Mag-log in8月17日。今日は香織の生誕祭、当日。
胸の高鳴りと、ほんの少しの緊張を抱えながら、俺は会場へ向かった。
「おい、奏。大丈夫かよ、ふらふらしてんじゃん」
「よう、ヒロ。仕事しながら動画編集してたら、ここ3日ほとんど寝てなくてさ」
「そんな状態で平気か? これ、俺が持つから」
両手にはネットで取り寄せた大量の白い大閃光と、コンビニで印刷した「香織おめでとう」のスローガン。
「ありがとな。最高傑作できたから……楽しみにしてろよ」
──香織が笑ってくれますように。
「お、奏。フラスタ届いてるじゃん。白で統一されてて、香織のメンカラにぴったりだな。立派だし、めちゃくちゃ映えてる」
「本当ですね! さすが奏さん。他のオタクには真似できないセンスですよ」
背後から突然声がして、思わず振り返る。
「うわっ、トモくんか。驚いた……でも本当にありがとう。君のおかげで動画、いい感じに仕上がったよ」
「いえいえ。僕も楽しみにしてます。協力してくれたオタクたちも、奏さんとヒロさんともっと仲良くなりたいって言ってました。近々オフ会企画するので、その時はぜひお二人とも参加してください!」
今まで人見知りを理由に避けてきた集まりだが、今回の準備を通して、仲間の存在の大きさを知った。
「もちろん。お礼も兼ねて参加させてよ」
「マジですか! やった! じゃあまた連絡しますね! 今日は楽しみましょう!」
そう言い残し、トモは仲間たちのもとへ駆けていった。
開場時間が始まると、俺とヒロは二手に分かれ、来場者一人ひとりに大閃光とスローガンを配っていく。
「香織ちゃん、アンコールお誕生日おめでとうのタイミングで、これ振ってください! 白はメンカラです!」
「ありがとうございます!……あっ、奏さん! トモくんに頼まれて動画企画に協力しました!」
「参加してくれてありがとう。おかげで、いい動画が完成したよ」
「私も香織ちゃん推しなので、嬉しかったです。一緒に楽しみましょうね!」
ファンの笑顔に触れ、緊張が自然とほぐれていく。
配布を終え、客席に向かおうとしたとき、トモが駆け寄ってきた。
「奏さん! 最前、空けておきましたんで、どうぞ!」
「え、いいの?」
「もちろんです。奏さんがそこにいなくて、誰がそこに立つんですか……ヒロさんにお願いされたんですけどね」
「……アイツ、勝手に……ありがとな」
その優しさに触れ、胸の奥にあった不安が、少しずつほどけていく。
隣には、いつの間にかヒロが立っていた。
「ヒロ、お前……トモくんに最前空けとくよう頼んでくれてたんだって?」
「え? なんのことだ?」
「とぼけんなよ……ってか、めちゃくちゃ緊張するんだけど」
「大丈夫だよ。奏、すげぇ頑張ってたじゃん。全部、香織のためにやってきたんだろ?」
ヒロはいつもの調子で、でも優しく背中を押してくれた。
(いつか絶対、この借りは返さなきゃな。)
やがて18時。開演の時が来た。
スポットライトが灯り、生誕祭が幕を開ける。
──純白のドレス。
この日だけの特別衣装に身を包んだ香織が、まるで光の粒をまとったようにステージに現れた。
照明が布地に反射するたび、会場の空気が熱を帯びる。
「……天使が降りてきたのかと思った」
小さな呟きは音にかき消されたが、心からの本音だった。
何百人と同じ方向を見ているはずなのに、俺だけが彼女に目を奪われている錯覚に陥る。
代表曲が続けざまに披露される。
ダンスで袖が翻るたび、客席から「かわいい!」と声が飛ぶ。
その一つひとつに微笑み返す香織の姿が眩しく、胸が熱くなる。
そして香織のソロ曲。
イントロが流れた瞬間、空気が変わった。
他のメンバーが後方で静かに支える中、香織の声だけがステージを満たす。
無数の声援と白いサイリウムの光がひとつとなり、会場全体が優しい白に染まっていった。
その光景は、祈りにも似ていた。
彼女の声に呼応するように、観客が一斉に腕を振る。
ペンライトの波が揺れ、照明と溶け合い、夜空に咲く花火のように瞬く。
俺もその一部のはずなのに、胸の奥では「特別でありたい」という身勝手な願望が疼いた。
……だけど、時間は残酷に早く過ぎていった。
最後はLUMINAの代表曲「光」。
ステージ中央に香織が立ち、観客をまっすぐ見渡す。
あの日、公園で香織が歌っていた、あの曲だ。
雨上がりのベンチで、俺を救った歌声。
それが今、何百人もの歓声に包まれて響いている。
記憶がフラッシュバックし、公開予定の動画のことも重なり、緊張が再び胸を締め付けた。
手の中のサイリウムが強く握られ、わずかに軋む。
「光」が終わり、メンバーたちが舞台から去る。
暗転した場内に、自然とアンコールの声が湧き上がる。
「アンコール! アンコール!」
その響きに混ざり、俺の鼓動も速さを増した。
「今日はありがとうございました!」
香織が満面の笑みでそう言った。
「……あんなに幼かった香織が、ね……」と涙を誇張して語るリーダーのあんじゅに、香織「そんなに歳変わらないでしょ」とツッコむ。
会場中に笑いが広がる。
メンバーがコメントを話し終えると、香織がマイクを握り直す。
「では、これが最後の曲です。聴いてください──」
「ちょっと待って。香織に私たち、そしてファンたちからプレゼントがあるの」
「みんな、モニターを見て!」
あんじゅがマイクを取り、客席がざわつく。
スクリーンが光り、映像が映し出された。
──LUMINAメンバーからのサプライズメッセージ。
実は七夕イベント終了後、ファミレスで動画に物足りなさを感じた時にヒロに相談した部分だった。
「……お、LUMINA、大型フェスに出るんだな。すげぇじゃん。やっぱ、あんじゅって進行うまいよな〜」
「それだよ……ヒロ!!」
「ん? どれ?」
「その“進行うまい”ってやつ。あんじゅってLUMINAのリーダーで、お前の推しだろ? この動画の冒頭に、メンバーからのメッセージを入れたいんだよ。香織に向けて。あんじゅに声かけてくれないか?」
「…………あー!なるほど!天才だな、俺の奏は。わかった、俺に任せろ」
「マジで? いいの?」
「それができるの、俺しかいないだろ。立場とか距離感的にも、俺が一番適任ってわけ」
──その翌週。ヒロは言葉どおり、すぐに動いてくれた。
「よっ、あんじゅ」
「あ、ヒロくん。また来てくれたんだ。……毎回顔見てる気がするなぁ」
「まあな。今日はちょっとお願いがあってさ」
「へぇ、なになに?」
「香織の生誕祭のアンコール前にサプライズでファンの声を集めた動画を流そうと思ってるんだ。その冒頭に、LUMINAのメンバーからのお祝いメッセージを入れたいんだけど……協力してくれない?」
「それ、めちゃくちゃ素敵じゃん。実は最近、香織ちょっと元気なかったんだよ。“大丈夫”しか言わないし。ファンの想いが伝わるなら、ぜひやりたい。ただ、マネージャーの加賀さんに確認しないとだけどね」
「ありがとう、ほんと助かる! ちなみに企画したのは俺じゃなくて、香織推しの奏ってやつ。俺はただの伝書鳩ってわけ」
「え、奏くん? あの真面目そうな? なるほど〜。じゃあ私も真剣にやらなきゃね」
「……お時間でーす!」
「あ、ヤバ。じゃあまた。加賀さんにも話通してみる!」
──その足で、ヒロはすぐマネージャーの元へ向かった。
「加賀さーん!」
「おお、ヒロ。今日は何の用だ?」
「香織の生誕祭で動画を流す予定があって、その中にLUMINAのメンバーのコメントも入れたくて。あんじゅには話してあるんだけど、許可もらえますか?」
「いいぜ。ヒロの頼みなら断る理由はないな」
「マジで? ありがとうございます!」
──そして数日後。
「奏、全部OKもらったぞ。撮影はマネージャーの加賀さんがしてくれて、データは後日俺が受け取りに行くことになった」
「……ほんとに、ありがとうヒロ。お前、やっぱすげぇよ」
「ふっ、俺に任せとけって言っただろ」
こうして──ヒロの協力もあり 、動画は、完成した。
まずつむぎ。
「香織ちゃん、誕生日おめでとう! いつも頼れるお姉ちゃん的存在で大好きだよ! いつかハワイで結婚式あげようね♡ ちゅっ」
会場から笑いが起きる。
次にるい。
「香織ちゃんがいるから、私、ちゃんとアイドルでいられるよ〜。これからもよろしくね! プライベートでもまた一緒にショッピング行こうね」
次にほのか。
「香織ちゃん、お誕生日おめでとう。いつも一緒に振り付けを考えてくれてありがとう。香織ちゃんの動きって、見てるだけで伝わってくるものがあって、すごいなって思ってます。これからも、そばで学ばせてください」
最後にリーダーのあんじゅ。
「これはね、ヒロくんっていうオタクからお願いされて、私がまとめました。香織、誕生日おめでとう。これで、みんなの想いがちゃんと届いたらいいな」
──続いて、ファンたちから寄せられた動画メッセージ。
「香織ちゃんのおかげで毎日が変わった」
「辛い時、香織ちゃんの笑顔に救われました」 「推してよかったって、心から思ってます!」笑顔、涙、真剣なまなざし。
どれも香織に向けた、心からの“ありがとう”だった。映像の最後に、俺が登場。
「香織……君の歌や姿に、俺は本当に救われました。ありがとう。今日だけじゃない。これからも、ずっと応援させてください」
映像が終わると、客席は静まり返り、すすり泣きと拍手が広がる。
白い光がスクリーンを照らす。
ファン全員がスローガンを掲げた。
「香織、お誕生日おめでとう!」
客席は白の大閃光に包まれ、まるで星空のように輝いた。
香織のもとへメッセージカードとケーキが運ばれ、ろうそくを吹き消したあと──
「……ありがとう……本当に、ありがとう」
震える声で香織が言った。
そしてマイクを握り直し、アンコールのラスト曲──『星の約束』が始まる。
「ひとりじゃ届かない夢も、君となら輝ける」
静かに紡がれたそのフレーズが、胸の奥に真っ直ぐ突き刺さる。
ステージに立つ彼女の姿と重なり、涙が出そうになる。
この曲は、香織自身が作詞作曲したらしい。
推しが作った曲というだけで、もう神曲に決まっている。
それを抜きにしても、間違いなく“特別な一曲”だった。
アンコールが終わり、キンブレを握ったまま立ち尽くす。
まるで夢の中に置き去りにされたみたいで、身体が動かない。
「……おい、奏。ぼーっとしてる場合じゃねぇぞ」
肩を軽く叩かれて我に返る。
隣にはヒロがいて、いつもの調子でニヤリと笑っていた。
「特典会、始まるんだろ? 置いてくぞ」
「あ、ああ……」
まだ頭の中で響く歌声を振り払うように深く息を吸い込む。
現実が再び動き出す――。
列に並ぶあいだ、緊張で手のひらがじっとり汗ばんでいた。
何を話すべきか、頭の中で言葉を何度も繰り返す。
順番が近づくにつれ、考えていたセリフはどこかへ逃げていった。
ふと、自分の格好を見下ろす。
今日は白のタキシードを着てきた。
ネタっぽいかと思ったが……「香織の色」に少しでも寄り添いたい、ただそれだけだった。
ほんの出来心が、特典会となると、まるでプロポーズでも控えている気分で――心臓が暴れ出す。
「次の方、どうぞー」
スタッフに促され前へ進む。
ライトに照らされるテーブルの向こうに、香織が座っていた。
いつもの笑顔。
距離にして数十センチ。
この近さは、ステージの何百倍も緊張を呼び起こした。
「よ、香織」
声が裏返りそうになったのを必死に抑える。
「うわ、誰かと思ったら奏くんか。どうしたのその格好……」
苦笑まじりの声に、顔が熱くなる。
逃げずに、真正面から言った。
「いや、今日は……お疲れさま。素敵なステージだった。アイドルを続けてくれて、本当にありがとう。……君がいたから、俺は前を向けたんだ」
その言葉に香織の笑顔が止まる。
じっと俺の顔を見つめる。
「……かなくん……?」
小さく漏れたその一言に、息が詰まった。
……かなくん?
耳を疑う。
聞き間違いか? こんな大事な場面で、勝手にそう聞こえただけかもしれない。
まさかな……。
香織はすでに次のファンに笑顔を向けていた。
俺は立ち尽くし、スタッフに促されて列を離れる。
特典会を終え、喧騒の余韻を背に夜道を歩く。
街の光も、スマホの通知も、今は何も入ってこない。
頭の中で、さっきの言葉が何度もリフレインする。
──かなくん。
昔、そう呼んでくれた子がいた。
幼い頃、よく一緒に遊んだ記憶の中のあの子。
名前も顔も曖昧になったが、あの子だけが、そう呼んでくれていた。
まさか――そんなはずはない。
でも、あの一瞬の声音、目の揺れ……あれは。
振り払おうとしても、香織の「かなくん?」という声が耳に残り、離れない。
まるで、封印していた何かが静かに開きはじめたような――そんな夜だった。
「ゴホッ、ゴホッ……」「香織ちゃん、大丈夫?」「るい……お見舞い、ありがとう」「親友でしょ。そんなの当たり前だよ」今、LUMINAは大型フェスに向けたセンター&立ち位置を決める人気投票の真っ最中。……そんなタイミングで、私はまさかの夏風邪を引いてしまった。明らかに不利。推しが出ない現場に来るオタクなんて、ほとんどいないのに。「ねえ、香織ちゃん、聞いてる?」「ん? なに?」「いやだから、奏っちがさ……」「え、どうしたの? 奏くんが? ゴホゴホッ」「風邪引いてるのに、大声出しちゃダメ〜!」「いやさ、奏っち。香織ちゃんいないのに、ライブ毎回来てるんだよ」「えっ、奏くんが……?」「こないだ全員握手会もあったんだけど……」そう――とある握手会の日。「うわぁ、香織ちゃんいないのに参加って……まさか浮気?」「ははっ、まさか〜」(でも……奏っち、目が笑ってなかった)「人気投票、今香織休んでるだろ? 俺1人が頑張ってもどうにもならないのかもしれないけど……。香織の悲しい顔、もう見たくないんだ」るいの言葉が、頭の中で繰り返された。(そんなこと……言ってくれる人、他にいないよ……)胸の奥が、熱くなる。嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからなかった。「……って話なんだけど、香織ちゃん、顔すごい赤いけど大丈夫?」「な、なんでもないよ。熱ぶり返したかな」「えっ、じゃあ私、帰ったほうが――」「…&helli
カレー作りが終わり、夜になった。キャンプファイヤーの炎がパチパチと音を立てる中、みんなで輪になってカレーを食べていた。もちろん、俺の隣には――キャンプファイヤーの炎より暑苦しい、いや、情熱的な男・ヒロがいた。「おい、奏」「ん?」ヒロが俺の肩を小突いてくる。「香織ちゃん、さっきからちょっと落ち込んでる感じだったけど……なんかあった?」「え? いや、特には。でも、ちょっと元気ないかもな……」「にしても、このカレーうめぇな」「特に“香織がといだ米”、最高すぎだろ」「いや、俺も米担当だし」「ヒロ、夢を壊すな……」和やかな笑いがこぼれる中、香織は少し離れた場所で、静かにスプーンを動かしていた。「はぁ……」その小さなため息を聞きつけたのは、輪から少し離れた木陰に座っていたあんじゅだった。「香織、どうしたの?」あんじゅが声をかける。リーダーとしての気配りが自然とにじみ出る、穏やかな口調。「……なんでもないよ」香織はスプーンを止め、俯きがちに答える。「また、アイドル辞めようとしてたときみたいに、自分で抱え込んでない?」あんじゅの言葉に、香織はピクリと肩を揺らす。「……」火の粉がふわりと宙に舞う。沈黙が、ほんの少しだけ、場の空気を張りつめさせた。ほのかが怪我をして、奏が救護室に付き添って行った。私も心配で、少し時間を置いてから向かった。ドアの前に立つと、中からかすかに話し声が聞こえた。ほのかの声と――奏の声。「香織ちゃんじゃなくて、私じゃダメですか?」その瞬間、息が止まりそうになった。「それって……推し変してほしいってこと?」「そ、そうじゃなくて。アイドルとファンじゃなく、1人の女の子として……」冗談だよね。そう思いたかった。でも、耳に届く声は真剣だった。「冗談じゃないです! 奏さんって、オタクとしてもすごいけど……1人の人として、素敵だなって思ってます」胸がぎゅっと締めつけられた。ほのかが奏くんを、そんなふうに見ていたなんて――。私たちはアイドル。ファンと恋なんて、許されるはずがない。でも、1人の女の子として見たら、それはきっと自然な感情だ。……それでも。なんで、よりによって奏くんなの。私のファンでいてくれて、どんなときも支えてくれて、あの笑顔で、私の全部を肯定してくれた、あの人を。胸の奥がざわつい
私は、アイドルが大好きだった。小さな頃からテレビの前で踊って、笑っていた。アイドルが歌って、笑って、誰かの心を照らすたび、「私もいつか、あんなふうになりたい」って──ずっと思ってた。夢が大きくなったのは、中学の頃。私も、誰かを笑顔にしたい。その想いは、自分の中で揺るぎないものになっていた。私は幼い頃からクラシックバレエを習っていて、ダンスには少しだけ自信があった。だからきっと、夢を叶えられるはずって信じてた。でも。いざ親に話したときの反応は、あまりにも冷たかった。「アイドル?そんなもの、将来性がないだろ。もっと現実を見なさい」──父の言葉は、まるで冷水みたいだった。それでも私は、諦めきれなかった。誰かの夢を照らす存在に、どうしてもなりたかった。高校に入り、バイトをいくつも掛け持ちした。制服のままコンビニへ直行して、帰るころには日付が変わっていた。自分で貯めたお金で、養成所に通いはじめた。ダンスはずっと得意だったけど、歌はどうしても弱かった。何度もオーディションを受けた。書類で落ちて、一次審査で落ちて、最終審査で落ちて。何度、もう無理かもって思ったか、分からない。でも──“誰かの希望になりたい”という気持ちだけは、誰にも、負けてないと思ってた。とある日の午後、公園の広場で、私はひとりダンスの練習をしていた。何度も何度も、同じ振り付けを繰り返す。バイトを掛け持ちしながら、わずかな時間をぬって練習して。ボーカルトレーニングにも通って。それでも、オーディションにはなかなか受からない。努力は、すぐには報われないってわかってるけど──それでも。足が止まった瞬間、視界がぼやけた。気づけば、涙が頬をつたっていた。
生誕祭のあとも、変わらず香織のオタクとして、LUMINAの現場に通い続けていた。今日はショッピングモールでの外部イベント。イベントの最後には、メンバー全員との握手会が行われることになっていた。香織以外のメンバーには、まだ顔を覚えられていない気がして、ちょっと緊張する。最初に現れたのは、黒髪ロングでスタイル抜群、落ち着いた雰囲気のリーダー・黒瀬あんじゅ。まさに“頼れるお姉さん”という言葉がぴったりだ。「こないだの生誕祭はありがとな」と声をかけると、あんじゅは優しく笑った。「香織のためだし、ヒロくんに頼まれちゃったしね。素敵な生誕祭だったよ。……これからも、香織のことよろしくね」「こちらこそ、香織を支えてやってくれ。あと、ヒロもな」「あら、ヒロくんの扱いが軽くない?」と、くすっと笑う彼女にちょっと救われた気がした。続いて現れたのは、小柄で内気な雰囲気の風花ほのか。ステージ上では力強いダンスを見せる、メインダンサーだ。「こんにちは」と声をかけると、彼女はしばらく黙っていた。戸惑っていると、小さな声で「奏さん……」とつぶやく。「僕のこと知ってくれてたんだ、ありがとう」「そ、それは……」と言いかけた瞬間、スタッフが声を飛ばす。「お時間でーす!」「またね」と手を振ると、彼女は「あ……」と何か言いかけたまま、視線を落とした。次に現れたのは、金髪が目を引く元気な美少女・秋庭るい。LUMINAのメインボーカルだ。「あー!奏っちだー!香織からよく聞いてるよ!」「えっ、まじか。どんな話されてるか気になるな……」「それはヒミツ♪」と、いたずらっぽく笑う。「でもね、香織が言ってたよ。『奏くんって頼りになるオタクなんだよ』って。一緒に香織を支えていこうね、奏っち」「頼りになる……か。う
私は、地下アイドルLUMINAのセンター、白咲香織。昔よく一緒に遊んでいた男の子に、男の子だと勘違いされたのが悔しくて──それがきっかけで、小中学生の頃はモデルをしていた。でも、成長するにつれて需要は減り、仕事も激減。ちょうどその頃、両親が離婚して、私と妹・弟の3人は母に引き取られた。そんなある日、当時所属していたモデル事務所の社長が言った。「知り合いが地下アイドルの事務所を始めるんだけど、やってみないか? 興味があったら連絡してほしい」迷いはあったけれど、新しいことを始めたい気持ちが勝った。アイドルなんて自分にできるのか、わからなかったけど……勇気を出して電話をかけた。初めて事務所に足を運んだ日、社長の隣には一人の女の子がいた。「この子は黒瀬あんじゅ。香織ちゃんと同い年で、グループのリーダーをやってもらおうと思ってる」「香織ちゃん、よろしくね。黒瀬あんじゅです!」──これが、あんじゅとの出会いだった。そのあと、秋庭るい、風花ほのか、南雲つむぎが加入。最初は、観客が数人しかいないような、底辺地下アイドルだった。それでも、がむしゃらにレッスンして、必死で歌って、笑って、時には泣いた。気づけば、仲間と過ごす日々が宝物のようになっていた。そんなある日、ライブ後の特典会で、彼に出会った。「こんにちは。今日はありがとう……初めましてですね、僕は奏です」(あのとき、ずっと私を見てくれてた子……奏くん、なんだか懐かしい雰囲気を持ってる)「こんにちは! 来てくれてありがとう、奏くん!」「香織さんの歌、すごく良かったです。今日、友達に誘われて来たんですが……一目惚れしました」(えっ……そんなこと、初めて言われた……)「嬉しいなあ。そんなふうに言ってもらえると、すごく励みになるよ!」「これからも応援します。無理しないでくださいね」(やさしい……また来てくれたら嬉しいな)「ありがとう、奏くん。あなたの応援が何よりの力になるよ。次のライブも、待ってるね」──そして次のライブにも、彼は来てくれた。「こんにちは、香織さん! また来ちゃいました。あの日のパフォーマンスが忘れられなくて……。それに、“待ってるね”って言ってくれたのが、すごく嬉しくて」(パフォーマンスを褒めてくれて嬉しい。私は努力を見てもらえたんだ……)彼は、ライブのたび
香織の生誕祭が終わり、LUMINAの現場もしばらくお休み。仕事も夏季休暇に入ったので、俺は久しぶりに実家のある八王子へ帰省することにした。同じ都内といっても、帰るのは半年ぶりだ。「母さん、ただいまー」「おかえり奏。ごはん作って待ってたわよ」「ありがと。ちょうど腹減ってたし、助かる。荷物置いて着替えたら食べるわ」「はーい、ゆっくりしていってね」いつもの会話。少し懐かしい、実家の空気。自室がある2階に上がり、押し入れをがさごそと探る。「そういえば、この辺に……あった、あった」引っ張り出したのは、幼少期のアルバムだった。ページをめくると、記憶の中で引っかかっていたあの一枚が目に飛び込んできた。「あー……この子だ。俺のこと“かなくん”って呼んでた……あの“男の子”」手にした写真を持って、リビングに降りる。「ねえ母さん、この男の子って誰だったっけ?」「うん? ああ、この子ね……男の子じゃないのよ。女の子。髪短くて活発だったから、あんたが勘違いしてたのも無理ないけどね」「えっ……じゃあ、名前は?」「うーん……相当昔のことだし、ちょっと待ってね……」「しっかりしてくれよ、母さん」「言うじゃないの。でも、なんで急にこの子のこと思い出したの?」なんて答えようかと考えていると、母がふと思い出したように口を開く。「……あっ、思い出した。香織ちゃんよ。その子。白咲香織ちゃん」(──やっぱり……香織だったのか)「その子がどうかしたの?」「いや、なんでもない。ただの偶然。……せっかく作ってくれたごはん、冷めちゃう前に食べよ。いただきます」食後、久しぶりにのんびりと実家の空気に身を任せていたら、スマホにLINEの通知が入った。──ヒロ:「奏、今なにしてる?」俺:「実家だけど」ヒロ:「じゃあ新宿で飲まね? 八王子だろ? 中央線一本じゃん」(……めんどくせぇ。でも、生誕祭で世話になったしな)俺:「わかった。今から出る。アルタ前18時な」ヒロ:「了解!」────ということで、中央線に揺られて、新宿まで向かうことに。アルタ前で待っていると、「奏ー!」「ヒロ。誘ったくせに来るの遅いな」「すまんすまん。じゃ、いつものとこ行こうぜ」居酒屋までの道中、ヒロの“最近調子いい”っていう自慢話を聞き流しながら、俺の頭の中は、あのアルバムに







