Teilen

第9話 見えないもの

last update Veröffentlichungsdatum: 06.03.2026 11:00:28

「美咲さん」

司狼が穏やかな声で名前を呼んだ。

「悪いけど、席を替わってもらっていいか?」

「え?」

突然の申し出だった。

司狼の視線は美咲ではなく、その向こうの空席へ向いている。

理由は分からない。

けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

「いいですよ」

美咲はグラスを持って席を立つ。

ちょうどエアコンの風が少し強いと感じ始めていたところだった。

(結果的には、よかったかも)

新しい席へ腰を下ろした、そのときだった。

階段のほうから、人の気配がした。

次の瞬間、店のベルが鳴る。

男性二人組が店へ入ってくる。

声が大きい。

笑い方も遠慮がない。

静かな店内では少しだけ浮いて見えた。

「お二人ですね」

バーテンダーが自然に司狼の隣の席を勧める。

二人はそこへ腰を下ろした。

「タイミングよかったですね」

バーテンダーが笑う。

「ええ」

美咲も小さく頷いた。

もし席を替わっていなければ、あの二人は自分のすぐ隣だった。

そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。

グラスを持ち上げ、ジンウーロンを一口飲む。

「それにしても」

バーテンダーが感心したように笑った。

「お客さん、耳がいいですね」

「そうですか?」

司狼はきょとんとする。

「さっきから、扉が開く前に扉を見ているでしょう?」

その言葉に、美咲も司狼を見る。

そういえば。

何度か同じことがあった。

ベルが鳴る前に扉へ目を向けていた。

「階段の音ですよ」

司狼はあっさり答える。

「タイル張りだからよく響くんです」

「男性か女性かも分かっているようですが」

探るような言葉に、司狼は小さく笑う。

「ある程度は。革靴とヒールで音が違うので」

「そんなの分かるんですか?」

「慣れれば」

司狼は笑う。

「美咲さんは、こういう店に慣れていない」

「どうして?」

「歩き方」

思わず目を丸くする。

「滑らないようにというのもあるだろうけど、ゆっくりと、慎重だった」

そんなことまで覚えているのだろうか。

「さすが、小説家さんですね」

半分冗談で言うと、司狼は苦笑した。

「ありがとう」

そのときだった。

司狼が扉を見る。

「男だな」

数秒後。

カラン。

ベルが鳴り、サラリーマン風の男性が店へ入ってきた。

「……本当だ」

美咲は小さく呟く。

司狼は何事もなかったようにグラスを傾けている。

「どうした?」

「いえ」

説明できない。

ただ少しだけ、この人は普通ではない。

そんな考えが頭をよぎる。

(考えすぎかな)

自分へそう言い聞かせる。

人より観察力が鋭いだけ。

小説家ならそれくらいあるのかもしれない。

「飲むペース、早くなってる」

司狼がふと指摘した。

「そうですか?」

「ああ」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない人ほど、そう言うんだ」

くすりと笑う。

その笑い方が少し悔しい。

「何か食べよう」

司狼はメニューを開いた。

軽く見たあと、バーテンダーを見る。

「ポテトサラダと、チョリソーをお願いします」

「かしこまりました」

美咲は思わず首を傾げる。

「甘いものは頼まないんですか?」

「美咲さんは、甘いもの好きじゃないだろ?」

「え?」

思わず聞き返す。

「どうしてですか?」

司狼は少しだけ考えるような顔をしたあと、笑った。

「勘」

その得意げな笑顔に、美咲は思わず吹き出した。

(変な人)

容姿のせいか、美咲は昔から「甘いものが好きそう」と言われることが多い。

けれど実際は違う。

ミルクティーよりコーヒー。

甘いケーキより、辛い料理のほうが好きだった。

「美咲さんは、ケーキよりも塩辛い肉って感じだ」

「……どうして分かったんですか?」

司狼は少しだけ得意そうに笑う。

「種明かし」

そう言って、少し離れたテーブルへ視線を向けた。

「さっきから、あの料理を何回も見てただろ?」

「あ……」

運ばれてきたチョリソーから、香ばしい匂いが漂っていた。

知らないうちに、何度も目で追っていたらしい。

「一緒に食おう」

気負いのない誘い方だった。

馴れ馴れしいと思ってもおかしくない。

それなのに、不思議と嫌ではない。

そのときだった。

司狼の表情が、ふっと曇る。

「……どうしました?」

「いや」

そう答えながらも、視線は美咲ではなく、その後ろへ向いている。

一人の女性が通り過ぎた。

あとから、甘い香水の匂いが漂ってくる。

司狼は小さく眉をひそめた。

「苦手ですか?」

「少し」

短く答える。

「鼻が利くんだ」

「そうなんですか?」

「匂いには敏感だから」

美咲も香水はあまり得意ではない。

けれど、今の香りはそこまで強いものではなかった。

司狼の反応は、少し大げさにも見える。

「小説家って、匂いも気にするんですか?」

何気なく聞くと、司狼はグラスの中の氷をゆっくり揺らした。

「大事だから」

「匂いが?」

「ああ」

少しだけ考えるように視線を落とす。

「人を覚えるときも、物語を書くときも」

その言葉だけが静かに残った。

美咲は首を傾げる。

匂いで人を覚える。

その感覚はよく分からなかった。

Lies dieses Buch weiterhin kostenlos
Code scannen, um die App herunterzuladen

Aktuellstes Kapitel

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第39話 贈り物

    【美咲視点】.駅へ向かう途中、美咲はバッグの中へそっと手を入れた。小さな箱の感触が指先へ伝わる。銀色のしおり。司狼に似合うと思って買ったものの、衝動買いである感じは否めない。(渡せる日なんて来るのかな)会う約束はしていない。連絡先は知っている。でも、プレゼントがあるから渡したいというメールを送るほどの勇気はない。考えれば考えるほど、自分が何をしているのか分からなくなる。恋人でもない。ただ何度か偶然会って、その流れでほんの一時を過ごした。それだけ。それなのに、プレゼントを選んでしまった。誕生日とか、何の名目もなく。思い付きで。(重いかな……)そう思ってしまうと、急に恥ずかしくなった。「やっぱり早まったかな」小さくため息をつきながら改札へ向かう。そのときだった。「美咲?」聞き慣れた声に足が止まる。ゆっくり振り向くと、少し離れた場所で司狼が片手を上げていた。「木崎さん……」思わず目を丸くする。(また会った)偶然。そう思うには出来すぎている。だが、それ以外に適切な説明が思いつかない。司狼はいつも通り自然な笑顔で歩いてきた。「奇遇だな」「……本当に奇遇なんですか?」思わず疑いの目を向ける。「当たり前だろ」「絶対違います」「それなら、どうやって?」ストーキング。そんな言葉が浮かんだがすぐに消す。理由がない。それに。(もし本当なら、もっとこそこそしているわよね)「偶然、なんですね」「そうだ」「何とか納得す

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第38話 忘れられない人

    【美咲視点】.夜、部屋へ戻った美咲はバッグから『透明な烙印』を取り出した。読み終えたから棚に片付けようとしたが、思い直してテーブルの上に置く。化粧を落として、シャワーを浴びて、リビングに戻る。化粧水を肌に充てながら、気づけばまた表紙を眺めていた。邪魔だからだと、自分の天邪鬼が囁く。でも、数分後には手に取ってしまっていた。触れてしまえば誤魔化せない。天邪鬼は沈黙する。(でも……)読み返したいわけではない。ただ、気になる。まるで司狼のようだと思ったところで、口元が緩む。「……変な人」思わず声に出して、そして笑ってしまう。初対面では軽薄な人だと思った。女性を口説き慣れていて、距離感がおかしくて、何を考えているのか分からない人。それなのに話していると安心するから不思議。からかわれているはずなのに嫌ではない。泣いているときは困った顔をする。美咲が恥ずかしいと感じたときは、笑い飛ばしてくれる。(もしくは遠慮なくからかう)思い出すと、笑ってしまう。そんな不思議な人だった。(もっと知りたい)そう思った瞬間、心の奥から『なんで?』という声がした。美咲の笑みが消える。岡本蒼太。その名前が頭に浮かぶ。(まただ……)一年前に忘れようと決めたはずだった。木崎司狼という新しい出会いができたのだから、忘れてしまったほうがいい。これが恋になるかは分からない。でも、少しだけ前を向きたいと思った。(多分、これも恋の始まりなんだと思う)そう思うのに。司狼のことを考えるたび、蒼太のことまで思い出してしまう。「最低……」誰に対してなのか分からないまま呟いた。司狼に失礼だと思っているわけではない。(だって、まだそんな義務のある関係ではない)でも、新しい出会いに過去の恋愛を重ねている。そんな自分が嫌だった。◇◇◇翌日。仕事へ向かう足取りは思っていたより軽かった。「花邑さん」「はい?」呼ばれて振り向くと、同じ部署の女性社員が笑っていた。「最近、雰囲気変わったね」「そうですか?」「うん。なんか柔らかくなったというか、笑うこと増えたよね」美咲は目を丸くする。そんなつもりはなかった。「いいことでもあった?」そう聞かれ、美咲は少しだけ考えた。「……本、ですね」「本?」「面白い本を読んで、その影響かもしれ

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第37話 苦手

    【美咲視点】 .店の扉を開けた瞬間、美咲は小さく息を呑んだ。外から見た印象とはまるで違う。柔らかな照明に照らされた店内は、木の温もりに満ちていた。飾りすぎない内装。静かに流れる音楽。厨房から漂う香ばしい匂い。肩肘張るような高級店ではない。けれど、大切な人とゆっくり食事をしたくなる。そんな空気があった。「こちらへどうぞ」案内された席へ腰を下ろす。周囲を見ると、恋人同士らしい男女もいれば、年配の夫婦もいる。誰も大声では話さない。自然と声の大きさまで落ち着いてしまうような店だった。(……デート向けだ)そう思った瞬間。向かいに座る司狼を意識してしまう。「どうした?」「……何でもありません」慌ててメニューへ視線を落とした。料理はどれも美味しそうだった。パスタ。魚料理。肉料理。どれも魅力的で迷う。結局、美咲は季節限定メニューを選んだ。「おすすめじゃないんだ?」司狼が不思議そうに聞く。「おすすめも気になりますけど」美咲は少し笑う。「季節限定って、その季節しか食べられないじゃないですか」「なるほど」司狼は納得したように頷いた。「俺はおすすめにする」「迷わないんですね」「初めての店では、まずおすすめを食べる」「どうしてですか?」「その店が、一番自信があるものだから」美咲は少しだけ驚いた。そんな考え方をしたことはなかった。料理が運ばれてきた。思わず見惚れる。「……綺麗」色合いも。盛り付けも。どれも丁寧だった。崩してしまうのが惜しくて、しばらく見つめてしまう。視線を感じた。顔を上げる。司狼がこちらを見ていた。「何ですか?」「慎重だなと思って」「え?」「まず眺める」「……」「それから、何から食べようか考える」美咲は少し笑う。「食べ物なんだから当たり前です」「俺は好きなものを先に食べる」(木崎さんらしい)「人生もそんな感じなんだろうな」司狼の言葉にフォークを持つ手が止まった。「美咲って」司狼はワインではなく水を口に含みながら言う。「人を信用するまで時間がかかるだろ」図星だった。「……そうかもしれません」「いや」司狼は首を振る。「かかる、じゃないな」少し考えて。「信用したいけど、できない」静かな声だった。美咲は返事ができなかった。「綺麗とか」

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第36話 どっちにする

    【美咲視点】.カフェラテを飲み終えた頃には、さっきまで泣いていたことが嘘のように落ち着いていた。司狼も空になったカップを見つめながら、小さく息を吐く。「そろそろ出るか」「はい」美咲は頷き、本をバッグへしまった。立ち上がろうとした、そのときだった。「美咲」不意に名前を呼ばれる。「はい?」振り返る。思っていたよりも近くに司狼の顔があった。「……っ」心臓が大きく跳ねる。近い。そう思った瞬間だった。美咲は反射的に目を閉じていた。(……あっ)すぐに我に返る。(違う違う違う!)何をしているのだろう。まるで。まるでキスを待っているみたいじゃないか。そんなつもりはない。ないはずなのに、身体が勝手に動いた。恥ずかしさで頭の中が真っ白になる。「ふっ」笑われた。美咲は勢いよく目を開く。司狼は肩を揺らして笑っていた。「期待しているところ悪いけど」「期待してません!」思わず睨む。司狼はどこか楽しそうだった。「会ってまだ三回目だ」落ち着いた声で続ける。「しかも、予定して会ったことはない」「……」「それで、いきなりキスは早いだろ」「だから違います!」顔が熱い。完全に誤解されている。いや。誤解されても仕方のない反応をしたのは自分だ。(もう嫌……)恥ずかしすぎる。「安心しろ」司狼は笑う。「キスはもっと仲良くなってからしよう」「しません!」「そうか?」全然信じてもらえていない。美咲は頬を膨らませた。すると司狼が少しだけ身を乗り出した。「え?」今度こそ、本当に近い。思わず身体が固まる。司狼は美咲の顎へそっと指先を添えた。びくり、と肩が震える。(え……)動けない。司狼の視線が美咲の顔をゆっくりと見つめる。右。左。少しだけ角度を変えて。それだけだった。「よし」満足そうに頷く。「……?」美咲は瞬きを繰り返した。何が「よし」なのか分からない。(もっとこう……照れたりとか、雰囲気があると思ってたのに)サッカーでゴールを決めたみたいな満足顔をされても困る。「ジャンル間違い……」混乱したまま、心の声が口から漏れた。「え?」司狼が首を傾げる。「イタリアンは好みじゃない?」「……え?」今度は美咲が固まる。「イタリアン?」「ああ」司狼は当然のように頷いた。「

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第35話 透明な烙印

    【美咲視点】.本を読み始めてから、三日が経った。仕事帰り。美咲はいつものカフェで、『透明な烙印』の最後のページを閉じた。静かな店内。低く流れる音楽。コーヒーの香り。窓の外には、仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。その穏やかな空間とは裏腹に、美咲の胸の中だけが大きく揺れていた。「……ずるい」ぽつりと呟く。こんな終わり方だとは思わなかった。悲しいだけではない。救われただけでもない。読み終えたあとも、登場人物たちが胸の中で生き続けている。そんな物語だった。気づけば視界が滲んでいる。一滴。また一滴。涙が頬を伝った。「家で読めばよかった……」こんなところで読むんじゃなかった。周りには仕事帰りに談笑する会社員や、本を読んでいる学生もいる。そんな中で一人泣いているなんて、恥ずかしすぎる。慌てて紙ナプキンへ手を伸ばした、そのときだった。「勉強は進んでる?」聞き慣れた声が降ってきた。「……っ」顔を上げる。「木崎さん」司狼が立っていた。トレーにはカフェラテが二つ。「隣、いい?」断る間もなく腰を下ろす。美咲は小さくため息をついた。「どうしてここにいるんですか」このカフェは美咲の勤務先の傍にある。司狼と会ったバーや書店のあるあの街ではない。「偶然」「その偶然、多すぎません?」「運がいいんだろう」どうにも信じられない内容だが、司狼は本当にそう思っているらしい。そういうところが、この人らしい。司狼はトレーからカフェラテを一つ取り、美咲の前へ置いた。「冷める前に」「ありがとうございます……」返事をしながらも、涙は止まらない。司狼の視線が本へ落ちる。「読み終わった?」美咲は小さく頷いた。「詐欺です」「詐欺?」「青春小説って言いましたよね」「言った」「泣くなんて聞いてません」司狼は少し考えるような顔をした。「感想なんて人それぞれだろう」「この本を読んで泣けないなんて人ではありません」思わず言い返す。涙声のせいで全然迫力がない。司狼は少しだけ笑った。「いや、それ書いたの俺だから」「だから詐欺なんです」美咲は鼻をすする。「……そこまで、本気で泣くなよ」その一言に、美咲は顔を上げる。司狼は困ったような表情をしていた。(……困ってる?)珍しい。軽口を返すか、笑って終

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   第33話 参考書

    【美咲視点】.「他にも本を出しているんですか?」美咲が尋ねると、司狼は棚へ視線を向けた。「何冊か」そう言って指を折る。「『ひとりぼっち』とか、『犬を賢く育てる方法』とか」「へえ……」美咲は思わず笑った。「タイトルだけだと全然想像できません」司狼が片方の眉を上げる。(あれ……?)意外なことを言われた。そんな表情。だが、ほんの一瞬、司狼の表情に違和感を感じた。だが。「じゃあ当ててみるか」司狼が面白そうに口角を上げる姿に、掴みかけていた何かは消えた。.「『ひとりぼっち』は?」「えっと……」腕を組み、本気で考える。「サイコホラー」「ほう」「一人ずつ殺されていって、最後に本当に一人ぼっちになる話」司狼は少しだけ感心したように頷いた。「なるほど」「当たりですか?」「違う」即答だった。「じゃあ、『犬を賢く育てる方法』は?」「これは……」そこまで言って、美咲は固まった。(犬……)さっきまで見ていたBL棚。執着。監禁。そんな単語が頭をよぎる。(まさか……)頬が熱くなった。司狼が覗き込む。「変なこと考えた?」「……っ」図星だった。否定できない。司狼は小さく笑う。「美咲は素直だな」「違います」「顔に書いてある」「書いてません」「いや、書いてあるって」完全に遊ばれている。美咲は少しだけ頬を膨らませた。司狼は楽しそうに続ける。「正解は」一拍置かれる。「『ひとりぼっち』は絵本」「え?」「『犬を賢く育てる方法』は犬の飼育本」「……」美咲は呆然とした。そして一言。「普通だった……」「普通だな」美咲は肩を落とす。「私、何を想像してたんだろう……」司狼が肩を震わせる。「サイコホラーと官能小説を想像したんだろ」「言わないでください!」恥ずかしさで顔が熱い。.「そうだ」司狼は棚から本を抜き取った。司狼が書いた『私という装置』だ。「え?」そのまま歩き出す。「木崎さん?」当然のようにレジへ向かう。美咲も慌てて後を追った。店員が本を受け取り、会計を始める。「袋はご利用ですか?」「要りません」司狼はスマートフォンをかざした。決済音が鳴る。「現代的ですね」思わず漏らすと、司狼は笑う。「人生五回目のジジイでもキャッシュレスくらい使える」「まだその

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   10

    司狼の声は変わらず落ち着いていた。それなのに、その奥に含まれている“何か”が、美咲の意識の表面をかすめていく。ただ言葉を交わしているだけなのに、まるで気づいていなかった感覚を指先でなぞられるような、そんな居心地の悪さと奇妙な引力が同時にあった。何かを示唆しているようで、しかし明確には何も言っていない。その曖昧さが逆に、美咲の中にあるものを浮かび上がらせようとしている気がして―――思わず、グラスを持つ手が止まった。「……匂いで、覚えてるって?」「あるだろ、そういうこと」あまりにもあっさりとした返答だった。肩の力が抜けたような、何の含みもない声音。その拍子抜けするほどの軽さに、美咲の方

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   7

    バーのカウンターに座り、初対面の男性と向き合っている―――その状況は、美咲の日常からすればあまりにも異質だった。普段の彼女の生活には存在しないはずの空間と距離感。それなのに、手の中には司狼から渡された名刺があり、無意識のうちに自分の鞄を探って名刺入れを取り出そうとしていた。反射的な動作に、自分でもわずかな驚きを覚える。薄暗い照明も、丁寧に磨かれたカウンターも、今この瞬間には背景でしかない。氷が触れ合う乾いた音と、低く流れるジャズは確かにロマンチックな空気を作っているのに、それとは裏腹に、現実が妙に鮮明に美咲を捕まえて離さない感覚があった。「緊張が抜けた……」不意に、上から落ちてくるよう

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   5

    その男の年齢は、美咲よりも少し上に見えた。黒いロングコートに、白いニットとジーンズというラフな装いは、会社帰りの自分とは明らかに違う温度をまとっている。きちんと整えられているのに、どこか肩の力が抜けているような雰囲気。落ち着いているのに、視線だけが鋭い。けれど、その鋭さは威圧ではなく、どこか観察するような、そして美咲に向けられるときには柔らかさを含んでいた。「え……」戸惑う美咲に、男は軽く笑う。その笑い方に、説明のつかない懐かしさが混じっていて、美咲の胸の奥をかすかに揺らした。誰に似ているのかは分からない。ただ、どこかで知っているような感覚だけが残った。「スプモーニ」男は迷いなくバ

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   3

    (……最悪)駅の改札口を、いつもと同じリズムで抜けようとした瞬間、美咲は足を止めた。バッグに手を入れたまま固まり、指先が空を切る。ない。定期券が、ない。数秒遅れて、その事実がじわじわと現実味を帯びる。頭の中で、玄関の光景が浮かんだ。トレーの上、鍵の隣に置いてある定期券と腕時計。(ああ……)思い出した瞬間、同時にため息が漏れそうになる。定期券を取った覚えがない。恐らく、忘れた。腕時計もないから、ほぼ確実。どちらも致命的ではない。切符を買えばいいし、時間だってスマートフォンで確認できる。ほんの少し手間が増えるだけ。それだけのことなのに、胸の奥に溜まっている何かが、じわりと重みを増した

Weitere Kapitel
Entdecke und lies gute Romane kostenlos
Kostenloser Zugriff auf zahlreiche Romane in der GoodNovel-App. Lade deine Lieblingsbücher herunter und lies jederzeit und überall.
Bücher in der App kostenlos lesen
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status