LOGIN12月上旬。冬の朝は、まだ暗い。
あの運命の応募から、数週間。
早朝6時。私は、スカイレジデンス東京の前に立っていた。
大きなスーツケースを転がし、もう一つのバッグを肩にかける。全財産が、この二つに収まっている。
吐く息が白い。冷たい空気が、頬を刺す。
警備員に挨拶をして、エレベーターに乗り込む。
神崎さんから渡されたカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。
上昇していくエレベーター。窓から見える景色はまだ薄暗いけれど、遠くに朝焼けの気配が感じられる。
今日から、ここが私の住む場所。緊張と不安と、そして少しの期待。
チーン、という電子音。扉が開くと、神崎さんが待っていた。
「おはようございます、森川さん。ようこそいらっしゃいました」
穏やかな笑顔。
「おはようございます」
私は頭を下げた。
「荷物はこちらに。まずは内部をご案内します」
神崎さんは私のスーツケースを持ち、中へと案内してくれた。
面接のときに見たリビング。朝の光が差し込み、ガラス張りの窓から東京の街が一望できる。オレンジ色に染まり始めた空。まだ眠っている街並み。
「こちらがキッチンです」
最新設備が揃ったキッチンは、まるでモデルルームのようだった。IHコンロ、大型冷蔵庫、全て高級ブランド。
「リビングの奥が、氷室様の寝室と書斎です。氷室様の部屋は入室禁止でお願いします。掃除も不要です」
「はい、承知しました」
返事をしたものの、私は少し気になって聞いてみた。
「あの……氷室様は、いつもお一人でこの広い部屋に?」
「はい。私も時々来ますが、基本的には一人です」
神崎さんは、少し寂しそうな表情をした。
「実は私、氷室様とは学生時代からの付き合いなんです。だから秘書という立場ですが、友人でもあるんですよ」
「そうだったんですね」
意外だった。氷のようなあの人にも、こんなに長い付き合いの友人がいたんだ。
「そして、こ
「……明日も、頼む」そう言って──彼は、私に向かって初めて笑った。あまりに不意打ちで、心臓が跳ねるのを通り越して、一瞬止まった気がした。ほんの一瞬。口角がわずかに、本当にわずかに上がっただけ。それは、まるで冬の朝日のような、儚い笑顔だった。ドアが閉まり、私はその場に立ち尽くす。そして──堪えていた涙が一筋、頬を伝った。「……ありがとうございます」誰もいない部屋で、私は呟いた。食べてくれた。全部、食べてくれた。そして、笑ってくれた。「嬉しい」これが、私の最初の勝利だった。小さな、けれどとても大切な一歩。彼の心を溶かすための、確かな一歩だ。私は、空になった皿を持ってキッチンに向かった。食器を洗いながら、自然と笑みがこぼれる。明日も、美味しい朝食を作ろう。氷室様が喜んでくれる料理を。そう、心に誓った。窓の外、冬の朝日が東京の街を照らしている。新しい一日が、始まろうとしていた。◇午後。インターホンが鳴った。「森川さん、突然すみません」やって来たのは、神崎さんだった。「少し、お時間よろしいですか?」その真剣な表情からは、緊急性を感じた。彼をリビングに通し、私たちは向かい合ってソファに座った。神崎さんは、少し迷うような表情をしてから口を開いた。「森川さん、氷室様のことで……お話があります」「はい」私は身を乗り出す。「実は……氷室様には、過去に──」神崎さんが何かを言いかけた、その時……。ガチャンという、玄関のドアが開く音がした。え?こんな時間に?氷室様が、予定よりも遥かに早く帰ってきた。「ただいま」低い声がリビングに届き、神崎さんはピタリと口を閉ざした。氷室様がリビングに入ってくる。私と神崎
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前5時半。いつもの時間だ。私は、深呼吸を繰り返して、重い体をベッドから起き上がらせた。考えてはいけない。今日も家政婦として、氷室様のために朝食を作ろう。それが、私の仕事なのだから。◇キッチンに向かい、私は気持ちを切り替えて朝食の準備を始める。今度は、洋食に挑戦。オムレツ、サラダ、トースト、コーヒー。卵をふんわりと焼き上げ、中にチーズとハムを入れる。外はしっかり、中はとろりと溶け出すように。トーストは、焦げ付かないよう丁寧に、軽く黄金色の焼き目をつけて。溶かしバターを塗り込む。サラダは、新鮮なレタスとトマト、きゅうりで彩りよく。コーヒーは、豆から丁寧に挽いた。深煎りの香りが部屋中に広がり、部屋の冷たい空気を少しだけ温める。7時ちょうど。氷室様がリビングに現れた。「おはようございます。朝食をご用意しました」私は、笑顔で声をかけた。氷室様は、テーブルの上の朝食を一瞥し、眉間に深い皺を刻んだ。「……不要だと言ったはずだ」冷たい声。でも、私は怯まなかった。ここで引き下がったら、何も変わらない。「朝食は一日の始まりです」真っ直ぐ彼を見つめる。「氷室様の健康管理は、私の仕事の一部ですから」氷室様は何も言わず、ただ私を見た。その瞳は冷
『氷室様より緊急の指示です』緊急の指示……なんだろう?神崎さんの声は、電話越しでもいつもの落ち着きを欠き、微かな緊張を孕んでいた。「リビングの革のトランクを、あなたの部屋のクローゼットの奥に保管してください」「トランク……ですか?」私は、リビングを見回した。ソファの横には、今朝はなかったはずの黒い革のトランクが、静かに鎮座していた。いつの間に、ここに置かれたのだろう?「トランクの内容は、私にも不明です。ただ氷室様からは『誰の目にも触れぬように』と、指示がありました」心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。誰の目にも触れぬように?「この件は、面接のときに話した『第15条』の適用だとお考えください」第15条。あの、理由の如何を問わず従うという絶対の契約。違法なことはさせないと、氷室様は言っていたけれど……この行為が法に触れるものだったら?もし、私が知らぬ間に共犯者になってしまったら?「森川さん?聞こえていますか?」焦りの混じった声が、遠のきかけた私を現実に引き戻す。「……承知しました」電話を切った後、私は深呼吸をして、トランクにゆっくりと近づいた。鍵がかかっていて、中身は見えない。両手で持ち上げると、予想以上にずしりと重い。表面は上質な革で、ところどころに使い込まれた傷がいくつかあった。中には、いったい何が入っているのだろう……。書類?それとも、金品?いや、考えてはいけない。これは氷室様の秘密。私はただ、従うだけ。トランクを抱え、私は自分の部屋へと急いだ。この不自然な重さが、私の腕にずしりと響いた。部屋に入り、クローゼットの扉を開ける。奥の、普段は使わない空きスペースにトランクを押し込み、上から冬のコートや服をかけ直して、完全に視界から隠した。
氷室様のいつも完璧に整えられた髪は乱れ、黒いスーツは、少し皺がよっている。そして、その顔には深い疲労の色。目の下の隈は、さらに濃くなっている。肩は落ち、足取りも重い。まるで、戦場から帰ってきたかのような。「お帰りなさいませ」私の声に、氷室様はわずかに顔を上げた。「……まだ起きていたのか」冷たい声。だけど、その声には力がなかった。いつもの威圧感が、消えている。「はい。夕食をお作りしましたので」氷室様は、リビングのテーブルを見た。そこには、綺麗に並べられた料理。湯気が立っている。彼の目が、一瞬だけ揺れた気がした。「……夕食?」まるで、その言葉自体が珍しいものを見るかのような、そんな表情。「はい。よろしければ、召し上がってください」氷室様は、数秒間、料理を見つめていた。そして、小さく首を横に振った。「……いらない。もう食べた」心臓が、ギュッと締め付けられた。「ですが、コンビニ弁当では栄養が……」「余計なことを言うな」氷室様は、冷たく遮った。けれど、私は引き下がれなかった。ここで引き下がったら、何も変わらない。「氷室様」私は、真っ直ぐ彼を見た。「私の仕事は、あなたの健康を守ることです。だから……明日の朝は、必ず食べてください」氷室様は、少しだけ驚いたような顔をした。黒い瞳が、私を見つめる。数秒の沈黙。そして、小さく言った。「……明日の朝にする」それだけ言って、部屋に消えた。私は、キッチンに戻った。料理を冷蔵庫にしまいながら、胸の奥が温かくなった。明日の朝。氷室様は、約束してくれた。私は
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。栄養バランスを考えた、温かい食事を作ってあげてほしいんです」神崎さんの声が、震えていた。「あなたにしか、できないことがあるんです」私は、強く頷いた。「必ず」私がそう言うと、神崎さんは安堵したように微笑んだ。「ありがとうございます。よろしくお願いします」神崎さんは時計に目をやる。「では、私はこれで失礼します。何かあればこちらに連絡してください」名刺を渡される。「ありがとうございます」「氷室様は……少し近寄りがたい人ですが、悪い人ではありません」神崎さんの口元が緩んだ。「森川さん、どうぞよろしくお願いします」「こちらこそ」神崎さんが去った後、私は一人、リビングに立っていた。静かだ。窓の外、東京の街が動き始めている。遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。私は、キッチンに向かった。まずは、掃除から。◇その日、私は一日中掃除と整理をした。リビング、キッチン、バスルーム。全て完璧に見えたけれど、細かいところに埃が溜まっている。窓のサッシ、照明の傘、キッチンの換気扇。コンビニ弁当の空容器を全て捨て、冷蔵庫を整理した。賞味期限切れのものは、全て処分。ゴミ袋が、三つもできた。そして、買い物へ。近くのスーパ
12月上旬。冬の朝は、まだ暗い。あの運命の応募から、数週間。早朝6時。私は、スカイレジデンス東京の前に立っていた。大きなスーツケースを転がし、もう一つのバッグを肩にかける。全財産が、この二つに収まっている。吐く息が白い。冷たい空気が、頬を刺す。警備員に挨拶をして、エレベーターに乗り込む。神崎さんから渡されたカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。上昇していくエレベーター。窓から見える景色はまだ薄暗いけれど、遠くに朝焼けの気配が感じられる。今日から、ここが私の住む場所。緊張と不安と、そして少しの期待。チーン、という電子音。扉が開くと、神崎さんが待っていた。「おはようございます、森川さん。ようこそいらっしゃいました」穏やかな笑顔。「おはようございます」私は頭を下げた。「荷物はこちらに。まずは内部をご案内します」神崎さんは私のスーツケースを持ち、中へと案内してくれた。面接のときに見たリビング。朝の光が差し込み、ガラス張りの窓から東京の街が一望できる。オレンジ色に染まり始めた空。まだ眠っている街並み。「こちらがキッチンです」最新設備が揃ったキッチンは、まるでモデルルームのようだった。IHコンロ、大型冷蔵庫、全て高級ブランド。「リビングの奥が、氷室様の寝室と書斎です。氷室様の部屋は入室禁止でお願いします。掃除も不要です」「はい、承知しました」返事をしたものの、私は少し気になって聞いてみた。「あの……氷室様は、いつもお一人でこの広い部屋に?」「はい。私も時々来ますが、基本的には一人です」神崎さんは、少し寂しそうな表情をした。「実は私、氷室様とは学生時代からの付き合いなんです。だから秘書という立場ですが、友人でもあるんですよ」「そうだったんですね」意外だった。氷のようなあの人にも、こんなに長い付き合いの友人がいたんだ。「そして、こ