8月17日。今日は香織の生誕祭、当日。
胸の高鳴りと、ほんの少しの緊張を抱えながら、俺は会場へ向かった。
「おい、奏。大丈夫かよ、ふらふらしてんじゃん」
「よう、ヒロ。仕事しながら動画編集してたら、ここ3日ほとんど寝てなくてさ」
「そんな状態で平気か? これ、俺が持つから」
両手にはネットで取り寄せた大量の白い大閃光と、コンビニで印刷した「香織おめでとう」のスローガン。
「ありがとな。最高傑作できたから……楽しみにしてろよ」
──香織が笑ってくれますように。
「お、奏。フラスタ届いてるじゃん。白で統一されてて、香織のメンカラにぴったりだな。立派だし、めちゃくちゃ映えてる」
「本当ですね! さすが奏さん。他のオタクには真似できないセンスですよ」
背後から突然声がして、思わず振り返る。
「うわっ、トモくんか。驚いた……でも本当にありがとう。君のおかげで動画、いい感じに仕上がったよ」
「いえいえ。僕も楽しみにしてます。協力してくれたオタクたちも、奏さんとヒロさんともっと仲良くなりたいって言ってました。近々オフ会企画するので、その時はぜひお二人とも参加してください!」
今まで人見知りを理由に避けてきた集まりだが、今回の準備を通して、仲間の存在の大きさを知った。
「もちろん。お礼も兼ねて参加させてよ」
「マジですか! やった! じゃあまた連絡しますね! 今日は楽しみましょう!」
そう言い残し、トモは仲間たちのもとへ駆けていった。
開場時間が始まると、俺とヒロは二手に分かれ、来場者一人ひとりに大閃光とスローガンを配っていく。
「香織ちゃん、アンコールお誕生日おめでとうのタイミングで、これ振ってください! 白はメンカラです!」
「ありがとうございます!……あっ、奏さん! トモくんに頼まれて動画企画に協力しました!」
「参加してくれてありがとう。おかげで、いい動画が完成したよ」
「私も香織ちゃん推しなので、嬉しかったです。一緒に楽しみましょうね!」
ファンの笑顔に触れ、緊張が自然とほぐれていく。
配布を終え、客席に向かおうとしたとき、トモが駆け寄ってきた。
「奏さん! 最前、空けておきましたんで、どうぞ!」
「え、いいの?」
「もちろんです。奏さんがそこにいなくて、誰がそこに立つんですか……ヒロさんにお願いされたんですけどね」
「……アイツ、勝手に……ありがとな」
その優しさに触れ、胸の奥にあった不安が、少しずつほどけていく。
隣には、いつの間にかヒロが立っていた。
「ヒロ、お前……トモくんに最前空けとくよう頼んでくれてたんだって?」
「え? なんのことだ?」
「とぼけんなよ……ってか、めちゃくちゃ緊張するんだけど」
「大丈夫だよ。奏、すげぇ頑張ってたじゃん。全部、香織のためにやってきたんだろ?」
ヒロはいつもの調子で、でも優しく背中を押してくれた。
(いつか絶対、この借りは返さなきゃな。)
やがて18時。開演の時が来た。
スポットライトが灯り、生誕祭が幕を開ける。
──純白のドレス。
この日だけの特別衣装に身を包んだ香織が、まるで光の粒をまとったようにステージに現れた。
照明が布地に反射するたび、会場の空気が熱を帯びる。
「……天使が降りてきたのかと思った」
小さな呟きは音にかき消されたが、心からの本音だった。
何百人と同じ方向を見ているはずなのに、俺だけが彼女に目を奪われている錯覚に陥る。
代表曲が続けざまに披露される。
ダンスで袖が翻るたび、客席から「かわいい!」と声が飛ぶ。
その一つひとつに微笑み返す香織の姿が眩しく、胸が熱くなる。
そして香織のソロ曲。
イントロが流れた瞬間、空気が変わった。
他のメンバーが後方で静かに支える中、香織の声だけがステージを満たす。
無数の声援と白いサイリウムの光がひとつとなり、会場全体が優しい白に染まっていった。
その光景は、祈りにも似ていた。
彼女の声に呼応するように、観客が一斉に腕を振る。
ペンライトの波が揺れ、照明と溶け合い、夜空に咲く花火のように瞬く。
俺もその一部のはずなのに、胸の奥では「特別でありたい」という身勝手な願望が疼いた。
……だけど、時間は残酷に早く過ぎていった。
最後はLUMINAの代表曲「光」。
ステージ中央に香織が立ち、観客をまっすぐ見渡す。
あの日、公園で香織が歌っていた、あの曲だ。
雨上がりのベンチで、俺を救った歌声。
それが今、何百人もの歓声に包まれて響いている。
記憶がフラッシュバックし、公開予定の動画のことも重なり、緊張が再び胸を締め付けた。
手の中のサイリウムが強く握られ、わずかに軋む。
「光」が終わり、メンバーたちが舞台から去る。
暗転した場内に、自然とアンコールの声が湧き上がる。
「アンコール! アンコール!」
その響きに混ざり、俺の鼓動も速さを増した。
「今日はありがとうございました!」
香織が満面の笑みでそう言った。
「……あんなに幼かった香織が、ね……」と涙を誇張して語るリーダーのあんじゅに、香織「そんなに歳変わらないでしょ」とツッコむ。
会場中に笑いが広がる。
メンバーがコメントを話し終えると、香織がマイクを握り直す。
「では、これが最後の曲です。聴いてください──」
「ちょっと待って。香織に私たち、そしてファンたちからプレゼントがあるの」
「みんな、モニターを見て!」
あんじゅがマイクを取り、客席がざわつく。
スクリーンが光り、映像が映し出された。
──LUMINAメンバーからのサプライズメッセージ。
実は七夕イベント終了後、ファミレスで動画に物足りなさを感じた時にヒロに相談した部分だった。
「……お、LUMINA、大型フェスに出るんだな。すげぇじゃん。やっぱ、あんじゅって進行うまいよな〜」
「それだよ……ヒロ!!」
「ん? どれ?」
「その“進行うまい”ってやつ。あんじゅってLUMINAのリーダーで、お前の推しだろ? この動画の冒頭に、メンバーからのメッセージを入れたいんだよ。香織に向けて。あんじゅに声かけてくれないか?」
「…………あー!なるほど!天才だな、俺の奏は。わかった、俺に任せろ」
「マジで? いいの?」
「それができるの、俺しかいないだろ。立場とか距離感的にも、俺が一番適任ってわけ」
──その翌週。ヒロは言葉どおり、すぐに動いてくれた。
「よっ、あんじゅ」
「あ、ヒロくん。また来てくれたんだ。……毎回顔見てる気がするなぁ」
「まあな。今日はちょっとお願いがあってさ」
「へぇ、なになに?」
「香織の生誕祭のアンコール前にサプライズでファンの声を集めた動画を流そうと思ってるんだ。その冒頭に、LUMINAのメンバーからのお祝いメッセージを入れたいんだけど……協力してくれない?」
「それ、めちゃくちゃ素敵じゃん。実は最近、香織ちょっと元気なかったんだよ。“大丈夫”しか言わないし。ファンの想いが伝わるなら、ぜひやりたい。ただ、マネージャーの加賀さんに確認しないとだけどね」
「ありがとう、ほんと助かる! ちなみに企画したのは俺じゃなくて、香織推しの奏ってやつ。俺はただの伝書鳩ってわけ」
「え、奏くん? あの真面目そうな? なるほど〜。じゃあ私も真剣にやらなきゃね」
「……お時間でーす!」
「あ、ヤバ。じゃあまた。加賀さんにも話通してみる!」
──その足で、ヒロはすぐマネージャーの元へ向かった。
「加賀さーん!」
「おお、ヒロ。今日は何の用だ?」
「香織の生誕祭で動画を流す予定があって、その中にLUMINAのメンバーのコメントも入れたくて。あんじゅには話してあるんだけど、許可もらえますか?」
「いいぜ。ヒロの頼みなら断る理由はないな」
「マジで? ありがとうございます!」
──そして数日後。
「奏、全部OKもらったぞ。撮影はマネージャーの加賀さんがしてくれて、データは後日俺が受け取りに行くことになった」
「……ほんとに、ありがとうヒロ。お前、やっぱすげぇよ」
「ふっ、俺に任せとけって言っただろ」
こうして──ヒロの協力もあり 、動画は、完成した。
まずつむぎ。
「香織ちゃん、誕生日おめでとう! いつも頼れるお姉ちゃん的存在で大好きだよ! いつかハワイで結婚式あげようね♡ ちゅっ」
会場から笑いが起きる。
次にるい。
「香織ちゃんがいるから、私、ちゃんとアイドルでいられるよ〜。これからもよろしくね! プライベートでもまた一緒にショッピング行こうね」
次にほのか。
「香織ちゃん、お誕生日おめでとう。いつも一緒に振り付けを考えてくれてありがとう。香織ちゃんの動きって、見てるだけで伝わってくるものがあって、すごいなって思ってます。これからも、そばで学ばせてください」
最後にリーダーのあんじゅ。
「これはね、ヒロくんっていうオタクからお願いされて、私がまとめました。香織、誕生日おめでとう。これで、みんなの想いがちゃんと届いたらいいな」
──続いて、ファンたちから寄せられた動画メッセージ。
「香織ちゃんのおかげで毎日が変わった」
「辛い時、香織ちゃんの笑顔に救われました」 「推してよかったって、心から思ってます!」笑顔、涙、真剣なまなざし。
どれも香織に向けた、心からの“ありがとう”だった。映像の最後に、俺が登場。
「香織……君の歌や姿に、俺は本当に救われました。ありがとう。今日だけじゃない。これからも、ずっと応援させてください」
映像が終わると、客席は静まり返り、すすり泣きと拍手が広がる。
白い光がスクリーンを照らす。
ファン全員がスローガンを掲げた。
「香織、お誕生日おめでとう!」
客席は白の大閃光に包まれ、まるで星空のように輝いた。
香織のもとへメッセージカードとケーキが運ばれ、ろうそくを吹き消したあと──
「……ありがとう……本当に、ありがとう」
震える声で香織が言った。
そしてマイクを握り直し、アンコールのラスト曲──『星の約束』が始まる。
「ひとりじゃ届かない夢も、君となら輝ける」
静かに紡がれたそのフレーズが、胸の奥に真っ直ぐ突き刺さる。
ステージに立つ彼女の姿と重なり、涙が出そうになる。
この曲は、香織自身が作詞作曲したらしい。
推しが作った曲というだけで、もう神曲に決まっている。
それを抜きにしても、間違いなく“特別な一曲”だった。
アンコールが終わり、キンブレを握ったまま立ち尽くす。
まるで夢の中に置き去りにされたみたいで、身体が動かない。
「……おい、奏。ぼーっとしてる場合じゃねぇぞ」
肩を軽く叩かれて我に返る。
隣にはヒロがいて、いつもの調子でニヤリと笑っていた。
「特典会、始まるんだろ? 置いてくぞ」
「あ、ああ……」
まだ頭の中で響く歌声を振り払うように深く息を吸い込む。
現実が再び動き出す――。
列に並ぶあいだ、緊張で手のひらがじっとり汗ばんでいた。
何を話すべきか、頭の中で言葉を何度も繰り返す。
順番が近づくにつれ、考えていたセリフはどこかへ逃げていった。
ふと、自分の格好を見下ろす。
今日は白のタキシードを着てきた。
ネタっぽいかと思ったが……「香織の色」に少しでも寄り添いたい、ただそれだけだった。
ほんの出来心が、特典会となると、まるでプロポーズでも控えている気分で――心臓が暴れ出す。
「次の方、どうぞー」
スタッフに促され前へ進む。
ライトに照らされるテーブルの向こうに、香織が座っていた。
いつもの笑顔。
距離にして数十センチ。
この近さは、ステージの何百倍も緊張を呼び起こした。
「よ、香織」
声が裏返りそうになったのを必死に抑える。
「うわ、誰かと思ったら奏くんか。どうしたのその格好……」
苦笑まじりの声に、顔が熱くなる。
逃げずに、真正面から言った。
「いや、今日は……お疲れさま。素敵なステージだった。アイドルを続けてくれて、本当にありがとう。……君がいたから、俺は前を向けたんだ」
その言葉に香織の笑顔が止まる。
じっと俺の顔を見つめる。
「……かなくん……?」
小さく漏れたその一言に、息が詰まった。
……かなくん?
耳を疑う。
聞き間違いか? こんな大事な場面で、勝手にそう聞こえただけかもしれない。
まさかな……。
香織はすでに次のファンに笑顔を向けていた。
俺は立ち尽くし、スタッフに促されて列を離れる。
特典会を終え、喧騒の余韻を背に夜道を歩く。
街の光も、スマホの通知も、今は何も入ってこない。
頭の中で、さっきの言葉が何度もリフレインする。
──かなくん。
昔、そう呼んでくれた子がいた。
幼い頃、よく一緒に遊んだ記憶の中のあの子。
名前も顔も曖昧になったが、あの子だけが、そう呼んでくれていた。
まさか――そんなはずはない。
でも、あの一瞬の声音、目の揺れ……あれは。
振り払おうとしても、香織の「かなくん?」という声が耳に残り、離れない。
まるで、封印していた何かが静かに開きはじめたような――そんな夜だった。
香織の生誕祭が終わり、LUMINAの現場もしばらくお休み。仕事も夏季休暇に入ったので、俺は久しぶりに実家のある八王子へ帰省することにした。同じ都内といっても、帰るのは半年ぶりだ。「母さん、ただいまー」「おかえり奏。ごはん作って待ってたわよ」「ありがと。ちょうど腹減ってたし、助かる。荷物置いて着替えたら食べるわ」「はーい、ゆっくりしていってね」いつもの会話。少し懐かしい、実家の空気。自室がある2階に上がり、押し入れをがさごそと探る。「そういえば、この辺に……あった、あった」引っ張り出したのは、幼少期のアルバムだった。ページをめくると、記憶の中で引っかかっていたあの一枚が目に飛び込んできた。「あー……この子だ。俺のこと“かなくん”って呼んでた……あの“男の子”」手にした写真を持って、リビングに降りる。「ねえ母さん、この男の子って誰だったっけ?」「うん? ああ、この子ね……男の子じゃないのよ。女の子。髪短くて活発だったから、あんたが勘違いしてたのも無理ないけどね」「えっ……じゃあ、名前は?」「うーん……相当昔のことだし、ちょっと待ってね……」「しっかりしてくれよ、母さん」「言うじゃないの。でも、なんで急にこの子のこと思い出したの?」なんて答えようかと考えていると、母がふと思い出したように口を開く。「……あっ、思い出した。香織ちゃんよ。その子。白咲香織ちゃん」(──やっぱり……香織だったのか)「その子がどうかしたの?」「いや、なんでもない。ただの偶然。……せっかく作ってくれたごはん、冷めちゃう前に食べよ。いただきます」食後、久しぶりにのんびりと実家の空気に身を任せていたら、スマホにLINEの通知が入った。──ヒロ:「奏、今なにしてる?」俺:「実家だけど」ヒロ:「じゃあ新宿で飲まね? 八王子だろ? 中央線一本じゃん」(……めんどくせぇ。でも、生誕祭で世話になったしな)俺:「わかった。今から出る。アルタ前18時な」ヒロ:「了解!」────ということで、中央線に揺られて、新宿まで向かうことに。アルタ前で待っていると、「奏ー!」「ヒロ。誘ったくせに来るの遅いな」「すまんすまん。じゃ、いつものとこ行こうぜ」居酒屋までの道中、ヒロの“最近調子いい”っていう自慢話を聞き流しながら、俺の頭の中は、あのアルバムに
8月17日。今日は香織の生誕祭、当日。胸の高鳴りと、ほんの少しの緊張を抱えながら、俺は会場へ向かった。「おい、奏。大丈夫かよ、ふらふらしてんじゃん」「よう、ヒロ。仕事しながら動画編集してたら、ここ3日ほとんど寝てなくてさ」「そんな状態で平気か? これ、俺が持つから」両手にはネットで取り寄せた大量の白い大閃光と、コンビニで印刷した「香織おめでとう」のスローガン。「ありがとな。最高傑作できたから……楽しみにしてろよ」──香織が笑ってくれますように。「お、奏。フラスタ届いてるじゃん。白で統一されてて、香織のメンカラにぴったりだな。立派だし、めちゃくちゃ映えてる」「本当ですね! さすが奏さん。他のオタクには真似できないセンスですよ」背後から突然声がして、思わず振り返る。「うわっ、トモくんか。驚いた……でも本当にありがとう。君のおかげで動画、いい感じに仕上がったよ」「いえいえ。僕も楽しみにしてます。協力してくれたオタクたちも、奏さんとヒロさんともっと仲良くなりたいって言ってました。近々オフ会企画するので、その時はぜひお二人とも参加してください!」今まで人見知りを理由に避けてきた集まりだが、今回の準備を通して、仲間の存在の大きさを知った。「もちろん。お礼も兼ねて参加させてよ」「マジですか! やった! じゃあまた連絡しますね! 今日は楽しみましょう!」そう言い残し、トモは仲間たちのもとへ駆けていった。開場時間が始まると、俺とヒロは二手に分かれ、来場者一人ひとりに大閃光とスローガンを配っていく。「香織ちゃん、アンコールお誕生日おめでとうのタイミングで、これ振ってください! 白はメンカラです!」「ありがとうございます!……あっ、奏さん! トモくんに頼まれて動画企画に協力しました!」「参加してくれてありがとう。おかげで、いい動画が完成したよ」「私も香織ちゃん推しなので
香織の生誕祭の企画がまとまった俺は、ヒロにLINEを送った。──俺:「香織の生誕祭、やる内容まとまった!」俺:「明日、渋谷で会えない?」ヒロ:「おけ。ハチ公前でいい?」俺:「19時集合で」ヒロ:「飲み代は任せた」俺:「お前ほんとそればっかw」──翌日、渋谷の居酒屋でヒロと合流した。「ファンの“声”を集めた動画を作りたいんだ。 香織に、これからもステージに立ちたいって思ってもらえるような――そんな動画を」少し驚いた顔を見せたヒロだったが、すぐに頷いた。「いいじゃん、それ。俺がカメラ回すよ。で、奏が声かけていく感じで」「え、俺が声かけるの? そういうのはヒロがやった方が……」「何言ってんだよお前。人見知りなのは知ってるけど、これはお前の企画だろ。俺がやっても意味ねーんだよ。お前が言うからこそ、意味があるんだよ」「……わかったよ。じゃあ、明日の現場から少しずつ声かけていこう」「任せろ。全力で香織ちゃんに届けようぜ」翌日、俺たちは少し早めに現場へ向かい、メッセージカードと動画企画への協力を呼びかけることにした。(……俺とヒロ、なんか現場で浮いてないか? ちゃんと話、聞いてもらえるかな……)その不安は、見事に的中した。声をかけても目を逸らされたり、足早に立ち去られたり。ひそひそ話の視線も、ひりひりと痛い。なかなか協力を得られないまま、時間だけが無情に過ぎていく。そんなとき、会場近くで話している二人組のファンが目に入った。(……もう、やるしかない)意を決して、俺は声をかけた。「す、すみません!!」そのうちのひとりが、パッと顔を上げて、まっすぐこっちを見た。「はい! あ、えっ、もしかして香
朝の光が、いつもよりやけに白く感じた。目覚ましが鳴る前に目を覚ました俺の胸には、昨夜の香織の言葉が冷たく沈んでいる。──「私、アイドル辞めようと思ってて」あの声が、何度も頭の中でリフレインして離れない。スマホを手に取り、何気なくタイムラインを開く。そこには、いつも通りLUMINAの話題があふれていた。でも、その裏で香織がひとりで悩み、涙を流していたなんて――誰も知らない。洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、自問する。(俺に、何ができる?)推しのために何かしたいと思っても、俺はただの一ファンにすぎない。オタクは、近いようで遠い存在だ。どれだけ想っても、どれだけ時間と金を注ぎ込んでも、その心の奥まで手を伸ばすことなんて、できるわけがない。現場でペンライトを振るくらいしか、俺にできることはないのかもしれない。――そう思うと、情けなくて、悔しかった。でも、何もしないで後悔するくらいなら――やってみよう。推しのステージを、この目で見届けに行こう。いつも通り、キンブレとチェキケースをバッグに入れて、玄関の扉を開ける。少しだけ冷たい風が、気持ちをしゃんと引き締めてくれた。駅へ向かう道すがら、心はどこか落ち着かない。昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、街は変わらず騒がしい。途中のコンビニでエナドリを買い、缶を開ける音でようやく現実に引き戻された気がした。駅前では、オタク仲間たちがいつも通り軽口を交わしていた。彼らの明るい声が耳に入ってくるたびに、自分だけが何か重たいものを背負っているような気がして、少しだけ足取りが重くなる。ライブハウスに到着すると、入場列に並んだ。胸の奥が、じんわりと熱くなる。(本当に……やるんだな、今日も)間もなく、ライブが始まった。あんなことがあった翌日だというのに、香織の歌もダンスも、そして表情も――いつもと変わらなかった。(……これが、アイドルってやつか。やっぱ、香織はすごいな)ライブが終わり、メンバーたちの挨拶が順に始まる。最後に香織がマイクを手に取り、静かに口を開いた。「私からNox(LUMINAのファンネーム)のみんなに、お知らせがあります」スクリーンに映像が流れ出し、ざわついていた空気が一気に熱を帯びた。「8月17日、渋谷のライブハウスで私の生誕祭を開催します。……私に、No
「……かなくん――」ピリリリッ、ピリリリッ……目覚ましの音が、夢の続きを容赦なく断ち切る。誰かが俺の名前を呼んでいた気がする。まるで昔聞いたことのある声のように、胸の奥を揺らした。目を開けると、天井。見慣れた部屋。現実。手探りでスマホを手に取ると、ロック画面には、俺の推し、白咲香織の写真が映っていた。「香織……最高に可愛いな」スマホを握りしめる手に、無意識に力が入る。何度も見返したくなるその写真は、俺の心の支えであり、時に苦しくなるほどの愛おしさだった。あの日――ライブハウスのステージで初めて見た香織のパフォーマンスが、今でも頭から離れない。歌声、ダンス、そして表情――どれを取っても抜け目がなかった。これまで色んな地下アイドルの現場に足を運んできたけど、ここまで“完璧”だと思えたアイドルには出会ったことがなかった。一瞬で視線を奪われて、気づけばその存在に夢中になっていた。さらに、黒髪ボブに大きな瞳、整った顔立ち――見た目も完全に俺の好みだった。だけど、本当に惹かれたのはそこじゃない。見た目以上に惹かれたのは――そのまっすぐな眼差し、ブレない芯、誰にでも丁寧に向き合う誠実さ。ステージでは目が離せないほど輝いて、対話では思わず心を許してしまうほど優しくて。気づけば、彼女の存在が、俺の毎日を照らす“光”になっていた。でも―まさか、こんな夜が来るなんて。「お先に失礼します!」職場をあとにしながら、ポケットの中のスマホを取り出し、LUMINAのスケジュールを確認していた。「LUMINAの現場、次は明日か……早く香織に会いたいな」今日はライブも特典会もない“オフ日”。推しに会えない日は、どうしても気持ちが空っぽになる。家に帰っても一人だし、まっすぐ帰る気になれなくて、少し遠回りして晩飯を済ませた。通り道の小さな公園に差しかかる。昼間は子供たちでにぎわっている場所だが、夜になると街灯もまばらで、いつもは人影すら見かけない。ふと、ブランコのあたりに――誰かが座っているのが見えた。(……こんな時間に、人?)足を止めて目を凝らす。街灯の明かりに照らされたその姿は、長い髪に華奢な肩――どうやら、女性のようだ。さらに近づくと、微かに聞こえてきた。「……♪ 目を閉じれば浮かぶ景色 あの日のまま止まってる……」どこか寂し
「もう、誰も信じられない――」そう呟いて、俺は幾度も自分の心を閉ざしてきた。過去の恋愛で深く傷つき、女性という存在にさえ距離を置いてしまった。数年ぶりの“現場”。オタク仲間の誘いで足を運んだ地下アイドルグループ「LUMINA」のライブ会場は、薄暗くも活気に満ちていた。ステージのスポットライトに照らされた彼女の姿。白咲香織――歌声は透き通り、ダンスはしなやかで、その目は何かを訴えていた。一瞬で俺の心を鷲掴みにした。こんなにも誰かに惹かれるのは久しぶりだった。そして、終演後の特典会で彼女が見せた優しい笑顔が、俺の壊れかけた心に少しずつ灯をともしていく。「こんにちは、今日はありがとう。…あの、初めましてですね、僕は奏です」香織は明るく応えた。「こんにちは! わあ、初めまして! 来てくれてありがとう、奏くん」僕は少し照れくさそうに言葉を続けた。「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われてきたけど、一目惚れしました」彼女は嬉しそうに微笑んだ。「嬉しいなあ、そんなふうに言ってもらえると頑張れるよ!」俺は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。「これからも応援します。無理しすぎないでね」「ありがとう、奏くん。あなたの応援が、何よりの力になるよ。次のライブも待ってるね。」その優しい対応に、俺の壊れかけていた心が少しずつ救われていった。