LOGIN「おいおい、領主坊ちゃんを脅して、姐さんも落ちぶれたもんだな」
誰かが酔いに任せて口走った瞬間――。
隣の席から立ち上がった巨影が、音もなくそいつの襟首を掴み上げた。
身長は2m50cmを超える筋肉だるま。その赤毛の巨漢が低く唸る。「……姐さんの言葉に文句あるか?」
顔を真っ青にした酔っ払いが首を振ると、巨漢は無造作に床へ放り捨てた。
酒場中が静まり返る。「副長のビッグベアだ……!」
「やべぇ……」誰かの震える声が広がり、空気が一変した。
ツーシームは煙草をくゆらせながら肩をすくめた。「まったく、トムは物騒だねぇ」
赤毛の巨漢――「ビッグベア」は答えず、ただ鼻を鳴らす。
場の空気を凍らせたまま、彼は振り返り、ユリウスたちを顎でしゃくった。「……来い」
低く短い声。
その巨体が動くたび、床板がきしみ、周囲の海賊たちが無言で道を開けた。
グレゴールは警戒を隠さず、だが少年の肩を押して、その背に従ったのだった。◇◇◇◇◇
酒場の裏口を抜けると、暗い通路が岩盤の奥へと続いていた。
先頭を歩くのは、巨躯の副長――「ビッグベア」と呼ばれる男。無言のまま、低い足音だけが響く。
ユリウスと老家臣グレゴールは互いに目を合わせた。戻る道はない。この巨漢の背に従うしか生き残る術はなかった。
やがて通路は広間に開けた。 そこは崩れた採掘場の跡地を改造した、秘密のドックだった。赤茶けた岩壁に隠されるように、黒光りする艦影が横たわっている。
装甲板は煤と傷で覆われ、ところどころ継ぎ接ぎの補強痕。だがその姿には、幾多の戦いを潜り抜けてきた殊勲艦のような迫力があった。
「……あれが、海賊船……」
ユリウスは息を呑む。
ツーシームの宇宙海賊船の船腹には、「モリガン」と大きく描かれていた。帝国の宇宙巡洋艦艦より一回り小さいが、艦首には大型の収束砲を備え、船体側面には突撃艇のハッチが並んでいる。
黒く塗りつぶされた船体には、かすかに白で描かれた飛竜の紋章。
艦内からは整備兵の怒号と、エンジンの低い唸りが響き出ていた。「乗れ」
レッドベアが短く言った。
ハッチが開き、金属のタラップが伸びる。グレゴールは一瞬ためらったが、ユリウスの肩を抱き、二人でその影に足を踏み入れる。
重厚な扉が閉じた瞬間、少年は背筋に冷たいものを感じた。――もう、帝国の世界には戻れない。
暗がりの艦内。
通路の奥から、煙草の香りと共にあの女の声が響いた。「ようこそ、モリガンへ。生き残りたきゃ、ここからが本当の賭けだよ、坊ちゃん」
二人は女の手下の指示に従い、硬いシートに座り、安全ベルトを締めたのであった。
◇◇◇◇◇
「追手が来てやすぜ、姐さん」
「ここでは船長と呼べ!」
ツーシームの声が艦橋に響いた。
ユリウスが乗り込むや否や、モリガン全体が低く唸りを上げる。 どうやらクロイツ準男爵の差し向けた追手が、小惑星帯の外縁まで迫っているらしい。「出航だ!」
「了解!」
副長レッドベアの巨体が操舵席の後方で動き、重厚なレバーを押し込んだ。
艦内には簡易重力装置が働き、少年はシートに体を押しつけられる。Gが全身の骨に響く――だが、不思議と誰も慌てていない。
極周波レーダーのスクリーンには、点滅する四つの光点。敵艦――銀色の帝国標準型巡視艦。全長百八十メートル、横陣を組み、網をかけるように小惑星帯を捜索中だった。
「敵、回頭。こちらを捕捉しました」「おう」
ツーシームは煙草を咥え直し、灰を落とす。
巡視艦の艦首主砲が冷たく光り、停戦信号もなしに照準を合わせてきた。
この宙域で海賊と見なされれば、撃沈は当然というわけだ。「敵、ビーム砲来ます!」
レーダー員の叫びと同時に、ユリウスは目を見開いた。
――モリガンが、空間ごと滑ったのだ。艦体が右舷へと跳ねるように移動し、慣性を無視する動きで敵艦列の死角へ滑り込む。
外の星々が線になって流れ、視界が歪む。「なんだ……これは……!」
「撃て!!」
ツーシームの号令。
まるでその一瞬を読んでいたかのように、艦首の収束狙撃砲が閃光を放った。光の槍が敵陣を貫き、四隻の巡視艦を、斜め後方から一直線に串刺しにする。
当たった瞬間、超高温により動力区画が蒼白に発光し、機関設備や装甲鋼材が同時に気化する。
敵艦4隻は跡形もなく蒸散し、静寂だけが残った。レーダーに映るは微小な残留粒子の散布のみ。
「……敵、全艦蒸発確認!」
「うむ」
短く答えるツーシーム。
安煙草をくゆらせながら、彼女は操縦席の背もたれに体を預けた。謎の機動の衝撃で、船体がわずかにきしむ。
ユリウスは呆然とモニターを見つめた。
今の動き――どうやって回避し、どうやって撃ったのか。 理屈では説明がつかない。 ただ、あの女が舵を握った瞬間、この船が「生き物のように」宙を駆けたのだけは確かだった。――聖帝国暦六四五年十一月上旬。 旧帝国中央政府が送り出した増援艦隊は、ついにルドミラ戦域へ到着した。 二個正規艦隊。 その総数、およそ二千隻。 これにより、ロサリオ国家元帥率いる遠征軍は、一気に兵力の優位を得た。 ……しかし。 肝心のルドミラ艦隊が、姿を消していた。 先の会戦以降、ラヒーム将軍は艦隊を分散させ、第五総管区の複雑な宙域へ潜伏させている。 旧帝国側がどれほど索敵を繰り返しても、その主力を捉えることはできなかった。「このまま奴らと鬼ごっこをしている暇はない」 旗艦ウォンロンの作戦室。 ロサリオは、集まった二人の艦隊司令官へ告げた。「ならば、向こうから出てきてもらう」 通信モニターには、第五艦隊司令官ハインミュラー中将と、第六艦隊司令官ゾルゲ中将の姿がある。「しかし、ロサリオ閣下」 ハインミュラーが慎重に口を開いた。「敵艦隊が健在な状態で、惑星ヒンデンブルクへ地上部隊を降ろすのは危険ではありませんかな」「左様、左様」 ゾルゲも頷いた。「揚陸作戦中の艦隊は、艦隊戦に適した陣形を取れませぬ。そこを敵主力に襲われれば、かなりの損害が予想されます」「まあ、聞け」 ロサリオは、卓上の星域図を拡大した。「旧第六総管区の偽帝を奉じる連中の艦隊が、こちらへ向けて出撃したとの情報がある」「アストレア軍ですか」「そうだ。奴らとラヒーム艦隊が合流すれば、面倒なことになる」 ロサリオは惑星ヒンデンブルクを指差した。「だが、新帝国の援軍が来るまで、ラヒームは決戦に出てこぬだろう。ならば、奴らが出ざるを得ない場所を攻める」「……なるほど」 ゾルゲが小さく笑った。「惑星攻撃は餌でございますな?」「その通りだ」 ロサリオも笑みを返した。「第五、第六艦隊はヒンデンブルクへの攻略作戦を開始せよ。可能な限り派手にな」「そして閣下の艦隊は?」「近傍のアステロイド帯に伏せる」 ロサリオは腕を組んだ。「ラヒームが母星を見捨てられずに出てきたところを、横腹から叩く」「畏まりました」 二人の中将が、揃って頭を下げた。◇◇◇◇◇「全揚陸艦、降下開始!」「了解!」 惑星ヒンデンブルクの衛星軌道から、四十隻の大型強襲揚陸艦が一斉に降下を始めた。 厚い装甲に覆われた巨大な船体が大気圏へ突入し、赤熱しながら雲を突き抜けてい
――聖帝国暦六四五年十月下旬。 星ヒンデンブルクを揺るがした反乱は、終結した。 聖堂周辺に残っていた旧教皇派の武装勢力も次々に武器を置き、首都ニデルではようやく銃声が途絶えていた。 ……が、平穏が戻ったわけではない。 帝国軍は今なおルドミラ領内へ侵攻を続けている。 さらに増援として、二個正規艦隊と十個師団もの惑星地上軍が向かっているとの情報も入っていた。 内乱に勝利したからといって、喜んでいる暇などなかったのである。 旧教皇庁の大会議室には、ルドミラの主要人物たちが集められた。 中央の議長席に座るのは、エロー枢機卿である。「では、始めましょう」 エローが静かに告げた。「旧政権は崩壊しました。しかし、国家そのものまで失ったわけではありません。我らは一刻も早く新たな統治体制を作り、旧帝国軍への防衛を継続せねばなりませぬ」 軍人、聖職者、地方領主、商会の代表者たちが頷いた。「問題は、誰を暫定政府の首班とするかですな」 一人の司教が口を開く。「エロー猊下では?」「いや」 エローは即座に否定した。「私では旧帝国軍を防げません」 その言葉に、室内が静まり返った。「我らだけで独立を維持できるという考えは、もはや捨てるべきです。旧帝国中央政府との国力差はあまりに大きい」「では、どうなさるので?」 エローは用意していた書類を机上へ置いた。「暫定政府の首班には、アストレア聖帝国皇帝ユリウス一世陛下に就任していただきます」 ざわめきが広がった。「外国の皇帝を首班にするというのか?」「それでは事実上の併合ではないか!」「事実上ではありません」 エローは淡々と言った。「併合されるのです」 今度こそ、会議室が沈黙した。「ルドミラ教国という国号は廃止します。我らの全宙域はアストレア聖帝国へ編入され、以後、この地域をルドミラ総管区と称します」「……そこまで話が進んでいたのですか?」「はい」 エローは悪びれなかった。「旧帝国軍に滅ぼされるか、アストレア聖帝国の一員となるか。私は後者を選びました」 一人の地方領主が腕を組んだ。「我らが宗教はどうなる?」「ルドミラ教会は存続します。信仰、典礼、寺院運営については広範な自治が認められます」「軍は?」「帝国軍へ編入されます」「税は?」「当面は現行制度を維持し、段階
――聖帝国暦六四五年十月中旬。 旧帝国軍とルドミラ艦隊の決戦が、双方決定的な勝利を得られぬまま終わった頃。 一隻の小型客船が、アストレア聖帝国領を離れ、ルドミラ首都星ヒンデンブルクへ向かっていた。 船の持ち主はアルテミス社で、船長を務めるのはビッグベアであった。 ただし今回ばかりは海賊船らしい物騒な装備の多くを外し、外見上はごく普通の民間船へ偽装されていた。 本来なら、この船でルドミラへ帰国するのはエロー枢機卿と、その随員だけのはずであった。 エローは以前、教皇サリーム・アル=ハディードの命を受け、アストレア聖帝国との外交交渉のために訪れていた人物である。 その帰国に際し、アストレア側から副宰相と書記官が同行することになった。 もちろん、そんな副宰相も、書記官も、本物ではない。「だから、その襟を触るな」 船内の貴賓室で、書記官の服を着たグレゴールが苛立った声を上げた。「さっきから苦しいんだよ」「副宰相というものは、多少服が苦しくても人前で襟を引っ張ったりせん」「本物の副宰相だって苦しけりゃ引っ張るだろ」 ツーシームは面倒そうに舌打ちした。 アストレア聖帝国宰相であるグレゴールは、今回はエロー付きの書記官へ変装している。 一方、ツーシームには副宰相という偽りの身分が与えられていた。 濃紺の礼服を着せられ、普段は乱雑にしている髪も整えられている。 腰の拳銃も、いつもの安煙草もない。「それと、現地に着いたら余計なことは喋るな」「それ、もう十回くらい聞いたぞ」「十回言っても不安だから言っている」「エローに喋らせとけばいいんだろ?」「そういうことだ。お前は適当に偉そうな顔をして座っていろ」「それなら得意だ」「そこだけは心配していない」 二人の会話を少し離れた席で聞いていたエローは、呆れたように息を吐いた。 今回の帰国について、教皇庁へ伝えてある内容は単純だった。 エロー枢機卿がアストレア聖帝国での外交交渉を終えて帰国する。 その際、アストレア皇帝ユリウスより新たな提案を預かり、副宰相自らが同行する。 サリーム・アル=ハディードは、その提案の具体的な内容をまだ知らされていない。 エローが「極めて重要な条件であるため、教皇猊下へ直接申し上げたい」と伝えたからである。 教皇側からすれば、戦争中のルドミラに対する何ら
――聖帝国暦六四五年十月上旬。 旧帝国軍の増援がルドミラ戦域へ向かっているとの報が届くと、ナシール=イブン=ラヒーム将軍は、それまで続けてきたゲリラ戦を打ち切った。「全艦艇へ通達。各地に散っている部隊を集結させよ」「はっ!」 現在でこそ、ルドミラ軍は旧帝国軍と互角に近い戦力を維持している。 だが、新たに二個正規艦隊が到着すれば、その均衡は崩れる。 さらに十個師団もの惑星地上軍まで加われば、ルドミラ側が戦況を覆すことは極めて困難となるだろう。 ならば。 まだ互角に戦えるうちに、敵主力を叩く。 ラヒームは決戦を選んだ。 そして、それを望んでいたのは旧帝国側も同じであった。 ロサリオ国家元帥もまた、長く続く補給線への襲撃に苛立ち、ルドミラ主力艦隊との正面決戦を求めていたのである。 両軍の邂逅は、そう遠くなかった。◇◇◇◇◇「敵艦隊を確認!」「数、およそ我が方と同程度!」 ルドミラ艦隊の旗艦「セト」の艦橋にて、ラヒームは、正面モニターいっぱいに広がる旧帝国艦隊を睨んだ。「全艦、両翼を広げながら砲列を形成せよ!」「了解!」 ルドミラ艦隊が一斉に展開を始める。 ラヒームは、もともと惑星地上軍出身の将軍である。 だが、宇宙艦隊指揮においても非凡な統率力を示していた。 各分艦隊へ細かな指示を飛ばし、旧帝国側より一足早く戦列を完成させる。「敵はまだ隊形を整え切っておりません!」「よし」 ラヒームは獰猛な獣のように笑った。「のろまな中央の貴族様どもへ、ビームの嵐をお見舞いしてやれ!」「全艦、砲撃開始!」 ルドミラ艦隊の前面が、一斉に光り輝いた。 無数のビームが宇宙空間を横切り、展開途中の旧帝国艦隊へ突き刺さる。 先制攻撃を受けたロサリオ艦隊は、各所で損害を受けつつも、電磁防壁を展開しながら慌ただしく陣形を整えた。「ミサイル艦、前へ!」 ラヒームが続けて命じる。「目標選定は各艦長へ任せる! 撃てるところから撃て!」「はっ!」 ミサイル艦の発射口が次々に開き、誘導弾の群れが宇宙へ放たれた。 本来ならば、長期戦を続けてきたルドミラ軍の弾薬備蓄は、とうに底をついていてもおかしくなかった。 だが、実際には十分な量が残されている。 アストレア聖帝国が、表向きには兵を出さぬまま、秘密裏に弾薬や部品、量子エーテルを送り
ルドミラ教国の外交特使エロー枢機卿と、アストレア聖帝国皇帝ユリウスとの会談は、一対一で行われた。 場所は、旧大公宮殿の奥に設けられた小さな応接室である。 護衛すら扉の外へ下がらせ、記録官も置かれていない。 それだけに、形式的な挨拶が終わると、エロー枢機卿は早々に本題へ踏み込んだ。「さて、陛下。率直に申し上げましょう」「どうぞ」「陛下にとって、我らルドミラ教国と、旧帝国中央政府。いったい、どちらが大切なのでございますか?」 ユリウスは黙って先を促した。「陛下の艦隊は、いつまで待っても我らの救援には参られない。それどころか、旧帝国側へ兵を向ける様子もございませぬ」 エローは少し身を乗り出した。「これは、我らが結んだ和平約定の精神に反するのではありますまいか?」 ユリウスはしばらく黙っていた。 そして、困ったような顔を作った。「もちろん、援軍を送りたいのは山々なのですよ」「では、なぜ?」「我が国の有力貴族たちが、納得しないのです」「貴族たちが?」「ええ」 ユリウスは静かに答える。「ルドミラばかりを助け、我々が一方的に血を流すのは不平等ではないかと申しております」 エローの表情がわずかに強張った。「特に惑星ペルーンの奪回では、多くの帝国臣民が命を落としました」「……」「しかし、逆にルドミラ教国が我々のため、分かりやすい形で軍を動かしてくださったことはございません」 痛いところであった。 事実として、ルドミラ教国は旧第六総管区側から軍事支援を受けたことこそあれ、自ら大軍を送って彼らを救援したことはない。 もちろん、教国にも教国なりの事情があった。 だが、同盟とは本来、双方が助け合うものだと問われれば、エローには強く反論できなかった。「……では」 エローは声を低くした。「陛下は、我らを見殺しになさるおつもりですか?」 その瞬間。 ユリウスの目つきが変わった。 先ほどまでの、困り果てた若い皇帝の顔ではない。 エローは一瞬、その瞳に冷たい光が宿ったように感じた。「そうは申しません」 ユリウスは一枚の書類を取り出した。「ですから、別の提案を用意しました」「別の提案?」「お読みください」 書類を受け取ったエローは、数行目で動きを止めた。 そして、目を大きく見開く。「……な、なんと?」 もう一度、文
――聖帝国暦六四五年九月下旬。 旧帝国軍が、新たに二個正規艦隊と十個師団もの精鋭惑星地上軍を、ルドミラ戦域へ増派する。 その情報が伝わるや、ルドミラ教国の首都星ヒンデンブルクは騒然となった。 ただでさえ旧帝国軍の侵攻を食い止めるため、各地から兵力をかき集めている最中である。 そこへ、さらに大規模な増援が送り込まれるのだ。「なぜじゃ!」 教皇宮の軍議室で、サリーム=アル=ハディード教皇は卓上を叩いた。「なぜ中央政府の奴らは、これほど我らにばかり軍を向けられるのだ!」 向かいに座る腹心、ナシール=イブン=ラヒーム将軍は、難しい表情を浮かべた。「教皇猊下。一つ、気になる情報がございます」「申せ」「中央政府は、新帝国と何らかの取り決めを交わした可能性がございます」「何?」「確証はございませぬ。ですが、ここしばらく、アストレア聖帝国の主力艦隊は首都星グラウゼン周辺からほとんど動いておりません」 ラヒームは星域図を表示した。「中央政府がこれほど大胆に我が国へ兵力を集中できるのも、背後にいる新帝国が動かぬとの確信があるからではないかと」「……くそっ」 ハディード教皇は、椅子の肘掛けを握り締めた。「だから、戦闘艦も兵士も送らず、食料や医薬品ばかり寄越してくるのか?」「おそらくは」「ぐぬぬぬ……あの偽皇帝め」 教皇は怒りに顔を歪めた。「こちらには友好国の顔をして物資を送りながら、裏では中央政府と手を握っておるというのか!」「まだ証拠はございません」「分かっておる!」 ハディードは立ち上がった。「だからこそ、直接問いただす必要がある。至急、エロー枢機卿を呼べ!」「エロー枢機卿を?」 ラヒームが目を丸くした。 エローは、かつて教国内でハディードに教皇の座を強奪されている。 現在こそ枢機卿の地位に収まっているが、元をたどれば政敵であった。「あの者を、お使いになるのですか?」「使える者を使わずして、どうする」 教皇は鼻を鳴らした。「奴は古代の知識にも通じ、頭も回る。何より弁が立つ。外交使節にはうってつけではないか」「しかし……」「心配するな」 ハディードは嫌な笑みを浮かべた。「奴の弱みは、こちらが握っておる。裏切ることなどできぬよ」「……それならば、異論はございません」 こうしてルドミラ教国は、超光速通信によ
聖帝国暦六四五年、旧第五総管区――現ルドミラ教皇国。 首都星ヒンデンブルク、中核都市ニデルの大神殿。 その最奥、香煙すら沈黙しているような聖室にて、サリーム・アル=ハディード教皇は、前教皇エロー枢機卿を密かに呼び出していた。 壁面を埋める聖像群は薄闇の中で青白く浮かび、古代の発光石をはめ込んだ円天井だけが、冷えた光を二人の間へ落としている。 神に最も近いはずの部屋で、いま交わされていたのは祈りではなく、権力の話であった。 教皇は金糸の刺繍が入った長衣の裾を整え、静かに口を開く。「枢機卿、あの聖典改定は、まだ終わらんのかね?」 問われた老枢機卿エローは、目に見えてやつれていた。
帝都ネオ=ベルゼブブ、皇宮地下深く。 幾重もの防音隔壁に閉ざされた秘密の長距離通信室には、淡い青光を放つ極低周波通信モニターが静かに唸っていた。 その前に立つのは、銀髪をきっちり結い上げた女――宰相ローゼンタールである。 冷たい美貌は夜の氷みたいに研ぎ澄まされ、その双眸だけが獲物を見定める猛禽のように鋭かった。 彼女はゆっくり椅子へ腰を下ろし、片肘をついて問う。「……で、パニキアの最果てを知ったであろう者どもを、取り逃がしたと申すのか?」 モニターの向こう、荒い走査線の中に映るのは、禿げ上がった中年男の顔だった。 男は額の汗をぬぐいながら、かすれた声で答える。「は、はい……
聖帝国暦六四五年八月下旬――。 ユリウスたちが惑星ゲフェニアでパニキア連邦との交渉に臨んでいた頃。 海賊船「モリガン」は連邦の広大な索敵網を避けるため、近隣小惑星帯の陰でじっと息を潜めていた。 砕けた岩塊の群れが鈍く星光を返し、艦内には退屈と緊張が入り混じった、妙に気の抜けた空気が漂っている。 艦長室の隅。 ツーシームは長椅子に寝っ転がり、片手に安酒、口元に安煙草という、ひどく締まらぬ格好で天井を眺めていた。 そこへ、荒鷲の金印を持つ少女が、つかつか歩み寄ってくる。「おい、いい所に連れていってやろうか?」 ツーシームは片目だけ開けた。「……ん? こんな知らない宙域で、土地
休戦ラインを越える瞬間まで、星間ギルドの商船「銀の秤」の船内には、張りつめた空気が満ちていた。 パニキア連邦側の警戒宙域では、数度にわたり検問艇が接近し、古びた船腹へ鋭い捜査光を這わせてきた。 だが、「銀の秤」は武装を持たぬ旧式商船であり、しかも星間ギルド所属の古参船である。 積荷目録も航路記録も、それらしく整えられていたため、大事には至らなかった。「船籍確認完了。積荷照会、一致」「……よし、通してやれ。こんな骨董品で戦をしようって奴もおるまい」 管制側の声が同時翻訳機を通して流れると、操舵席のヘッジボックが小さく肩を落とした。「いやはや、寿命が縮みますな」 ユリウスは商人