LOGIN結婚して3年、医師である夫、磯野隆行(いその たかゆき)に新婚旅行を10回も中止にされた。 1度目は、彼が指導している女性研修医、三森梢(みもり こずえ)が患者とトラブルを起こしたと言って、彼は見知らぬ街に私、磯野晴加(いその はるか)をひとり置き去りにした。 2度目は、その研修医が患者の病因を特定できないからと、彼は慌てて引き返し、真夜中の人けのない場所に私を残していった。 それ以来、私が新婚旅行を口にするたび、決まって彼女に何かしらの問題が起きるのだった。 もう疲れ果てた。この結婚生活ごと、捨て去ろうと決めた。 なのに、私が国境なき医師団の医師になった時、彼は泣きながら戻ってきてくれと縋りついてくるのだ。
View More「だから何?」叩かれた頬を押さえながら、梢は隆行の耳元に顔を寄せると、不気味に声を潜めて言った。「どうしてわからないんです?先生と私は、もう運命共同体なんですよ。この1年余り、私たち、恋人みたいなことは全部してきたじゃないですか。病院中の人が先生の行いを軽蔑してるって、わかってます?だって先生みたいに年を取って冴えないおじさんが、こんなに若い私をたぶらかしたんですからね。大人しく私の言うことを聞いた方が身のためですよ。じゃないと、私の口から何が飛び出すか、保証できませんから」言ってしまえば、梢が今持っているものはすべて、隆行が与えたものだった。彼という後ろ盾がいなければ、彼女が病院にこれほど順調に残ることはできなかったし、これほど目立つこともなかっただろう。梢は決して真面目で有能な人間ではなかったが、姑息な悪知恵にかけては人並み外れた才能を持っていたのだ。いつも周囲の医者たちを上手く丸め込んでは、自分の仕事を平然と肩代わりさせてきた。多くの人間は彼女の安っぽい手口には引っかからなかったが、よりによって隆行は愚かにも、自ら進んで彼女の張った罠に落ちていったのである。似た者同士だったとも言える。一方は若さと活力を求め、もう一方は自分をより高い地位へ引き上げてくれる後ろ盾を求めたのだから。「この、イカれた女が!」隆行は梢の頬に、続けざまに2発、重い平手打ちを叩き込んだ。その表情は、氷のように冷え切っていた。「それが、お前が俺たちのチャット履歴を消した理由だったんだな。手が滑って間違って消したなんて言っていたが、実際は証拠を残さないためだったんだろう。梢、お前は相手を間違えたな。俺のパソコンには、あの時のやり取りが丸ごと残ってる。俺を誘惑し、うまく取り入って、今回の採用審査で良い評価を得たのも、全部お前の汚い企みだ。仮に俺が共犯者だとしても、お前だけを無事に済ませるつもりはない」隆行はすぐさま、すべての証拠を院内に暴露した。その結果、彼と梢は揃って懲戒処分を受け、病院を去ることになった。互いに相手を許せず、ついには院内で取っ組み合いの醜い喧嘩にまで発展し、ふたりとも半月ほどかけてようやく怪我が癒えるという有様だった。……退院後、隆行は私たちがかつて新婚旅行に行くと約束していた場所へと向かった。居心地の良いホ
隆行が去った後、噂は瞬く間に病院中へと広がっていった。「だから言ったでしょ、梢と隆行先生、絶対にできてるって。どんなに仲が良くたって、毎日あんなにべったりくっついてるなんて普通じゃないもの。やっぱり不倫相手だったのよ」「晴加先生があんなに長い間我慢してたのに、急にいなくなったって話でしょ?もしかして梢、妊娠でもしたんじゃないの?」噂は人から人へと伝わるうちに尾ひれがつき、形を変え、いつしか梢は妊娠数ヶ月で、そのお腹の子の父親は当然隆行だということになっていた。「子供って、一体何の話ですか?」一部始終を聞かされた梢は、手にしていた物をがしゃんと床に落とした。彼女自身が、その真実を一番よくわかっていた。確かに隆行とは多少親密な関係にはなっていたものの、実際に体の関係まで進んだことなど一度もない。だから、そんな子供など存在するはずがなかったのだ。「私、噂のこと全部知りました。先生、大丈夫です!私がちゃんと否定して回りますから。でも、もし世間体を取り繕うために、本当に子供が必要だとおっしゃるなら、私が先生の子供を産んでもいいです。私はこれからもずっとおそばにいますから」梢は焦った様子で隆行の前に駆け寄ると、周囲の目も憚らずにそう言い切った。同じ科の同僚たちは、「やっぱりな」とでも言いたげな冷ややかな表情で、向き合うふたりを眺めている。隆行はすっかり困惑していた。子供?いつ自分に子供ができたというのか。「お前、何をわけのわからないことを言ってるんだ。子供なんて、一体どこから出てきた話だ」そう言いながら、彼は思わず声を荒らげていた。「仮に子供がいたとしても、それは俺と晴加の夫婦の問題だ。お前が口を出すことじゃないだろう。梢、もう一度はっきりと言っておく。俺がお前にしてきたことは、全部お前が俺の担当する研修医だからだ。もう少し踏み込んで言うなら、教え子だからだ。年下の後輩に対する思いやり以上のものは、何もない。頼むから、これ以上の一線を越えるな」隆行がわざと声を張り上げたため、周りにいた同僚たちにもその言葉はすっかり聞こえてしまい、皆が一斉にスマホを取り出してせわしなく文字を打ち始めた。「そんなことないです、先生。私、ふたりの間の一線を越えたつもりなんてありません。ただ、先生を心から尊敬していただけです。ごめ
隆行の胸の内で、パニックはとめどなく膨れ上がっていった。これまでの日々、自分と私との間にあった小さな違和感をひとつひとつ思い返すうち、ふいに目の前が真っ暗になり、彼はそのままばたりと意識を失ってしまったのだ。再び重い瞼を開くと、院長が傍らに座り、深いため息をついていた。「もう探す必要はない。晴加は数日前に退職願を出している。確か、お前たちが新婚旅行を約束していた日のことだ。あの日、彼女から私に電話があったんだ。どういう事情があるにせよ、お前はもう十分すぎるほど晴加を苦しめてきた。今度こそ、彼女を自由にしてやれ」院長は心底疲れ切った様子だった。私たちは病院に入局したばかりの頃から、院長の下で働いていた。あの頃の隆行と私はいつも一緒にいて、科は違えど、病院中に私たちの仲睦まじさが知れ渡っていたほどだった。院長はそんな私たちを、結婚に至るまで、そして今日までずっと見守ってきてくれた人だった。あんなに愛し合っていたはずのふたりが、どうしてこんな見苦しい結末を迎えたのか、彼にはどうしても理解できなかったのだ。「……っ先生」隆行は小刻みに震えながら体を起こし、苦々しさを噛みしめながら口を開いた。「この1年、俺が間違っていました。晴加の気持ちを蔑ろにしていたことは、もう十分にわかってます。梢はもうすぐ正式採用されるはずですから、これからは彼女とは一切連絡を取りません。近づくこともしません。だから、晴加がどこにいるか教えてください……晴加が退職なんてするはずがない。これは先生方が示し合わせて、俺にお灸を据えようとしてるだけなんでしょう?俺、もう本当にわかりましたから」そう言うと、隆行はその場で膝をつこうとした。院長は驚いて顔を上げると、すぐに厳しい表情を浮かべた。「お前は、本当にどうしようもない男だな。この1年余り、お前が晴加をどう扱ってきたか、病院中の誰もが知っている。何様のつもりだ?梢という若くて活気のある女に出会い、そのために晴加を何度も踏みにじってきただろう。新婚旅行のことだけでも、一体何回台無しにした?自分でも数えきれないんじゃないのか!毎回毎回、緊急だ、仕方ないだと白々しい言い訳をして。梢はひとりじゃ何もできない赤ん坊か?お前がいないと生きていけないとでも言うのか?まさかお前が、私と晴加がぐるに
「これでよろしいでしょうか?」恥ずかしさのあまり頬と耳を真っ赤にした梢を見て、隆行はようやく不安を振り払えたようだった。彼は梢を庇うように前に立つと、愛想のいい笑みを浮かべた。「今日は俺の落ち度で、皆さんのせっかくの楽しい時間を台無しにしてしまいました。交通費は後で振り込みます。また今度、改めて集まりましょう」無理やり気持ちを立て直し、最後の客を見送ってから、隆行は疲れた様子で車を出し、梢を家まで送っていった。出発した時とはまるで違う重い空気が漂っていた。彼は、私がどれだけ怒っていても彼の面子を潰すような真似はしないだろうと高を括っていたのだ。パーティーが無事終わるまで、私が大人しく待っているだろうと。今日という日を、自分の思い通りに梢のための人脈作りに使えると思い込んでいた。「先生、ごめんなさい」車が停まると、梢は深々と申し訳なさそうに頭を下げ、逃げるように駆けていく。彼女の算段では、これで完璧なはずだった。隆行は、彼女が不憫な思いをするのを何よりも嫌う。今日ここまで低姿勢を貫いたのだから、きっと追いかけてきてくれるはずだ、と。けれど、どれだけ待っても、振り返った先にあったのは遠ざかっていく車の後ろ姿だけだった。「何なのよ、もう!」彼女は苛立たしげに地団駄を踏むと、仕方なくプライドを捨ててメッセージを送った。一方、家に帰り着いた隆行は、苛立ち紛れに部屋の電気をつけ、私の名前を何度も呼んでいた。「晴加、今日のパーティーをぶち壊しにしておいて、まだ気が済まないのか?今度は何を拗ねてるんだ!どこにいるんだ?隠れてるつもりか?」ひとつひとつドアを開けては、また閉める。怒りから戸惑いへ、戸惑いから焦りへと、彼の感情が目まぐるしく移り変わっていく。誰もいない。何もない。だだっ広い家の中は、ただがらんとしていた。私の姿が見当たらないだけでなく、私物までもが、すべて消え失せていたのだ。「……そんな、バカな!」隆行はへなへなとその場に座り込んだ。私が彼と揉めたのは、これが初めてではない。梢が現れたあの日から、私たちは様々なことで衝突を繰り返してきた。彼が梢に異常なほど肩入れしてきたことも、幾度となく私を置き去りにしてきたことも原因だ。それでも、彼が少し優しい言葉をかけて機嫌を取ってくれさ