LOGIN彼女からしてみたらオルレイン伯爵の研究が、貴族の道楽に見えるのかもしれない。
だが、金を持っている貴族だからこそ、価値の高い研究が出来るのも確かだ。
異国に通じる知識も、研究に必要な道具や書、そして何より有り余る時間。
労働をしない貴族だからこそ、彼は財も時間も研究に時間を費やす事が出来るとも言える。
ふと、夜会で彼に言われた事を思い出した。
ラヴェル殿にはこの国を背負って立って頂かねば――。
その彼の言葉は、公爵家の嫡男への世辞だと思っていた。
いや、実際に王家を支え、筆頭貴族として国に貢献するローゼン家を継ぎ、国内経済を一挙に握る当主となるべく育ってきた筈だった。
だが、今はどうだ。
重たいドレスを着こなし、化粧し、男の面影は何処にもない。
街頭の窓ガラスに映る自分を見て、ラヴェルは立ち止まった。
胸元に輝くジェイドがくれた夜鏡石のネックレスが、反射して目を細める。
そ
あの日以来、洞窟内での秘密は自慰から愛撫へと変わった。 あの時間が、街で感じたあの世界から疎外されている様な孤独を紛らわす事が出来る。 ジェイドがラヴェルの存在を知り、求め、認めてくれていればそれで良い。 他の誰に忘れられても、消えてなくなるような儚い存在ではないと思える。 互いに言葉で気持ちを伝えることは無くとも、彼と自分の間には“特別な感情”が確かにあると思えるからだ。 それはベルの完成度にも拍車をかけた。「リゼル、お散歩でもしましょうか」 ジェイドはこの所忙しいらしく、よく屋敷を空けている。 ラヴェルは相変わらず屋敷の中にいる事が多いが、街で顔を見せた事で、敷地内の散歩くらいは許されるようになった。「ベル様、本日は雨になりそうです」「あら、そう……じゃあ晴れている内にお庭に出ましょう」「かしこまりました」 侍女のリゼルは相変わらずだが、彼女が片時も離れずに傍にいる事も、当たり前になっていた。 屋敷のテラスから出た瞬間、玄関先から声が聞こえる。「誰かいらっしゃいませんかー?」 その声に、リゼルが「見て参ります」と傍を離れた。 遠く見える玄関先に見える男は、風体からセルジオだと思われた。 ラヴェルはセルジオ嫌いのリゼルが気になり、後を追う。「旦那様はお出掛けなさっています」「あらら、入れ違いかぁ。おや、ベル嬢、今日もお美しい」「こんにちは、セルジオ。何か御用だったの?」 そう声を掛けるとセルジオは後頭部を掻きながら「出直しますわぁ」と苦笑いした。 リゼルは「お帰りはあちらです」と外門を差す。「相変わらず冷たいねぇ。お茶の一つでも出してはくれないのかい?」 そう言われてリゼルが食い気味に「それは」と言いかけ、ラヴェルはふと気
「ジェイドに……触って欲しい」 いつだってジェイドは見ているだけで、指一本触れたことは無い。「どうして?」「……え?」 どうしてと聞かれてラヴェルは弾かれた様に顔を上げた。 どうして――――? どうしてだろうか。 ずっとそうして欲しかったような気もする。 けれど、自分で明確に言葉に出来ない。 寂しい。悲しい。辛い……? どれもあって、どれでもない様な気になる。「わ……からない……」「そうか」 相変わらず柔和な表情でそう答えたジェイドに、ラヴェルは眉根を寄せた。 それは許諾なのか、拒否なのか。「すまない、変な事を言った……」 いつものジェイドなら「良いよ」と言ってくれると思っていた。 言うんじゃなかった。 ラヴェルはしがみついていたジェイドのシャツを離して、一歩下がる。 受け入れて貰えないという事に、強烈な孤独を覚えた。「そんな悲しい顔をするな」 そう言ったジェイドはこちらをゆっくりと伺うように覗き込む。「でも、嫌だったのだろう? ごめん、もう言わないから……」「そうじゃない。どうしてそうして欲しいのか、素直に教えて欲しいだけだ」 ラヴェルはそう言われて、唇を噛んだ。 自分の気持ちがまるで分らない。 だけど、ジェイドが自分を求めてくれたらと、欲が出る。 ――――怖いんだ。 ラヴェルはジェイドに縋りつくようにして、辛うじてそう言葉にした。 言葉にした後、思考が追い付く。 あぁ、怖かったのだ、と。 街へ出てラヴェル・ローゼンと言う人間はもうどこにもいないのだと、実感してしまった。
彼女からしてみたらオルレイン伯爵の研究が、貴族の道楽に見えるのかもしれない。 だが、金を持っている貴族だからこそ、価値の高い研究が出来るのも確かだ。 異国に通じる知識も、研究に必要な道具や書、そして何より有り余る時間。 労働をしない貴族だからこそ、彼は財も時間も研究に時間を費やす事が出来るとも言える。 ふと、夜会で彼に言われた事を思い出した。 ラヴェル殿にはこの国を背負って立って頂かねば――。 その彼の言葉は、公爵家の嫡男への世辞だと思っていた。 いや、実際に王家を支え、筆頭貴族として国に貢献するローゼン家を継ぎ、国内経済を一挙に握る当主となるべく育ってきた筈だった。 だが、今はどうだ。 重たいドレスを着こなし、化粧し、男の面影は何処にもない。 街頭の窓ガラスに映る自分を見て、ラヴェルは立ち止まった。 胸元に輝くジェイドがくれた夜鏡石のネックレスが、反射して目を細める。 その光に反して、急に心に影が射した。 そしてさっきのセルジオの言葉が耳に戻って来た。 あぁ、あの男は首輪と言ったのか、と。 まさしく、この一年、屋敷に捕らわれ飼われていた様なものだ。 こんな所で、こんな格好をした自分が情けなく、着ているドレスがずっしりと重く感じる。 何をしているのだろう、自分は――。 ラヴェルはドレスの両脇を握り締め、俯いた。「どうかされましたか? ベル様」 ハッとして顔を上げ、ラヴェルは取り繕うように口角を上げた。「何でもないわ。少し疲れたみたい」「風が出てきました。今日は海が荒れるかもしれません。馬車に戻りましょう」「えぇ、そうね……」 到着した時は眩しい程だった太陽が陰り、遠く見える海は凪いでいるように見える。 だが、このデルベールではこの時期、碧夜と呼ばれる嵐の夜
不意に話し掛けられたせいでよく聞き取れなかったその言葉に、ラヴェルは素直に小首を傾げた。「え?」「いえいえ、こっちの話です。ベル嬢はアズユリカに何しに?」「来た事が無かったから……連れて来て貰ったの」「良い所でしょう?」「えぇ、とても」「蜜海月のプリンは食べましたか? 旨いですよ」「蜜海月?」 そんな話をしていると、セルジオとの間にリゼルが割り込んで来る。 余りに唐突で、追いやられる様にラヴェルは一歩下がった。「セルジオ様、ベル様に何か御用でしょうか?」「おや、君は男爵の屋敷の使用人……確か、リゼル」「何か御用でしょうか?」 話をする気はない。 無表情のまま質問を繰り返すリゼルに、セルジオは参ったな、と後頭部を掻いた。「可憐なご令嬢が一人で街頭に立っていたんだ。挨拶くらい良いだろう?」「では、我々はこの辺で。ベル様、行きましょう」「あ、うん……セルジオ、ごきげんよう……」 形だけドレスの裾を抓んで、さっさと腕を掴んで歩き出すリゼルに付いて行く。 苦手だと言っていたけれど、これほどとは……。 セルジオを見るリゼルの目は、まるで虫でも見るかのような冷たさだ。「まって、リゼル。何か怒っているの?」 足早に手を引くリゼルにそう声を掛けると、やっとリゼルは足を止めた。「いえ、怒ってはいません。ですが、あの男は危険です」 リゼルはいつもの無表情でそう答えると、掴んでいた手をゆっくりと離す。「……心配してくれたのね。ありがとう」「別に、職務ですから」 そう言ったリゼルに、ラヴェルは肩を竦めた。 言っている事も、言い方も、まるで冷
リゼルを一緒に店内へと誘ったものの、あっさりと断られた。 店内には観光に来たであろう貴族がちらほら、見える。 雑多に混雑している庶民の店とは違い、景観の良い高台にあるそのカフェは、優雅で静かな時間が流れていた。 確かにここにリゼルのような使用人を入れるのは、場違いだったかもしれない。「何か食べるか? ベル」 いつもより表情が柔らかく見えるジェイドに、僅かな緊張が解ける。 他愛のない会話をしながらティータイムを楽しみながらも、ラヴェルはドレスを汚さない様にと気を付ける。 女性の服と言うのは袖にも色々付いていて、気を抜くとすぐに何かを引っかけてしまう。 屋敷で所作の練習も繰り返して来たけれど、外に出ると“失敗できない”と言う緊張が明確にあった。 暫くすると、店のオーナーが顔を見せる。 領主であるジェイドに挨拶に来たらしい。 だが、一頻り挨拶が済むとジェイドの耳元に顔を寄せ、何か耳打ちしている。 ラヴェルは窓の外を見るふりをして気にしない様に振舞いながらも、その様子を伺った。「分かった」 短くそう返したジェイドに「また後程」と一言だけ残し、その男はこちらに向き直るとにこやかな笑顔を向けた。「どうぞ、ごゆっくり」「ありがとう」 何を話していたのか気にはなる。 だが、ラヴェルはそれをジェイドに問いただして良いのか迷った。 居候の身で、領主の領分に口を挟むべきではない。 そう分かっていても、何かしらジェイドの役に立てるなら、等と思ってしまうのだ。「ベル、この後少し顔を出さねばならない所が出来た」「あ、そう……なの……」「リゼルを付けるから、少し街を歩いて来るといい」「わ、分かったわ……」「そんなに不安そうな顔、しないでくれ」「あ、や、大丈夫よ」
馬車まで先導してくれたネロは、馬車の扉を開けて中へと促してくれる。 ラヴェルは躊躇いなくネロの手を取って、ステップへと足をかけた。 物を言わずともネロの表情は柔らかい。「ありがとう、ネロ」 着席し、ドレスの裾を整えると、ネロはにこやかな笑顔を見せた。 その後ろから貴族然としたジェイドが姿を見せる。 長身ですらりとした美形である彼は、着るものが変わるだけで他人の目を惹く。 いつもは軽装で白シャツにサスペンダーと言う庶民に近い格好をしているのに、今日はちゃんと領主に見えた。「今日はいつもと違うのね?」「ベルをエスコートするのに、いつもの格好じゃ示しが付かないだろう?」「そう……」 ジェイドがつけている香油の香りが、陽の光に温められて鼻腔を擽る。 馬車の中が、彼のテリトリーとして匂い立つ気がした。 街娘のような服に着替えたリゼルを乗せて、馬車は動き出す。「可愛いわよ、リゼル」「ありがとうございます」 彼女は抑揚のない声でそう答えた。 悪気はないと分かってはいるけれど、いつまでも縮まらない彼女との距離が、少し寂しい時がある。 走り出した馬車の窓の外を、ラヴェルは子供のように見た。 一年ぶりの外の景色。 海で拾われてから、丁度季節は一周廻って新緑が眩しい。 高台にあるデルメール家の屋敷から、遠く眺めていた海の煌めきが段々と近づいて来る。「窓を開けても? ジェイド」「もちろん」 王都にいた頃には知らなかった潮の香りが混ざった風を、瞼を閉じて吸い込んだ。「今日行くのはアズユリカと言う、デルメール領でも一番賑やかな街だ」「アズユリカ……有名な観光地ね」「王都じゃ白い街と呼ばれているな」「壁が白いん
碧い光を放つその泉は、ゆらゆらと湯気を湛えて揺らめいている。 おとぎ話なら女神でも湧いて来そうな美しさだ。 湯気に混じってデルメール家の庭に咲く花のような匂いが立ち込める。「ダンスレッスンで足が痛いでしょう? 浸けてみて下さい」 ジェイドにそう言われてラヴェルは首を傾げた。「い、いいのか?」「この温泉は私しか知らないデルメール家の財産なのです。今日からは貴方と私の、二人だけの秘密だ」 そう言われてラヴェルは「では
夜な夜な行われていたあの異常な行為――誰かに見られていたなんて。「あれは……」「ジェッ……ジェイドッ! あれはそのっ……父上がっ……」 慌てたラヴェルの声は裏返る。 物心が付いた頃には母親はいなかった。 それ故か、ラヴェルは父親に何を強制されても否と答えたことはなかった。 それが異常なのだと知ったのは丁度精通を迎えた頃だ。「実父と関係を?」「はっ? いや違うっ……あれはそのっ……自慰をッ……」「自慰を?」
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するよう