「うん、そうだね」桃は頷き、ひとまずその話題を終わらせた。ベッドに横たわる莉子を見ながら、雅彦は考えた。とりあえず介護人を雇うことにしよう。自分と海も面倒を見られるが、男二人で女性の世話をするのは不便だ。それに仕事もあるので、十分な時間が取れない。雅彦がそう言うと、桃は以前母の世話をしてくれた介護士を思い出した。あの方は信頼できる人だ。莉子の世話なら、自分たちがよく知ってる人にお願いするのが安心だ。桃はすぐにそのことを雅彦に伝えた。雅彦も適任者に悩んでいたところだった。この地域に来て日が浅く、莉子の状態も不安定なため、信頼できる人物を見つけるのが難しかった。「長く知っている人なら安心だ。ぜひ来てもらおう」桃は早速その介護士に電話した。以前香蘭の世話をしてくれた時、家族全員と良い関係を築いていた。雅彦が相場の倍の報酬を提示したこともあり、その介護士はすぐに承諾した。しばらくして介護士が到着すると、プロの介護士として手際よく準備を始めた。簡単なマッサージもできると言った。雅彦は彼女の迅速な対応を見て、ようやく安心した。時計を見ると、そろそろ会社に戻る時間だった。「じゃあここはお願いします。私たちは一度会社に戻ります」「お任せください。きちんとお世話しますから」そう言い残し、雅彦と桃は会社へ向かった。車中、二人とも疲れていた。直接的な労働はしていないが、病人の世話は心身ともに消耗する。雅彦は腕を伸ばし、桃を自分の胸に引き寄せた。彼女の目の下にできたクマに指を滑らせながら、「昨夜はよく眠れなかったのか?」と尋ねた。さっきまで莉子のことで頭がいっぱいで、こんな細かいことに気づかなかった。「うん」桃はあくびをした。一晩中悪夢にうなされていた。雅彦が莉子と逃げていく夢ばかりで、まともに眠れるはずがない。「あの日のことが怖かったのか?」雅彦は、銃撃事件の生々しい光景がトラウマになったのかと思った。「違うわ」桃はふんっと鼻を鳴らした。「あなたが莉子を抱いて逃げていく夢を見たの。いくら呼んでも振り向いてくれなくて」雅彦は思わず笑った。どうりで今日の桃は妙にピリピリしていると思った。原因はそこだったのか。「夢は逆だって聞いたことがないか?そんな夢を見るなんて、現実では俺がお前にべた惚れで、どんなに追い払おうと
「俺がいつ彼女とそんな関係になった?」雅彦は眉を深くひそめ、桃を見つめて言った。「さっきじゃないの?」桃は言いたくなかった。嫉妬深い女だと思われたくなかったから。でも我慢できなかった。「あんな風に抱きしめて、指切りまでして……」「お前も見ただろう?ベッドから転げ落ちたんだ。傷が開くのを放っておけるか?彼女を落ち着かせるためだった。それ以上の意味はない」雅彦は必死に説明した。桃もそれが真実だとわかっていた。でもあの光景を思い出すと、やはり胸がざわつく。一度きりならまだしも、これから毎日こんなことが続いたら耐えられない。自分の夫が他の女とあんなに親密にするのを見て、平気でいられる女がいるだろうか。「とにかく、これからは気をつけてよね。簡単にそんな重大な約束しないで。じゃないと、あなたの人生を共にする相手は私じゃなくて彼女なのかと思っちゃう」桃はぶつぶつ言いながら、頬を膨らませた。その様子が面白くて、雅彦は彼女の頬をつついた。「ん?この辺り、変な匂いがしないか?」桃は混乱し、同時に腹が立った。真剣に話しているのに、雅彦は変な匂いだなんて言い出す。話をそらそうとしているのだろうか?それとも、莉子と距離を置くことを約束するのが、そんなに難しいのだろうか?桃は突然むっとし、雅彦の膝から足を下ろして立ち上がろうとした。しかし雅彦は彼女の手首をつかみ、ぐいと引っ張った。桃はバランスを崩し、雅彦の太ももの上に座る羽目になった。「離して!」桃は怒って身をよじったが、雅彦が本気で抑えれば力では敵わない。ただ無駄に体をくねらせるだけだった。「桃、この病室、焼きもちの匂いでいっぱいじゃないか? もう焼け焦げそうだよ」雅彦は桃の嫉妬深い様子を面白がっていた。からかわれていると気づいた桃はさらに激怒した。真剣に話し合おうとしているのに、雅彦はまったく取り合わない。今にも爆発しそうな桃を見て、雅彦はからかうのをやめ、後ろから彼女の腰を抱いた。「言っただろう?あれはその場限りのことだ。彼女の治療のためだ。確かに世話はするが、俺にも分別はある。ましてや俺は医者でもリハビリの専門家でもない。24時間つきっきりになったところで、彼女の回復に何の役に立つ?」ようやく真面目に答えてくれた雅彦に、桃も少しずつ落ち着いていった。彼女の怒り
「分かった」雅彦は頷いて医者を見送った。莉子が深く眠っており、すぐに目を覚ましそうにないのを見て、雅彦は海に言った。「お前も一晩中付き添っていただろう。一旦帰って休め。ここは俺がいるから大丈夫だ」海も徹夜の疲れがピークに達していた。莉子のことが心配でなければ、とっくに倒れていただろう。雅彦の言葉に素直に従い、家に帰った。部屋には桃と雅彦だけが残された。ようやく雅彦は桃の足の火傷に目を向け、眉をひそめた。この女は、どうしてここまで意地を張るんだ……「彼女はもう大丈夫だ。お前の薬を塗ってやる」雅彦は自分の横のスペースを軽く叩き、桃を招き寄せた。桃は近づき、足を椅子の上に乗せようとした。すると雅彦は何の躊躇いもなく、彼女の足首をつかんで自分の膝の上に載せた。この姿勢で急に二人の距離が縮まり、桃の頬が赤くなった。「何するのよ!」「薬を塗るに決まってるだろ!」雅彦は特に深い意味はなく、ふと見上げると桃の耳まで赤くなっているのに気づいた。「どうやらお前、最近だいぶ変なことを考えるようになったな。そんなに足を離されちゃ、薬も塗れないのに、勝手に変な想像をして……」そう言われると、桃の顔は真っ赤になり、恥ずかしさのあまり怒りを覚えた。「じゃあ自分で塗るから、いいわ!」雅彦は桃が逃げようとするのを制し、お尻をパンと叩いた。「じっとしてろ。そんなに動いたら、誰かに見られて余計に誤解されるぞ」桃はこの行動にますます顔を赤らめたが、確かにこれ以上動けばさらに恥ずかしい状況になると思い、大人しくなった。ようやく桃が落ち着くと、雅彦は火傷の状態を確認した。よく見ると、桃の火傷には水ぶくれができ始めていた。このまま放っておけば、破れた時に激しい痛みを伴うだろう。雅彦は慎重に薬を絞り出し、桃の傷に塗った。薬はひんやりとしているが、塗られた瞬間はやはり痛く、桃は思わず「ひっ」と声を漏らした。雅彦は足首を握る手に力を込めた。「今さら痛いとか?さっき処置を受けに行けばよかったんだ」「だって彼女の状態が気になったんだもん」桃は雅彦を睨み、下唇を噛んだ。「彼女の足……きっと治るよね?もし本当に歩けなくなったら、どうするの……」雅彦は眉を上げた。桃の言葉には単なる心配以上の感情が込められているのがわかった。「お前、心配なのはそれだけじ
莉子のその言葉は、まるで助けを求める幼子のようだった。雅彦は彼女にとって最後の頼みの綱だ。雅彦は頷き、彼女の小指に自分の指を絡めた。「ああ、約束する」その様子を見ていた桃は、胸に鋭い痛みを感じた。まるで針で刺されたかのように、じわじわと広がっていく。なぜか、雅彦が莉子に約束する姿は、昨夜見た悪夢が現実になりつつあるように思えた。雅彦が莉子を落ち着かせている間に、海は医師を呼びに行った。莉子の傷の手当てが必要だ。医師は莉子の興奮を鎮めるため、鎮静剤を注射した。薬液が血管に流れ込むと、莉子のまぶたは重くなっていった。しかし、彼女の手はなおも雅彦の手を強く握りしめ、離そうとしない。「雅彦……私を置いていかないで……」「大丈夫だ」雅彦はそう言いながら、医師の助けを借りて莉子をベッドに寝かせた。医師が傷の状態を確認すると、激しく暴れたせいで傷が開いていた。再処置が必要だという。莉子の傷は胸の下あたり。男として見るべきではないと思い、雅彦はすぐに視線を逸らし、立ち去ろうとした。その時、ふと桃がずっと傍で見ていたことに気づいた。彼女の表情には喜怒がなく、ただ複雑な陰りが浮かんでいた。雅彦は胸に疚しさを覚え、桃の手を取った。「ここは医者に任せよう。まずはお前のやけどの手当てだ」桃は無表情に連れられていく。部屋を出る時、彼女は言いたかった――「莉子のそばにいてあげて」と。さっきのあの約束は、まるで自分が存在しないかのようだったから。しかし、口に出さずに飲み込んだ。桃は嫉妬深い女になりたくなかった。「いいわ、医師の処置が終わってからで」一度意地になると、桃は誰の言うことも聞かない。仕方なく雅彦は看護師から薬をもらい、その場で塗布した。しばらくして病室に戻ると、莉子は静かに眠っていた。医師は海に状況を説明しているところだった。莉子が足の感覚を失ったことでパニックを起こしたと聞き、医師は首を振った。「これは……良くないですね。やはり神経を損傷した可能性が高い」桃の胸が締め付けられた。一方では、若く美しい莉子がこんな目に遭うのは忍びなかった。もう一方では、自分勝手な思いもあった。莉子が無事でいてほしい――もし本当に足が不自由になったら……雅彦の性格からして、きっと傍を離れないだろう。それに、さっき治るまで
雅彦は食事していた手を止め、駆け寄って桃の傷を確認した。もともと白く滑らかだった肌が真っ赤に腫れ上がっているのを見て、胸が痛んだ。「大丈夫じゃないだろう。明らかにやけどしている。医者に診てもらおう」そう言うと、桃の手を引いて処置を受けさせようとした。桃は大げさだと思ったが、雅彦は睨みつけるように言った。「自分で行かないなら、抱いていくか?」腰をかがめ、桃を抱き上げる素振りを見せた。ベッドの上の莉子はこの光景に全身が震えた。自分は命にかかわる重傷を負い、ようやく雅彦に抱かれたというのに――桃はただの火傷で、こんな特別扱いを受けるの?なぜ……命を賭した自分の想いさえ、雅彦の心を少しも動かせないの?莉子は歯を食いしばり、体を動かしながら言った。「桃さん、本当にごめんなさい……わざとじゃないんです……」そう言いながら、ベッドから降りて散らかったお粥を片付けようとする。「莉子、動くな!」海が止めようとした刹那、ドサッと音を立てて莉子はベッドから転落した。その響きに雅彦と桃は振り返り、海は急いで莉子を抱き上げようとした。しかしその時、莉子の表情が一変した。「私の……足が、感覚がない……?」一同の顔色が変わった。海が素早く取り繕う。「麻酔がまだ完全に切れてないんだ。気にしすぎだ」莉子は雅彦を見つめた。彼だけが唯一信じられる存在だった。「雅彦……そうなの?」莉子の目に浮かぶ恐怖を見て、雅彦は言葉を失った。すると莉子は何かを悟ったかのように、両足を激しく叩き始めた。「違う!麻酔なら他の部分も感覚がないはず!なのに足だけ……!」莉子は狂ったように自分の足を叩き続け、痛みを確かめようとする。その姿を見て、海は彼女の手を押さえた。「莉子!落ち着け!傷が開く!」「足が動かないなら、死んだも同然よ!傷がどうなろうと関係ない!」莉子は泣き叫んだ。その痛ましい声に、誰もが胸を締め付けられた。海の制止も虚しく、莉子の傷から血が滲み始めた。雅彦もさすがに黙って見ているわけにはいかなかった。莉子の手を握り、「……いいか、俺の言葉を信じろ。お前はきっと回復する」莉子の激しい抵抗が少し弱まった。雅彦の手を握りしめ、その肩にすがりつく。涙に曇った目で見上げながら、「雅彦は私に嘘をつかない……よね?」雅彦
物音に気づいた雅彦と海が一斉に振り返った。「目が覚めたか?」莉子がまぶたを開くと、真っ先に雅彦の顔が見えた。この上ない幸せに包まれながら、「雅彦……これ、夢かな?私、まだ生きてるの……?」「馬鹿なことを言うな。お前は無事だ」雅彦は眉をひそめ、「体の調子はどうだ?」と尋ねた。莉子は体を動かそうとしたが、麻酔がまだ完全に切れていないのか、力が入らない様子だった。「体が……だるい」雅彦が頷き、何か言おうとしたその時、外から軽やかな足音が聞こえた。トントンとドアをノックする音。桃が現れ、莉子が目を覚ましたのを見てほっとした。「莉子さん、お目覚めで何よりです!」一晩中悪夢にうなされ、その原因が莉子だったにもかかわらず、彼女が無事なのを見て胸をなでおろした。もし莉子に万一のことがあれば、きっと皆の心に深い傷を残すだろう。桃の登場に、莉子の目が冷めた。一方、雅彦は彼女が手に持っているものに気づき、受け取った。「これは?」「母が作ったお粥とおかず。雅彦も朝食食べてないし、莉子さんと海さんもまだ食べてないかと思って」桃はそう言いながら包みを開けた。中には色鮮やかで香りも良い朝食がぎっしり詰まっていた。味つけはどれも控えめだが、一目で心を込めて作られたことがわかるものばかりだった。一晩中付き添っていた海も、空腹を覚えていた。「桃さん、ありがとうございます。食事のことすっかり忘れてた」「お疲れ様です」桃は海の目の下のクマと無精ひげを見て、徹夜の看病の大変さを知った。莉子は桃が現れた途端、皆の関心が自分から逸れたのを感じ、布団の下で拳を握りしめた。爪が腿に食い込み、幾筋もの血痕ができたが、その痛みさえも快感に思えた。桃は二人の男性に自分で取るよう促し、莉子用にお粥を取って差し出した。「大したものじゃありませんが、昨日から何も食べてないでしょう?胃に優しいものを少しでも」桃の手はそのまま伸ばされた状態だった。莉子は俯いたまま、受け取る気などさらさらなかった。この女の持ってきたものなど要らない。しかも彼女の母親が作ったものだなんて、吐き気がする。しかし桃は待ち続け、雅彦も見ている。仕方なく手を伸ばした莉子は、わざと腕を震わせた。ガチャン!碗が床に落ち、熱いお粥が桃の素足にかかった。真夏のため桃はショートパンツ姿だっ