末期の腎不全を患った私に最も適合するドナー腎は、夫の判断で、妹に回された。 医者から「他のドナーを待ちましょう」と言われたけれど、私はそれをきっぱりと断って、予定より早く病院を出た。 もう、冷えきった心には、これ以上しがみつく意味なんてなかった。 これまで必死に築いてきた財産を、全部妹に譲った。その見返りに、ようやく両親が私に笑いかけてくれた。 夫は四六時中、妹の看病に付きっきり。私は怒るどころか、「ちゃんと優しくしてあげてね」って、彼を気遣った。 息子が「おばちゃんをママにしたい」なんて言い出した時も、私は微笑んでうなずいた。 みんなの「願い」は、ちゃんと叶ったはずなのに。どうして、今さら後悔してるの?
View More父の目にも涙が浮かび、母の手をぎゅっと握りしめた。その隣で、年彦は感情を抑えきれず、寧々の前に駆け寄って、彼女の腕を小さな拳で何度も叩いた。「悪い人だ!ママは死なない!絶対に死なないんだ!この悪人!ぶっ飛ばしてやる!」そんな中で、家族の中でもっとも冷静だったのは、貴雅だった。彼は茫然と寧々の方を見つめ、しばらくしてからようやく口を開いた。「……詩織の墓はどこだ?一度、会いたい」その言葉に、寧々は鼻で笑った。「詩織はね、あんたなんかに会いたがってないのよ。本当に償いたいなら、詩織を陥れたクズどもを、きっちり始末してきなさい!」そう言いながら、彼女は分厚い資料の束を貴雅に投げつけた。貴雅は無言でそれを受け取り、ぱらぱらと目を通した。だが数秒も経たないうちに、彼の顔は怒りに染まり、瞳を大きく見開いた。次の瞬間、貴雅は何のためらいもなく、傍にあった椅子をつかみ、騒ぎ立てていた香里に叩きつけた。「このクソ女……!てめぇのせいで、詩織は……!全部、お前のせいだ!お前が、詩織を殺したんだよ!」香里の体はすぐに血に染まり、意識が朦朧とし始めた。七瀬夫婦は最初こそ止めようとしたが、机の上に置かれた資料に目を落とした瞬間、彼らも貴雅と同じように香里に殴りかかった。生前、詩織が集めていた、香里に陥れられた証拠の数々。それを世に公開したのは、寧々の独断だった。長年、詩織が一方的に傷つけられてきた現実に、彼女はもう黙っていられなかった。それに、身内同士が潰し合う姿を見届けることも、寧々なりの「けじめ」だった。オフィスの中には、香里の悲痛な叫び声が響き渡る。その騒ぎを聞きつけて、西山秀美が慌てて飛び込んできて、血まみれの香里を抱きかかえた。だが彼女が気にしていたのは、娘の命ではない。香里が重傷を負ったことで、どれだけ高額な慰謝料が取れるか、それだけだった。十分に茶番が繰り広げられたと見た寧々は、冷たく言い放った。「財産は、三営業日以内に自分たちで返却しなさい」すべてを終えた後、寧々は詩織の遺灰の一部をつれて、いくつかの場所を巡った。詩織が遺したお金は、一部を慈善団体に寄付し、残りはすべて彼女に託した。彼女には、詩織の代わりにしっかりと生きてほしかった。あの日から、寧々
寧々は目の前に立っていた貴雅の姿を見て、あからさまに不快な表情を浮かべた。そして、何も言わずに扉を閉めようとした。しかし、その前に貴雅が無理やり足を差し入れ、扉を止めた。「佐伯。詩織はどこだ。連絡は来ていないのか?」貴雅の一言で、寧々の瞳に怒りの火が灯る。「詩織の名前を口にする資格なんて、あんたにはない!この裏切り者……人殺し!」その一言で、貴雅の表情が一瞬だけ動いた。香里に対して多少の感情があったことは、彼自身も認めざるを得ない。だが、「人殺し」とまで言われる筋合いはないと感じていた。「……あのとき手を出したのは、俺が悪かった。だが、人殺し呼ばわりはやりすぎだろう」その無責任な言葉を聞いて、寧々の平手打ちが容赦なく、貴雅の頬を打った。「真実を知りたいなら、明日、本田法律事務所に来なさい」それだけ言い残して、寧々は扉を勢いよく閉めた。残された貴雅は、その場で言葉を反芻しながら、ひとつの可能性を思い浮かべる。──まさか。だが、その思いつきはすぐに頭の中から掻き消した。「ありえない。ただの勘違いだ……」翌朝、貴雅は予定よりも早く「本田法律事務所」に姿を見せた。七瀬夫婦も、香里と年彦を連れて事務所に到着していた。応接室では、寧々と詩織の信頼していた本田(ほんだ)弁護士と並んで座っていた。一同が入室すると、寧々は冷ややかに一瞥し、口を開いた。「今日は、詩織の財産返還について、話し合うために来てもらったわ」その言葉に、香里は思わず手に持っていたヴィトンのバッグをぎゅっと抱きしめた。「お姉ちゃんの財産は、自分から私にくれたの!返すなんて意味わかんない!それに、なんであんたみたいな外野が代わりに出てくるの?本当にお姉ちゃんの意志なの?もしかして……あんた、財産を独り占めしようとしてるんじゃないの!?そうよね!?」香里の声はどんどん大きくなり、最後には怒鳴り声になっていた。寧々は、相手にする気もないといった様子で、黙って詩織の遺言状と動画を差し出した。詩織は、自分に何か起きることを感じていた。だからこそ、あらかじめ本田弁護士に遺言と映像を託していたのだ。香里に無理やり書かされた「財産放棄の同意書」は、「七瀬家」の財産に関するものであり、詩織個人名義のものは含まれていなかっ
「スマホをよこしなさいってば!早く!」七瀬香里の実母・西山秀美(にしやま ひでみ)は、娘の必死な様子を見て、ふっと薄ら笑いを浮かべた。「口止め料、四百万円で手を打とうかしら?」「バカ言ってんじゃないわよ!」香里はスマートフォンを取り返そうとしてもみ合っているところに、病室の扉が開き、貴雅たちが入ってきた。元気そうに暴れている香里の姿に、貴雅の眉がピクリと動く。それに気づいた香里は、瞬時に顔色を変え、わざとらしく咳き込みながら声をかけた。「た、貴雅さん……来てくれたのね」咳き込む香里を見て、貴雅は心配そうに急いで駆け寄る。その様子を目にして、秀美の目がギラリと光った。「あなた、香里の彼氏さん?」その言葉に、香里の眉がぴくりと動く。貴雅も怪訝そうに彼女のほうを見て、警戒した声で尋ねる。「……あなたは?」秀美が答えるより先に、香里が割り込むように口を開いた。「貴雅さん、この人はね、私がお願いしたヘルパーさんなの。私、退院したらずっと貴雅さんとお姉ちゃんに世話になってるでしょ?それじゃ申し訳なくて……」そんな気遣いの言葉に、貴雅は優しく彼女の頭を撫でた。「詩織はもう家を出た。これからは、お前の姉じゃない」香里は心の中で小さくガッツポーズを決めつつも、表面上はしおらしく振る舞った。「ううん、私は気にしないよ。家族が仲良くできるなら、それだけで十分だから……」貴雅は静かにうなずいた。そう、彼らは本気で詩織を追い出すつもりなんかじゃなかった。ただ、少し痛い目を見せて反省させようとしていただけ。でも、皮肉なことに、詩織はもうその「本気」に気づくことはできなかった。香里はその後も二日ほど病院で静養し、貴雅の車で結城家へ戻ることになった。そして、西山秀美もちゃっかりその流れに便乗して同行した。目の前に広がる、金色に輝くようなリビングルームを見て、秀美の目にあからさまな欲望の色が浮かぶ。──まさか、あの役立たずが、こんな金持ちの家に転がり込むなんて。ここでしっかり一山当てなきゃ、母親としてやってられないわよね。「香里、ゲストルームはもう準備してあるよ。いつでも使ってくれ」ゲストルームと聞いて、香里の顔にわずかに陰りが差す。「うん、ありがとう、貴雅さん。私は……二人の邪魔
ピッ、ピッという電子音が耳元で鳴り響く中、私は重たい瞼をようやく持ち上げた。真っ先に駆け寄ってきたのは寧々だった。「詩織!詩織、やっと目が覚めたのね!」大粒の涙が、ぽろぽろと私の手の甲に落ちてくる。熱くて、濡れていて──手を伸ばして彼女を慰めようとしたけど、もう腕には力が残っていなかった。どうやら、もうすぐなんだな。でも、不思議と怖くなかった。胸の奥にあるのは、ただひとつ。寧々が、私のためにたくさん傷ついたこと。それだけが、唯一の心残りだった。「寧々……つらい思いをさせて、ごめんね……」かすれた声でそう告げると、寧々の目にはさらに涙が溢れた。「泣かないで……」手を伸ばして涙を拭ってあげたかったけど、もう届かない。それに気づいた寧々は、そっと顔を私の胸元にうずめた。「詩織、私はここにいるからね……」私は、彼女の耳元で最後の力を振り絞って囁いた。「寧々……これが、私にできる最後のこと……ありがとう。本当に、ありがとう……」その言葉を最後に、意識はさらに深く沈んでいった。耳の奥に、かすかに携帯の着信音が響いた。それは、父からのメッセージだった。【詩織、もう書類に拇印押したんだろ。お前の荷物、まとめといてやったから、取りに来い】【ああ、それとな、情がないなんて言われるのもしゃくだから、四千円置いといてやった。どっかのホテルにでも泊まれ】くだらない。もう、あの人からのメッセージに返事をすることは、二度とないだろう。ピ──かすかに動いていた私の胸は、そのまま永遠に静止した。「詩織──!!」寧々の悲痛な叫びが、病室中に響き渡る。でも、そのとき泣いていたのは、彼女だけだった。私は、ようやく、すべてから解放されたのだ。両親に香里を引き取るよう頼んだあの日から、私の悲劇な結末は、もう決まっていたのかもしれない。初めて彼女と出会った時のことを今でも覚えている。施設の中で、あの子は一番明るくて、一番気が利く子だった。あまりにも愛らしくて、私はつい、両親に彼女を迎えてほしいと頼んでしまった。その頃の彼女は、私の期待を裏切らなかった。勉強も人付き合いも、何もかも完璧で。正真正銘の七瀬家の長女である私ですら、影が薄くなるほどだった。彼女が今日の地位を手に入れ
私がすべてを知ったと察したのか、寧々はもう隠そうとはしなかった。「昨日の夜、結城があなたを探しに来たんだ……私、頭にきてちょっと怒鳴っちゃってさ。でも最初は手なんて出してないの。けど、香里は卑怯な手を使ってきたから……それで私、ちょっとやられちゃって……」それ以上、言葉にしなくてもわかった。貴雅も、香里も、寧々に手をあげた。どうして?どうしてそんなことができるの?怒りがこみ上げ、手の甲に爪が食い込んでも痛みなんて感じなかった。私の様子に気づいた寧々は、慌てて私を抱きしめた。「詩織、私、大丈夫だから!お願い、心配しないでよ」背中に感じる彼女のぬくもりに、胸の奥で押し込めていた悲しみが一気に溢れ出す。涙があふれて止まらず、声を上げて泣いた。その涙につられるように、寧々も小さくすすり泣き始めた。およそ三十分ほど経って、ようやく落ち着いた。でも、このままで終わらせるわけにはいかない。寧々が受けた屈辱を、私は決して無駄にしない。「寧々、南区のたい焼き、食べたくなっちゃった」「いいよ!すぐ買ってくるから!」寧々は勢いよく病室を飛び出していった。その隙に、私は点滴を無理やり引き抜いて、香里の病室へと向かった。私のことは構わない。けど、寧々にまで手を出すなんて、絶対に許せない。彼女は、私に何も借りがない人だから。香里の病室の前に立ったとき、中から楽しげな笑い声が漏れてきた。ドアを開けると、視線が一斉にこちらへ向けられる。貴雅の顔が見る見るうちに険しくなった。「お前、まだ来るのかよ?あの女の後ろに隠れてるしか能のないくせに。ただ謝罪に来いって言ってるだけだろ?命まで取るわけじゃない」その声に、私の中で何かが切れてしまい、貴雅の頬を平手で叩いた。「口を慎め!寧々のこと、これ以上侮辱したら許さない!」貴雅がこんな屈辱を味わったのは、おそらく人生で初めてだった。目に怒りが灯り、首筋の血管が浮かび、私を指さしながら、まるで雷鳴のような怒声を響かせた。「詩織!お前、いい加減にしろ!」腕を振り上げ、私を殴りかかろうとしたそのとき、父が間に割って入った。「貴雅くん!」父は目で何かを訴えかけると、私の前に立ちはだかり、真っ直ぐな視線を向けてきた。「詩織。これにサ
私は床に叩きつけられ、そのまま痛みにのたうち回った。それでも、貴雅は容赦しなかった。蹴りが体に突き刺さり、怒声が浴びせられる。「今すぐ病院へ行って、香里に土下座してこい!」彼は私の手首を乱暴に掴み、そのまま玄関まで引きずっていった。床には、私の血が引きずられたような鮮やかな痕が、くっきりと残っていた。だが、彼の目は一度たりともそこへ向けられることはなかった。玄関先には、年彦が冷たい視線を落として立っていた。その目には、失望の色が浮かんでいた。「ママ、どうしてそんなことするの?今日、香里おばちゃんにちゃんと謝らなかったら、僕もパパも、ママのこと一生許さないから」痛みが全身を駆け巡り、意識が遠のいていく。彼の言葉さえ、もう頭に入ってこなかった。そのまま病院に連れて行かれ、廊下の片隅に放り出された。「そこで跪いてろ!香里が目を覚ましたら、ちゃんと謝れ!」ぼんやりとした意識の中で、私はその場に崩れ落ち、そのまま意識を失った。貴雅の目に、私を案じる気配は一切なかった。ただ、嫌悪と軽蔑だけが滲んでいた。どれほどの時間が経ったのだろう。ゆっくりと、まぶたが開く。視界に映ったのは、懐かしく、そして心の奥に深く刻まれた顔。私の親友、佐伯寧々(さえき ねね)だった。寧々の目は真っ赤に腫れ、瞳には悲しみと怒りが入り混じっていた。「……寧々……」私のか細い声が届いた瞬間、彼女の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。「詩織……いつからこんなことになってたの?どうして……もっと早く言ってくれなかったの?」私はそっと、寧々の手に触れる。「まだ怒ってると思ってたから」あの頃、私が貴雅と付き合い始めたとき、寧々は必死に止めようとしてくれた。「あいつは冷たくて、自分のことしか考えてない。そんな人、あなたを幸せにできるはずがない」彼女は、そう言っていた。結婚相手としても、絶対にふさわしくないと。でも私は、聞く耳を持たなかった。どうしても彼と一緒にいたかった。今思えば、寧々は最初からすべてを見抜いていた。だからこそ、あんなにも強く反対してくれたのだ。「私が怒ってたのは、詩織が自分のことを大切にしなかったからだよ。あんなクズと結婚なんて……今の詩織を見てごらんよ…………はぁ……」
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