、キンブレとチェキケースをバッグに入れて、玄関の扉を開ける。少しだけ冷たい風が、気持ちをしゃんと引き締めてくれた。駅へ向かう道すがら、心はどこか落ち着かない。昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、街は変わらず騒がしい。途中のコンビニでエナドリを買い、缶を開ける音でようやく現実に引き戻された気がした。駅前では、オタク仲間たちがいつも通り軽口を交わしていた。彼らの明るい声が耳に入ってくるたびに、自分だけが何か重たいものを背負っているような気がして、少しだけ足取りが重くなる。ライブハウスに到着すると、入場列に並んだ。胸の奥が、じんわりと熱くなる。(本当に……やるんだな、今日も)間もなく、ライブが始まった。あんなことがあった翌日だというのに、香織の歌もダンスも、そして表情も――いつもと変わらなかった。(……これが、アイドルってやつか。やっぱ、香織はすごいな)ライブが終わり、メンバーたちの挨拶が順に始まる。最後に香織がマイクを手に取り、静かに口を開いた。「私からNox(LUMINAのファンネーム)のみんなに、お知らせがあります」スクリーンに映像が流れ出し、ざわついていた空気が一気に熱を帯びた。「8月17日、渋谷のライブハウスで私の生誕祭を開催します。……私に、No
「……かなくん――」ピリリリッ、ピリリリッ……目覚ましの音が、夢の続きを容赦なく断ち切る。誰かが俺の名前を呼んでいた気がする。まるで昔聞いたことのある声のように、胸の奥を揺らした。目を開けると、天井。見慣れた部屋。現実。手探りでスマホを手に取ると、ロック画面には、俺の推し、白咲香織の写真が映っていた。「香織……最高に可愛いな」スマホを握りしめる手に、無意識に力が入る。何度も見返したくなるその写真は、俺の心の支えであり、時に苦しくなるほどの愛おしさだった。あの日――ライブハウスのステージで初めて見た香織のパフォーマンスが、今でも頭から離れない。歌声、ダンス、そして表情――どれを取っても抜け目がなかった。これまで色んな地下アイドルの現場に足を運んできたけど、ここまで“完璧”だと思えたアイドルには出会ったことがなかった。一瞬で視線を奪われて、気づけばその存在に夢中になっていた。さらに、黒髪ボブに大きな瞳、整った顔立ち――見た目も完全に俺の好みだった。だけど、本当に惹かれたのはそこじゃない。見た目以上に惹かれたのは――そのまっすぐな眼差し、ブレない芯、誰にでも丁寧に向き合う誠実さ。ステージでは目が離せないほど輝いて、対話では思わず心を許してしまうほど優しくて。気づけば、彼女の存在が、俺の毎日を照らす“光”になっていた。でも―まさか、こんな夜が来るなんて。「お先に失礼します!」職場をあとにしながら、ポケットの中のスマホを取り出し、LUMINAのスケジュールを確認していた。「LUMINAの現場、次は明日か……早く香織に会いたいな」今日はライブも特典会もない“オフ日”。推しに会えない日は、どうしても気持ちが空っぽになる。家に帰っても一人だし、まっすぐ帰る気になれなくて、少し遠回りして晩飯を済ませた。通り道の小さな公園に差しかかる。昼間は子供たちでにぎわっている場所だが、夜になると街灯もまばらで、いつもは人影すら見かけない。ふと、ブランコのあたりに――誰かが座っているのが見えた。(……こんな時間に、人?)足を止めて目を凝らす。街灯の明かりに照らされたその姿は、長い髪に華奢な肩――どうやら、女性のようだ。さらに近づくと、微かに聞こえてきた。「……♪ 目を閉じれば浮かぶ景色 あの日のまま止まってる……」どこか寂し
「もう、誰も信じられない――」そう呟いて、俺は幾度も自分の心を閉ざしてきた。過去の恋愛で深く傷つき、女性という存在にさえ距離を置いてしまった。数年ぶりの“現場”。オタク仲間の誘いで足を運んだ地下アイドルグループ「LUMINA」のライブ会場は、薄暗くも活気に満ちていた。ステージのスポットライトに照らされた彼女の姿。白咲香織――歌声は透き通り、ダンスはしなやかで、その目は何かを訴えていた。一瞬で俺の心を鷲掴みにした。こんなにも誰かに惹かれるのは久しぶりだった。そして、終演後の特典会で彼女が見せた優しい笑顔が、俺の壊れかけた心に少しずつ灯をともしていく。「こんにちは、今日はありがとう。…あの、初めましてですね、僕は奏です」香織は明るく応えた。「こんにちは! わあ、初めまして! 来てくれてありがとう、奏くん」僕は少し照れくさそうに言葉を続けた。「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われてきたけど、一目惚れしました」彼女は嬉しそうに微笑んだ。「嬉しいなあ、そんなふうに言ってもらえると頑張れるよ!」俺は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。「これからも応援します。無理しすぎないでね」「ありがとう、奏くん。あなたの応援が、何よりの力になるよ。次のライブも待ってるね。」その優しい対応に、俺の壊れかけていた心が少しずつ救われていった。