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1-4

作者: 酔夫人
last update 公開日: 2026-01-28 09:00:59

「俺も、望んでいるわけじゃない」

不意に、低い声が割り込んだ。

あやめが視線を向けると、神崎冬弥が初めて口を開いていた。

「随分と俺との結婚を嫌がっているようだが――これは両家にとって必要な結婚だ。俺の意思で決めたことでもない」

淡々とした声音。感情を抑えた、事実だけを告げる言い方。それはまるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調だった。

あやめの頬が、かっと熱くなる。反論しようとしたけれど、言葉が出ず、悔しくもそのまま口をつぐんだ。

「それに、俺の名誉のために言わせてもらうが、俺と結婚するからと言って死ぬわけではない」

「それは……」

「あやめ」

謙一の声が、あやめの言葉を遮った。

「この結婚は、柊家と神崎家、両家のためだけのものではない」

(どういう、こと……?)

スポーツや芸術の世界で大成しているならばともかく、あやめには柊家に付随するブランドしかない。思考が追いつかないまま、あやめは謙一の言葉を待つ。

「二人の結婚は、日本の安全のために必要な結婚なんだ」

日本の安全。

あまりにも大きすぎる言葉に、あやめの思考が止まる。あやめは、謙一の顔を見た。

そこにあったのは、完全に『政治家』の顔だった。

情も、迷いもない。ただ、目的のために手段を選ぶ目。

「朱雀会が動いている」

その一言で、あやめは理解した。

朱雀会。関西を拠点とする新興勢力。既存の秩序を無視し、急速に拡大している表でも裏でも異質な存在。

「龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」

あやめは、言葉を失った。

それは、龍神会と朱雀会の間で起きる『抗争』への準備。遠いはずの世界が、急速に現実味を帯びて迫ってきた。

音もなく、黒い口を開けて。

(私は……)

東京の裏と表は一枚岩にするための存在。つまりあやめは、龍神会と朱雀会の抗争の中心に、立たされる。

(それに、これはもう『決定』している)

それならば、逃げ場はもうどこにもない。

.

謙一に差し出された婚姻届に、冬弥が静かにペンを走らせていく。さらさら、と紙の上を滑るインクの音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。

少し右上がりの癖はあるが、整った筆致。無駄のない、迷いのない文字。裏社会の頂点に立つ男の字とは思えないほど、端正で――どこか、几帳面さすら感じさせた。

その筆運びを、あやめはまるで他人事のように見つめていた。

(どうして……こんなに、現実味がないのだろう)

目の前で書かれているのは、自分の人生を決定づける書類のはず。それなのに、まるでドラマのワンシーンを観客席から眺めているような、遠い感覚があやめは拭えなかった。

 パチンッ。

乾いた音が、空気を裂いた。

冬弥が万年筆の蓋を閉じた音だった。

「――っ」

あやめは、弾かれたように瞬きをする。

どうやら、思っていた以上にぼんやりしていたらしい。

「随分と熱心に見つめてくれたが、俺に住所があるのがそんなに不思議か?」

低く抑えられた声に、わずかな揶揄からかいが混じる。

「あ……いえ……」

咄嗟に言葉を探すが、うまく出てこない。

「……字がきれいだと、思っただけです」

とっさの嘘。自分でも分かるほど不自然だったが、冬弥はそれ以上追及しなかった。

ただ、ほんのわずかに眉を上げただけ。

「日本は法治国家だ。俺にも戸籍はあるし、必要なときは住民票を取りにいくし、納税だって過不足なくしている」

淡々とした口調で語られた。

その言葉は事実なのだろう。けれど、あやめにはどこか皮肉に聞こえた。

法律の内側に“存在している”ことと、法律の上で“正しく生きている”ことは、まったく別だからだ。

「東京を中心とした『関東』という盤上で、俺たちは法律というルールに、ある程度ではあるものの問題ない程度に従って動いていた」

盤上。

冬弥はそう言った。

政治の世界でも、よく使われる比喩だ。

だが、彼のそれはもっと直接的で、もっと生々しい。その言葉の裏にある“駒のやり取り”が、血で彩られていることを、あやめは直感で理解してしまった。

くるりと冬弥は婚姻届の向きを整え、あやめの前へと滑らせた。

白い紙が、静かに自分の側へとやってくるのをあやめは見ていた。

逃げ場が塞がれるようだった。

「ペンも必要か?」

「……自分のがあります」

かすかに震える指で、鞄から万年筆を取り出す。そして、紙面に目を落とし――【姓】の欄で、手が止まった。

一瞬だけ、呼吸が浅くなる。

「そこはまだ『柊』だな」

静かな指摘。顔が熱くなるのを感じながら、あやめは小さく頷き、ペン先を紙に落とした。

(まだ――“柊”)

だが、それは“いまだけ”だ。

一画ごとに、自分の名前が、これまでの自分から切り離されていくような錯覚に襲われた。

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