LOGIN9花のプレゼント
「…酒屋?」 「はい。駅前の…ちょっと裏に入ったとこにある大きな店構えの、酒屋です」 「酒なんて…重てぇだろ」 多分オーナーと同じ心配をしているとわかって少しおかしくなった。 「…なんだよ」 「いえ、こう見えて、結構力はあるので大丈夫です…って言いたくて」 携帯に何度も連絡が入っていることに気づいて、慌てて連絡を返すなり、マンションにやってきた龍之介。 アルバイトが決まって、早速仕事をしてきたため、連絡に気付かなかったと説明した。 「…ちょっと、聞いてもいいか?」 龍之介は冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。 「どうしたんですか?」 桜は何か作ろうとキッチンに立つ。 冷蔵庫からハムときゅうりを出して千切りにし、卵を溶いて一緒に炒め、味を整えてから粉チーズを振る。 そして自家製の鶏ハムに、ミニトマトを添えて… サッと出てくる料理に、感心して桜を見上げる龍之介。 「お酒を飲み終わったら、何かご飯ものを…」 言いかけて、長い時間ここにいるわけではないかもしれない…と思う。 「…惚れる…」 ボソッとつぶやいた言葉は、桜の耳には届かなかった。 「…あ、先の話、でしたっけ?」 「あぁ。もしかして…夢とかあるのか」 「…そうですね。花屋さん…」 突拍子もない言葉に、ビールを飲みかけた龍之介の手が止まる。その姿勢のまま…視線が落ちてきた。 「今まで…1日を無事に過ごす事で必死だったので、気付かないふりをしてました。…お店を持ちたいです。花屋さんと併設したカフェ…とか」 「花が好きなのか?あとなんだ、コーヒーとかも?」 「花は…野生の草花が生い茂る田舎で育ったので、好き、というより見えないと不安になります。コーヒーは、好きってわけじゃなくて、人が集まる場所って意味で…」 笑いながら答える桜。 「…どうしてそんなこと聞くんですか?」 「それは……これからも、支援したいと思うからで…」 ビールが入ったグラスを傾け、少し照れくさそうに言う龍之介。 「まぁいいや、お前も飲めよ」 「あ…はい」 どうしてそんなに支えようと考えてくれるのか。 …聞きたい言葉をしまって、代わりに自然とこぼれてしまう笑顔を龍之介に見せた。 「ワインを飲ませてもらって…いいですか?」 龍之介に支えたいと言われるのは、戸惑うけれど、やっぱりとても嬉しい… 明日もアルバイトだと告げると、龍之介はいつものようにベッドの傍らに座って、寝かしつけるよう髪を撫でてくれた。 その手を取り、自分の頬に当てたのは、2杯飲んだワインのせい。 「大きくて、あったかい手です。ずっと…こうしててほしい…」 酔って飛び出す言葉には本音が宿る。 そうか…自分は本当は、龍之介にここで一緒に眠ってほしいんだ。 「百合…さんの、代わりでもいい」 まぶたが重く…落ちる寸前の言葉に、龍之介が驚いたのだけはわかった。 「どうして、その名前を知ってる?」 眠りに吸い込まれた桜に、問いかける龍之介の言葉は、届かなかった。 朝になって起きてみると、ダブルベッドに1人。 いつからか、強烈に寂しさを感じるようになった自分に気づいて嫌になる。 部屋を出てリビングに行くと、そこに思いがけないものが置いてあった。 「え、なにこれ…」 様々な大きさの観葉植物、鉢植えの花…そして…溢れんばかりの赤いバラ。 「…すごい!こんなにたくさんのバラを見たの初めてかも…!」 昨夜、草花が見えないと不安になる、と言った事を思い出す。 もしかしたら…自分を寝かせた後、これを運び入れてくれた…? 高貴な香りを漂わせるバラの花束を抱きしめながら…どうしてそこまでしてくれるのかと思う。 …まるで愛されているようで…落ち着かなくなってしまう。 「…違う。極道のやることはきっと…派手なだけ」 そう言葉に出すも…花束を抱きしめる桜のまぶたの裏に思い浮かぶのは、龍之介の姿。 自分でも知らずに、抱きしめる腕の力を強めた。 「あらぁ…見事なバラだわねぇ…ありがとう!」 酒屋のオーナー夫妻と美紀に、もらったバラを小分けにして、ラッピングして持っていった。 「頂き物なんですけど…昨日のあんころ餅のお礼に…」 「それはいいのよ?お昼ご飯はお父さんに食べさせるついでに、これからも2人にも用意するからね?!」 「わぁ…嬉しいです!」 オーナー夫妻と笑い合う桜に、美紀がポケットから小さな紙袋を取り出し、差し出した。 「私は、これからよろしくの意味を込めて、ちょうどお菓子を持ってきたの!…お返しになって良かった!」 可愛らしい袋のなかに、お煎餅やクッキー、チョコレートといった個包装のお菓子がバランスよく入っている。 「ありがとう美紀さん…!」 人から貰い物をするなんて、桜にはあまり経験のないことで、素直に嬉しかった。 ついこの間…父の裏切りで最悪の事態に陥ったけれど、龍之介のおかげでここまで這い上がることができた。 …ようやく、自分の居場所を見つけたような気がして、桜はホッと息をついた。 「…すっかり怪我も良くなったみたいじゃん」 納品された酒を業者と一緒に運び入れようと店を出たところで、黒いスーツ姿の男性が目に入った。 その整った顔立ちに、一瞬で記憶が戻る。 「…蔵之介さん」 「お…?名前覚えててくれたのか。嬉しいねぇ」 腕組みをして近づいてくる蔵之介に、桜は「…仕事中なので」と先に伝えた。 「へぇ…うちの若頭、女を働かせる趣味があったのか」 「…あの」 遠慮なく高級そうなスーツの裾を引っ張って物陰に隠れる。 「若頭とか、不穏なワードを出さないでもらえますか?」 「あぁ…仕事場なんだっけ。ごめんごめん」 まったく悪びれなく謝る蔵之介に、桜はため息をついて続けた。 「それと、私は別に龍之介さんの女、とかじゃないので」 「…ん?そうなの?兄貴の奴、手ぇ出してないの?」 「…声が大きいですっ」 思わず口元を塞ごうと手を伸ばした。 すると蔵之介はその手を掴み、口角を上げた唇に触れさせた。 「…なっ!」 反射的に手を引っ込めて、腰のあたりで拭く桜。 「…ふふっ!そんな嫌そうな顔をするのは桜ちゃんだけだ!」 失礼な事をされたのに笑い出す蔵之介を不思議に思う桜。 「それで、何か用事ですか?」 「いや。当たりをつけて来てみただけ。この街に…兄貴のマンションがあるのは知ってるからさ」 「あぁ、龍之介さんに用があったんですね」 だったら自分のバイト先に顔を出さないでもらいたい、と思いながら言う。 「…家で会えるんじゃないんですか?わざわざこんな所まで来て…」 迷惑、と言いかけて、少し失礼だろうかと思い直した。 「用があるのは桜ちゃんに、だよ」 鼻先をチョンっと突かれる。 「夜、帰った頃行く。…道草しないで帰ってこいよ?」 後ろ向きで歩きながら、笑顔を見せて去って行く蔵之介。 自分になんの用事があるというのか…? やがて仕事を終え、マンションに帰って驚いた。 「おかえり。…桜ちゃん」 誰もいないはずなのに、蔵之介がリビングに座っていたから。蔵之介の拳が顎の下に入り、勢いで後ろに吹っ飛んだ龍之介。 ぶつかったサイドボードのガラス扉が派手な音を立てて割れ、桜は驚いてソファから立ち上がった。 「…今回は俺に指図するんじゃねぇぞ」 「や…やめてください」 仰向けに倒れた龍之介の胸ぐらをもう一度掴んだのを見て、反射的に桜は蔵之介を止めた。 自分の手に重なる桜の手を払うことができず、蔵之介は龍之介を離し、立ち上がった。 「全部、教えてください。百合さんというのは、いったい誰なんですか…」 蔵之介が出ていき、唇から血を流した龍之介に手を貸してソファに座らせ、砕けたガラスを拾いながら聞く。 「…危ない。俺がやるから」 せっかく座ったのに、桜がつかんだガラスの破片を奪い、ビニール袋に放り込む龍之介。そんな龍之介を、桜はじっと見つめていた。そして、そんな桜の強い視線の意味を、龍之介はちゃんと理解していた。けれど…今はまだ言いたくない。それは、初めて会った時とは違う気持ちが芽生えているからだ。これまでつらい思いばかりしてきた桜を、傷つけたくない。「誤解させないように話したい。…だから話すまで、もう少し時間をくれ」「いつですか?」「…ん?「いつになったら誤解のない話ができるようになるんですか?」桜は強い視線を投げかけ、そんな話ができるはずないと言い放った。「正直に、話してくれたらいいんです」…すでに、涙で濡れているように見える桜の大きな目。今は、正直に話す方が彼女に対して誠実だと思い直した。 「百合というのは…2年前亡くなった妻だ。結婚して1年で病気になってな…あっという間に、逝ってしまった」 「亡くなった…奥さん…」 それを聞いて納得した。 …いつか、私を抱きしめて名前を呼んだのは… 「私は、奥さんに似ていたんですね」 「…あぁ。目を見張るほど似ている。組の者も…百合のことを知る奴は皆驚いた」 「…だったら、納得です。私が生きる事を許された理由が」 …すべては、百合さんという女性に似ていたから。 「だから怪我を心配してくれたんですね。…あ、そもそも、抱き上げて屋敷に入れてくれたのも、そういうことか」 優しい瞳で見つめてくれたのも…頬のガーゼをとめる紙テープに気を使ったのも…抱きしめてくれたのも、キスも… 「全部、私を通して百合さんを見ていたから…」 …溢れる
「どうやって…入ったんですか?」 「言ったろ?兄貴のマンションなんだから、鍵くらい持ってるってこと」 龍之介より線の細い、美青年…といった雰囲気の蔵之介。 組んだ手も足も細く見えるが、このマンションに移動する時、部屋を訪ねた時の裸の上半身を思い出す。 …極道というよりモデルみたいだけど、この人もいざという時は戦うんだろうから、きっと鍛えているのだろう。 そう思ったら、室内で2人でいることに息苦しさを感じた。 じっと見つめられて、心臓が妙な速さで拍動し始める。 …大丈夫。 苦しかったら、そっと後ずさりをして、玄関を出ればいい。 ソファに座る蔵之介と、リビングの入口に立つ自分には距離がある。…手を伸ばしてすぐに届く距離ではない。 大丈夫…自分に言い聞かせた。 「何やってんの?遠慮しないで入っておいで。別に、何もしないよ?」 組んだ手と足を解いて、前かがみになって桜を見つめる蔵之介。 「い…いえ」 辛かったら逃げていいんだ。…そうやって逃げ出したからこそ、今私はここにいられるんだから。 そう思うのに、ふいに足の力が抜けた。めまいを感じて、その場に崩れ落ちる。 「え…ちょっと、桜ちゃん…大丈夫?」 近寄ってきた蔵之介に、思わず強い視線を向けてしまう。 「…そんな目で、見る?」 「すいません、近寄らないでもらえますか?」 「でも、冷や汗かいてない?」 言ってから、その理由が自分にあると気づいたらしい。言われた通り、桜に近寄らないように壁に張り付いた。 「もしかして、男嫌い?…」 「過去にいろいろあったせいです。…それより」 意外にもこちらの様子を気にかけてくれて…それは龍之介より気遣いを感じるほど。だから、用件を聞く余裕ができた。 「私に用があるって言ってましたよね?どんな用件ですか?」 もしかしたら…Black Roseを抜け出してきたペナルティが課せられるのかと思った。 あの店に連れて行かれ、店長と面接して小部屋に入れられ、売られるまで丸一日世話になった。その間の食事代や光熱費を取るというなら、納得だ。 与えられたのは、コンビニのパンやお菓子、おでんのゆで卵、水…といった、栄養バランスも何もない食べ物ばかりだったけど。 「桜ちゃん、龍之介とはどんな関係なの?」 「関係…」 考えたこととまったく違う事を言われ
「Black Roseのあたりに深夜もやってる花屋があったな。そこへ寄ってくれ」「へい。かしこまりました」眠った桜に後ろ髪を引かれながら…エントランスで待つ和哉の車に乗り込む龍之介。「てもあの…大丈夫ッスかね…」「なにが」「いや、龍之介さんがこの時間にあの辺に行くと…志田川組の奴らと顔を合わせて、ドンパチになるんじゃないかと」そうか…まだ和哉にも言っていなかった。ふ…っと鼻で笑い、足を組む。「大丈夫だ。…もうすぐあの辺は、西龍会が仕切ることになるからな」「えぇっ!…マジッスか?すげぇ…だとしたら、俺らもいろいろやりやすくなります」そうだよな…と、心の中で思う。今まで、ちょっと顔を突き合わせれば、すぐにいざこざが起きていた界隈だ。そのわりにうちが管理する店も多くて、和哉や下の連中はやりにくかっただろう。「…俺、買ってきましょうか。Heart Barの愛ちゃんですか?…だったらピンクのバラがいいっすよ」「いや、自分で行く」後部座席から降りると、和哉は慌てて追ってきて、観葉植物や鉢植えの花を買い漁る俺を不思議そうに見た。「車に積め。全部だ」「へ、へい!」もう一度マンションに戻るよう言ったところで…和哉もどういうことか察したらしい。何も言わなくても、音を立てないよう注意しながら、部屋に運び入れるのを手伝ってくれた。朝起きて、この草花を見てどんな顔をするか…それから買い占めた赤いバラの花束も。想像して頬が緩む。「やっぱし…ほの字なんッスね」笑顔で言う和哉は、百合のことを知っている。いなくなって、俺が再起不能になったことも。俺は…和哉の笑顔に、答えられなかった。「…おかえり。ちょっと遅かったんじゃない?」屋敷に着いて、自分のテリトリーに入ってホッとしたところで…赤いガウンを羽織った女が現れた。「麗香、来てたのか」「約束の日だから、一応ね」「あぁ…それなら毎度悪いが…」麗香ならそれだけ言えば伝わるはずだ。…なのにこの日は、ソファに座った俺の膝の上に乗り、首に両腕を絡ませてくる。「…おい!」体を離そうと動いたのを利用して、俺の手を胸の膨らみに押し付ける。そしてガウンを脱いだ。「すげぇ色のガウンだな。…しかも下着まで赤って…」「…笑えるでしょ?」すでに呆れて笑う俺に、麗香も笑いながら言う。「それにしても相変わ
9花のプレゼント「…酒屋?」「はい。駅前の…ちょっと裏に入ったとこにある大きな店構えの、酒屋です」「酒なんて…重てぇだろ」多分オーナーと同じ心配をしているとわかって少しおかしくなった。「…なんだよ」「いえ、こう見えて、結構力はあるので大丈夫です…って言いたくて」携帯に何度も連絡が入っていることに気づいて、慌てて連絡を返すなり、マンションにやってきた龍之介。アルバイトが決まって、早速仕事をしてきたため、連絡に気付かなかったと説明した。「…ちょっと、聞いてもいいか?」龍之介は冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。「どうしたんですか?」桜は何か作ろうとキッチンに立つ。冷蔵庫からハムときゅうりを出して千切りにし、卵を溶いて一緒に炒め、味を整えてから粉チーズを振る。そして自家製の鶏ハムに、ミニトマトを添えて…サッと出てくる料理に、感心して桜を見上げる龍之介。「お酒を飲み終わったら、何かご飯ものを…」言いかけて、長い時間ここにいるわけではないかもしれない…と思う。「…惚れる…」ボソッとつぶやいた言葉は、桜の耳には届かなかった。「…あ、先の話、でしたっけ?」「あぁ。もしかして…夢とかあるのか」「…そうですね。花屋さん…」突拍子もない言葉に、ビールを飲みかけた龍之介の手が止まる。その姿勢のまま…視線が落ちてきた。「今まで…1日を無事に過ごす事で必死だったので、気付かないふりをしてました。…お店を持ちたいです。花屋さんと併設したカフェ…とか」「花が好きなのか?あとなんだ、コーヒーとかも?」「花は…野生の草花が生い茂る田舎で育ったので、好き、というより見えないと不安になります。コーヒーは、好きってわけじゃなくて、人が集まる場所って意味で…」笑いながら答える桜。「…どうしてそんなこと聞くんですか?」「それは……これからも、支援したいと思うからで…」ビールが入ったグラスを傾け、少し照れくさそうに言う龍之介。「まぁいいや、お前も飲めよ」「あ…はい」どうしてそんなに支えようと考えてくれるのか。…聞きたい言葉をしまって、代わりに自然とこぼれてしまう笑顔を龍之介に見せた。「ワインを飲ませてもらって…いいですか?」龍之介に支えたいと言われるのは、戸惑うけれど、やっぱりとても嬉しい…明日もアルバイトだと告げると、龍之介はいつもの
「あの…この先の話をしたいんですけど、今夜はもうこちらへは来ませんか?」「先の話?」「怪我も治ったし、アパートの後始末もしてもらえてありがたいんですけど、私はもうここにはいられないので…」桜の言葉に、眉間にしわを寄せ…固まる龍之介。「アルバイト、探します。とりあえず」「仕事なんかしなくても、金なんか出してやる」「そういうわけにはいきません…」ひょんなことで助けてもらっただけで、赤の他人に違いない。龍之介さんとの関係に何の名前もないなら、頼るわけにはいかない。「友達…」ボソッとつぶやかれ、2度見しそうになった。整った顔立ちの極道、大人の男に、友達なんて言葉…似合わな過ぎる。「ふふ…っ!友達って、龍之介さんが言うと面白いです…!」つい、素直に反応してしまい、切れ長の瞳に睨まれてしまった。「友達なら、金がなきゃ助けるだろ。部屋を貸したり、飯を食わせたり」「そうですね…でも知ってます?友達には、してもらったことを返さないと、上手く付き合えなくなるんですよ」中学生の時…出かけたきり父が戻らなくて、友達に助けてもらったことがある。でも…借りたお金をいつまでも返せなくて、友達は離れていった。「俺は、その辺の友達とは違うから大丈夫だ」「…だとしても、私…働きます。家を借りられるようになるまで、ここにいさせてもらうだけで十分です」先にソファから立ち上がったのは、その方が龍之介は部屋を出ていきやすいと思ったから。きっと…今夜龍之介はここへ戻らない。このマンションに移って数日たつけれど…彼は決して、桜と一緒に夜を過ごさなかった。それはきっと…ほかに行くところがあるということ、そして待つ人がいるということ。いつか口走った名前を思い出す。百合…確かにそう言った。それは…花の名前でないなら女性の名前に違いない。「バイトが決まったら、お知らせします」なるべく明るく言ったつもりだった。でも龍之介の表情は晴れない。よほど心配されているのかと思うものの、その理由について疑問を抱いてしまう。今までは怪我をしていたからこその心配だとわかる。でも…もうその傷は治り、何の心配もない。それなのに…友達、とまで言って、自分を助けようとしてくれるのはなぜなのか。誰かを助けた覚えも感謝された経験もない桜は、首をひねるばかりだったが…きっと妹とか、同情とか…そんな
「桜を見に行ったのは父親に会うためだったのか」「そうです。…すいません、付き合わせました」窓の外を向いたまま、こちらを見ようとしない桜。グレーのパーカーと、揃いのハーフパンツにスニーカー、そしてキャップ…という格好は、俺の周りにいる女が着ない服だった。体を動かすわけでもないのに、女がどうしてスニーカーを履くのか。スカートではなく、ニットではなくハーフパンツでパーカーなのか、俺には全くわからない。なのに…そんな格好をしていても、小刻みに手を震わせて涙をぬぐう姿は、守ってやりたい儚さであふれている。桜の木にかこつけて父親をおびき寄せ、一発殴って絶縁宣言をしてやろうという魂胆は見抜いたが、きっとそんな反撃は初めてに違いない。少し手を貸してやったが…気は晴れただろうか。後部座席に並んで座り、桜の方にやや体を向け、腕と足を組む。…パーカーとかいう色気の欠片もない服を着ているのに、桜を抱き寄せたい衝動にかられた。けれど…簡単に触れてはいけない。なかなか、自制はきかないが。「うわぁ…桜並木ッスよ!…見事ですねぇ」運転席の和哉が感激の声を上げ、そちらを向いた桜の口元が見えて、ほんのり笑ったのが見える。ふと……桜と初めて会った夜のことを思い出した。あの日…青白い肌を薄い布で覆い、雨に打たれた桜の姿は…幻想的だった。…何人かが不思議な顔で桜を見ていたのは、美しいからだけではないことくらい、俺にだってわかる。…街灯に浮かぶ顔は、あの頃の彼女にそっくりで…気づいたら、傘を捨て…抱き上げていた。まさかまた、会えるなんて…触れられるなんて…冷静を装いながら、どうしても桜に視線が絡みつく。痛々しい傷…特に女の顔には慎重になってしまった。…極道に助けられるということがどういうことか、桜は覚悟していたのだろう。包帯やガーゼに覆われた体だというのに、震える手で俺の服を脱がそうして…久しぶりに体が熱くなりかけた。けれどあいつを失って、完全に消えた俺の中の火は、簡単についたりしない。悲しみを癒すために抱こうとした女は、灯りかけた俺の中の火を大事にしてくれたけど…結局ダメだった…男としての機能を失うほど、それほど…愛していたんだ。…百合。俺の、半年だけの妻。あの日…桜を見た蔵之介も、驚いた顔をしていた。組員たちも、百合を知っている者は全員、蔵之介と同じ表情をす







