Masuk6月2日の午後、佐伯家の居間には白い花の匂いがこもっていた。
箪笥の上に、入学式で笑う翔の写真がある。僕は座卓へノートパソコンを置き、手元に残したカードをつないだ。
慣れないスーツの襟が少し曲がり、本人だけが気づかず笑っている。写真の脇には、警察から返された画面の割れたスマートフォンが置かれていた。
「公式映像から消された場面があります」
美紀はすぐに再生を求めなかった。
「見ると、何が変わる?」
「翔が命令を無視していないと証明できます」
「翔は戻る?」
答えられなかった。
「見たくない。でも、翔が何をしたのかは知りたい」
莉子も僕の隣へ座った。
映像の中で翔が通知を開き、巡視機が降下する。発射直前、美紀が足元を指した。
「これ、止まろうとしてる」
右足は白線の内側で踏みとどまり、左足のかかとだけが浮いていた。翔が止まるときの癖だった。
美紀は、その4秒を3度見た。
3度目が終わっても、画面から目を上げなかった。莉子は発射音の直前に顔を背け、両手を膝の下へ入れていた。
「この映像を、みんなに見せて」
莉子が言った。
「でも、遼さんまで撃たれたら、どうするの?」
美紀は翔の写真を見た。
「それでも、この子が誰かを殺しかけたことにされるほうが怖い」
僕は公開用の複製を作り、原記録には触れないことを決めた。機材貸出台帳と時刻設定を確認し、外部の専門家にも調べてもらうつもりだった。
美紀が望んだのは復讐ではない。翔が止まったという、たった4秒を戻すことだった。
カードを保護ケースへ戻し、封の上へ日付と時刻を書いた。公開する前に、誰がどの複製へ触れたか残すことにした。
……
6月3日、片桐教授の研究室へ行った。
棚には【光都ディスプレイ・東央大学 次世代都市情報基盤共同研究】の記念楯があった。
僕は、翔が死亡したことと、現場映像を持っていることを説明した。
教授は映像を最後まで見た。
発射音が鳴っても顔を背けなかった。再生が終わり、画面が暗くなってから、ようやく僕を見た。
「翔くんが……亡くなったのか」
「はい」
「警察には?」
「カメラと1枚を渡しました。これは同時記録されたもう1枚です」
教授は眼鏡を外した。
「公表すれば、証拠を隠していたと反論される」
「でも、公式映像から4秒が消えています」
「そう見える。まず警告音と発射音で時刻を合わせ、君の映像が編集されていないと確認する必要がある」
「それができれば?」
「翔くんが止まったことは示せる。ただし、発射理由は機体の制御記録がなければ証明できない」
僕は提出用の複製カードを入れた封筒を机へ置いた。
「研究倫理・コンプライアンス室へ確認しよう。大学の機材を個人で公表すれば、君が危険になる」
教授はすぐに封筒を取らなかった。その慎重さを、僕は証拠を守るためだと思った。
光の測り方も、記録を改変せず残す方法も、この人から教わった。だから僕は封筒を渡した。
封筒が教授の机へ移った瞬間、肩の力が抜けた。ひとりで抱えていた証拠を、ようやく正しい手順へ乗せられたと思った。
……
翌朝、大学へ入れなかった。
【入構権限停止 学生支援課へ連絡してください】
学生証を何度かざしても、読み取り機は赤い文字を返した。登校してきた学生が足元を見て、僕を避けるように距離を取った。
門の内側に片桐教授がいた。僕と目が合うと足を止めたが、眼鏡を拭きながら校舎へ入っていった。
翔と同じゼミの学生が、門の向こうから尋ねた。
「映像、本当に加工したのか」
「してない。撮ったままだ」
「僕の足元には【対象者から離れてください】って出てる」
彼は画面の指示に従って一歩下がった。
「翔の葬儀、来る?」
「【参列は近親者のみ】って。遺族が希望してるって出てる」
「違う。佐伯さんは大学の友達にも来てほしいと言ってた」
彼は「悪い」とだけ言った。
嫌われたほうが、まだよかった。彼は僕ではなく、画面の指示を見て下がっていた。
僕のスマートフォンにも大学から通知が届いた。
通知を読んでいる間も、門の上のカメラが僕の顔を追っていた。
【大学所有の撮影データを無断で複製・保管した疑い】
【調査終了まで入構および研究室への立入りを停止する】
送信時刻は午前7時12分。その15分前に、光都は緊急会見を始めていた。
【シティレイヤーの未公開映像を利用した誤情報の拡散を確認】
まだ誰にも公開していない映像を、光都は「加工映像」と呼んでいた。
見せたのは、美紀と莉子、片桐教授だけだ。
僕は認証ゲートを叩いた。
「先生、光都に渡したんですか!」
返事はない。
門の上に僕の学生証写真が出た。
【危険思想に傾く学生 友人の死を利用か】
学生たちが進路を変えた。
夕方、家へ戻ると、母が区役所の通知を見せた。
【危険行為要観察者との同居世帯に対する安全面談】
「同僚の端末には、あなたを刺激せず、異変があれば通報するよう出たの」
巡視機の影が曇りガラスを横切った。
「お願い。今日は外へ出ないで」
僕がうなずかないと、母は玄関の鍵をかけた。閉じ込めたいのではなく、外にいる機械から僕を隠そうとしているのだと分かった。
外の広告が窓を青く照らしていた。母はカーテンを閉め、いつもの夕食を作ろうとしたが、ネギを切る包丁が何度も止まった。部屋は急に狭くなった。
「翔くんのお母さんから電話があった。あなたを責めていないって。映像を取り戻してほしいって」
「僕も死にたいわけじゃない。でも翔は止まろうとした。それでも撃たれた」
母は包丁を置いた。
「私は、あなたを失いたくない」
画面のない食卓を挟んでも、僕らが見ている現実は同じではなかった。
母が恐れているのが巡視機なのか、僕が逆らい続けることなのか、僕には分からなかった。
その夜、映像を送ろうとすると、弁護士事務所には【ファイル形式が不正です】、報道機関には【虚偽情報として登録されています】と出た。
海外の保存サービスも【通信安全上の理由で接続できません】と閉じた。送信先を変えるたび、拒否する理由だけが変わった。
映像は再生できる。誰かへ渡す経路だけが塞がれていた。
消されてはいないのに、存在しないのと同じだった。
僕の手元だけに残れば、やがて僕自身が嘘つきにされる。
……
6月9日の夜、郵便受けに紙が入っていた。
【6月10日 午前11時 駅前広場の噴水前 スマートフォンは持ってこないで 凪】
翌日、カードとスマートフォンを自室へ置き、噴水の右側に立った。
巨大な壁面画面には、僕だけが読める記事が出ていた。通行人は反応せず、僕の横を通り過ぎる。
記事が見えていないのか、見ても無視しているのか、傍目には簡単に判別できなかった。
【停学中の学生、被害者遺族へ映像公開を強要】
「動かないで」
約束の時刻どおり、凪が右隣に立った。小型カメラを僕へ渡す。
「神崎くんには、何が見えてる?」
「僕が遺族を脅したという記事」
「私には違うものが見えてる」
僕らは同じ壁を同時に撮った。凪の画面には首相が被害者遺族へ花を渡す写真がある。
【国民に寄り添う安全政策 支持率81%】
凪が僕へ近づくと、ふたつの画像が半透明に重なった。半歩離れると、また分かれる。
同じ壁。同じ時刻。40センチ違うだけで、別の記事が見えている。
僕が半歩動くと、記事も追ってきた。凪の側には首相の笑顔が残る。画面が場所ではなく、見る人を選んでいた。
凪は画面ではなく、僕の目を見た。
「この街は、同じ嘘を全員に見せてるんじゃない。見る人ごとに、別の現実を配ってる」
11月3日の朝、大学前交差点を囲っていた白い工事幕が外された。南西角の文具店は閉店し、シャッターに【長い間ありがとうございました】と書かれた紙が貼られていた。道路の向こうにコンビニ、右手に大学の南門。位置は6月1日と同じだった。違うのは、足元だった。路面ディスプレイは撤去され、横断歩道には白い塗料とざらついた舗装材が敷かれていた。停止線の手前には、スマートフォンを見るための四角い区画が3つ。表示ではなく、青い塗料で囲まれていた。区画の脇には紙の案内板が立っていた。【スマートフォンを利用する時は、ここで立ち止まってください。利用は任意です】命令ではなく、使い方だった。僕は南西角に立ち、大学から正式に借り直した旧型カメラを肩から下げていた。隣に凪、その向こうに美紀と莉子がいた。「緊張してる?」凪が聞いた。「少し」「渡らなくてもいい」「渡る」信号が赤から青へ変わった。音響信号が鳴り、歩行者が動く。足元に矢印は出ない。残り秒数も、個人の歩幅も表示されない。僕は1歩目を出した。6月1日、翔が立っていた対岸を見る。配達用の自転車も、手を上げる姿もない。2歩目で、体が止まりそうになった。美紀が僕を追い越さず、横に並んだ。莉子は反対側へ回り、凪は半歩後ろを歩いた。誰も腕を引かなかった。
7月14日の夕方、僕と凪は老人に教えられた道で駅へ向かう途中、パトカーで来た警察官に保護された。田辺弁護士へ連絡し、東央警察署へ同行した。夜をまたいだ7月15日の午前2時、僕は署内の会議室にいた。長机の片側に僕と凪、反対側に田辺弁護士と刑事がふたり。窓のブラインドは閉じられ、壁のスクリーンには白い布が掛けられている。逮捕ではなく、保護と事情聴取だと説明された。それでも廊下には制服警察官が立ち、僕らは自分の判断で外へ出られなかった。「中継所への立入りは、正規鍵で承認されています」田辺弁護士が書類を机へ置いた。「佐伯美紀の緊急停止申請、片桐誠教授の保守確認、図書館の防災表示確認端末と中継所の操作記録。破壊された設備もありません」刑事は黙ってページをめくった。「ただし、目的外使用の疑いは残ります」「人が撃たれる表示網を止める申請が目的外かどうか、先に調べてください」凪の声は低かった。僕は長机の木目を見ていた。63秒が終わってから、体の震えが止まらない。怖かったのだと、今になってわかった。刑事のひとりが、白い布を少し持ち上げた。「武器運用は、午前0時に全国で停止されました。今日から始まる予定だった屋外スマートフォン所持許可制も、施行凍結です」「法律は?」「残っています。凍結は廃止ではありません。政府が運用命令を止めただけです」僕は顔を上げた。「巡視機は撃たない?」
防災表示中継所の扉を抜けると、幅の狭い階段が地下へ続いていた。僕が先に下り、凪が扉を閉める。地下1階の短い廊下には3つの部屋があり、中央の制御室だけ緑の非常灯が点いている。右側の壁一面に表示卓、左側に通信盤。僕は表示卓の前へ座り、凪は廊下側の扉を背にした。午後5時0分12秒。共通表示層の待機時間は、あと48秒だった。「証拠媒体」凪が封を切り、作業用メモリーを僕へ渡す。「原本じゃない」「原本は弁護士。照合番号は最後の18秒」僕は表示卓の読取り部へメモリーを差した。画面に4つの枠が並ぶ。【未編集映像 15秒】【危険度変更記録 15秒】【個別表示比較 15秒】【証拠照合・管理通信 18秒】合計63秒。廊下の天井で警報が鳴った。【危険行為者が施設へ侵入しました】「正規鍵で入った」凪が画面へ言った。【退去してください。30秒後に制止を開始します】「遼くん、押して」表示卓の中央に、物理ボタンがせり上がった。赤ではなく、災害標識と同じ橙色だった。僕は右手を置いた。翔の映像が頭に浮かんだ。スマートフォンを見る。顔を上げる。僕を見る。倒れる。
7月3日、東央区役所前の公衆電話は、庁舎の北壁に3台だけ残っていた。僕は中央の受話器を取り、凪は2メートル離れた植え込みの脇に立った。頭上の庇には監視カメラがあるが、電話機の内側に画面はない。10円玉を入れ、佐伯家の代理人になった田辺一樹(たなべ かずき)弁護士へ電話した。「映像と記録を、紙の説明書と一緒に送ります」「電子送信は?」「相手ごとに違う警告が出ます。受け取れたかも確認できません」「原本は手元に残してください。会って封印しましょう。複製は届いた時刻と封の状態を記録します」受話器を置くと、硬貨が1枚戻った。それから11日間、僕らは証拠を6系統に分けた。6月1日の未編集映像原本は、田辺弁護士の目の前で封印し、そのまま預けた。検証用の複製は書留と別の運送便に分け、報道機関の記者にも直接渡した。合計6か所。受取人、時刻、封の状態、重量を紙に残した。郵便局の壁面スクリーンは、【虚偽情報を含む記録媒体の送付は処罰される場合があります】と警告した。窓口の職員は禁制品でないことを確かめ、表示を伏せて消印を押した。翌日、報道機関の1社から、封筒が空だったと電話が来た。こちらの控えには重量28グラムが残っている。田辺弁護士が計量記録を保全し、別便の受領も確認した。空の便は失敗系統として外し、同じ照合番号の複製を田辺弁護士の管理下で作り直した。別の報道社へ直接手渡し、受領時刻と封の状態を確かめて、最終的に外部6か所へ戻した。征一郎はスクリーンを支配できても、手から手へ渡った6系統を一度には消せなかった。父の設計にある2つの監査保全庫とは別に、人が証拠を守る経路ができた。7月13日の夜、美紀から固定電話があった。
6月21日、湾岸部の光都展示館は、海へ突き出した半円形の建物だった。正面階段の両側に水盤がある。僕と凪が近づくと、水面に金色の道が現れた。【高瀬凪様 お帰りなさい】凪は足を止めた。「帰ってない」僕の側には、別の案内が出ていた。【神崎遼様 奨学金特別面談はこちら】「申し込んでない」「ここは、同意前に登録される仕組みなの」凪は水盤を見ず、中央の階段を上った。征一郎は最上階の都市展示室で僕らを待っていた。曲面ディスプレイには10年後の東京が映っていた。「神崎さん。孫がご迷惑をおかけしました」「私は孫として来たんじゃない」「もちろん。優秀な記者として招いた」白い長机には、僕の入構権限停止通知、翔の公式記録、旧図書館の使用申請が並んでいた。昨日までの行動が、紙に印刷されている。「監視していたんですか」「公共設備の安全を確認しています。あなたはその設備に、強い関心をお持ちだ」征一郎は椅子を勧めたが、僕らは座らなかった。原記録と測定端末は持ち込まず、胸元の小型カメラだけを入館前から回していた。征一郎はレンズへ一瞥を送り、「記録はご自由に」と言った。外へ出せないと考えているようだった。「翔の危険度を変えたのは、光都本社にある端末のはずです」征一郎は銀色のカフスへ触れた。
旧東央図書館は駅北口から徒歩12分の住宅街にあった。新館ができた2年前から、灰色の3階建ては資料保存庫として使われていた。館内にシティレイヤーのパネルはなく、携帯電波も弱い。表示に誘導されず、外から映像を見られる心配も少なかった。6月11日の朝、凪は学内新聞の取材名目で、1階奥の閲覧室を借りた。右に書架、左に大窓。天井灯はつけず、白い朝の光だけが机の上へ伸びていた。「最初に決める」凪は【原記録】【作業用】【外部保管】と書いた3つの封筒を並べた。「原記録には触らない。複製で作業して、誰が何時に触ったか紙に残す」「僕を信用してるのか」「してない。だから手順を決める」凪は作業記録表に午前9時12分と書き、カメラとメモリーカードの番号も記した。手順のおかしい証拠は、内容までおかしいと攻撃される。「ひとつの映像に、別々の角度から見た表示を入れる」僕は小型カメラを固定し、その左右40センチに小型ミラーを置いた。凪が金属製のブックエンドで角度を固定する。左右の反射像を、同じ録画画面に並べる仕組みだった。鏡が少しずれるだけで片方の表示が消えた。正午までかかって完成した装置は小学生の工作のようだったが、同じ時刻の異なる表示を1本の映像で比べられた。……午後、僕らは駅の地下通路で録画を始めた。大型広告パネルの正面に装置を固定し、床へ僕と凪の立ち位置を紙テープで示す。2枚の鏡には、同じ表示面が別々の角度から入った。僕らが入れ替わっても、カメラと鏡は動かさなかった。左の鏡には、凪への旅行広告。右の鏡には、僕への警告記事。【危険思想の拡散