INICIAR SESIÓN無言のまま見つめ返す信行に対し、智昭も先ほどのような刺々しさは消え、静かな声で言葉を継いだ。「当時の彼女のうつ病は極めて深刻でした。東都を離れると決意した頃には、すでに物忘れがひどくなり、言葉もうまく出てこなくなっていたんです。これ以上発作が起きるのを恐れ、精神的にも限界でした。それに、もうあなたと揉め続けるのにも疲れ果てていたから、ここを去ることを選んだんですよ。辻本が本当に自ら命を絶たなかっただけ、運が良かったと思うべきです。もしそうなっていたら、あなたは一生その重荷を背負って生きる羽目になっていました」普段の智昭は口数の少ない男だが、今日ばかりはよく喋った。過去の自分の行いを言い訳したいわけではない。ただ、部外者から見ても、真琴のあの結婚生活はあまりにも見ていられなかった。物忘れがひどく、言葉に詰まるようになっていたという事実を聞き、信行の顔色が変わった。その様子を見て、智昭は言う。「辻本の正体を暴くか暴かないか、それはあなたが決めることです。俺が口出しすることではありません」全てを明かした智昭に対し、信行はふっと笑みを浮かべた。「……礼を言うよ、高瀬社長」そう言って立ち上がり、短い挨拶だけを残してオフィスを立ち去った。車に戻った信行はタバコに火をつけ、煙をゆっくりと吐き出しながら、眉間を限界まで険しくひそめた。智昭は真琴の正体を知っていた。貴博も知っていた。しかし、自分に関わる人間、自分の味方である人間は、誰一人として知らされていなかった。真琴は、本当に心の底から自分を嫌悪し、徹底的に避けようとしているのだ。苦い煙を吸い込みながら、智昭の言葉を思い返す。そして二年前のあの夜、深夜に家を出ようとした自分を引き止め、「どうしても行くの?」と問いかけた彼女の声を思い出した。あの時、自分は「後で戻る」と答えた。だが、あの日家を出てから、二度とあの場所には戻らなかった。再び戻った時、真琴はすでに跡形もなく姿を消していた。茉琴は、間違いなく真琴だ。自分の手で真実を突き止め、彼女が生きていると分かったというのに、信行の心は少しも軽くならず、むしろさらに重く沈み込んでいた。何も知らないままだった頃の方が、よほど気が楽だった。死んででも自分から離れたかった。そこまで思い至り、信行は
……午後二時。会食はお開きとなった。車に戻った信行は、深くシートを倒し、頭を後ろに預けて再び目を閉じた。右手を上げ、指で目頭を揉む。胸の奥に、どうしようもない重苦しさが広がっていた。目を閉じたまま、先ほどの二通のDNA鑑定書を思い出すと、眉間の皺はさらに深くなる。信行が放つただならぬ空気を察し、ルームミラー越しに様子をうかがう運転手は、エンジンをかけることも、声をかけることもできずにいた。しばらくして、他の参加者の車がすべて出払ったのを見計らい、運転手はようやく恐る恐る尋ねた。「社長、会社へお戻りになりますか?」その問いに、信行は目頭を押さえたまま、ぽつりと言った。「お前はタクシーで帰れ。車はここに置いていくんだ」今この瞬間だけは、誰の目も気にせず、一人きりになりたかった。「はい、承知いたしました」言われるが早いか、運転手はそそくさと車を降り、その場を後にした。朝からずっと、社長の機嫌がすこぶる悪いことくらい、彼にも分かっていたのだ。完全に一人きりの空間になり、ようやく幾分か気が休まった。そのまましばらく身動き一つしなかった信行だが、やがて再び手を伸ばし、あの鑑定書を取り出して穴の開くように見つめ直した。食い入るように文字を追った後、書類を元に戻す。そして後部座席から降りて運転席へと乗り込むと、自らエンジンをかけて車を発進させた。向かった先は会社でもなく、真琴の元でもない。アークライトだった。「片桐社長」「片桐社長」アークライトとの提携案件は多く、今や彼がここへ出入りするのは自社に戻るようなものだ。すれ違うスタッフも皆、彼に挨拶をしてくる。無表情のまま軽く頷き返し、信行は片手をポケットに突っ込み、もう片手にあの書類を握りしめたまま、大股で二階にある智昭のオフィスへと直行した。ドアをノックして押し開けると、顔を上げた智昭が、何事もなかったかのように尋ねてきた。「片桐社長、今日はどういったご用件で?」その悪びれない態度を前にしても、信行は回りくどい真似はしなかった。無言のまま、手にしていた鑑定書を智昭のデスクに差し出し、向かいの椅子を引いてどっかりと腰を下ろす。渡されたDNA鑑定書を受け取り、智昭はまず信行の顔をじっと見つめ、それからゆっくりとページを開いた。茉琴
ほんの数歩進んだところで、自社の社員や東央側のスタッフたちと合流した。「片桐社長」「社長」次々と飛んでくる挨拶に、信行は涼しい顔で、いつも通り余裕たっぷりに応じた。一行が上の階へ上がると、正面から貴博が向かってくるのが見えた。彼の姿を捉えた瞬間、信行は無意識に歩みを緩め、冷ややかに、どこか関心のなさそうな視線を向けた。互いの距離が縮まった時、ちょうど個室から光雅と真琴が顔を出し、皆を出迎える。「片桐社長」「事務局長」光雅は貴博に愛想よく挨拶を交わす。彼をこの場に招いたことで、信行がどう思うかなど微塵も気にしていない。そもそも今日は庁舎で契約を交わしたのだから、担当幹部である貴博と食事を共にするのは、至極自然なことだ。もちろん、そこには光雅なりの意図的な当てつけも含まれていたが。何しろ、真琴自身が「もし恋をするなら貴博を選ぶ」と彼に打ち明けていたのだから。光雅の傍らに立つ真琴も、貴博の姿を認めると、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。「五十嵐さん」その春風のように華やいだ笑顔を目の当たりにし、信行の胸の奥がチクりと嫉妬に苛まれた。自分と接する時、彼女がこんなにも屈託のない笑顔を見せ、楽しそうにしたことなど一度もなかった。食い入るように見つめるが、真琴の意識は信行に全く向いておらず、貴博を迎え入れるとそのまま連れ立って個室へと入ってしまった。光雅と挨拶を交わし、信行も気だるげに個室へと足を踏み入れる。さらに彼の神経を逆撫でしたのは、皆が席に着く中、貴博がごく自然に自分の隣の椅子を引き、真琴を促したことだ。「博士、こちらへ」その気遣いに、真琴は嬉しそうに微笑んで歩み寄る。「はい。ありがとうございます」そう言って、彼が引いてくれた椅子に素直に腰を下ろした。やがて料理が運ばれ始めると、貴博は周囲と談笑しながらも、常に真琴への気配りを忘れず、こまめに料理を取り分けている。真琴もそれを拒むことなく、ただ笑顔で礼を言っていた。宴席を取り仕切る光雅は、時折信行の顔や、親しげな真琴と貴博に視線を向けては、完全に「高みの見物」を決め込んでいた。オフィスビルの件で信行に助けられたとはいえ、だからといって真琴が貴博と付き合うことに賛成しない理由にはならない。これまでの出来事に比べれ
視線がぶつかったものの、真琴は涼しい顔ですぐに目を逸らした。今の彼女は、信行を前にしても心が波立つことなどとうになかった。やがて契約書の確認を終えた双方のスタッフが、同僚と顔を見合わせてから頷き合う。「内容に問題はありません」その言葉を聞き、信行と光雅も最後まで目を通し終え、傍らにあったペンを手にとってそれぞれの署名欄にサインをした。続いて契約書を交換し合い、もう一方にもペンを走らせる。署名が完了すると、光雅は晴れやかな顔で立ち上がり、信行の前へ歩み寄って手を差し出した。「片桐社長、良い取引ができました。成大のビルの件でも、色々と骨を折っていただき感謝しますよ」もし彼が間に割って入ってこなければ、成大側との交渉にはもっと時間と労力を食っていただろう。その手を握り返し、信行も薄く笑う。「西脇社長こそご丁寧に。良い取引でした」信行の言葉に、光雅は笑みを深めた。「片桐社長、髪を黒く染め直されてから、随分と精悍になられましたね」信行が口を開くより早く、光雅が言葉を継ぐ。「この後、ホテルに興衆実業の皆様への昼食会を用意してあります。我が東央への歓迎と、これまでの厚遇に対するささやかなお礼として」光雅がセッティングした場とあって、信行も短く応じた。「ええ、後ほどお伺いします」その後、会議室でしばらく歓談したのち、一行はそれぞれ車に乗り込んでホテルへと向かった。光雅と話し、契約書にサインしている間も、信行はずっと真琴を気にかけ、時折その姿を目で追っていた。だが、真琴が漂わせる淡々とした距離感が、どうにも彼の調子を狂わせる。やがて西脇兄妹が挨拶を済ませて立ち去ると、信行もまた庁舎を後にした。駐車場のマイバッハ。運転手がドアを開けたその時、祐斗が慌ただしく駆け寄ってきた。信行が窓を下ろして視線を向けると、息を切らした祐斗が慌てて二通の報告書を差し出す。「社長!鑑定結果が出ました。毛根の検査によると……あの髪の毛は、二人の人物のものでした」渡された報告書を受け取り、その表紙をじっと見つめながら、信行は思わず長く息を吐き出した。その様子を見た祐斗が、「それでは社長、私は一足先にホテルへ向かいます」と告げる。信行は黙って片手を軽く振り、祐斗を先に行かせた。運転手がゆっくりと車を発
その後、すぐにスマホを手に取って信行へ電話をかけ、オフィスビルの譲渡について直接会って話をつける約束を取り付けた。信行があのビルを抱え込んでいても使い道はないし、光雅自身も妥当な額で買い取るつもりだったため、変に意地を張って彼と張り合う気などなかった。波風を立てずに利益を出すのが、商売人の鉄則なのだ。電話でやり取りするうちに、ビルの件はすんなりとまとまった。光雅が提示したのは、成大側と交渉していた当初の希望額である。興衆実業を相手に、わざと買い叩くような真似はしなかった。実際のところ、信行がビルを手に入れた額もまさにその価格だった。成大側が光雅に高値をふっかけてきたのは、彼が浜野から来たよそ者で、なおかつ早急にオフィスビルを欲しがっている足元を見たからに他ならない。成大自身も資金繰りに焦っていたため、強気な額を提示していたのである。……譲渡の話がまとまり通話を終えると、ほどなくして信行のオフィスのドアがノックされ、祐斗が入ってきた。ドアを閉め、デスクの前に歩み寄って口を開く。「社長、お呼びですか」その声に、信行は傍らの引き出しを開け、昨夜から大切に保管しておいた数本の髪の毛を差し出した。「これを、真琴のDNAデータと照合してくれ。同一人物かどうか確かめるんだ」戸籍上、真琴はすでに死んだことになっているが、警察のデータベースには、当時の照会用DNAデータがまだ残っている。当然、信行自身も彼女のデータを手元に残していた。つまり、これを使って鑑定にかければ、茉琴が真琴なのかどうか、白黒がはっきりするのだ。髪の毛を受け取り、祐斗は頷いた。「承知しました、社長。すぐに病院へ向かいます」言うなり、真琴のサンプルを手に足早にオフィスを出ていく。ドアが閉まるのを見届けてから、信行はゆっくりと視線を戻した。本人が過去を認めようが認めまいが、もはやどうでもいい。ただ、どうしても真実だけははっきりと知っておきたかった。じっと物思いにふけっていたが、やがて我に返り、再び手元の仕事に取り掛かった。一方、光雅の側では、信行と価格の折り合いがついた時点で、金曜日に調印式を行う手はずを整えていた。成大側とはもう少し揉めるかと思っていたが、信行が間に割って入ったおかげで、かえって話が早くついた。そして金曜日の
真琴が言い終えると、光雅はしばらく無言で彼女を見つめ返し、やがてゆっくりと手を伸ばして契約書を受け取った。ページを開き、前半の条項に目を通している間は、特に反応は示さなかった。だが、信行が提示した譲渡額を目にした途端、その表情がスッと険しくなる。最初から、ビルなどどうでもいいのだ。渡された契約書を最後までめくると、光雅はふっと冷ややかに笑った。「ずいぶんと気前よく恩を売ってくるものだ。どうやら、微塵も諦める気はないらしい」「なら、この件は任せるわ。彼との直接交渉はお任せする。私は少し用があるから、アークライトへ行ってくるわ」そう言って真琴が背を向け、歩き出そうとした時、背後から声が引き留めた。「真琴」その声に、真琴は振り返って彼を見た。「まだ何か?」静かに真琴を見下ろし、光雅は手元の契約書に視線を落として尋ねた。「あいつ、これほどの気前の良さに……少しは心が揺らいだか?」その問いに、真琴はふっと微笑んで答える。「彼とは長い付き合いだもの。昔からお金に執着はないのよ。私だから特別ってわけじゃなく、元々そういう性格なの」昔から、内海家や峰亜工業に注ぎ込んだ額も相当なものだった。それに、過去の数々のスキャンダル相手にも、ずいぶんと気前が良かったし。そうあっけらかんと言い切る真琴に、光雅の眼差しがわずかに和らいだ。その視線の変化に気づき、誤解や無用な期待を持たせたくなくて、真琴は念を押すように言った。「安心して。信行とどうにかなることは絶対にないわ。もし誰かと恋愛をするなら、五十嵐さんを選ぶから」実際、彼らの中で、貴博といる時が一番プレッシャーを感じずに済むのだ。もちろん、光雅や西脇家には心から感謝している。だからこそ、その恩に個人的な感情を絡めたくなかった。信行とのあの結婚が、何よりの戒めになっているからだ。自分に聞かせるように放たれたその言葉に、光雅は思わず声を上げて笑った。「ずいぶんと頭の回転が速くなったな。俺に釘を刺すことも覚えたというわけか」そのからかいにも、真琴は真剣な面持ちで返した。光雅のからかいに対し、真琴は真剣な面持ちで言った。「……お兄ちゃん。本当に感謝してるわ。お父様とお母様、それに、お祖父様とお祖母様にも」そう語る彼女は、完全に「茉琴」にな
真琴は他人行儀に言った。「ありがとう」車の前まで来ると、信行はドアを開けて真琴を乗せ、シートベルトを締めてやり、松葉杖を収納してから運転席へと回った。車が滑らかに発進し、まずは辻本家の実家へと向かった。迎えに来た真琴の姿を見て、哲男は眉をひそめた。「紀子も心配性じゃな。何でまた検査なんぞ。夏場で暑いんじゃから、食欲が落ちるのも当たり前じゃろう。それに真琴、足も悪いのに、何で無理をして来るんじゃ」そう小言を言った後、信行も来ていることに気づき、哲男は挨拶した。「信行くんも来たのか」文句を言いつつも、哲男は二人に連れられて大人しく病院へ向かった。検査の結果、
今日の拓真の勢いからすると、どうあっても会うつもりらしく、こちらが断っても引く気配はない。仕方なく、真琴は少し呆れながら答えた。「分かりました」避けていても問題は解決しない。会うなら会えばいい。信行とは、遅かれ早かれ決着をつけなければならないのだから。退社時間が近づくと、拓真は車でアークライトへやってきた。松葉杖をついて出てきた真琴を見ると、拓真はすぐに駆け寄り、バッグを受け取った。さらに体を支えようとする彼に、真琴は苦笑して言った。「拓真さん、支えなくても大丈夫ですよ。自分で歩くほうが安定しますから」拓真は軽く手を添えるだけに留め、彼女のゆっくりとした歩調に合
信行は「離婚しない」とは明言せず、「当局の調査があるから待て」と言っただけなので、真琴はそれ以上追及しなかった。彼が時間を稼ごうとしていることには気づいていたが、指摘はしなかった。ただ……「結婚前と同じ」だって?いいえ、彼らはもう永遠に戻れない。……昼、母の美雲が二人の昼食を届けに来た。食後、信行がエレベーターホールまで見送りに行くと、美雲は小声で念を押した。「いい、信行。真琴ちゃんはしばらく足が不自由なんだから、甲斐甲斐しく世話をして、汚名返上するのよ。しっかり心を取り戻しなさい」「母さん、俺のことはいいから。考えがある」信行は気だるげに答え、車のドアを閉
その時、信行は手にした協議書を一瞥し、鼻で笑って尋ねた。「誰に吹き込まれた?離婚協議書を爺さんのところに持ち込めば、それでカタがつくとでも思ったのか?」真琴は顔を上げた。彼女が反論する前に、信行は被せるように言った。淡々とした口調だ。「爺さんには散々絞られたし、圧力もかけられたよ」そして、真琴に口を挟ませまいと続けた。「協議書にある不動産や資産の譲渡だが、明日から法務部に手続きを始めさせる。名義変更などで、お前にも協力してもらう必要があるかもしれん」その言葉を聞き、真琴はてっきり彼が協議書にサインし、月曜日に離婚申請に行けるのだと思った。しかし、信行は協議書