夜の空気は冷えていたが、縁側の板の間にはほのかに昼間のぬくもりが残っていた。外の闇は深く、山の端には雲がかかり、星のひとつも見えない。けれど、家の中から漏れる障子越しの灯りが、そこにふたりの影を薄く浮かび上がらせていた。
七菜が寝静まった後、智久と春樹は缶ビールを手に縁側に並んで腰かけていた。昔からの癖で、こうして家の外に出て話すと、言葉が少しだけ素直になる気がした。缶のアルミが冷えきっていて、指先がじんと痺れる。けれど、口に含むと不思議とほっとする苦味だった。
春樹は、手元の缶を軽く揺らしながら言った。
「この時間、好きだな。音がなくなる感じ」
智久はうなずいた。遠くで鳥の羽音のような風の音がするだけで、人の声も車の気配もない。
「なあ……おれさ、小さい頃、あんまりピアノ、好きじゃなかったんだよ」
ぽつりと、智久が言った。
「知ってた」
春樹は笑うでもなく、当然のように返す。
「うちの母さんが先生だったろ。家でも練習しろって言われるし、叱られるのは恥ずかしいし、やるほど下手って言われてる気がしてさ。とくに、和音が……うまく指が届かなかった」
「……覚えてるよ。智くんが、隣でめっちゃ黙り込んでた日」
春樹の声は、少し低くなった。縁側の木に背を預け、遠くを見つめるその横顔が、灯りに照らされて輪郭をくっきりと映し出している。
「連弾、あったよな。右手が春樹で、左手が俺。うまくタイミングが合わなくて、何度もやり直して……」
「途中で笑い出したよな。先生に怒られてさ」
「怒ったあとに、母さん……笑ってたよ。俺らが音の外で楽しそうにしてるの、ちょっとだけ許した顔してた」
「わかる。先生ってさ、教えてるときは厳しいのに、そういうとこ、あった」
静かに笑い合ったあと、ふたりの間に短い沈黙が流れた。風が軒下の竹をかすかに揺らし、遠くで猫の鳴き声が聞こえた。
智久は、春樹の横顔に視線を戻した。薄く整った輪郭、切れ長の目の静けさ、声を発する前の呼吸の浅さ。子どもの頃、何度も隣で見てきたはずのその表情が、今こうして間近にあることが、なぜか信じられなかった。
変わらない。
変わっていないのに、ずいぶん遠く感じていた。 そう思った瞬間、胸の奥が少し痛くなった。「春樹はさ、ずっと音楽の中にいたんだな」
声に出すと、それが自分の思い以上に強く響いて聞こえた。春樹は、驚いたようにこちらを見た。けれど、すぐに目を伏せ、缶をひと口すする。
「……そういうふうに見える?」
「見えるよ。なんていうか……迷ってるように見えたこと、なかったな。昔から」
春樹は返事をせず、ただ空を見上げた。
そこには何もなかった。星も、雲の隙間も、声も。 それでも、夜は静かに続いていた。「智くんは、迷ってた?」
「迷ってたし、今もたぶん迷ってる。でも……なんでだろうな。こうしてお前と並んでると、ちょっとだけ、昔の音が聞こえる気がするんだ」
春樹の喉が動いた。言葉にならないまま、唇が少しだけ開き、閉じられた。
その横顔を、智久は黙って見ていた。
春樹の手が、ふと膝の上で指を軽く動かす。 音のない鍵盤を弾くように、その指先が空をなぞる。 ああ、と思った。 春樹はずっと、どんなときも音楽の中にいたのだ。そこには、嘘も飾りもなかった。
ただ、静かに音を聴く姿勢だけが、春樹のすべてを形作っていた。缶ビールの残りが少しずつ温くなる。ふたりの間に、時間だけがそっと流れていく。
けれど、その静けさが、心の奥に何かを落としていく。 過去と今をつなげる、名のない和音のように。画用紙の上に、赤と青と黄のクレヨンが散らばっている。机を囲むように四人掛けで座るその教室には、初夏の陽が斜めに差し込んでいた。窓の外では、まだ若い葉をつけた銀杏の木が風に揺れている。葉が触れ合う音は、ざわめく教室のなかに、かすかに混じっていた。七菜は静かに色鉛筆を握り、じっと画用紙の角を見つめていた。描いていたのは「好きな場所」。みんなは公園や海やおばあちゃんちを選んでいたけれど、七菜は和室のピアノを選んだ。大きくもなく、派手でもないそのピアノの前に、小さな自分と、うしろにぼんやり立つ春樹先生の影。実際には描かれていない人影が、下書きの輪郭のなかに、自然に宿っていた。「ねえ、七菜ちゃんのママって、どうしていないの?」その声が、すぐ隣から届いたのは、ちょうど黒の色鉛筆で鍵盤をなぞろうとしたときだった。手が、止まった。問いかけたのは、陽向(ひなた)という名前の、よく笑う女の子だった。明るい茶色の髪を三つ編みにして、しゃべるたびに首が小さく跳ねるように動く。いつもお弁当の話やテレビの話をしてくれるクラスの人気者だ。悪気など、もちろんない。ただ、そこに「ママ」がいないことが、不思議だっただけ。けれど、七菜にはすぐには答えられなかった。筆の先が、画用紙の上で微かに震えていた。言葉を探そうとするたび、胸の奥がぎゅっと縮まるような痛みを覚える。問いかけた相手のほうを見ないまま、七菜はただ、微かに笑ってみせた。曖昧に、でも笑顔に見えるように。「んー…いないだけ、かな」小さな声だった。自分でもそれが答えになっていないことはわかっていた。ただ、何かを言わなければいけない気がして、出てきた言葉だった。「そっか」陽向はそれ以上追及せず、また色鉛筆に目を戻した。その反応に、七菜はほんの少しだけ、息をついた。けれど、それでも残る違和感は、胸の奥でくすぶったままだった。教室の音が遠のいていくように感じた。誰かが笑っている声も、椅子を引く音も、給食の配膳の準備で騒がしくなりはじめた気配も、どこか膜の向こうにあるみたいに感じた。七菜の耳には、自分の心臓の音と、まだ描きかけのピアノの鍵盤だけが
夜がゆっくりと降りてきて、長谷家のまわりは、いつのまにか静かな帳に包まれていた。曇り空はそのまま、夕暮れの色をぼやかし、外の空気にひんやりとした湿気を含ませている。食事を終え、七菜は食器を片づける昭江の隣に立っていたが、「先に練習する」と言って和室へ向かった。その言葉を背中越しに聞きながら、智久は縁側の椅子に腰を下ろし、湯気の消えかけたマグカップを手に、ぼんやりと夜の庭を眺めていた。そのときだった。部屋の奥から、和音が鳴った。遠慮がちな、けれど明らかに意図をもった音の重なり。七菜の指が鍵盤に触れた瞬間の音だった。その音は、昼間に聴いたものとは違っていた。まだ不安定ではあるが、どこか整った流れが感じられる。音の運びに迷いがなく、ひとつひとつのタッチに小さな変化が宿っていた。「…変わったな」自分でも知らないうちに、そうつぶやいていた。廊下を通って台所に戻ると、昭江が流しに立ちながら、音のほうに顔を向けていた。音に合わせて包丁を置き、手を拭きながらゆっくりと振り返る。「春樹くん、いい指使いを教えたのね」穏やかな声に、智久は応えず、ただ頷いた。昭江の口調はどこまでも平らで、感情の起伏をほとんど表に出さない。だが、そのまなざしには確かなものがあった。息子の心を見透かしているような、何も言わずに背中を押すような、そんな視線だった。智久はもう一度、音のほうに耳を澄ませた。七菜の音が続いている。先ほどと同じ旋律だが、わずかにニュアンスが違う。春樹が添えたアドバイスが、彼女の指のなかで息づいているのがわかる。そしてふと、春樹の手が、また思い出された。あの午後、指の上に重なったやわらかい手のひら。過剰でもなく、不意打ちでもなく、ただ自然に触れてきた温度。なにかを主張するでもなく、ただそこにあるだけのぬくもりが、今も掌に微かに残っているような気がした。けれど、それを思い出したとき、自分が感じていたのは「手」そのものではなかった、とも思う。あのとき、自分の中に残ったものは、たったひとつの和音だった。指が重なって鳴った、あの小さな音。偶然のようで、どこか必然に近い、さ
七菜が「ちょっとお水取ってくる」と立ち上がり、廊下の方へと小走りで姿を消したあと、和室にはふいに静寂が降りた。障子の向こうからは、台所で湯を注ぐ昭江の気配が、かすかに届くのみ。遠くからは風に揺れる木の葉の音がまばらに混じる。だが、部屋の中だけは時間が止まったように静かだった。智久は、まだ鍵盤の前に腰かけたまま動かなかった。春樹もまた隣に座っていたが、互いに視線を交わすことも言葉を発することもなく、そこに並んでいた。薄曇りの空を透かした淡い光が障子越しに差し込み、ピアノの黒く光る面に淡く映り込んでいる。沈黙の中、智久は自分の呼吸が浅くなっているのを意識した。何気なく両手を膝に置き、指先に少しだけ力を込めてみる。けれど、落ち着こうとする意識とは裏腹に、胸の奥が静かにざわついていた。春樹の手が、ほんの数分前に自分の指に重なっていたことが、皮膚の感覚としてまだ消えていない。その触れ方はあくまで教師としてのものだった。七菜の奏法を直すための、理にかなった自然な動き。それなのに、あの瞬間に感じた温度や、微かに響いた和音が、智久の中のなにかを揺さぶって離さなかった。ふと、隣にいる春樹の指先が視界に入った。細く、長い指だった。鍵盤に触れていたときの動きが、まだ残像として頭の中に浮かんでいる。その指が、鍵を押すときの微かな沈み。音が鳴る寸前の緊張と解放。すべてが、静かで、丁寧で、あたたかかった。智久は息を飲んだ。息苦しいほどではない。けれど、確かに胸が波立っていた。手のひらの下、膝の筋肉がじんわりと熱を持っている。「……また音に触れてくれて、うれしい」ぽつりと、春樹が言った。その声はまるで、光の届かない水面の底から立ち上ってきたように静かだった。余計な抑揚もなく、ただそこに在るものとして言葉が置かれた。春樹は鍵盤の向こうを見ていた。智久を見てはいなかった。それなのに、声の熱はまっすぐ胸の奥に届いてきた。智久は答えるまでに少し間を置いた。「……俺は、音楽をやめたから」自分の口から出たその言葉を聞いて、智久は心のどこかが少
午後の光は、少し湿り気を帯びて和室の障子を透かしていた。春を過ぎたばかりの初夏、外ではまだ花の香りが残っているが、部屋の中は少しだけ涼しく、畳の匂いが空気をしっとりと包んでいた。七菜は、真新しい楽譜を前にピアノの椅子に座っていた。小さな背中はまっすぐで、膝の上に揃えられた手が緊張の輪郭を描いていた。視線は譜面ではなく、鍵盤の白と黒の間に注がれている。音を追うというより、まだ“位置”を探すような指の動きだった。智久は、そのすぐ後ろに膝を折って座っていた。和室の古いアップライトピアノ。母が昔使っていたその楽器には、時折きしむような音が混じる。それでも、今こうして音が鳴ると、どこか遠くで記憶が微かに波立った。「…ド、レ、ミ、ミ、ミ…?」七菜が鍵盤に指を置きながら、低い声で数える。右手の中指が思いのほか勢いよくミの鍵盤を叩いてしまい、音が少しだけ鋭く跳ねた。「あっ…」小さく声を上げて指を引く七菜。気まずさと戸惑いが混ざった顔をして、ちらりと智久の方を振り返った。智久は、軽く笑って首を横に振った。「うん、大丈夫。少しだけ、リズムが急ぎすぎたかもな」七菜は黙ったまま頷いて、再び前を向いた。その眉のあたりが、わずかにきゅっと寄っている。次こそ、という意志のある目をしていた。春樹は部屋の隅、障子の向こうに近い位置で静かに見守っていた。腕を組んだまま、姿勢は崩さず、ただ優しくその様子を見ている。彼のまなざしは、どこまでも穏やかで、干渉せず、しかし決して離れない。七菜が再び鍵盤に手を置いた。けれど、リズムを刻もうとする手が、また同じ位置でつかえてしまう。ミ、ミ、ミ…の反復で、どうしても速度が揃わなかった。「うーん…」小さく唸ったあと、彼女は口を尖らせて、もう一度鍵盤に手を置く。その様子を見て、智久はふと手を伸ばした。「ちょっと、貸してみ」七菜が小さく頷いたのを確認してから、彼はゆっくりと娘の右手の上に自分の手を重ねた。指が鍵盤に触れた瞬
夜がゆっくりと家の輪郭を包んでいた。外はすっかり暗くなり、窓の外に見える庭木は輪郭だけを残して沈黙している。風はなく、静かな晩だった。台所では、昭江がゆっくりと食器を布巾で拭いていた。湿った音も立てず、手際よく淡々と動くその指先は、まるでずっと昔からそうしているかのように迷いがなかった。そのときだった。奥の和室から、ふいにピアノの音が聴こえてきた。はじめの音は、探るようにぽつりと鳴った。続く音は、ほんの少し間を置いて重なった。ゆっくりと音が連なっていく。音量は控えめで、誰かに聴かれることを前提としない、内緒のような響きだった。昭江はふと手を止めた。拭いていた茶碗を布巾の上にそっと置き、音の方へ顔を向けた。目元にうっすらと笑みが浮かぶ。「七菜かしらね」呟くように言ってから、彼女はまたゆっくりと動き出す。けれど、その背筋はどこか嬉しそうに伸びていた。智久は洗面所の鏡の前で、手を拭いていた。娘を寝かせるつもりで、そろそろ布団の準備をしようとしていたところだった。けれど、その音が耳に届いたとき、無意識のうちに手の動きを止めていた。和室に向かう廊下の途中で足を止め、音のする方に顔を向ける。開け放たれた障子の隙間から、淡く灯る明かりが覗いていた。ピアノの音が、少し変わっていた。昼間に弾いていた曲と、旋律は同じなのに、運びに違和感があった。いや、違和感というには繊細すぎる変化だった。リズムの揺らぎ、指が滑るように抜けていくポイント、それがどこか柔らかく、大人びているように聴こえた。音を構成するものは、指だけじゃない。そのときの呼吸、心拍、身体の重さ。七菜がさっきまでとは違う音を出しているのは、明らかだった。智久は歩き出さず、その場でじっと耳を澄ませていた。廊下の壁にもたれるようにして、ただ、音の波に身を浸す。鍵盤の震えが、扉越しに、耳の奥の奥まで染み込んでくる。昼間、春樹が添えた指の運びを、七菜が覚えていたのだと思った。その使い方は、あのとき春樹が示したものと、まるきり同じだった。そのとき、胸の奥に妙な震えが生まれた。痛みではなかった。熱でもなかった。何かもっと、淡くて切実なもの。指ではなく、音に触れ
ふいに、畳の向こうから小さな音が聞こえた。チリチリと湯が沸き始める音だった。金属の急須が温まり、やかんの口から静かな湯気が立ち昇る音が、障子越しに淡く伝わってくる。音量はごくわずかで、日常の中に溶け込むようなものだったのに、それが不意に、部屋の空気を変えた。智久は、肩をわずかに揺らした。何かから解放されたような、あるいは、自分でも意識していなかった緊張の糸が、ぷつんと切れたような感覚があった。音が空気の膜を割り、そこに溜まっていた沈黙や熱がふっと逃げていく。視線を下ろすと、自分の膝に置かれた両手がかすかに震えていた。指先はもう春樹に触れていないのに、皮膚の奥に残った感触だけがそこにあった。あたたかく、柔らかく、けれど確かに、余韻を残すものだった。音ではなく、感触のほうが、むしろ記憶に近いところを撫でてくる。それがこわかった。春樹は何も言わず、隣で静かに座っていた。その横顔を見てはいけないと思った。見たらきっと、何かが決定的に変わってしまう。視線を交わすだけで、自分の中にしまっていた何かが、言葉になって漏れてしまう。そんな気がしていた。立ち上がろうとして、足元が一瞬だけふらついた。それに自分で驚いて、舌先が乾いた上顎に触れた。「七菜、迎えに行ってくる」声に出した瞬間、自分の声がわずかに掠れているのに気づいた。いつもの調子よりもわずかに高く、不自然な間がある。そのことを春樹に悟られたくなくて、言い終わると同時にその場を立ち上がった。腰を上げると、空気がゆっくりと肌から離れていくようだった。そこに残っていた温度が、一気に引いていく。春樹の視線を感じながらも、目を合わせることはできなかった。まっすぐ障子の方へ向き、歩き出す。歩幅が速くなるのを抑えようとするのに、身体は思うように言うことを聞かなかった。襖に手をかけて開けたとき、背中で気配が動いた。けれど、追ってくる足音はなかった。ただ、春樹はそこにいて、黙って見送っている。何も言わず、何も求めず。ただ、すべてを見届けるようなまなざしで。智久は、振り返らなかった。和室の外に出ると、台所の方から湯の沸く