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烏丸京司という男④

作者: rinsan
last update 公開日: 2026-04-27 11:52:06

数多の女たちの中に早苗という女がいた。

京司にとって、彼女は指の間をすり抜けて消えた

幾多の砂粒の一つに過ぎなかった。

彼の記憶のフォルダに、彼女の居場所はもうなかった。

かつて肌を重ねた記憶さえ、使い捨てのライターを失くしたとき程度の、

取るに足らない喪失でしかない。

名さえも既に忘却の彼方へ消え去り、その面影は

摩耗した銀貨のように輪郭を失っていた。

一方、女の時間はあの日から一歩も進まず、止まったままでいた。

京司という存在に、自分の人生の決定権をすべて明け渡してしまった報いだ。

男が自分を忘却の彼方に追いやれば追いやるほど、

その空っぽの背中に向けて、彼女の情念だけが寄生植物のように

しぶとく根を伸ばしていた。

まとわりつく女の執着を疎ましく思いながらも、京司の視線の先にはもう、

別の女が映っている。焼けるような嫉妬と、

プライドを土足で踏みつけられた屈辱。その果てに訪れたのは、

感情が死に絶えたような静かな絶望だった。

取り残された彼女の心象風景は、どす黒い嫉妬に塗りつぶされ、

奈落への一途を辿る。

(壊してしまおう…。誰の指も触れられないように)

その瞬間、彼女の中で何か
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  • 洛陽夜曲   密偵の行方

    まとわりつくような縁談の話に加え、違法薬物のシマへの流入は、京司の胃の腑をさらに重く灼いた。京司は、壁際に控えていた山城仁に視線を投げた。「山城、ちょっとええか?」山城は、もう一人の補佐である錨とは対照的な男だ。騒がしく自己を主張する錨に対し、山城は常に気配を殺し、ただ静止した時間の中に立っている。「――はい、カシラ。何でしょうか」山城の返答は、短く、硬い。余計な感情を一切削ぎ落としたその声が、冷え切った事務所の空気に静かな波紋を広げた。「最近、シマに『氷』が出回っとるという話、耳にしとらんか?」不意を突かれた山城の表情に、微かな動揺が走った。凪いでいた水面に小石を投じられたような、一瞬の波紋。「いえ……初耳です。どこぞの半グレどもが、身の程知らずに小銭を掻き集めているのでしょうか」「その『氷』の出どころ、洗ってみてくれへんか」「承知しました」短く応じた山城は、深々と頭を下げた。重苦しい静寂が支配する事務所を後にする彼の背中には、夜の帳が静かに降り積もろうとしていた。一方、見合いという名の「審判」が、秒読みの段階に入っていた。「カシラ、例の縁談はどう転びましたんで?」錨の問いには、隠しきれぬ好奇のいろが滲んでいる。「…週末に東山の料亭や」京司の返答は、まるで他人事のようであった。その声音には、自身の運命に対する一欠片の執着すら見当たらなかった。京司から違法薬物の内偵を命じられて数日。山城の足取りは、突如として夜の祇園からぷつりと途絶えた。「錨……山城のやつ、まだ連絡つかへんのか?」「……はい。端末の呼び出し音すら返ってきません」いつもなら鼻につくような軽口で場を茶化すはずの錨だったが、その声は低くひび割れ、湿り気を帯びた沈黙が、ただ二人の間に重苦しく居座っていた。

  • 洛陽夜曲   鐵の掟

    見合いの日が刻一刻と近づくにつれ、京司を取り巻く空気は、好奇という名の粘り着くような視線に蝕まれていった。彼はただ、晴れぬ霧の中に立ち尽くすような、鬱々とした日々を数えていた。(この一件に片がつくまでは、牧村会長の顔を拝むわけにはいかんな……)紫煙の揺らぎに、やり場のない焦燥を託す。肺の奥に沈めた煙を吐き出すたびに、胸中では鈴鹿を迎えるための無機質な段取りが、逃れられぬ現実の骨格として、冷ややかに組み上げられていった。「カシラ、少し……よろしいでしょうか」若衆の一人が、震える声を絞り出すようにして京司の背中に投げかけた。その声には、冷たい畳を這うような湿り気と、得体の知れない怯えが混じっている。「なんや」京司の短く、刺すような一言が、静謐な室内の空気を切り裂いた。「あの……。うちのシマで半グレのガキが、妙な寝言を抜かしておりまして……」言葉を濁し、視線を泳がせる若衆。その額には、脂汗がじわりと滲んでいる。「なんや、言うてみぃ」促す京司の眼光は、獲物を射抜く猛禽のそれであった。若衆は覚悟を決めたように、喉のつかえを無理やり飲み下して口を開いた。「……九条の身内から、――『氷』を買うたと言うとるんです」※氷…違法薬物その一刹那、部屋を支配していた静寂が、さらに重く、深く、底知れぬ深淵へと塗り替えられた。京司の表情が、瞬時にして凍てつくような険しさを帯びた。「うちは“薬”はご法度や。末端の端くれに至るまで、その鉄則を骨の髄まで叩き込まれとるはずやろ」突き放すような冷徹な声音に、若衆は肝を潰し、狼狽の色を隠せぬまま必死に言葉を継いだ。「も、もちろんです。九条組の看板を背負うて、薬に手を染めるような阿呆はおらんとは存じますが……」京司は応えず、ただ苦虫を噛み潰したような沈黙に沈んだ。その横顔には、身内への疑念と憤怒が、拭いがたい陰影となって深く刻まれていた。九条組において、薬物への不干渉は組長の絶対的な“掟”だった。その一線を越えることは、この組織における唯一の、そして致命的な叛逆を意味する。もし、若衆が震える声で告げた情報が単なる妄言ではなく、乾いた真実を射抜いているのだとすれば——。それは九条組という強固なシステムを内側から食い破り、沈黙を守ってきた組織の屋台骨を、音も立てずに瓦解させる。

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  • 洛陽夜曲   見合い話②

    「親父直々の話や。……受けるしかあらへん」京司は苦虫を噛み潰したような顔を歪め、咥えた煙草に火を灯した。立ち昇る紫煙が、彼の諦念を象徴するように重く淀む。「まあ、なんとか適当な理由をつけて、引き下がってもらうつもりやけどな」吐き出された煙は、どこか言い訳めいて白く濁っていた。その甘い目論見を、錨の事務的な打鍵音が淡々と否定していく。錨は顔を上げず、ただ耳だけで京司の迷いを聞いていた。(引き下がる、、、なんて選択はないだろうな。あのお嬢様には)錨の指先が、不意にキーボードを叩く乾いた音を途切れさせた。静寂が室内に染み出し、彼は独り言ちるように、しかし確かな意図を持って言葉を落とした。「……てっきり、あの夜の倉庫にいたお嬢さんと、カシラは睦まじい仲にあるものとばかり」その言葉が呼び水となった。京司の顔に、微かな、だが隠しようのない動揺が走る。彼は何も答えず、ただ手元でひしゃげた空の煙草の箱を、苛立ちを込めて錨へと投げつけた。「余計な詮索は抜きや。仕事せぇ!」吐き捨てるような低い声。京司は逃げるように視線を窓の外、鈍色の空へと投げた。ずきずきと脈打つこめかみの熱を、やり場のない掌で押さえ込みながら。---大阪六穣会事務所大阪六穣会事務所。重厚な静寂が支配するその空間に、鈴華が足を踏み入れた途端、張り詰めた空気がわずかに震えた。「お嬢! お疲れさんでございましたな!」若頭補佐、早緑の弾んだ声が、沈滞していた事務所の空気を鮮やかに塗り替える。その声には、彼女の帰還を心待ちにしていた安堵と、隠しきれない敬愛が滲んでいた。「只今戻りました。カシラ、早緑さん。……長らく留守にしてご不便をおかけしました」鈴華は凛とした佇まいで、深く、静かに頭を垂れた。その所作には、不在の時間を埋めようとする誠実さと、組織の重みを背負う覚悟が宿っている。彼女の言葉を真っ向から受け止めた若頭、宏一は、厳しい表情を崩さぬまま、喉の奥から絞り出すように短く応えた。「……おう」その短い返答は、重く、深く、静まり返った事務所に小さく残響した。宏一の頑なな沈黙と、無関心を装うあまりに硬直した横顔。その「無理」が透けて見える様子に、ついに早緑の抱えていた笑いの袋が弾けた。「くっ……くっくっ……! お嬢、あそこの棚、ちょっと見てみてや

  • 洛陽夜曲   頭取令嬢

    翌朝、鈍色の重みを孕んだ陽光が、京司の割れるような頭痛を容赦なく急かした。事務所の重厚なドアを開いた彼は、崩れ落ちるようにして椅子へ身を投じる。深く、深く沈み込む背もたれに身を委ね、片手で額を覆ったその姿は、昨夜の残滓を無理やり繋ぎ止めているかのようだった。「カシラ、二日酔いですか。貴方にしてはお珍しい朝ですね」規則的な打鍵音を室内に響かせながら、若頭補佐の錨が視線も上げずに問いを投げた。青白いモニターの光に照らされたその横顔は、淡々と事務作業をこなしつつも、京司の珍しい失態を愉しんでいるかのようでもあった。「なんや。どないしたんや。お前までそんな歯切れの悪い顔して」京司がわずかに眉を寄せ、促すように問いかけた。錨はパソコンを打つ手をそっと止めた。その動作には、いつもの冷静沈着な彼らしからぬ、微かな“迷い”が混じっている。「……お見合いの相手、もしかして山城銀行頭取のご令嬢ですか?」京司はわずかに眉を寄せ、探るような視線を向けた。次の瞬間、錨の身体から、日常を彩っていた柔らかな体温がふっと消えた。彼は吸い寄せられるような予備動作もなく、無機質に、くるりと京司の方へ向き直る。その顔に、いつもの人懐っこい笑みはない。「…なんで知ってるんや、それ」「カシラに執着する女なんて、それこそ星の数ほどいます。けれど、あのお嬢様だけは……」京司の声には、苦虫を噛み潰したような不快感が滲んでいた。「裏で立ち回っていたのは把握していましたが、いささかやり方が露骨すぎます」「迷惑な話やわ」吐き捨てられた言葉が、密室の空気を冷たく撫でる。錨は、どこか突き放したような笑みを唇の端に浮かべた。「泣きついたんでしょう、頭取という肩書きを持つ父親に。オヤジに不正融資の件でもちらつかせて、強引に首を縦に振らせた。オヤジがが経営している店も、近頃は火の車だと聞いていますから」錨は神妙な顔つきで京司に問うた。「…どうするおつもりですか?」

  • 洛陽夜曲   苦悩

    「日時はまた連絡するわな」京司の返事など、最初から期待も考慮もされていない。見合いという名の決定事項が、冷徹な事実として卓上に置かれた。京司は肺の奥に溜まった重い空気を吐き出すように、ようやく口を開いた。「身に余るお話だということは、重々承知しております。ですが……私には将来を約束した女性がいます」それは、喉の奥に刺さった棘を無理やり引き抜くような、苦渋に満ちた告白だった。京司の決死の告白は、確かに組長の耳に届いたはずだった。だが、男の鉄面皮に揺らぎはない。彼は何事もなかったかのように、手元の新聞へと視線を戻した。紙の擦れる乾いた音だけが、重苦しい沈黙を刻む。「そしたら、早うケリつけんとあかんなぁ。見合いの日までにきれいに清算しとくんやで」淡々とした、血の通わない通告。京司は息を詰まらせ、言葉を失った。全身の血が逆流するような衝撃が走り、膝元で固めた拳が、制御不能な怒りと絶望に細かく震えていた。震える指先を掌の中に隠し、京司は無言のまま深々と頭を下げた。視界の端で揺れる畳の目が、まるで己の人生を嘲笑う無数の口に見える。(俺の人生を、玩具か何かと履き違えとるんか)胸の内で繰り返される独白は、外へ溢れ出すことを許されず、熱い鉛となって喉元に閉ざされた。邸宅の門を潜り抜けても、夜の冷気さえその怒りを冷ますことはできない。彼はただ、やり場のない激情の塊を引き摺るようにして、暗がりの街へと消えていった。---使い古された琥珀色の時間が、クリスタルの中で静かに揺れている。馴染みのバーの隅、京司は喉を焼く酒精を煽ることで、胸の内に燻る苛立ちを鎮めようとしていた。しかし、組長から持ちかけられた「縁談」という名の呪縛は、冷えた鎖のようにじわじわと彼の四肢を締め上げ、自由を奪っていく。グラスの底で氷が鳴る。その硬質な音さえも、逃げ場のない現実を告げる鐘の音に聞こえた。「断ることは……できひんやろなぁ」吐き出された独白は、紫煙に巻かれて力なく霧散する。それは自嘲を孕んだ諦念か、あるいは静かな絶望の吐息か。男の輪郭を縁取る薄暗い照明が、逃れられぬ宿命の深さをいっそう際立たせていた。

  • 洛陽夜曲   再会③

    静寂に支配された秋の深淵で、二人は燃え盛る紅葉の海をただ見つめていた。色づいた葉が波のように揺らめき、沈黙のなかに鮮やかな情念を滲ませている。不意に、京司がその静寂を破るように指を伸ばし、鈴華の頬をそっとなぞった。「……傷、もう大丈夫なんか?」慈しむような、それでいてどこか切迫した彼の問いに、鈴華は秋の陽だまりのような微笑を返す。「ああ見えてお兄ぃは手加減してますから」努めて軽やかに響かせた言葉を、京司はかき消すように呟いた。「それでも……君が傷つくんは耐えられへん」その声は、震える木の葉よりも脆く、切実だった。頬に触れた京司の指先から、熱い脈動が流れ込んでくる。そ

  • 洛陽夜曲   再会②

    祭りの喧騒が遠のく中、溶け合うように消えていく二人の背。神野と婦人たちは、ただ無言でその余韻を見送っていた。京司の背中を追っていた誰かの唇から、吐息とともに密やかな独白がこぼれる。「……ありゃあ、忍ちゃんでは太刀打ちでけへんわ」その場にいた者たちの間に、否定の余地のない沈黙が広がり、皆が静かに首を縦に振った。圧倒的な“正解”を突きつけられたかのような、奇妙な敗北感。しかし、神野だけは違った。彼は独り、夜の空気を震わせるように愉快な高笑いを上げた。「うちの和田とて、なかなかの逸材やと思うとったんやが……。いやはや、敵わんなぁ」その笑い声には、自慢の身内を出し抜かれた悔しさよりも

  • 洛陽夜曲   再会①

    喧騒に包まれた参道には、色とりどりの露店が軒を連ね、ひしめき合う人々の熱気が渦を巻いている。その雑踏の中を、神野はあくせくすることなく、地を踏みしめるような泰然とした足取りで進んでいく。その姿を見つけるや、道行く人々が次々と足を止め、親しみを込めて深く頭を下げた。交わされる挨拶の端々には、長きにわたる歳月が育んだ親愛と、この地に根ざした者同士の無言の絆が滲んでいる。---やがて賑わいの中心を離れ、静謐な空気が漂い始めた社務所のあたりまで来ると、そこには湯気を上げる大きな釜を囲む婦人たちの姿があった。秋空の下、振る舞われる汁粉の甘い香りが、澄んだ空気に溶け込み、辺りを柔らかな温

  • 洛陽夜曲   京司の答え

    怪訝な色の混じった声が、静まり返った部屋に響く。「……いや。義理事の席で顔を合わせた程度や」京司は吐き捨てるように応じると、机上の封筒に再び視線を戻した。自分を指名して届いたその書状が、平穏な日常の裏側に潜む“何か”を連れてきたようで、彼は不機嫌そうに眉根を寄せ、一点を凝視した。京司は、自らに宛てられた封筒にそっと指先をかけた。丹念に筆を走らせた跡が残るその封を、刃物一つ入れず、慈しむように丁寧に解いていく。中から現れたのは、墨の香を微かにまとった手紙であった。白泥の紙の上を、流麗な筆致が縦横に駆け抜けている。一文字一文字が呼吸しているかのようなその達筆な連なりには、相手

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