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新婚旅行十回奪われ、私は妻であることをやめた

新婚旅行十回奪われ、私は妻であることをやめた

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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結婚して3年、医師である夫、磯野隆行(いその たかゆき)に新婚旅行を10回も中止にされた。 1度目は、彼が指導している女性研修医、三森梢(みもり こずえ)が患者とトラブルを起こしたと言って、彼は見知らぬ街に私、磯野晴加(いその はるか)をひとり置き去りにした。 2度目は、その研修医が患者の病因を特定できないからと、彼は慌てて引き返し、真夜中の人けのない場所に私を残していった。 それ以来、私が新婚旅行を口にするたび、決まって彼女に何かしらの問題が起きるのだった。 もう疲れ果てた。この結婚生活ごと、捨て去ろうと決めた。 なのに、私が国境なき医師団の医師になった時、彼は泣きながら戻ってきてくれと縋りついてくるのだ。

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Chapter 1

第1話

新婚旅行がまた白紙に戻ったと告げられた時、私はすでにS市に降り立ち、ホテルの予約も済ませていた。

隆行は苛立ちを隠そうともせず、私の後ろを歩きながらブツブツと文句をこぼしていた。

「誰がそんなに急いで予約しろって言ったんだよ。飛行機を降りてすぐ話したじゃないか。梢の担当で重症の急患が運ばれてきたんだ。俺はあいつの指導医なんだから、戻ってサポートしてやらないと。

新婚旅行なんていつでも行けるだろ。少しは察してくれよ。何しろ、人の命がかかってるんだ」

私は胸の奥からこみ上げる悔しさをぐっと飲み込み、引いていたスーツケースを彼の方へ押しやった。

「戻りたいなら、戻ればいいわ」

ほんの数分前、着陸直後、隆行はトイレに行った後のことだった。代わりに彼のスマホの機内モードを解除した途端、通知が次々と届き始めた。

すべて梢からのメッセージだ。

ふと画面に目を落とした。文面を見た瞬間、体の芯まで凍りついた。

それは同僚数人のグループLINEで、梢が甘ったるい口調で隆行に何度もメンションを飛ばしていたのだ。

【先生ったら、今日は私が入局して1年、二人が出会って1年の記念日ですよ。お店も予約したし、まさかドタキャンしたりしませんよね?】

【友達もたくさん呼んでるんです。先生が来てくれなかったら、みんながっかりしちゃいますよ】

すぐさま別の誰かが茶化すように便乗してくる。

【大丈夫だって。先生が一番気にかけてるのが誰かなんて、みんな知ってるでしょ。だいたい休みを取って新婚旅行って、もう何回目よ。どうせ適当な理由をつけて戻ってくるって。

磯野先生の奥さんなんて、もうすっかりおばさんでしょ。梢の若さと可愛さには勝てないわよ。だいたい奥さんも暇よね。1年中新婚旅行って、お医者様の時間がどれほど貴重か分かってないのかしら。

結婚してあんなに経つのに、まだ形式にこだわるなんてね。愛されてない人ほど、周りにアピールしたがるものよ】

体が少しずつ強張っていくのがわかった。私の頭の中が一気に真っ白になった。

これで10度目。10度目の新婚旅行の計画だった。

これまでも毎回、隆行は何かしら理由をつけ、旅の途中や到着して最初に立ち寄った観光地で私を置き去りにしてきた。

その原因はいつだって梢だ。

彼の言い分はいつも正論に聞こえた。指導医だから後輩の面倒を見るのは義務だ、梢は研修医として学びに来ているのだから放っておくわけにはいかないのだ、と。

けれど今の私には、それがすべて白々しい言い訳にしか思えなかった。

「どうかしたか?」

隆行が洗面所から戻ってきた時、私は鏡をぼんやり見つめたまま動けずにいた。

彼が怪訝そうな顔をするので、唇をぎゅっと結び、スマホを差し出す。

「通知、鳴ってたよ。誰かから連絡みたい」

ロックを解除したわけではない。画面に次々表示される通知を目で追っただけだ。

手についた水気をズボンで無造作に拭い、スマホを受け取って画面を確かめた隆行は、数秒後に慌てたように私を見る。

「病院に重症の急患が運ばれたらしい。梢の手伝いに戻らないと。新婚旅行はまた今度にしよう」

本当に患者のためなのか、それとも記念日に間に合わせたいだけなのか。喉元まで出かかった問いは、結局、深いため息に変わる。

「今回は、ちゃんとプランを立てたの。あなたの好きなものも、写真映えするスポットも調べたし、ホテルだって予約済みよ。せめて今日だけでも、予定どおり過ごせない?

病院のことは誰かに任せられるでしょ。他の先生だっているんだし」

情けないと思いながらも、この懇願で彼が残ってくれることを心のどこかで願っていた。

けれど隆行は、私を一瞥しただけだった。それも、驚くほどあっさりと。

「いい加減にしてくれ。結婚した時からわかってただろ、俺は医者だ。医者としての使命がある。人を救うことが何よりも優先されるべきなんだ。お前の今の言葉で、ひとりの命が見殺しにされるかもしれないってこと、わかってるのか?」

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第1話
新婚旅行がまた白紙に戻ったと告げられた時、私はすでにS市に降り立ち、ホテルの予約も済ませていた。隆行は苛立ちを隠そうともせず、私の後ろを歩きながらブツブツと文句をこぼしていた。「誰がそんなに急いで予約しろって言ったんだよ。飛行機を降りてすぐ話したじゃないか。梢の担当で重症の急患が運ばれてきたんだ。俺はあいつの指導医なんだから、戻ってサポートしてやらないと。新婚旅行なんていつでも行けるだろ。少しは察してくれよ。何しろ、人の命がかかってるんだ」私は胸の奥からこみ上げる悔しさをぐっと飲み込み、引いていたスーツケースを彼の方へ押しやった。「戻りたいなら、戻ればいいわ」ほんの数分前、着陸直後、隆行はトイレに行った後のことだった。代わりに彼のスマホの機内モードを解除した途端、通知が次々と届き始めた。すべて梢からのメッセージだ。ふと画面に目を落とした。文面を見た瞬間、体の芯まで凍りついた。それは同僚数人のグループLINEで、梢が甘ったるい口調で隆行に何度もメンションを飛ばしていたのだ。【先生ったら、今日は私が入局して1年、二人が出会って1年の記念日ですよ。お店も予約したし、まさかドタキャンしたりしませんよね?】【友達もたくさん呼んでるんです。先生が来てくれなかったら、みんながっかりしちゃいますよ】すぐさま別の誰かが茶化すように便乗してくる。【大丈夫だって。先生が一番気にかけてるのが誰かなんて、みんな知ってるでしょ。だいたい休みを取って新婚旅行って、もう何回目よ。どうせ適当な理由をつけて戻ってくるって。磯野先生の奥さんなんて、もうすっかりおばさんでしょ。梢の若さと可愛さには勝てないわよ。だいたい奥さんも暇よね。1年中新婚旅行って、お医者様の時間がどれほど貴重か分かってないのかしら。結婚してあんなに経つのに、まだ形式にこだわるなんてね。愛されてない人ほど、周りにアピールしたがるものよ】体が少しずつ強張っていくのがわかった。私の頭の中が一気に真っ白になった。これで10度目。10度目の新婚旅行の計画だった。これまでも毎回、隆行は何かしら理由をつけ、旅の途中や到着して最初に立ち寄った観光地で私を置き去りにしてきた。その原因はいつだって梢だ。彼の言い分はいつも正論に聞こえた。指導医だから後輩の面倒を見るのは義務だ
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第2話
隆行の声はやけに大きく、道行く人々がちらちらとこちらを窺いながら、あれこれと囁き合っている。事情も知らない赤の他人が、夫婦なのだから理解し合うべきだの、お医者さんが忙しいのは仕方ないだのと、誰もがしたり顔で私を諭してくるのだ。私の胸の内がどれほど苦しく、軋んでいるかなど、彼らは知る由もない。この名ばかりの結婚生活に、私がどれほど疲れ果てているかなんて、誰も知らないのだ。だったら、行けばいい。手の届かないものに、これ以上背伸びしてまで手を伸ばすつもりはなかった。「悪いとは思ってる。とりあえず今夜はホテルで休んでくれ。チケットは明日取り直せばいい。俺は家で待ってるから、帰ったらお前の好きなローストチキンを作るよ。じゃあな」隆行はそそくさと人混みの中へ消えていく。その遠ざかる背中が、焦った様子で梢に電話をかけているのが見えた。一刻も早く、彼女の元へと戻りたいのだろう。わざわざここまで来て、私に付き合うふりをしてくれただけでも、彼にとっては大した苦労だったに違いない。ホテルの部屋に戻った後、私は勤め先の病院へ退職願を提出した。院長からの返信は早かった。私が隆行と梢の関係から逃げているだけだと思い込んだ院長は、よく考え直すようにとメッセージで引き留めてきた。私は手にしていた煙草を灰皿に押しつけ、自ら院長に電話をかけた。「院長、これまで本当にお世話になりました。よく考えた上での決断です。決して衝動的なものではありません。子供の頃から、ずっとやりたかったことなんです。誰のせいでもありませんし、価値のない人間のために、自分の人生を曲げるつもりもありません」電話の向こうで数秒の沈黙が流れ、やがて深いため息が聞こえてきた。「よく考えた末の結論なら、それでいい。ただ、退職は大きな決断だ。特に国境なき医師団での活動となれば、いつどこで危険な目に遭うかわからないからな。隆行にはちゃんと話しておくんだぞ。どんな事情があるにせよ、夫婦なのだから、こんなことで揉めてはいけない。晴加、君が自分の進むべき道を見つけられたこと、私は心から嬉しく思っているよ。結婚のことも、あまり思い詰めるんじゃない」院長の穏やかな声には、いたわりと惜しむ気持ちが滲んでいた。私は小さく「はい」とだけ答え、こっそりと目尻からこぼれ落ちた涙を拭う。
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第3話
夕方になって、隆行はようやく夕日を背に、部屋へ入ってきた。昨日と同じシャツのままで、甘ったるい香水の匂いと、まだ微かに残る酒の匂いが混じり合って鼻を突く。思わず鼻を押さえてしまうほどだった。「帰ったのね」私の仕草に気づいたのか、彼はどこか気まずそうに襟元を整える。「あっ……昨日、手術が終わったのがもう遅い時間でさ。それで科の連中と飲みに行ったんだよ。みんなに勧められて少し飲んじゃって、断りづらくて。それで帰れなかったんだ。ちょっと酒臭いな。先にシャワーを浴びてくるよ」私はしばらく何も答えなかった。隆行はバスタオルを引っ掴むと、逃げるように浴室へと駆け込んでいく。彼が出てきた頃には、私はソファに座って出前の弁当を食べていた。彼が部屋に入ってきた時、その手に食材の袋を持っていたことには気づいていた。でも、私の心の中にはもう何の期待もなかった。約束を破ることなど、隆行にとってはいつものことだ。あの食材だって、私のために用意したものだとは到底思えない。彼の約束が意味を持つのは、梢に対してだけなのだから。「今日は俺が作るって言っただろ」意外にも、隆行は不機嫌そうに顔を曇らせると、私の出前を強引に取り上げた。「晴加、また何を拗ねてるんだ?昨日のことは仕方のない緊急事態だっただろ。もう説明したじゃないか、緊急の患者が運ばれてきたって。お前だって医者なんだから、見殺しにしろって言うのか?新婚旅行くらいのことに、なんでそんなにこだわってるんだよ。少し落ち着いたら必ず埋め合わせするから、それじゃダメなのか?」彼の動きは荒々しく、濡れた髪から落ちる雫が容赦なく私に降りかかった。冷たかった。今の私の心と、同じくらいに冷え切っていた。「……返事しろよ」苛立ちに任せ、彼は手にしたタオルをそのまま私に投げつけてくる。痛みと冷たさが同時に襲いかかり、思わず目元を押さえると、涙が滲んだ。「また何を勝手に想像してるんだ?そのゲスな勘繰り、いい加減にしてくれないか?俺と梢はただの師弟関係だ。彼女はまだ入局したばかりで何もわかってないんだから、少し面倒を見てやるのがそんなにおかしいか?どうしてお前は、いつもそっちの方向にしか考えられないんだよ。自分がひねくれてるから、何を見ても汚く見えるんだな」私が何も言わないうち
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第4話
「もちろんよ」すべての選択肢の中で、梢は常に彼の最優先だった。今更ながら、その残酷な現実がようやく私にもはっきりと見えてきた。私の答えを聞くや否や、隆行は慌ただしくキッチンへと駆け込んでいく。電話をかけるでもなく、メッセージを送るでもない。つまり、とっくに梢を呼ぶつもりでいて、ただ都合のいい口実が見つからなかっただけなのだ。私の一言が、彼にその完璧な口実を用意してやったことになる。私は苦笑いを浮かべながらポテトチップスの袋を開け、適当に1枚、口へと放り込んだ。その時、スマホにSNSの友達追加の通知が届いた。梢からだった。病院のグループLINEから、私のアカウントを見つけ出したらしい。添えられたメッセージには、こう書かれていた。【今日、先生がなんで晴加さんに料理を作ろうとしたか、気になりませんか?昨夜先生がどこで寝たか、知ってます?いっそ尊敬しちゃいますよ、そこまでコケにされて平然としていられるなんて。正直に言いますね。私が1周年って口実で先生を呼び戻したのは、あなたたちに新婚旅行なんてさせたくなかったからです。まさか、また置き去りにされるとは思いませんでしたけど。本当、滑稽ですね】彼女のSNSを開くと、そこには隆行との写真がずらりと並んでいた。何枚かは、顔と顔がくっつくほど親密なものだ。まるで、あちらが本物の夫婦であるかのように。すると、梢はさらに何枚もの写真を送りつけてきた。抱き合っている写真、2人で指を合わせてハートマークを作っている写真。そして最後に送られてきたのは、キスをしている写真と、ペアリングをこれ見よがしに写した1枚だった。それは1か月前、私が自分でデザインを考え、デザイナーに特注した結婚指輪だった。結婚当初はあまりにも慌ただしく、生活が落ち着いてからというもの、私はずっと隆行に何か埋め合わせをしたいと考えていたのだ。先週、その指輪を受け取りに行ったのは隆行だった。帰り道が酷い渋滞で、途中で買い物にも寄ったら、指輪を失くしてしまったのだと、彼は目を赤くしながら私に告げた。今にも泣き出しそうな彼を見て、私は心の奥の悲しみを抑えながら、指輪ならまた作ればいいと優しく慰めたのだ。結局、指輪は失くしたのではなかった。彼が本当に渡したかった相手に、ただ渡していただけだ
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第5話
「部屋の小物も古くなってきたし、少し片付けようと思っただけ。先に休んで。今日は私、ゲストルームで寝るから。片付けなきゃいけないものがまだたくさんあるの」隆行は形ばかり何度か引き止めた後、そそくさと部屋へ戻っていった。明日は彼らにとって大事な日で、まだ相談することが山ほど残っているのだろう。その焦りようからも、それが痛いほど伝わってきた。気づけば、握りしめた掌には爪が食い込み、血が滲んでいた。結婚して3年、隆行は1度たりとも私たちの結婚記念日を気にかけたことがなかった。忙しかろうと暇だろうと、私が少しでも記念日らしいことをしたいと言えば、彼はいつも何かしらの理由を見つけては断ってきた。疲れているから、面倒だから、と。心を込めて用意したプレゼントにもろくに目もくれず、取ってつけたような笑顔を浮かべるだけ。そして彼から私への贈り物など、そもそも1度もなかったのだ。涙がぽたぽたと床に落ちる。それでも私は意地を張って顔を上げ、弁護士にメッセージを送った。これが最後。これが、隆行のために悲しむ最後の1回になる。正午、私は汗だくになってパーティー会場に現れた。そこは郊外にあるお城のような洋館で、富裕層の集まりに使われる場所だった。プライバシー保護のため、正門を通れるのは事前登録された車両のみだという。家の車は朝早くに隆行が乗って出てしまっていたので、仕方なくタクシーを拾ったものの、正門の外で降ろされ、そこから歩いて向かうしかなかったのだ。4月とはいえ、季節外れの強い日差しが容赦なく照りつけ、頭がくらくらする。せっかくのドレスも汗で肌に張り付き、すっかり台無しになっていた。「晴加さん、やっと来てくれましたね」梢が小走りで私を出迎える。会場中の視線が一斉にこちらへ向き、私の惨めな有様を目にした人々の顔には、隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。とりわけ隆行は、私の姿を恥だとでも思っているのか、こちらを一瞥すらしなかった。「すみませんね、今日は私のせいなんです。ご存知の通り、まだ入局したばかりで車も持っていなくて。だから先生に迎えに来てもらったんです。先生を責めないであげてくださいね。今日は私が主役だから恥をかかせたくないって、気を遣ってくれただけなので」私は会場の内装を見渡す。この洋館を1日貸し切るとなれば、安く見
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第6話
「今、何て言った!?」隆行の怒りが頂点に達したところで、私は署名済みの離婚届を彼の目の前に投げつけた。「文句はないって言ったでしょ。あなたのことも彼女に譲るから、サインしてちょうだい」人々がわらわらと私たちの周りに集まってきたが、その多くは野次馬として面白がっているだけだった。「それにしても晴加さん、今回はずいぶん肝が据わってるわよね。まさかパーティーの場で離婚を切り出すなんて」「そりゃそうよ。私たちがわざわざここまで来たのだって、磯野先生夫妻の顔を立ててのことでしょ。ただの研修医なんかに、私たちが愛想を振りまく義理はないもの。ましてやあの論文を褒めるなんてね。あの子の実力で、あんなもの書けるわけないじゃない。どう見たって晴加さんのものよ」「声、抑えなさいよ。実力はなくても、後ろ盾を見つける腕は大したものよ。病院中の誰もが知ってるじゃない、隆行先生が彼女にすっかり骨抜きにされているって」四方から聞こえてくる囁き声のひとつひとつが、鋭い刃物のように胸を切り裂いていく。隆行は苦々しい顔で周囲を睨みつけたが、その目にはどこか後ろめたさが滲んでいた。「もういいだろ、晴加。何かあるなら家に帰ってから話そう。頼むから」彼はおずおずと懇願し、梢も哀れっぽく口を挟んでくる。「晴加さん、身内の恥を外に晒すのはやめましょう?何かあるなら、先生とゆっくり話し合ってくれませんか?とりあえず、みんなでご飯を食べましょう」彼女はウェイターに目配せすると、そのまま私の腕を取ろうとした。私は苛立ちのまま後ずさりし、迷わず出口へと向かった。「いいわ、あなたたちだけで食べて。私は用事があるから、これで失礼するわ」呼んでおいたタクシーが、まだ門の外で待っている。今日ここに来たのは、隆行との決着をつけるためだけだった。まさか、こんな大きな贈り物まで用意してくれるとは思わなかったけれど。でも、彼がそうしたいのなら、私も別に構いはしない。彼の言う通り、この程度の名声になんて執着はないのだ。せめて妻としての、最後の贈り物だと思うことにした。車がゆっくりと洋館を離れ、それが後方へ遠ざかり、小さな点になって見えなくなるまで、私は一度も振り返らなかった。それからようやく、前だけを向く。ポケットの中でスマホが鳴り止まなかったが、すべて聞こえない
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第7話
「これでよろしいでしょうか?」恥ずかしさのあまり頬と耳を真っ赤にした梢を見て、隆行はようやく不安を振り払えたようだった。彼は梢を庇うように前に立つと、愛想のいい笑みを浮かべた。「今日は俺の落ち度で、皆さんのせっかくの楽しい時間を台無しにしてしまいました。交通費は後で振り込みます。また今度、改めて集まりましょう」無理やり気持ちを立て直し、最後の客を見送ってから、隆行は疲れた様子で車を出し、梢を家まで送っていった。出発した時とはまるで違う重い空気が漂っていた。彼は、私がどれだけ怒っていても彼の面子を潰すような真似はしないだろうと高を括っていたのだ。パーティーが無事終わるまで、私が大人しく待っているだろうと。今日という日を、自分の思い通りに梢のための人脈作りに使えると思い込んでいた。「先生、ごめんなさい」車が停まると、梢は深々と申し訳なさそうに頭を下げ、逃げるように駆けていく。彼女の算段では、これで完璧なはずだった。隆行は、彼女が不憫な思いをするのを何よりも嫌う。今日ここまで低姿勢を貫いたのだから、きっと追いかけてきてくれるはずだ、と。けれど、どれだけ待っても、振り返った先にあったのは遠ざかっていく車の後ろ姿だけだった。「何なのよ、もう!」彼女は苛立たしげに地団駄を踏むと、仕方なくプライドを捨ててメッセージを送った。一方、家に帰り着いた隆行は、苛立ち紛れに部屋の電気をつけ、私の名前を何度も呼んでいた。「晴加、今日のパーティーをぶち壊しにしておいて、まだ気が済まないのか?今度は何を拗ねてるんだ!どこにいるんだ?隠れてるつもりか?」ひとつひとつドアを開けては、また閉める。怒りから戸惑いへ、戸惑いから焦りへと、彼の感情が目まぐるしく移り変わっていく。誰もいない。何もない。だだっ広い家の中は、ただがらんとしていた。私の姿が見当たらないだけでなく、私物までもが、すべて消え失せていたのだ。「……そんな、バカな!」隆行はへなへなとその場に座り込んだ。私が彼と揉めたのは、これが初めてではない。梢が現れたあの日から、私たちは様々なことで衝突を繰り返してきた。彼が梢に異常なほど肩入れしてきたことも、幾度となく私を置き去りにしてきたことも原因だ。それでも、彼が少し優しい言葉をかけて機嫌を取ってくれさ
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第8話
隆行の胸の内で、パニックはとめどなく膨れ上がっていった。これまでの日々、自分と私との間にあった小さな違和感をひとつひとつ思い返すうち、ふいに目の前が真っ暗になり、彼はそのままばたりと意識を失ってしまったのだ。再び重い瞼を開くと、院長が傍らに座り、深いため息をついていた。「もう探す必要はない。晴加は数日前に退職願を出している。確か、お前たちが新婚旅行を約束していた日のことだ。あの日、彼女から私に電話があったんだ。どういう事情があるにせよ、お前はもう十分すぎるほど晴加を苦しめてきた。今度こそ、彼女を自由にしてやれ」院長は心底疲れ切った様子だった。私たちは病院に入局したばかりの頃から、院長の下で働いていた。あの頃の隆行と私はいつも一緒にいて、科は違えど、病院中に私たちの仲睦まじさが知れ渡っていたほどだった。院長はそんな私たちを、結婚に至るまで、そして今日までずっと見守ってきてくれた人だった。あんなに愛し合っていたはずのふたりが、どうしてこんな見苦しい結末を迎えたのか、彼にはどうしても理解できなかったのだ。「……っ先生」隆行は小刻みに震えながら体を起こし、苦々しさを噛みしめながら口を開いた。「この1年、俺が間違っていました。晴加の気持ちを蔑ろにしていたことは、もう十分にわかってます。梢はもうすぐ正式採用されるはずですから、これからは彼女とは一切連絡を取りません。近づくこともしません。だから、晴加がどこにいるか教えてください……晴加が退職なんてするはずがない。これは先生方が示し合わせて、俺にお灸を据えようとしてるだけなんでしょう?俺、もう本当にわかりましたから」そう言うと、隆行はその場で膝をつこうとした。院長は驚いて顔を上げると、すぐに厳しい表情を浮かべた。「お前は、本当にどうしようもない男だな。この1年余り、お前が晴加をどう扱ってきたか、病院中の誰もが知っている。何様のつもりだ?梢という若くて活気のある女に出会い、そのために晴加を何度も踏みにじってきただろう。新婚旅行のことだけでも、一体何回台無しにした?自分でも数えきれないんじゃないのか!毎回毎回、緊急だ、仕方ないだと白々しい言い訳をして。梢はひとりじゃ何もできない赤ん坊か?お前がいないと生きていけないとでも言うのか?まさかお前が、私と晴加がぐるに
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第9話
隆行が去った後、噂は瞬く間に病院中へと広がっていった。「だから言ったでしょ、梢と隆行先生、絶対にできてるって。どんなに仲が良くたって、毎日あんなにべったりくっついてるなんて普通じゃないもの。やっぱり不倫相手だったのよ」「晴加先生があんなに長い間我慢してたのに、急にいなくなったって話でしょ?もしかして梢、妊娠でもしたんじゃないの?」噂は人から人へと伝わるうちに尾ひれがつき、形を変え、いつしか梢は妊娠数ヶ月で、そのお腹の子の父親は当然隆行だということになっていた。「子供って、一体何の話ですか?」一部始終を聞かされた梢は、手にしていた物をがしゃんと床に落とした。彼女自身が、その真実を一番よくわかっていた。確かに隆行とは多少親密な関係にはなっていたものの、実際に体の関係まで進んだことなど一度もない。だから、そんな子供など存在するはずがなかったのだ。「私、噂のこと全部知りました。先生、大丈夫です!私がちゃんと否定して回りますから。でも、もし世間体を取り繕うために、本当に子供が必要だとおっしゃるなら、私が先生の子供を産んでもいいです。私はこれからもずっとおそばにいますから」梢は焦った様子で隆行の前に駆け寄ると、周囲の目も憚らずにそう言い切った。同じ科の同僚たちは、「やっぱりな」とでも言いたげな冷ややかな表情で、向き合うふたりを眺めている。隆行はすっかり困惑していた。子供?いつ自分に子供ができたというのか。「お前、何をわけのわからないことを言ってるんだ。子供なんて、一体どこから出てきた話だ」そう言いながら、彼は思わず声を荒らげていた。「仮に子供がいたとしても、それは俺と晴加の夫婦の問題だ。お前が口を出すことじゃないだろう。梢、もう一度はっきりと言っておく。俺がお前にしてきたことは、全部お前が俺の担当する研修医だからだ。もう少し踏み込んで言うなら、教え子だからだ。年下の後輩に対する思いやり以上のものは、何もない。頼むから、これ以上の一線を越えるな」隆行がわざと声を張り上げたため、周りにいた同僚たちにもその言葉はすっかり聞こえてしまい、皆が一斉にスマホを取り出してせわしなく文字を打ち始めた。「そんなことないです、先生。私、ふたりの間の一線を越えたつもりなんてありません。ただ、先生を心から尊敬していただけです。ごめ
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第10話
「だから何?」叩かれた頬を押さえながら、梢は隆行の耳元に顔を寄せると、不気味に声を潜めて言った。「どうしてわからないんです?先生と私は、もう運命共同体なんですよ。この1年余り、私たち、恋人みたいなことは全部してきたじゃないですか。病院中の人が先生の行いを軽蔑してるって、わかってます?だって先生みたいに年を取って冴えないおじさんが、こんなに若い私をたぶらかしたんですからね。大人しく私の言うことを聞いた方が身のためですよ。じゃないと、私の口から何が飛び出すか、保証できませんから」言ってしまえば、梢が今持っているものはすべて、隆行が与えたものだった。彼という後ろ盾がいなければ、彼女が病院にこれほど順調に残ることはできなかったし、これほど目立つこともなかっただろう。梢は決して真面目で有能な人間ではなかったが、姑息な悪知恵にかけては人並み外れた才能を持っていたのだ。いつも周囲の医者たちを上手く丸め込んでは、自分の仕事を平然と肩代わりさせてきた。多くの人間は彼女の安っぽい手口には引っかからなかったが、よりによって隆行は愚かにも、自ら進んで彼女の張った罠に落ちていったのである。似た者同士だったとも言える。一方は若さと活力を求め、もう一方は自分をより高い地位へ引き上げてくれる後ろ盾を求めたのだから。「この、イカれた女が!」隆行は梢の頬に、続けざまに2発、重い平手打ちを叩き込んだ。その表情は、氷のように冷え切っていた。「それが、お前が俺たちのチャット履歴を消した理由だったんだな。手が滑って間違って消したなんて言っていたが、実際は証拠を残さないためだったんだろう。梢、お前は相手を間違えたな。俺のパソコンには、あの時のやり取りが丸ごと残ってる。俺を誘惑し、うまく取り入って、今回の採用審査で良い評価を得たのも、全部お前の汚い企みだ。仮に俺が共犯者だとしても、お前だけを無事に済ませるつもりはない」隆行はすぐさま、すべての証拠を院内に暴露した。その結果、彼と梢は揃って懲戒処分を受け、病院を去ることになった。互いに相手を許せず、ついには院内で取っ組み合いの醜い喧嘩にまで発展し、ふたりとも半月ほどかけてようやく怪我が癒えるという有様だった。……退院後、隆行は私たちがかつて新婚旅行に行くと約束していた場所へと向かった。居心地の良いホ
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