ANMELDEN旧東央図書館は駅北口から徒歩12分の住宅街にあった。新館ができた2年前から、灰色の3階建ては資料保存庫として使われていた。館内にシティレイヤーのパネルはなく、携帯電波も弱い。表示に誘導されず、外から映像を見られる心配も少なかった。
6月11日の朝、凪は学内新聞の取材名目で、1階奥の閲覧室を借りた。右に書架、左に大窓。天井灯はつけず、白い朝の光だけが机の上へ伸びていた。
「最初に決める」
凪は【原記録】【作業用】【外部保管】と書いた3つの封筒を並べた。
「原記録には触らない。複製で作業して、誰が何時に触ったか紙に残す」
「僕を信用してるのか」
「してない。だから手順を決める」
凪は作業記録表に午前9時12分と書き、カメラとメモリーカードの番号も記した。手順のおかしい証拠は、内容までおかしいと攻撃される。
「ひとつの映像に、別々の角度から見た表示を入れる」
僕は小型カメラを固定し、その左右40センチに小型ミラーを置いた。凪が金属製のブックエンドで角度を固定する。左右の反射像を、同じ録画画面に並べる仕組みだった。
鏡が少しずれるだけで片方の表示が消えた。正午までかかって完成した装置は小学生の工作のようだったが、同じ時刻の異なる表示を1本の映像で比べられた。
……
午後、僕らは駅の地下通路で録画を始めた。
大型広告パネルの正面に装置を固定し、床へ僕と凪の立ち位置を紙テープで示す。2枚の鏡には、同じ表示面が別々の角度から入った。僕らが入れ替わっても、カメラと鏡は動かさなかった。
左の鏡には、凪への旅行広告。右の鏡には、僕への警告記事。
【危険思想の拡散を防ぐため、未確認映像を共有しないでください】
録画を止めず、僕と凪は場所を入れ替わった。
警告だけが右から左へ滑り、僕の前で止まった。旅行広告は凪について反対側へ移る。
鏡の中で、僕の顔の上を赤い文字が横切った。凪の側では、同じ時刻の夏空と白いビーチが明るく光っていた。
「角度じゃない」
凪が録画ランプを見た。
「画面は、神崎くんを追ってる」
僕が一歩近づくと、凪の旅行広告も消えた。
【要観察者・神崎遼との接触履歴を記録します】
「離れて」
「動かない。私へ表示が切り替わった瞬間も撮れた」
凪の声は低かったが、録画ランプを指す指先は固く伸びていた。
天井の格納口が開き、小型巡視機が降りてきた。僕には東出口、凪には西出口への矢印が出る。
【神崎遼 東出口へ移動してください】
【高瀬凪 取材対象との接触を終了してください】
「同じ出口へ行く」
「ええ」
僕らは並んで東出口へ歩いた。巡視機は地上までついてきたが、スマートフォンを操作していない僕らへ警告を出す理由はなかった。
背後で回転翼が回り続けた。出口までの数十メートルが、僕には広場より長く感じられた。
地上へ出たあと、僕らは旧図書館へ戻った。僕は6月1日の撮影後も電源を切らずに保管していた路面表示測定端末を取り出した。
表示ID、危険度、判定種別、外部から補正値を受けた時刻を電子署名付きで保存する、大学の貸与品だった。大学の回線へ最後に接続したのは、入構を止められた6月4日。その後も近くの路面パネルの運用ログを受信し、最大30日分を本体に残していた。
「返却は?」
「貸出期限は6月30日。入構停止の通知にも、返せとは書かれていない」
凪は端末に触れず、型番と製造番号を紙へ写した。
6月1日から今日まで、10日間のデータが本体に残っていた。本体を読み取り専用にして保存データを複製し、書き戻しがないことを確認する。凪が時刻を記し、僕は作業用の複製だけを開いた。
旅行広告は【T-204】、僕への警告は【S-881】、凪への接触警告は【S-904】。光都の公開簿にあったのは、【家族向け夏季旅行広告】のT-204だけだった。Sという分類自体が公開仕様にない。
「広告じゃない」
僕は赤いSの文字を指した。
「人を分けるためだけの、非公開表示だ」
次に、6月1日の記録を開いた。
【07:48:13 歩行継続 危険度41%】
【07:48:14 停止警告開始】
【07:48:15 外部判定受信 危険度94%】
【07:48:16 歩行停止】
【07:48:18 強制制止実行】
「41%から94%、3秒で跳ねてる」
「AIが見直したんじゃないの?」
「それなら【内部再判定】と残る。【外部判定】は、別の端末が数字を入れた記録だ」
判定元は光都本社の端末【KDS-HQ-EX07】、補正値は【+53】だった。共同研究用の接続証明書からわかるのは、本社管理の端末だということまでで、操作者は残っていない。
補正理由は【関連人物スコア】。参照値は、僕の公開IDを同じ方式で変換したものと一致した。
【規制制度への否定的情報を閲覧】
【巡視機の武器部分を継続撮影】
【路面パネルの製造番号を撮影】
【制度受容性:低】
「翔本人だけを見てない」
僕は画面を指した。
「僕から届いた文字を見て、危険度を53も上げた」
翔は警告の次の秒に止まっていた。それでも最後に届いた94%が、発射を決めた。
カメラ映像とログを同じ時刻で止める。危険度41%の時点で赤い照準は翔を追い始め、本社から+53が届いた次の秒に翔は止まった。それでも数字は94%のままだった。
僕は手を机の下へ入れ、指を握ったまま画面から目を離さなかった。
画面を叩けば、壊れるのは光都ではなく、翔が止まったと証明する記録だった。
施行前夜のメッセージに残った送信時刻と既読時刻が、今度はログと翔をつないでいた。証拠になったとわかっても、残しておいてよかったとは思えなかった。
凪の鉛筆が止まった。視線はEX07へ向いている。
「そのID、知ってるのか」
「家にあった資料で見た」
「家族が光都にいるのか」
凪は紙の角をそろえた。ただし、3度目だけは角がずれた。
「この記録で証明できるのは、光都本社から数字が送られたことまで。誰が操作したかは、まだわからない」
「誰に出す?」
「今は出さない」
「なぜ?」
「また消される。公開できても、あなたの記事と同じように、見る人ごとに別の意味へ変えられる」
僕は端末の画面を見た。そこでは翔が止まったあとも、94%という数字だけが動かなかった。
「じゃあ、翔はいつまで危険人物なんだ」
声が空の書架へ響いた。
凪はすぐには答えなかった。
「急いで失敗したら、ずっと」
「他人の話だから、待てるんだろ」
僕が言うと、凪の指が紙の角で止まった。凪は怒り返さず、胸元の学生記者証を外した。透明なケースの裏に、古い家族写真が入っていた。
幼い凪の隣に、光都の会長、御堂征一郎(みどう せいいちろう)が立っている。
「御堂は、私の母方の祖父」
「光都の会長が?」
「父も光都の技術者だった。6年前、初期の路面表示試験で亡くなった」
凪は写真を机へ置いた。征一郎の手が、幼い彼女の肩に乗っている。
「私は御堂の孫だと知られたくなかった。父の事故映像に、翔さんの公式映像と同じ編集の切れ目があった。映像の端には、事故現場の三脚が映っていた」
「お父さんが殺されたと思ってるのか」
「まだ言えない。ただ、父の最後からも時間が消されていた。翔さんの映像を見て、同じ方法だと思った」
「最初から、僕の映像を使ってお父さんの事故を調べるつもりだった?」
「そう」
凪は否定しなかった。
「今さら『利用するつもりはない』と言っても、私の立場を守る言い訳にしか聞こえない。だから、信じなくていい。原記録を持って、出ていってもいい」
凪は出口へ続く通路から椅子をどけた。原記録を持って出る道を、彼女は塞がなかった。
僕は原記録の封筒とカメラを手に取った。凪の顔がわずかにこわばる。それでも、引き止めなかった。最後に残った選択だけは、自分で決めたのだ。
「高瀬さん」
「何?」
「条件がある。次に動く前に、僕に隠していることを全部話して」
「それで?」
「翔の映像を、誰かの復讐の道具にはしない。人を撃つ仕組みを止めるために使う」
凪は写真をケースへ戻した。
「わかった。御堂との面会は、私が取りつける」
信じたわけではない。
それでも、罪悪感に押されるのでも、画面の指示に従うのでもなく、僕は自分で次の一歩を選んだ。
11月3日の朝、大学前交差点を囲っていた白い工事幕が外された。南西角の文具店は閉店し、シャッターに【長い間ありがとうございました】と書かれた紙が貼られていた。道路の向こうにコンビニ、右手に大学の南門。位置は6月1日と同じだった。違うのは、足元だった。路面ディスプレイは撤去され、横断歩道には白い塗料とざらついた舗装材が敷かれていた。停止線の手前には、スマートフォンを見るための四角い区画が3つ。表示ではなく、青い塗料で囲まれていた。区画の脇には紙の案内板が立っていた。【スマートフォンを利用する時は、ここで立ち止まってください。利用は任意です】命令ではなく、使い方だった。僕は南西角に立ち、大学から正式に借り直した旧型カメラを肩から下げていた。隣に凪、その向こうに美紀と莉子がいた。「緊張してる?」凪が聞いた。「少し」「渡らなくてもいい」「渡る」信号が赤から青へ変わった。音響信号が鳴り、歩行者が動く。足元に矢印は出ない。残り秒数も、個人の歩幅も表示されない。僕は1歩目を出した。6月1日、翔が立っていた対岸を見る。配達用の自転車も、手を上げる姿もない。2歩目で、体が止まりそうになった。美紀が僕を追い越さず、横に並んだ。莉子は反対側へ回り、凪は半歩後ろを歩いた。誰も腕を引かなかった。
7月14日の夕方、僕と凪は老人に教えられた道で駅へ向かう途中、パトカーで来た警察官に保護された。田辺弁護士へ連絡し、東央警察署へ同行した。夜をまたいだ7月15日の午前2時、僕は署内の会議室にいた。長机の片側に僕と凪、反対側に田辺弁護士と刑事がふたり。窓のブラインドは閉じられ、壁のスクリーンには白い布が掛けられている。逮捕ではなく、保護と事情聴取だと説明された。それでも廊下には制服警察官が立ち、僕らは自分の判断で外へ出られなかった。「中継所への立入りは、正規鍵で承認されています」田辺弁護士が書類を机へ置いた。「佐伯美紀の緊急停止申請、片桐誠教授の保守確認、図書館の防災表示確認端末と中継所の操作記録。破壊された設備もありません」刑事は黙ってページをめくった。「ただし、目的外使用の疑いは残ります」「人が撃たれる表示網を止める申請が目的外かどうか、先に調べてください」凪の声は低かった。僕は長机の木目を見ていた。63秒が終わってから、体の震えが止まらない。怖かったのだと、今になってわかった。刑事のひとりが、白い布を少し持ち上げた。「武器運用は、午前0時に全国で停止されました。今日から始まる予定だった屋外スマートフォン所持許可制も、施行凍結です」「法律は?」「残っています。凍結は廃止ではありません。政府が運用命令を止めただけです」僕は顔を上げた。「巡視機は撃たない?」
防災表示中継所の扉を抜けると、幅の狭い階段が地下へ続いていた。僕が先に下り、凪が扉を閉める。地下1階の短い廊下には3つの部屋があり、中央の制御室だけ緑の非常灯が点いている。右側の壁一面に表示卓、左側に通信盤。僕は表示卓の前へ座り、凪は廊下側の扉を背にした。午後5時0分12秒。共通表示層の待機時間は、あと48秒だった。「証拠媒体」凪が封を切り、作業用メモリーを僕へ渡す。「原本じゃない」「原本は弁護士。照合番号は最後の18秒」僕は表示卓の読取り部へメモリーを差した。画面に4つの枠が並ぶ。【未編集映像 15秒】【危険度変更記録 15秒】【個別表示比較 15秒】【証拠照合・管理通信 18秒】合計63秒。廊下の天井で警報が鳴った。【危険行為者が施設へ侵入しました】「正規鍵で入った」凪が画面へ言った。【退去してください。30秒後に制止を開始します】「遼くん、押して」表示卓の中央に、物理ボタンがせり上がった。赤ではなく、災害標識と同じ橙色だった。僕は右手を置いた。翔の映像が頭に浮かんだ。スマートフォンを見る。顔を上げる。僕を見る。倒れる。
7月3日、東央区役所前の公衆電話は、庁舎の北壁に3台だけ残っていた。僕は中央の受話器を取り、凪は2メートル離れた植え込みの脇に立った。頭上の庇には監視カメラがあるが、電話機の内側に画面はない。10円玉を入れ、佐伯家の代理人になった田辺一樹(たなべ かずき)弁護士へ電話した。「映像と記録を、紙の説明書と一緒に送ります」「電子送信は?」「相手ごとに違う警告が出ます。受け取れたかも確認できません」「原本は手元に残してください。会って封印しましょう。複製は届いた時刻と封の状態を記録します」受話器を置くと、硬貨が1枚戻った。それから11日間、僕らは証拠を6系統に分けた。6月1日の未編集映像原本は、田辺弁護士の目の前で封印し、そのまま預けた。検証用の複製は書留と別の運送便に分け、報道機関の記者にも直接渡した。合計6か所。受取人、時刻、封の状態、重量を紙に残した。郵便局の壁面スクリーンは、【虚偽情報を含む記録媒体の送付は処罰される場合があります】と警告した。窓口の職員は禁制品でないことを確かめ、表示を伏せて消印を押した。翌日、報道機関の1社から、封筒が空だったと電話が来た。こちらの控えには重量28グラムが残っている。田辺弁護士が計量記録を保全し、別便の受領も確認した。空の便は失敗系統として外し、同じ照合番号の複製を田辺弁護士の管理下で作り直した。別の報道社へ直接手渡し、受領時刻と封の状態を確かめて、最終的に外部6か所へ戻した。征一郎はスクリーンを支配できても、手から手へ渡った6系統を一度には消せなかった。父の設計にある2つの監査保全庫とは別に、人が証拠を守る経路ができた。7月13日の夜、美紀から固定電話があった。
6月21日、湾岸部の光都展示館は、海へ突き出した半円形の建物だった。正面階段の両側に水盤がある。僕と凪が近づくと、水面に金色の道が現れた。【高瀬凪様 お帰りなさい】凪は足を止めた。「帰ってない」僕の側には、別の案内が出ていた。【神崎遼様 奨学金特別面談はこちら】「申し込んでない」「ここは、同意前に登録される仕組みなの」凪は水盤を見ず、中央の階段を上った。征一郎は最上階の都市展示室で僕らを待っていた。曲面ディスプレイには10年後の東京が映っていた。「神崎さん。孫がご迷惑をおかけしました」「私は孫として来たんじゃない」「もちろん。優秀な記者として招いた」白い長机には、僕の入構権限停止通知、翔の公式記録、旧図書館の使用申請が並んでいた。昨日までの行動が、紙に印刷されている。「監視していたんですか」「公共設備の安全を確認しています。あなたはその設備に、強い関心をお持ちだ」征一郎は椅子を勧めたが、僕らは座らなかった。原記録と測定端末は持ち込まず、胸元の小型カメラだけを入館前から回していた。征一郎はレンズへ一瞥を送り、「記録はご自由に」と言った。外へ出せないと考えているようだった。「翔の危険度を変えたのは、光都本社にある端末のはずです」征一郎は銀色のカフスへ触れた。
旧東央図書館は駅北口から徒歩12分の住宅街にあった。新館ができた2年前から、灰色の3階建ては資料保存庫として使われていた。館内にシティレイヤーのパネルはなく、携帯電波も弱い。表示に誘導されず、外から映像を見られる心配も少なかった。6月11日の朝、凪は学内新聞の取材名目で、1階奥の閲覧室を借りた。右に書架、左に大窓。天井灯はつけず、白い朝の光だけが机の上へ伸びていた。「最初に決める」凪は【原記録】【作業用】【外部保管】と書いた3つの封筒を並べた。「原記録には触らない。複製で作業して、誰が何時に触ったか紙に残す」「僕を信用してるのか」「してない。だから手順を決める」凪は作業記録表に午前9時12分と書き、カメラとメモリーカードの番号も記した。手順のおかしい証拠は、内容までおかしいと攻撃される。「ひとつの映像に、別々の角度から見た表示を入れる」僕は小型カメラを固定し、その左右40センチに小型ミラーを置いた。凪が金属製のブックエンドで角度を固定する。左右の反射像を、同じ録画画面に並べる仕組みだった。鏡が少しずれるだけで片方の表示が消えた。正午までかかって完成した装置は小学生の工作のようだったが、同じ時刻の異なる表示を1本の映像で比べられた。……午後、僕らは駅の地下通路で録画を始めた。大型広告パネルの正面に装置を固定し、床へ僕と凪の立ち位置を紙テープで示す。2枚の鏡には、同じ表示面が別々の角度から入った。僕らが入れ替わっても、カメラと鏡は動かさなかった。左の鏡には、凪への旅行広告。右の鏡には、僕への警告記事。【危険思想の拡散