INICIAR SESIÓN彼が何度も真琴を失望させ、幾度となくその心を傷つけてきた時点で、二人の関係はとうの昔に終わっていた。信行にチャンスなど残されていなかった。貴博をじっと見据えたまま、信行は口元に皮肉な笑みを浮かべ、冷たい声で問う。「いつから真琴の正体を知ったんですか?」その問いで、貴博はすべてを悟った。信行はすでに真琴の正体を突き止めたのだ。おそらく、DNA鑑定でも仕掛けたのだろう。だが、茉琴が真琴であろうとなかろうと、もはやどうでもいいことだ。静かに信行を見つめ返し、貴博は薄く笑った。「初めて再会した時からだよ。彼女は、最初から私に隠すつもりなんてなかった」「……」その言葉に、信行は言葉を失い、ただ相手を見つめることしかできなかった。しばらく貴博を睨みつけていたが、やがてポケットに両手を突っ込んだまま横を向き、視線を逸らした。真琴は貴博に対して一切の警戒心を解いていた。戻ってきて初めて顔を合わせた日から、正体を隠そうともしなかった。押し黙り、自嘲する信行の肩に手を置き、貴博は軽く揉むようにして言った。「信行。一度は手にしたんだ、今さら後悔するのはよせ。それに、今のこの結末は……少なくとも半分はお前自身の責任だろう」その言い方は、貴博なりの最大限の配慮だった。その言葉に、信行は振り返り、冷ややかに笑って言った。「まだ最後まで行ったわけじゃありません。誰が勝つか、勝負はこれからです」だが貴博は、ただ一言だけ告げた。「彼女を困らせるな」無表情のまま肩の上の手をどけ、信行は背を向けて車のドアを開けた。乗り込むなりアクセルを踏み込み、ホテルを後にする。帰りの道中、信行の心はやり場のない苦しさで塞ぎ込んでいた。真琴と話がしたかった。謝りたかった。すべてをきちんと伝えたかった。しかし、彼女は誰にチャンスを与えようと、自分にだけは決して与えようとしない。開け放たれた窓から、夜風が耳元を吹き抜けていく。かつて自分にだけ見せていた親しげな姿と、先ほど貴博に寄り添っていた笑顔が重なった。信行の胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられた。拓真を呼び出してバーに向かったが、信行は一言も発することなく、ただ黙々とグラスをあおり続けた。その尋常ではない様子に肝を冷やし、拓真が慌てて腕を掴む。「おい、い
ホテルのエントランス。真琴は両手でバッグを持ち、貴博を見上げて言った。「今日はありがとうございました。わざわざ送っていただいて」その遠慮がちな言葉に、貴博は笑って返す。「そんなに気を使わなくてもいいんだよ」そして、ふと思い出したように言葉を継いだ。「そうだ、博士。明日から二日間、県外へ出張に行ってくる。週末に戻ったら、一緒に食事でもどう?」常に細やかな気配りを見せ、先の予定まできちんと伝えてくれる彼に、真琴はこくりと頷いた。「ええ、喜んで」その後、入り口で少しだけ言葉を交わし、真琴は背を向けてホテルの中へと入っていった。貴博はその場に留まり、彼女の背中を静かに見送っていた。背を向けて歩き出した瞬間、実は真琴も横の駐車場に停まっているマイバッハの存在に気づいていた。信行の車は目立つし、あんな外れた場所に停めていれば、かえって目を引く。だが、彼女は視線を留めることもなく、気にする素振りすら一切見せなかった。先ほどの貴博とのやり取りも、誰かに見せつけるためなどではなく、ただ純粋に彼と向き合っていただけだ。貴博は一緒にいて心安らぐ相手だ。普段はこれといった連絡を取り合わなくても、何の気兼ねもいらない。エレベーターホールに着き、ボタンを押して中へと乗り込む。信行に未練を持たせるつもりもないし、これ以上彼と関わりを持つ気などさらさらない。彼との繋がりは、二年前に既に断ち切っていた。あの時、ちゃんと機会を与えたはずだった。過去を振り返ることなど久しくなかったが、それでもふと二年前の記憶が蘇る。あの夜、「どうしても行くのね?」と尋ねた自分を振り切り、彼は出て行った。「すぐ戻る」と言い残したまま、戻らなかった。あの大火事が起きても、彼が戻ってくることはなかった。エレベーターが到着し、中へ乗り込む。真琴は淡々と前方を見つめたまま、ふうっと長く息を吐き出した。あのような日々に逆戻りするのはもう御免だ。二度と「辻本真琴」に戻る気はないし、信行と関わる気も一切ない。彼への情も、かつての恩義も、とうの昔に手放している。……同じ頃、ホテルのエントランス。真琴を見送った貴博は、振り返りざまに、無意識に信行のいる方へ視線を遣った。少し離れた場所に停まっている彼の車など、とっくに気づ
無言のまま見つめ返す信行に対し、智昭も先ほどのような刺々しさは消え、静かな声で言葉を継いだ。「当時の彼女のうつ病は極めて深刻でした。東都を離れると決意した頃には、すでに物忘れがひどくなり、言葉もうまく出てこなくなっていたんです。これ以上発作が起きるのを恐れ、精神的にも限界でした。それに、もうあなたと揉め続けるのにも疲れ果てていたから、ここを去ることを選んだんですよ。辻本が本当に自ら命を絶たなかっただけ、運が良かったと思うべきです。もしそうなっていたら、あなたは一生その重荷を背負って生きる羽目になっていました」普段の智昭は口数の少ない男だが、今日ばかりはよく喋った。過去の自分の行いを言い訳したいわけではない。ただ、部外者から見ても、真琴のあの結婚生活はあまりにも見ていられなかった。物忘れがひどく、言葉に詰まるようになっていたという事実を聞き、信行の顔色が変わった。その様子を見て、智昭は言う。「辻本の正体を暴くか暴かないか、それはあなたが決めることです。俺が口出しすることではありません」全てを明かした智昭に対し、信行はふっと笑みを浮かべた。「……礼を言うよ、高瀬社長」そう言って立ち上がり、短い挨拶だけを残してオフィスを立ち去った。車に戻った信行はタバコに火をつけ、煙をゆっくりと吐き出しながら、眉間を限界まで険しくひそめた。智昭は真琴の正体を知っていた。貴博も知っていた。しかし、自分に関わる人間、自分の味方である人間は、誰一人として知らされていなかった。真琴は、本当に心の底から自分を嫌悪し、徹底的に避けようとしているのだ。苦い煙を吸い込みながら、智昭の言葉を思い返す。そして二年前のあの夜、深夜に家を出ようとした自分を引き止め、「どうしても行くの?」と問いかけた彼女の声を思い出した。あの時、自分は「後で戻る」と答えた。だが、あの日家を出てから、二度とあの場所には戻らなかった。再び戻った時、真琴はすでに跡形もなく姿を消していた。茉琴は、間違いなく真琴だ。自分の手で真実を突き止め、彼女が生きていると分かったというのに、信行の心は少しも軽くならず、むしろさらに重く沈み込んでいた。何も知らないままだった頃の方が、よほど気が楽だった。死んででも自分から離れたかった。そこまで思い至り、信行は
……午後二時。会食はお開きとなった。車に戻った信行は、深くシートを倒し、頭を後ろに預けて再び目を閉じた。右手を上げ、指で目頭を揉む。胸の奥に、どうしようもない重苦しさが広がっていた。目を閉じたまま、先ほどの二通のDNA鑑定書を思い出すと、眉間の皺はさらに深くなる。信行が放つただならぬ空気を察し、ルームミラー越しに様子をうかがう運転手は、エンジンをかけることも、声をかけることもできずにいた。しばらくして、他の参加者の車がすべて出払ったのを見計らい、運転手はようやく恐る恐る尋ねた。「社長、会社へお戻りになりますか?」その問いに、信行は目頭を押さえたまま、ぽつりと言った。「お前はタクシーで帰れ。車はここに置いていくんだ」今この瞬間だけは、誰の目も気にせず、一人きりになりたかった。「はい、承知いたしました」言われるが早いか、運転手はそそくさと車を降り、その場を後にした。朝からずっと、社長の機嫌がすこぶる悪いことくらい、彼にも分かっていたのだ。完全に一人きりの空間になり、ようやく幾分か気が休まった。そのまましばらく身動き一つしなかった信行だが、やがて再び手を伸ばし、あの鑑定書を取り出して穴の開くように見つめ直した。食い入るように文字を追った後、書類を元に戻す。そして後部座席から降りて運転席へと乗り込むと、自らエンジンをかけて車を発進させた。向かった先は会社でもなく、真琴の元でもない。アークライトだった。「片桐社長」「片桐社長」アークライトとの提携案件は多く、今や彼がここへ出入りするのは自社に戻るようなものだ。すれ違うスタッフも皆、彼に挨拶をしてくる。無表情のまま軽く頷き返し、信行は片手をポケットに突っ込み、もう片手にあの書類を握りしめたまま、大股で二階にある智昭のオフィスへと直行した。ドアをノックして押し開けると、顔を上げた智昭が、何事もなかったかのように尋ねてきた。「片桐社長、今日はどういったご用件で?」その悪びれない態度を前にしても、信行は回りくどい真似はしなかった。無言のまま、手にしていた鑑定書を智昭のデスクに差し出し、向かいの椅子を引いてどっかりと腰を下ろす。渡されたDNA鑑定書を受け取り、智昭はまず信行の顔をじっと見つめ、それからゆっくりとページを開いた。茉琴
ほんの数歩進んだところで、自社の社員や東央側のスタッフたちと合流した。「片桐社長」「社長」次々と飛んでくる挨拶に、信行は涼しい顔で、いつも通り余裕たっぷりに応じた。一行が上の階へ上がると、正面から貴博が向かってくるのが見えた。彼の姿を捉えた瞬間、信行は無意識に歩みを緩め、冷ややかに、どこか関心のなさそうな視線を向けた。互いの距離が縮まった時、ちょうど個室から光雅と真琴が顔を出し、皆を出迎える。「片桐社長」「事務局長」光雅は貴博に愛想よく挨拶を交わす。彼をこの場に招いたことで、信行がどう思うかなど微塵も気にしていない。そもそも今日は庁舎で契約を交わしたのだから、担当幹部である貴博と食事を共にするのは、至極自然なことだ。もちろん、そこには光雅なりの意図的な当てつけも含まれていたが。何しろ、真琴自身が「もし恋をするなら貴博を選ぶ」と彼に打ち明けていたのだから。光雅の傍らに立つ真琴も、貴博の姿を認めると、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。「五十嵐さん」その春風のように華やいだ笑顔を目の当たりにし、信行の胸の奥がチクりと嫉妬に苛まれた。自分と接する時、彼女がこんなにも屈託のない笑顔を見せ、楽しそうにしたことなど一度もなかった。食い入るように見つめるが、真琴の意識は信行に全く向いておらず、貴博を迎え入れるとそのまま連れ立って個室へと入ってしまった。光雅と挨拶を交わし、信行も気だるげに個室へと足を踏み入れる。さらに彼の神経を逆撫でしたのは、皆が席に着く中、貴博がごく自然に自分の隣の椅子を引き、真琴を促したことだ。「博士、こちらへ」その気遣いに、真琴は嬉しそうに微笑んで歩み寄る。「はい。ありがとうございます」そう言って、彼が引いてくれた椅子に素直に腰を下ろした。やがて料理が運ばれ始めると、貴博は周囲と談笑しながらも、常に真琴への気配りを忘れず、こまめに料理を取り分けている。真琴もそれを拒むことなく、ただ笑顔で礼を言っていた。宴席を取り仕切る光雅は、時折信行の顔や、親しげな真琴と貴博に視線を向けては、完全に「高みの見物」を決め込んでいた。オフィスビルの件で信行に助けられたとはいえ、だからといって真琴が貴博と付き合うことに賛成しない理由にはならない。これまでの出来事に比べれ
視線がぶつかったものの、真琴は涼しい顔ですぐに目を逸らした。今の彼女は、信行を前にしても心が波立つことなどとうになかった。やがて契約書の確認を終えた双方のスタッフが、同僚と顔を見合わせてから頷き合う。「内容に問題はありません」その言葉を聞き、信行と光雅も最後まで目を通し終え、傍らにあったペンを手にとってそれぞれの署名欄にサインをした。続いて契約書を交換し合い、もう一方にもペンを走らせる。署名が完了すると、光雅は晴れやかな顔で立ち上がり、信行の前へ歩み寄って手を差し出した。「片桐社長、良い取引ができました。成大のビルの件でも、色々と骨を折っていただき感謝しますよ」もし彼が間に割って入ってこなければ、成大側との交渉にはもっと時間と労力を食っていただろう。その手を握り返し、信行も薄く笑う。「西脇社長こそご丁寧に。良い取引でした」信行の言葉に、光雅は笑みを深めた。「片桐社長、髪を黒く染め直されてから、随分と精悍になられましたね」信行が口を開くより早く、光雅が言葉を継ぐ。「この後、ホテルに興衆実業の皆様への昼食会を用意してあります。我が東央への歓迎と、これまでの厚遇に対するささやかなお礼として」光雅がセッティングした場とあって、信行も短く応じた。「ええ、後ほどお伺いします」その後、会議室でしばらく歓談したのち、一行はそれぞれ車に乗り込んでホテルへと向かった。光雅と話し、契約書にサインしている間も、信行はずっと真琴を気にかけ、時折その姿を目で追っていた。だが、真琴が漂わせる淡々とした距離感が、どうにも彼の調子を狂わせる。やがて西脇兄妹が挨拶を済ませて立ち去ると、信行もまた庁舎を後にした。駐車場のマイバッハ。運転手がドアを開けたその時、祐斗が慌ただしく駆け寄ってきた。信行が窓を下ろして視線を向けると、息を切らした祐斗が慌てて二通の報告書を差し出す。「社長!鑑定結果が出ました。毛根の検査によると……あの髪の毛は、二人の人物のものでした」渡された報告書を受け取り、その表紙をじっと見つめながら、信行は思わず長く息を吐き出した。その様子を見た祐斗が、「それでは社長、私は一足先にホテルへ向かいます」と告げる。信行は黙って片手を軽く振り、祐斗を先に行かせた。運転手がゆっくりと車を発
「近くにいる。迎えに行く」信行はそれだけ言って電話を切った。数分もしないうちに、彼の車がやって来る。家に入って祖父と少し過ごし、将棋を二局指した後、信行はようやく真琴の手を引いて去った。庭を出ると、真琴は自然に手を抜き、後部座席のドアに手をかける。開かない。車に乗っている信行を見下ろし、静かに告げる。「鍵、かかってますけど」運転席で、信行は振り返って真琴を見つめ、さらりと言った。「前は開いてる」真琴は動かない。「後ろでいいです」頑なな態度に、信行は思わず失笑した。「乗れよ。新車だ。助手席にはまだ誰も乗せてない」「……」まさか、同じ車種の新
オフィスで、信行は書類に目を通している。その傍ら、由美は彼の椅子の肘掛けに、リラックスした様子で腰を下ろしている。親密すぎず、しかし他人行儀ではない、絶妙な距離感。書類を読み終え、信行は感情のこもらない声で言った。「高瀬との提携は問題ないだろうが、あいつは峰亜工業とは直接組みたがらないだろう。お前と武井の間で第三者契約を結んで、興衆実業の名義で提携すればいい」肘掛けに座り、由美は嬉しそうに微笑む。「分かったわ。全部信行の言う通りにする」信行の介入がなければ、智昭は会ってさえくれず、提携など夢のまた夢だったのだ。仕事の話を終え、由美が別の話題を切り出そうとしたその時、
真琴は頷いた。「早く行ってあげてください。大事な用なんだから。天音ちゃんのことは、私が見てますから」真琴の言葉に背中を押され、一明は足早に病院を後にした。その背中が見えなくなるまで見送ってから、真琴は踵を返して病室に戻る。ベッドの脇の椅子に腰を下ろし、頬杖をついて、眠る少女の寝顔をじっと見つめる。この子が、智昭に出会えたのは幸運だったと思う。はだけた薄い布団を肩までかけ直してあげていると、智昭が戻ってきた。真琴は椅子から立ち上がった。「石本さん、彼女と結婚の話があるそうで、先に行かれました」「ああ、聞いてる」智昭はベッドに近づき、天音の様子を見て布団を直し、
由美は二口ほど食べただけで蓋を閉め、隣のゴミ箱に捨てた。食べられない。全く喉を通らない。一時過ぎ、智昭と信行の話が一段落した頃、一明がまた真琴を呼びに来た。「辻本さん、これから社長たちが実験室に行くそうで、一緒に行くって」真琴は頷く。「分かりました。すぐに片付けて向かいます」手早く支度を整え、大部屋のオフィスで智昭たちと合流する。由美は相変わらず上機嫌で、愛想よく声をかけてきた。「真琴ちゃん」真琴は穏やかに微笑み返す。その脇で、祐斗が恭しく頭を下げた。「真琴様」真琴は微笑み返した。「武井さん」人々の中心で、信行は真琴が出てきたのを見て尋ねた。







