「……かなくん――」
ピリリリッ、ピリリリッ……
目覚ましの音が、夢の続きを容赦なく断ち切る。
誰かが俺の名前を呼んでいた気がする。
まるで昔聞いたことのある声のように、胸の奥を揺らした。
目を開けると、天井。見慣れた部屋。現実。
手探りでスマホを手に取ると、ロック画面には、俺の推し、白咲香織の写真が映っていた。
「香織……最高に可愛いな」
スマホを握りしめる手に、無意識に力が入る。
何度も見返したくなるその写真は、俺の心の支えであり、時に苦しくなるほどの愛おしさだった。
あの日――
ライブハウスのステージで初めて見た香織のパフォーマンスが、今でも頭から離れない。
歌声、ダンス、そして表情――どれを取っても抜け目がなかった。
これまで色んな地下アイドルの現場に足を運んできたけど、ここまで“完璧”だと思えたアイドルには出会ったことがなかった。
一瞬で視線を奪われて、気づけばその存在に夢中になっていた。
さらに、黒髪ボブに大きな瞳、整った顔立ち――見た目も完全に俺の好みだった。
だけど、本当に惹かれたのはそこじゃない。
見た目以上に惹かれたのは――そのまっすぐな眼差し、ブレない芯、誰にでも丁寧に向き合う誠実さ。
ステージでは目が離せないほど輝いて、
対話では思わず心を許してしまうほど優しくて。
気づけば、彼女の存在が、俺の毎日を照らす“光”になっていた。
でも―まさか、こんな夜が来るなんて。
「お先に失礼します!」
職場をあとにしながら、ポケットの中のスマホを取り出し、LUMINAのスケジュールを確認していた。
「LUMINAの現場、次は明日か……早く香織に会いたいな」
今日はライブも特典会もない“オフ日”。
推しに会えない日は、どうしても気持ちが空っぽになる。
家に帰っても一人だし、まっすぐ帰る気になれなくて、少し遠回りして晩飯を済ませた。
通り道の小さな公園に差しかかる。
昼間は子供たちでにぎわっている場所だが、夜になると街灯もまばらで、いつもは人影すら見かけない。
ふと、ブランコのあたりに――誰かが座っているのが見えた。
(……こんな時間に、人?)
足を止めて目を凝らす。
街灯の明かりに照らされたその姿は、長い髪に華奢な肩――どうやら、女性のようだ。
さらに近づくと、微かに聞こえてきた。
「……♪ 目を閉じれば浮かぶ景色 あの日のまま止まってる……」
どこか寂しげなメロディ。
それは、俺が何度も聴いた――LUMINAの楽曲「光」だった。
(……まさか、LUMINA?)
一瞬、心臓が跳ねる。
その声に、聴き覚えがあった。
少し低めで、でも芯のある歌声。ライブで、何度も耳にしてきた“あの声”。
足音をひそめて近づくと、月明かりの下に浮かび上がったのは――
やっぱり、白咲香織だった。
(あの“香織”が、こんな場所で?)
慌てて物陰に隠れたが、その時。
「奏くん?」
優しくも不安げな声が、夜の空気を震わせる。
驚いて振り返ると、香織がこちらを見ていた。
ステージ上の彼女とは違う、素のままの顔。まっすぐな瞳が、少しだけ揺れている。
「……よっ。こんな夜遅くに……どうしたんだ? 女の子ひとりで、危ないだろ」
そう言いながら、LUMINAのオタクがいないか公園のまわりをさりげなく見渡しながら、俺は彼女が座っていたブランコの隣にそっと腰を下ろした。
「少し、考えごと。……奏くんこそ、どうしたの?」
「仕事帰り。LUMINAの現場も今日はないし、晩飯食べてちょっと遠回りしてた。……家、近くだからさ」
「そっか。……お仕事、お疲れ様」
「ありがとう。現場がない日は、こんな感じで気が抜けてるよ」
「ふふ……想像できる。奏くん、現場のときと全然雰囲気違うから」
「……独り身で悪かったな。でも、香織に会えないとマジで元気出ないんだよ。……って、そんなことより、元気なさそうだけど?何かあった?」
香織の笑顔が、ふっと陰る。
そして小さくため息をつくと、迷うように言葉を探したあと、口を開いた。
「……えっと。どうしよう……」
香織が少し俯いて、膝の上で手を握る。
「……奏くんって、他のオタクとちょっと違うよね。いつもちゃんと見てくれてるっていうか……」
「そ、そうか……?」
一度だけこちらを見て、また視線を外す。
「――私、アイドル、辞めようと思ってて……」
時間が止まったようだった。
「えっ……なんで……?」
戸惑う俺に、香織は俯いたまま話し始めた。
「まだ誰にも言ってないんだけど……
うちはずっと母子家庭で、私が中学生の時にお父さんはいなくなっちゃって。
それからずっと、お母さんがひとりで私と妹と弟を育ててくれてたの。
いつも応援してくれて、現場にも何度か来てくれてたんだけど……
この間、お母さんが倒れて、入院しちゃって。
まだ妹も弟も小さいし、
私がちゃんと支えなきゃって思った。
だから、もう……アイドル辞めようって。
家のことに専念しようって、決めたの」
香織の声が震えていた。
「……香織、そんな状況だったんだな」
俺は思わず拳を握りしめる。
「香織が決めたことなら尊重するよ。
でも……正直言うと、まだステージに立ってる香織を見ていたいんだ。
香織みたいなアイドル、他にいない。
いや、俺にとっては香織がいない人生なんて考えられない」
香織は小さくうつむいたまま、涙声になった。
「……奏くん、ありがとう。そうやって言ってくれて嬉しい。でも……これは、もう決めたことなの。」
ほんのわずかだけ、声が揺れた気がした。
香織は視線を落としたまま、何か言いたげに唇を動かしかけて――それでも、言葉にはしなかった。
「……ごめんね。話、聞いてくれてありがとう」
少し間を置いてから、ようやく立ち上がる。
俺の方をちらりと見て、小さく笑った。
「またね」
その一言を残し、香織は夜の街へと歩き出す。
肌を刺す夜風が吹く。
俺はその場に取り残されたまま、何もできずに立ち尽くしていた。
香織の背中が見えなくなっても、しばらく動けなかった。
朝の光が、いつもよりやけに白く感じた。目覚ましが鳴る前に目を覚ました俺の胸には、昨夜の香織の言葉が冷たく沈んでいる。──「私、アイドル辞めようと思ってて」あの声が、何度も頭の中でリフレインして離れない。スマホを手に取り、何気なくタイムラインを開く。そこには、いつも通りLUMINAの話題があふれていた。でも、その裏で香織がひとりで悩み、涙を流していたなんて――誰も知らない。洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、自問する。(俺に、何ができる?)推しのために何かしたいと思っても、俺はただの一ファンにすぎない。オタクは、近いようで遠い存在だ。どれだけ想っても、どれだけ時間と金を注ぎ込んでも、その心の奥まで手を伸ばすことなんて、できるわけがない。現場でペンライトを振るくらいしか、俺にできることはないのかもしれない。――そう思うと、情けなくて、悔しかった。でも、何もしないで後悔するくらいなら――やってみよう。推しのステージを、この目で見届けに行こう。いつも通り、キンブレとチェキケースをバッグに入れて、玄関の扉を開ける。少しだけ冷たい風が、気持ちをしゃんと引き締めてくれた。駅へ向かう道すがら、心はどこか落ち着かない。昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、街は変わらず騒がしい。途中のコンビニでエナドリを買い、缶を開ける音でようやく現実に引き戻された気がした。駅前では、オタク仲間たちがいつも通り軽口を交わしていた。彼らの明るい声が耳に入ってくるたびに、自分だけが何か重たいものを背負っているような気がして、少しだけ足取りが重くなる。ライブハウスに到着すると、入場列に並んだ。胸の奥が、じんわりと熱くなる。(本当に……やるんだな、今日も)間もなく、ライブが始まった。あんなことがあった翌日だというのに、香織の歌もダンスも、そして表情も――いつもと変わらなかった。(……これが、アイドルってやつか。やっぱ、香織はすごいな)ライブが終わり、メンバーたちの挨拶が順に始まる。最後に香織がマイクを手に取り、静かに口を開いた。「私からNox(LUMINAのファンネーム)のみんなに、お知らせがあります」スクリーンに映像が流れ出し、ざわついていた空気が一気に熱を帯びた。「8月17日、渋谷のライブハウスで私の生誕祭を開催します。……私に、No
「……かなくん――」ピリリリッ、ピリリリッ……目覚ましの音が、夢の続きを容赦なく断ち切る。誰かが俺の名前を呼んでいた気がする。まるで昔聞いたことのある声のように、胸の奥を揺らした。目を開けると、天井。見慣れた部屋。現実。手探りでスマホを手に取ると、ロック画面には、俺の推し、白咲香織の写真が映っていた。「香織……最高に可愛いな」スマホを握りしめる手に、無意識に力が入る。何度も見返したくなるその写真は、俺の心の支えであり、時に苦しくなるほどの愛おしさだった。あの日――ライブハウスのステージで初めて見た香織のパフォーマンスが、今でも頭から離れない。歌声、ダンス、そして表情――どれを取っても抜け目がなかった。これまで色んな地下アイドルの現場に足を運んできたけど、ここまで“完璧”だと思えたアイドルには出会ったことがなかった。一瞬で視線を奪われて、気づけばその存在に夢中になっていた。さらに、黒髪ボブに大きな瞳、整った顔立ち――見た目も完全に俺の好みだった。だけど、本当に惹かれたのはそこじゃない。見た目以上に惹かれたのは――そのまっすぐな眼差し、ブレない芯、誰にでも丁寧に向き合う誠実さ。ステージでは目が離せないほど輝いて、対話では思わず心を許してしまうほど優しくて。気づけば、彼女の存在が、俺の毎日を照らす“光”になっていた。でも―まさか、こんな夜が来るなんて。「お先に失礼します!」職場をあとにしながら、ポケットの中のスマホを取り出し、LUMINAのスケジュールを確認していた。「LUMINAの現場、次は明日か……早く香織に会いたいな」今日はライブも特典会もない“オフ日”。推しに会えない日は、どうしても気持ちが空っぽになる。家に帰っても一人だし、まっすぐ帰る気になれなくて、少し遠回りして晩飯を済ませた。通り道の小さな公園に差しかかる。昼間は子供たちでにぎわっている場所だが、夜になると街灯もまばらで、いつもは人影すら見かけない。ふと、ブランコのあたりに――誰かが座っているのが見えた。(……こんな時間に、人?)足を止めて目を凝らす。街灯の明かりに照らされたその姿は、長い髪に華奢な肩――どうやら、女性のようだ。さらに近づくと、微かに聞こえてきた。「……♪ 目を閉じれば浮かぶ景色 あの日のまま止まってる……」どこか寂し
「もう、誰も信じられない――」そう呟いて、俺は幾度も自分の心を閉ざしてきた。過去の恋愛で深く傷つき、女性という存在にさえ距離を置いてしまった。数年ぶりの“現場”。オタク仲間の誘いで足を運んだ地下アイドルグループ「LUMINA」のライブ会場は、薄暗くも活気に満ちていた。ステージのスポットライトに照らされた彼女の姿。白咲香織――歌声は透き通り、ダンスはしなやかで、その目は何かを訴えていた。一瞬で俺の心を鷲掴みにした。こんなにも誰かに惹かれるのは久しぶりだった。そして、終演後の特典会で彼女が見せた優しい笑顔が、俺の壊れかけた心に少しずつ灯をともしていく。「こんにちは、今日はありがとう。…あの、初めましてですね、僕は奏です」香織は明るく応えた。「こんにちは! わあ、初めまして! 来てくれてありがとう、奏くん」僕は少し照れくさそうに言葉を続けた。「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われてきたけど、一目惚れしました」彼女は嬉しそうに微笑んだ。「嬉しいなあ、そんなふうに言ってもらえると頑張れるよ!」俺は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。「これからも応援します。無理しすぎないでね」「ありがとう、奏くん。あなたの応援が、何よりの力になるよ。次のライブも待ってるね。」その優しい対応に、俺の壊れかけていた心が少しずつ救われていった。