تسجيل الدخول「銀行の振込記録だ。君の実家への送金記録が、メディアに流出した」
その言葉と共に差し出されたスマホの画面には、生々しい数字が並んでいた。
250万。それは、家政婦として働いた数ヶ月分の給料を、実家に送ったものだ。
少しでも実家の助けになればと思って送ったお金が、今は私たちを引き裂く『証拠』として、ネットの海で嘲笑の対象になっている。
「SNSでは、昨日の会見以上に炎上している。『純愛の皮を被った人身売買だ』と叩く声が止まらない」
蓮さんは、スマホを見た。その画面には、既に多くの記事が並んでいた。
『氷室蓮の婚約者は元家政婦!契約結婚の疑惑』
『シンデレラストーリーの裏に隠された真実』
『氷室グループ御曹司、偽装婚約か』
手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
蓮さんは、私の手を取った。
「大丈夫。今日、全てを話す」
力強い声だった。
「さっきも話しただろう。一緒に戦うと」
胸が熱くなった。<
【咲希side】「それでは、新郎新婦の入場です!」司会者の高らかな声が会場に響き渡った瞬間、オーケストラが華やかな旋律を奏で始めた。巨大な扉がゆっくりと左右に開かれ、真っ白な光が差し込む。スポットライトが、私たちを真っ直ぐに照らし出した。拍手の嵐が、地鳴りのように押し寄せる。私はただ、前を向いて歩いた。シャンデリアの眩い輝き。磨き上げられたカトラリー。白いテーブルクロスの上に置かれた、淡いピンクの薔薇。目に映るもの、耳に届くものすべてが、あまりに美しくて夢の中に迷い込んだかのようだった。けれど、これは夢じゃない。腕を組んでいる蓮さんの上質なタキシードの質感、私の手に重なる彼の掌の温もりが、ここが現実であることを教えてくれる。ゲストたちの顔が、ゆっくりと視界に入ってくる。その中央で、厳造様が孫を見るような温かい目で見守ってくれていた。親族席では、父と母が懸命に拍手をしている。その隣で、萌花はまだ序盤だというのに、もうハンカチで目を真っ赤にしていた。序盤からそれでどうするの、萌花。思わずそう突っ込みたくなって、少しだけ肩の力が抜けた。メインテーブルに着くと、蓮さんが流れるような動作で椅子を引いてくれた。「どうぞ」「……ありがとうございます」隣に蓮さんが腰を下ろし、肩がわずかに触れた。その微かな感触だけで、張り詰めていたものがふっと緩む。誰に遠慮することもなく、大好きな人の隣に、胸を張って座っていられる。その実感が、じわりと沁み込んできた。◇乾杯の後、歓談の時間になった。ゲストたちが、次々とテーブルに挨拶に来てくれる。「それでは、皆様お待ちかね、ケーキ入刀です!」司会者の声が響き、会場の中央に三段重ねの巨大なウェディングケーキが現れた。真っ白な生クリームの上に、繊細なシュガーアートの薔薇が咲き乱れている。私と蓮さんは、一緒に銀色のナイフを握った。
「はい、誓います」俺の声が、静まり返ったチャペルに響いた。「咲希。君と出会う前、俺は何かを失ったまま生きていた。人を信じることも、笑うことも、いつの間にかやめていた」言葉が、わずかに震えた。「でも、君が俺の人生に入ってきた日から、少しずつ変わった。君の作る温かい食事。いつも待っていてくれる笑顔。迷わず本音をぶつけてくる言葉。俺が俺でいられたのは、君がそばにいてくれたからだ」俺は咲希の手を取った。「これからの人生、全部一緒に歩みたい。嬉しい時も、辛い時も、何があっても隣にいる。そして君を、一生守る」俺は力強く告げた。「愛してる、咲希」会場のどこかで、すすり泣く声がした。牧師が、咲希の方を向いた。「森川咲希さん。あなたは氷室蓮さんを夫として迎え入れ……その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」咲希は、ゆっくりと俺を見た。「蓮さん」唇が少し震えているのに、声には力があった。「私は、どん底にいました。仕事を失い、希望も失って、毎日が真っ暗でした」咲希が涙を流しながら、微笑んだ。「でも、あなたと出会って、全てが変わりました。最初は、月給80万円の契約でした」会場から、小さな笑い声が漏れた。「偽装婚約の契約も、そうでした。でも、契約書には書かれていないことがありました。それは……本気で人を愛することでした」咲希の言葉が、強くなる。「いつの間にか、本気で、あなたを愛していました。あなたの不器用な優しさ。孤独な背中。誰にも見せない、温かい心。全部、全部、大好きになりました」咲希の手が、俺の手を握る。「これからの人生、あなたを支えたい。あなたと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。一生、そばにいることを誓います」会場が、一瞬静まり返った。それから、大きな拍手が湧き起こった。萌花が声を上げて泣いている。柊吾も、目元を拭っていた。最前列で、祖父・厳造がゆっくりと目を閉じ
新婦控室は、広くて明るい部屋だった。大きな鏡、白いソファ、飾られた花。到着してすぐ、私は再びあの純白のドレスに袖を通した。スタイリストさんたちが手際よくベールを整え、ティアラの角度を微調整してくれる。山梨でみんなに見送られた時よりも、さらに輝きを増した「花嫁」が鏡の中に戻ってきた。しばらくして、扉がノックされた。開くと──黒いモーニングコートを着た父が立っていた。いつもの作務衣姿とはまるで違う。背筋をまっすぐ伸ばし、どこか緊張した面持ちで立っている。こんな父を、見たことがなかった。父は部屋に入ると、私をじっと見つめた。しばらく、何も言わなかった。「……本当に綺麗だな」父の言葉が、かすかに震えていた。「お母さんに似て」その一言が、静かに胸に落ちた。込み上げるものを、私はぐっと堪えた。泣いたら、メイクが崩れてしまう。父が腕を差し出した。私は何も言わず、その腕をしっかりと取った。固くて、温かい、父の腕。◇チャペルの扉の前に着いた。重厚な扉の向こうから、オルガンの音色が響いてくる。荘厳で、静かで、どこか温かみのある音色。「大丈夫か?」父が、小声で尋ねた。「大丈夫です」力強く答えると、父が私の手をぎゅっと握った。扉が、ゆっくりと開いた。光が、溢れてくる。◇一歩、踏み出した瞬間、世界が変わった。白とグリーンで飾られた会場。シャンデリアの光。そして──バージンロードの先に、蓮さんが立っていた。遠くて、まだ表情は分からない。でも、その姿だけで、足が前に動いた。参列者たちの視線が、一斉に私に集まる。「わあ……」と誰かが息を呑む声が、静寂の中に溶けていく。私には、もう蓮さんしか見えなかった。一歩、また一歩。父の腕が、私を支えてくれている。白いバージンロー
午前7時。ヘアメイクのスタイリストたちが到着し、私の部屋はあっという間に準備の場へと変わった。ドレッサーの前に腰を下ろすと、スタイリストさんが私の髪にそっと触れた。「綺麗な髪ですね。しっかりとカールがつきますよ」ブラシが髪を通る心地よい刺激を感じながら、私は鏡の中の自分を見つめた。今日──この顔で、蓮さんの前に立つ。鼓動が、じわりと速くなった。一房ずつ、カールアイロンで形を作っていく。時間をかけて、慎重に。その間、メイクアップアーティストさんが私の肌を丁寧に仕上げていく。一つ一つの工程が静かに積み重なり、鏡の中の私が少しずつ変わっていく。「できました」スタイリストさんの声で、私はゆっくりと鏡を見た。「……私?」思わず声が漏れた。鏡の中には、見慣れない女性がいた。間違いなく私なのに、まるで別人のよう。母が、後ろで息を呑んだ。「咲希……本当に綺麗よ」萌花は口元を両手で押さえたまま動かない。「では、ドレスを着ましょう」真っ白なAラインのドレス。繊細なレースが、光を受けて輝いている。背中のファスナーを上げてもらうと、ドレスが私の体にぴったりと沿った。そして──レイラちゃんのお母様からいただいたティアラを、頭にそっと載せる。ずっしりとした銀細工の重みは、あの親子から託された祝福の重さそのものだった。もう一度、鏡の前に立つ。純白のドレスをまとった花嫁が、そこにいた。「咲希……」母の言葉が、途中で途切れた。鏡越しに目が合うと、母の頬を一筋の涙が伝っていた。萌花も、ハンカチを目元に押し当てている。「ちょっと、二人とも泣きすぎ」私が笑うと、萌花がくしゃくしゃの顔で笑い返した。「だって……咲希が綺麗すぎるんだもん」「スタイリストさんたちのおかげだよ」「ありがとうございます。素敵な結婚式になりますように」スタイ
4月12日、土曜日。午前5時。アラームが鳴り響くより数分早く、私は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中は青白い静寂に包まれている。それでも、地平線の向こう側が淡い真珠色に染まり始めていた。とうとう、この日が来たのだ。布団から出ると、足の裏に畳の感触が広がった。窓を開けると、春の朝特有の湿り気を帯びた冷たい空気が一気に流れ込む。山の端から溢れた鮮やかなオレンジ色の光が、眠っていた庭を照らし始めていた。何度も見てきたはずの実家の朝。でも、今日だけは世界が新しく生まれ変わったかのように見えた。「咲希?もう起きてるの?」ふすまの向こうから、母の声が聞こえた。「うん、起きてるよ」スッと開いたふすまの向こうに、黒留袖姿の母が立っていた。いつもの割烹着ではない、ハレの日の装い。母がいつもより一回り大きく、凛として見えた。母が、私の隣にそっと腰を下ろす。二人で並んで、窓の外を眺めた。庭の隅にある古びた物干し台。子供の頃、あそこでかくれんぼをしたっけ。シーツを干す母の後ろに隠れて、父に見つかって笑われた。洗い立ての布の匂いと、風に揺れる白い影。あの頃は、ずっとこの家にいられるものだと思っていた。自分がいつか氷室家に嫁ぐなんて、想像もしていなかった。「……綺麗ね」母がポツリと呟いた。その声が少し震えていることに気づき、私は母の肩に寄り添った。「本当に。いいお天気で良かった」「きっと、神様も味方してくれているのよ」母が、私の手を握った。昨夜、温泉の中で触れた時と同じ、温かくて少し小さくなった手。「お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。たくさん心配をかけたけれど、お母さんの娘でよかった」言葉にした瞬間、急に視界が潤んだ。母は何も言わず、ただ何度も私の手を叩いた。「こちらこそ。咲希を産めて、お母さん、本当に幸せよ」
部屋に戻った私は畳の上に正座をして、封筒をそっと開いた。便箋を取り出すと、不器用な文字が並んでいる。『咲希へ明日、お前は蓮さんの妻になる。父として、嬉しくもあり、寂しくもある。お前が生まれた日のことを、今でも覚えている。小さくて、か弱くて、一生懸命泣いていた。その時、父さんは誓ったんだ。この子を、絶対に守ると。お前が小学生の頃、父さんと一緒に庭の手入れをしたな。お前はまだ小さいのに、熊手を一生懸命動かして、落ち葉を集めてくれた。「お父さん、旅館のお庭、きれいにしようね」そう言って笑ったお前の顔を、父さんは一生忘れない。あの頃から、お前はもうこの旅館を、自分の場所だと思ってくれていたんだな。でも、父さんは何もできなかった。お前が苦しんでいる時も、助けてやれなかった。情けない父親だ。ホテルで仕事を失った時、お前がどれだけ辛かったか。父さんには、分かっていた。なのに、何も言えなかった。ただ、お前が諦めずに前を向いている姿を見て、父さんは誇りに思った。強い子に育ってくれて、ありがとう。そして──蓮さんと出会ってくれて、ありがとう。蓮さんは、お前を本当に愛している。きっとお前のことを守ってくれる。だから、父さんは安心してお前を託せる。咲希、幸せになれよ。ずっと、ずっと愛してる。父より』手紙を読み終えた時、私はしばらく動けなかった。便箋を胸に抱きしめる。便箋の端に、乾いた波打ちがあった。お父さん、泣きながら書いたんだ。厳格で、自分にも厳しく、甘えることを許さなかった背中。その裏側にあった、痛いほどの後悔と愛情。「……ありがとう、お父さん。私、お父さんの娘でよかった」誰もいない部屋で、その不器用な文字を、そっとなぞった。この手紙は一生、大切にしよう。◇しばらくして、スマホが振動した。蓮さんからのメッセージだった。
ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様…&
『氷室様より緊急の指示です』緊急の指示……なんだろう?神崎さんの声は、電話越しでもいつもの落ち着きを欠き、微かな緊張を孕んでいた。「リビングの革のトランクを、あなたの部屋のクローゼットの奥に保管してください」「トランク……ですか?」私は、リビングを見回した。ソファの横には、今朝はなかったはずの黒い革のトランクが、静かに鎮座していた。いつの間に、ここに置かれたのだろう?「トランクの内容は、私にも不明です。ただ氷室様からは『誰
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた







