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母の手、春樹の手

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-05 10:36:41

夜は深まり、家中が静寂に包まれていた。畳の上を歩く足音も響くほどの、濃い沈黙があった。昭江はすでに寝室に引き上げ、七菜も早々に布団に潜り込んで眠っている。けれど智久だけは、なぜか眠れなかった。

廊下を抜け、和室の戸を開ける。古いピアノの蓋はまだ閉じられていなかった。昼間に開かれたままのそれは、夜の光に照らされて、少しだけ艶を帯びて見えた。月明かりではなく、廊下の電灯の淡い橙が、ふちを照らしていた。

智久はそっと腰を下ろす。譜面台には何も置かれていない。けれど、その下の棚から、昼間見たあの古い譜面を取り出した。黄ばんだ紙に、赤鉛筆の丸がいくつも並んでいる。それを指でなぞると、すこしだけざらつきがあった。

「ここ、昔、母さんが…」

独り言のように呟いたが、それは声にもなりきらないまま、空気に溶けていった。

指先で一音だけ、鍵盤を押す。ふっと低く、優しい音が響いた。昼間の調律のおかげか、音は驚くほどまっすぐだった。思いのほか静かなその響きに、自分自身が一番驚いた。

「…いい音」

その声に、智久は肩をわずかにすくめた。

振り向かなくても、そこに春樹がいるとわかった。

「眠れなくて?」

「……ああ。なんとなくな」

春樹はそのまま隣に座る。距離が近い。手が、ほんの少しでも動けば触れてしまいそうなほどだ。けれど、春樹はその距離を保ったまま、智久の押した鍵盤を見つめて言った。

「この音、昔よりまっすぐになったね。調律だけじゃない。弾いた手が、まっすぐだった」

「そんなの、わかるのか」

「うん。たぶん、昔よりずっと迷ってない音。出すときに、変に構えてないっていうか…」

智久は視線を鍵盤に落としたまま、小さく息を吐いた。

「母さんの手、もっと強かったと思ってたんだ。怒ると怖かったし、叩かれるんじゃないかって思うくらい厳しかった。けど、今日久しぶりにこの鍵盤触って、思ったよ。あの人の手、ほんとは細かったなって」

「先生、優しい音を出してた」

春樹が、そっと言う。

「俺、ずっと憧れてたよ。力で押すんじゃなくて、音に触れるみたいな弾き方。あれ、すごく真似したかった。けど…できなかった」

「できてたんじゃないか、お前」

「…そうかな。もしそうなら、それは、先生の音がちゃんと届いてたってことだよ」

春樹の手が、ゆっくりと鍵盤に触れた。智久の手のすぐ隣、人差し指と中指がそっと並ぶ。二人の指が、鍵盤の上ですれ違う。まるで、過去と今が、白と黒の間で交差するように。

音は出なかった。けれど、その沈黙は音以上の何かを孕んでいた。

「音って、不思議だよな。出した瞬間に消えてくのに、耳に残る。心にも」

「うん。残る」

春樹の指が、軽く鍵盤を叩いた。わずかに響く音が、和室の空気に溶ける。

「この場所で、また音が鳴るようになってよかった」

「母さんが残したのは、譜面でも、言葉でもなくて、たぶん、こういう音の余韻だったんだろうな」

「智くんがそれを覚えててくれて、俺はうれしい」

「春樹…」

声をかけようとして、けれどその名前を言っただけで、智久は続きを失った。

ふたりの間にあるのは、ただ音だけだった。言葉では届かない、けれど確かにふたりを結ぶ何かが、そこにあった。

母が遺した音、春樹が憧れた音。

それが、今ここでふたたび重なっていた。何も語らなくても、鍵盤の温もりだけが、それを静かに証明していた。

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