로그인章真はそっと結安の額へ口づけを落とした。「もう一人、子どもを授かろう」結安はかすかに身をよじる。――そんなこと、できるはずがない。何も答えず、ただ静かに涙を流した。少し落ち着くと、床へ落ちていた服を拾い、一枚ずつ身につけていく。そして浴室を出ようとした、そのとき――章真が後ろから細い手首を掴んだ。「どこへ行く?」結安は振り返らない。掠れた声だけが静かに返る。「薬を買いに行くの。私は妊娠しない。もし授かったとしても、生まない」……章真は眉を寄せた。シャンデリアは眩しく輝き、互いの身体にはまだ熱が残っている。それなのに胸の奥だけが冷え切っていた。触れ合ったはずなのに、かえって心は遠ざかった気がする。章真は低く問いかける。「じゃあ想乃はどうなんだ。産まないと言っていたのに、どうしてあの子は産んだ?」結安は答えられなかった。重苦しい沈黙が流れる。やがて章真は無言でシャツとスラックスを身につけ、ジャケットを手に取った。どこか投げやりな口調で言う。「俺が買ってくる。品揃えのいい薬局へ行って、何種類か買ってくる。メーカーも製造日も、お前が自分で選べ」ぶっきらぼうな言い方だった。だが、それは章真なりの最大限の譲歩でもあった。見た目こそ穏やかで理知的だが、その本質は誰よりも強引な男だ。一度決めたことを曲げる人間ではない。もし人の意思を尊重できる男だったなら、何年も前に彼女を無理に引き留めることなどしなかっただろう。結安は呆然と立ち尽くす。章真は深く彼女を見つめた。怒りはまだ胸の中に残っている。それでも、大きなベッドで眠る想乃へ目を向けた瞬間、その表情は自然と和らいだ。そっと娘の頬へ口づけを落とす。胸の中まで温かくなり、怒りは半分以上消えてしまった。……1階へ降りると、蝶野はまだ起きていた。手には雑巾を持ち、夜遅くまで掃除をしている。章真は苛立ったように言う。「使用人が足りないのか。こんな仕事まであなたがやる必要はないだろう」蝶野は肩をすくめた。「歳を取ると、少し身体を動かさないと夜眠れないんですよ」章真は一度だけ睨みつけ、そのまま玄関を出て車へ乗り込む。向かった先は24時間営業のドラッグストアだった。緊急避妊薬
章真が想乃を抱き取ろうと手を伸ばす。その瞬間、二人の手がわずかに触れ合った。結安の肩がびくりと震える。その小さな反応を章真は見逃さなかった。じっと彼女の顔を見つめる。これまで何度も身体を重ねてきた。つい数時間前にも、ウォークインクローゼットで互いに向き合ったばかりだ。それでも今、彼女を目の前にすると胸の奥が静かに熱を帯びていく。だが娘の前だ。章真はその感情を押し殺した。想乃は父親の首へ腕を回したまま、じっと章真の口元を見つめている。――やっぱり伸びてる。そんなふうに真剣に観察しているらしい。章真は娘をドレッサーの前へ抱いていく。そこは昔、結安が毎日座っていた場所だった。想乃は椅子へちょこんと腰掛け、背筋をぴんと伸ばして待っている。章真はドライヤーを手に取る。すると想乃が得意げに言った。「パパ、ヘアオイル!」思わず章真は笑ってしまう。「そんなことまで知ってるのか」言われるまま数滴だけ髪になじませ、それから丁寧に乾かし始めた。……浴室では、結安が静かに後片づけをしていた。寝室からは想乃の元気な歌声が聞こえてくる。保育園で覚えた歌なのだろう。「くまさんがさんびき。パパくま、ママくま、こぐま。パパくまはつよくてげんき。ママくまはきれい。こぐまはかわいい。こぐまはわたし、想乃です」少し音程は外れている。それでも、たまらなく可愛らしかった。結安は思わず微笑む。その一方で胸は痛んだ。目元がじんわりと熱くなる。それでも涙はこらえ、浴室をきれいに片づけていく。赤い子ども用の洗面器を所定の場所へ戻す。今夜は客室で眠ろう。もう章真と同じ部屋にはいたくない。それに薬も買いに行かなければならない。昼間のことが頭をよぎる。念のため、備えておきたかった。結安はできるだけゆっくり片づけを続けた。30分ほど経つ頃には、ドライヤーの音も止み、想乃の歌声も聞こえなくなっていた。屋敷全体が静まり返る。ようやく身支度を終えた結安は、客室で休みたいと章真へ伝えるつもりで浴室を出た。洗面スペースへ足を踏み出した、その瞬間だった。寝室から章真が現れる。何も言わない。ただ彼女の前へ歩み寄り、その肩を抱き寄せた。「……っ
章真は想乃を抱いて2階の主寝室へ戻った。ようやく取り戻したばかりの娘だ。どれだけ見つめても見飽きることがない。想乃は父親の膝の上にちょこんと腰掛け、小さなボールで楽しそうに遊んでいた。自分が愛されていることを、きっと本能で感じているのだろう。好きなだけ見つめられてもまったく気にしない。ふと顔を上げれば、大きな瞳がきらきらと輝き、小さな顔立ちは人形のように整っている。可愛い子どもは、それだけで自然と自信を持つものだ。幼稚園でも先生たちの人気者なのだろう。最初はボールで遊び、次は章真のシャツのボタンを指先でつつき、やがて顎へ手を伸ばした。お髭を触ってみたかったらしい。けれど章真の顎はきれいに剃られていて、ちくちくする髭は一本もない。想乃は少し残念そうに、小さくふうっと息をついた。その様子を章真はただ黙って見つめ続ける。一瞬たりとも目を離したくなかった。父親というものは、娘には特別弱い。まして4年間も知らずに過ごしてきた娘が、ある日突然目の前に現れたのだ。その空白を埋めたいという思いと、何もしてやれなかった後悔だけで胸がいっぱいになる。……1階では、結安が章真の意図に気づいていた。彼はわざと自分へ役目を与えている。幸い蝶野は結安の立場を理解してくれていて、必要なものはすべて先に用意してくれていた。連れてきた家政婦がそれを2階へ運ぶ。想乃はまだ幼いとはいえ4歳。章真が一人で入浴を手伝うには気を遣う年頃だった。結安も一緒に2階へ向かう。その背中を見送りながら、蝶野は複雑な表情を浮かべていた。結安にはここへ残って幸せになってほしい。けれど同時に、自分の望む人生を自由に歩んでほしいとも思ってしまう。階段を上がる途中、家政婦がそっと結安へ話しかけた。「想乃ちゃんのお父さん、本当に立派な方ですね。想乃ちゃんのこと、とても大切にされているのが分かります。おじい様もおばあ様も、立花さんをすごく気にかけていらっしゃるし……葉山さんのお話、考えてみてもいいんじゃありませんか。子どもには、やっぱり家族が必要ですから」……家政婦が想乃を思って言ってくれていることは、結安にもよく分かっていた。だから否定もせず、ただ静かに微笑むだけだった。それ以上は
結安はゆっくりと顔を上げる。その瞳の奥には、壊れそうなほど脆い色が宿っていた。章真はこれまで見せたことのない眼差しで彼女を見つめている。それは少女ではなく、一人の女性を見る男の目だった。想乃が生まれる前には、一度として向けられたことのない眼差し。長い沈黙の末、彼は低く囁く。「どうして駄目なんだ。結安……ビジネスの世界はもともと残酷なものなんだ。もしあの結末を知っていたなら、俺はあんなことはしなかった。お前の家の会社なんて、失っても構わなかった。……信じられないだろうけど。過去は変えられない。だからせめて、償わせてくれ。想乃を育てさせてくれ。そして……もう一人、子どもを授かろう。もう一人家族が増えれば、この家はきっと変わる。子どもたちが大きくなったら、俺のすべてを想乃と、その子に託す。……そうしたら駄目か。お前に返せなかったものを、全部子どもたちへ返させてくれ」――償う。章真がそんな言葉を口にしたのは初めてだった。想乃が生まれたからだ。昔の彼は奪うことしか知らなかった。結安には、その変化が痛いほど分かる。胸が苦しく、惨めだった。頷きたくない。けれど逆らえば、彼が何をするか分からない。外には想乃も、使用人たちもいる。こんな場所で騒ぎになることだけは避けたかった。結安は小さく首を横へ振る。乱れた黒髪。涙を滲ませた白い頬。その儚さは胸を締めつけるほどだった。章真は彼女の顎へ手を添え、少しだけ力を込める。「俺を見ろ」視線が重なる。これほど深く見つめ合ったことは一度もなかった。章真はゆっくり身を屈める。唇が軽く触れた。ほんの一瞬で離れる。黒い瞳は真っ直ぐ彼女を捉えたまま、掠れた声で呟く。「……柔らかい」そのまま彼は再び彼女へ顔を寄せる。結安は小さく息を呑み、抗おうとする。けれど章真は離さない。重なった唇の距離は容易にはほどけず、結安の震えも、堪えきれない嗚咽も、そのまま静かに受け止めていた。扉の向こうからは幼い娘の笑い声が微かに聞こえてくる。二人の宝物。その存在がすぐ近くにあるという現実が、結安の胸をさらに締めつけた。乱れた服を整える余裕もなく、力の抜けた身体を章真が支える。その姿
結安が顔を上げる。そこには、深く静かな眼差しで自分を見つめる章真がいた。しばらく沈黙が流れたあと、結安は掠れた声で呟く。「……私が何を考えているかなんて、そんなに大事なの?」その言葉に、章真はわずかに口元を緩めた。どこか愉しげな色が瞳に差し、低い声で返す。「聞かせてみろ」彼はてっきり、結安は「チョコを連れて出て行きたい」と口にするものだと思っていた。だが彼女は焦点の定まらない瞳のまま、静かに言った。「……数年前、あなたに出会わなければよかった。そうしたら私はまだ家族と一緒にいられた。お父さんも、お母さんも失わずに済んだ。章真……あなたは私の家族を壊した。そのあなたが今さら、私と新しい家庭を作ろうなんて……そんなの、あまりにも残酷じゃない」声はとても小さかった。隣で遊ぶ娘を起こさないように。チョコは小さなボールを抱え、楽しそうに遊んでいる。楓ヶ丘邸は広く、リビングダイニングだけでも200平方メートル近い広さがある。子どもなら走り回れるほどの空間だった。まるでお城のような内装。そんな家を嫌いになる子どもなどいない。そこに住む父親は童話の王子様のように格好よくて、優しい。チョコが章真に惹かれるのも、ごく自然なことだった。結安の気持ちは変わらない。それでも娘を悲しませたくはなかった。どうして章真は、こんなにも突然現れたのだろう。どうしてこんなにも早くチョコと引き合わせてしまったのだろう。彼女には心の準備をする時間すらなかった。もう娘は章真と出会い、彼を好きになってしまった。自分に残された選択肢はあまりにも少ない。胸の苦しさに耐えきれず、結安はそっと顔を覆う。そして足早に一階の洗面室へ向かった。章真はその背中を黙って見送る。何を考えているのか読み取れない、深い眼差しだった。そのとき、ボールを抱えたチョコが母親を追いかけようとする。章真は娘を抱き上げ、そのまま膝の上へ座らせた。優しくあやしていると、チョコは洗面室の方をじっと見つめながら呟く。「ママのところ、行きたい」章真は小さな鼻をつまみ、穏やかに笑った。「ママはね、大人の悩みごとがあるんだ。それは大人にしか解決できない。だからパパがママのところへ行ってくる。いいか?」
チョコの寝顔を見届けたあと、部屋にはどこか微妙な空気が流れた。あの頃の結安はまだ幼さの残る少女だった。それが今では、章真の娘を産んだ母親になっている。澄佳には、結安を可愛がるべき年下の親族として接すればいいのか、それとも嫁となる人として迎えればいいのか、判断がつかなかった。年齢は章真よりひと回りも下だ。本来なら大切に守ってやるべき存在だ。けれど結安の表情を見る限り、本人は決してこの関係を望んではいない。正直なところ、若い二人の恋愛や結婚に口を挟みたくはなかった。だが、章真の前では結安はあまりにも非力すぎる。放っておくことなどできなかった。しばらく考えた末、澄佳は静かに口を開く。「想乃ちゃんは、きちんと葉山家の子として認めるべきよ。姓がどうなるかは別として、この子の出自だけは誰にも曖昧にさせてはいけないわ。周りから軽んじられるようなことがあってはだめ。それから……結安と結婚するかどうかは二人の問題。でも、想乃ちゃんと結安の将来だけはあなたが責任を持って保障しなさい」澄佳が案じていたのはその先のことだった。もし二人が結ばれなければ、章真はいずれ別の女性と結婚し、家庭を持つだろう。だからこそ今のうちに、結安と想乃の生活だけは守らなければならない。子どもを産んだ結安に、何一つ残らないようなことだけは避けたい。少なくとも母娘が安心して暮らせるだけの生活基盤は必要だった。そしてもう一つ。想乃は母親と一緒に育つべきだと、澄佳は強く思っていた。十月十日お腹で育てた子を、突然母親から引き離すなど、あまりにも酷だから。話し終えると、澄佳は章真へ視線を向ける。母親だからこそ分かる。この息子がどれほど扱いにくい人間なのか。思慮深く、簡単に人の言葉では動かない。親の忠告ですら届かないこともある。少し考えたあと、澄佳は言った。「それなら、結安と想乃ちゃんはしばらく私たちの家へ来ない?」章真はわずかに眉をひそめる。そして結安を見る。結安の表情は一瞬で和らいでいた。その様子を見ただけで、彼女がどれほどその提案を望んでいるかが分かる。章真の胸に小さな苛立ちが湧いた。――そんなに俺と一緒にいるのが嫌なのか。両親も妹夫婦もいる。この場で無理強いするわけにはいかない。
夕梨は彼の黒髪をそっと撫でた。普段の寒真はとにかく甘えるのが好きだ。190センチの大男なのに、恥ずかしくないのかしら。けれど――夜になり、ベッドの上にいる彼は甘え方がまるで違う。その瞳に宿る熱は触れれば溶かされてしまいそうなほどで、夕梨は時折視線を逸らしてしまう。そんなことを考えただけで、頬が少し熱くなった。彼女は何でもないふりをして言った。「あとでお義母さんがひかりを連れてくるわ。ずっと会いたがってたでしょう?今夜はここに泊まるから、ベビー用品も一緒に持ってくるわよ」寒真は最初は喜んだが、後になって少し名残惜しそうにした。手が怪我をしていて子供の世話ができず、
憂いに沈む者がいれば、喜びに染まる者もいる。その夜、晩餐会を終えた寒真は、休む暇もなく深夜便でスイスへと飛ばなければならなかった。夕梨は、今回は同行することができない。宴が幕を閉じると、寒真は彼女を連れて車に乗り込んだ。夕梨はシートベルトを締め、隣の彼に視線を向けた。「フライトは何時?」寒真は彼女の頬に手を伸ばした。その声は、わずかに熱を帯びて掠れている。「午前一時だ」彼は手元の時計を確認した。現在は夜の十時。つまり、あと一時間半は猶予があるということだ。彼は少し考えた後、率直に願いを口にした。「……俺のマンションへ行かないか?数日会えなくなると思うと、どう
夕梨が病室を出てくると、朝倉家の面々が一斉に彼女を出迎えた。紀代は、涙ぐみながら尋ねた。「どうだった?寒笙は何か食べてくれそう?」夕梨は淡い笑みを浮かべた。「ええ、もう大丈夫です」朝倉家の人々は感謝の言葉を口にし、仁政もまた、惜しみない称賛を送った。仁政は昔から夕梨のことを気に入っていた。だからこそ、今でも未練を抱いているのだ。寒真があの女優と別れ、夕梨と寄りを戻せばいい、あの二人はあんなにお似合いだったのに、別れてしまうなんてあまりに惜しい――と。夕梨は彼らの心中をおおよそ察していたが、静かに首を横に振った。「兄と約束しているんです。三十分で戻ると言いまし
夕方になり、夕梨は目を覚ました。意識が戻った途端、腰はだるく、全身がばらばらになったように痛む。……彼女はゆっくりと寝返りを打ち、柔らかなベッドに仰向けになって、手で照明の光を遮った。けれどしばらくすると、じっとしていられず、布団を跳ねのけ、裸足のまま分厚いウールのカーペットを踏みしめ、寝室の大きな窓の前へ行く。手を伸ばしてカーテンを引くと、目に飛び込んできたのはスイスのユングフラウだ。連なる雪山。山頂には白い雪が厚く積もり、麓には濃く鮮やかな緑が広がっている。――息を呑むほど、美しい。胸が弾み、黒い男物のシャツ一枚を身にまとったまま、彼女はソファの背に身を







