Masuk「湊さん、私がするよ?」
私はカウンター越しに立ち、シンクに向かって皿を洗っている湊さんに声をかけた。袖を少し捲って、真剣な顔でスポンジを動かすその姿が、なんだか妙に板についていた。「駄目駄目。当分は家事禁止だから」湊さんは手を止めることなく、泡立った皿をくるくると回しながら、少しだけ眉を上げて私を見た。その目は冗談めいているようで、でもどこか本気だった。禁止って、そんな大げさな。まるで私が大怪我でもしたみたいな言い方に、少しだけむずがゆい気持ちになる。「そんなこと言ったって…」私は思わず言い返した。だって、私がしないと誰がやるの。湊さんは仕事があるし、私が家のことをやるのは、もうずっと当たり前のことだった。私は自分の手首を見つめながら、心の中でぐるぐると考えを巡らせていた。数日だけハウスキーパーの人に来てもらう?でも、他人に家の中を見られるのは落ち着かないし、それに、そんなことをするくらいなら自分でやったほうが早い。そう思ってしまうのは、きっと私が頼ることに慣れていないからだ。「明日から、家事は全部僕がするから」「…ん?」一瞬、聞き間違いかと思って、私は首をかしげた。もしかして、全部って言った…?掃除も洗濯も料理も?私が何もせずに、湊さんが全部やるってこと?そんなの、現実味がなさすぎて、頭が追いつかない。私は思わず湊さんの顔を見つめた。「ん?」湊さんが聞き返す。私は思わず、もう一度問い直した。「湊さんが家事をするの?全部?」湊さんはようやく手を止めて、泡のついた手を軽くすすぎながら、「僕が、似合わないって言った?」 その言葉は、思いのほか静かで、まっすぐだった。 責めるようでも、問い詰めるようでもない。ただ、確かめるように私を見つめていた。 「それは、」 言葉が喉の奥で絡まった。 あのとき、似合わないと、はっきり言われたわけじゃない。 でも、私のドレス姿を見るなり、なんだその格好はと、着替えてこいと言った。 それが、答えじゃないか。 でも、自分でもそう思ってしまった。 鏡に映った自分が、まるで誰かの…あの人の真似をしているように見えた。 それが滑稽で、場違いで、痛々しくて。 その姿を見た湊の、あの一瞬の表情が、やっぱりそうだよねと、自分の思い込みを確信に変えてしまった。 惨めだった。 綺麗になりたいなんて、思わなければよかったとさえ思った。 でも、それでも、あのときほんの少しだけ期待していた自分がいたことも、否定できなかった。 「あの時の気持ちを忘れろとは言わないよ。けど、彩花ちゃんが着たいと思ったその気持ちを、なかったことにはして欲しくない」 まっすぐで、逃げ場がなかった。 私は、自分の似合うに自信がなかった。あの日から。 「私の、気持ち…」 口に出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。 ずっと、誰にも言えなかった。 似合わないって、言葉にされなくても分かってる。 そう思ってた。 でも、今、目の前の人は、私のその気持ちをちゃんと拾い上げてくれている。 否定しないで、なかったことにしないで、ただそこにあったものとして、まっすぐに受け止めてくれている。 「ごめん。傷つけた僕が、こんなことを言うのは違うって、分かってるのに」 その声に、ほんの少しだけ震えが混じっていた。 顔を上げると、まっすぐな目がそこにあった。 あの時のことを、なかったことにしようとしてる
パーティー当日。私たちは普段通りの休日を過ごし、ついに夜が来た。昼間の空気はどこか穏やかで、まるで何事もない日常の延長のようだった。湊さんはいつも通りで、私もそれに合わせるように笑っていたけれど、心のどこかで、ずっとこの夜のことを意識していた。時計の針が進むたび、胸の奥が少しずつざわついていく。どんな顔で、あの場所に立てばいいのか。答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。「はい」湊さんが、静かに差し出した箱。その瞬間、時間が少しだけ止まったような気がした。昨日、クローゼットの奥からそっと取り出した、あの箱。まさか、彼の手から渡されるなんて思っていなかった。言葉が出てこなくて、ただ、箱の重みだけが現実だった。「湊さん、どうして」ようやく絞り出した声は、かすれていた。問いかけというより、呟きに近かったかもしれない。「本当は、こっちが着たいんでしょ?」湊さんの声は、やさしくて、まっすぐだった。その一言に、私は心の奥を見透かされたような気がして、思わず息をのんだ。たしかに、そうだった。でも、それを認めるのが怖かった。誰かに見られるのも、期待されるのも、それに応えられない自分を想像するのも、全部。だから私は、ただ黙って箱を抱えたまま、俯いた。箱の角が、指の腹に食い込んでいる。俯いたままの視界に、彼の足元が見える。動かず、ただそこに立っている。「ごめんね。昨日、見えちゃって」湊さんの声は、少しだけ申し訳なさそうだった。でも、その中には、どこかあたたかいものが混じっていた。「このドレスは…昔、パーティーで着ようと思って買ったもので、」
その日の晩、私はなかなか寝付けなかった。 布団に入ってから何度も寝返りを打ったけれど、まぶたは一向に重くならない。 目を閉じれば、明日のことばかりが頭をよぎる。 お義母様のこと、パーティーのこと、あのドレスのこと。 考えまいとしても、思考は勝手にそこへ戻ってしまう。 胸の奥がざわざわして、呼吸が浅くなる。 こんなふうに不安で眠れない夜は、久しぶりだった。 「眠れない?」 ふいに、低くやわらかな声が闇の中から届いた。 その声が聞こえた瞬間、私ははっとして、身じろぎを止めた。 暗がりの中、隣にいる湊さんがこちらを向いているのが分かる。 「ごめん、起こしちゃった?」 私は小さな声でそう言った。 湊さんは、枕に頬を預けたまま私の方を見つめていた。 その目はまだ眠たげで、まぶたが少し重そうだった。 「明日のこと考えてた?」 私はすぐには答えられず、ただ小さくうなずいた。 言葉にしてしまえば、不安が現実になってしまいそうで、喉の奥で言葉がつかえてしまう。 「パーティーって、美味しい食べ物沢山食べれるんでしょ?」 ふいに、湊さんの声が少しだけ明るくなる。 「え、うん。そうだけど」 私は少し戸惑いながらも、素直に答えた。 不安でいっぱいだった心に、ほんの少しだけ余白ができた気がした。 パーティーの話題が、急に現実味を帯びてくる。 それは怖さでもあるけれど、同時に、誰かと共有できる安心でもあった。 「彩花ちゃんは何が好き?」 私は少しだけ考えてから、ふと浮かんだ料理の名前を口にした。 「鯛のカルパッチョかな。薄くて透けるくらいの切り方で、柚子の香りがふわってして、口に入れるとすっと溶けるの」 言葉にしながら、私はあのときの記憶をたぐり寄せていた。 白い皿の上に、まるで花びら
やっぱり見たんだ。 このドレスに込めた気持ちも、着られなかった夜のことも。 できることなら誰にも知られずにそっと胸の奥にしまっておきたかった。 けれど、湊さんは見てしまった。 まるで、秘密を暴かれたような気がした。 どうしよう。 何を言えばいいのか分からない。 今さら、あの夜のことをどう説明すればいい? あのとき、どんな気持ちでこのドレスをしまったのか。 どれだけ期待して、どれだけ傷ついたのか。 言葉にしようとするたびに、喉の奥がきゅっと締めつけられる。 だから私は、何もなかったふうを装うしかなかった。 「これは、何でもないの。気にしないで。それより、なにか用だった?」 声が震えないように、少しだけ明るく軽やかに。 まるで、ただの雑談のように聞こえるように。 その動作が、まるで話題を閉じるための無言の合図のように思えたかもしれない。 でも、それでよかった。 今はまだ、開けたくなかった。 この箱も、この気持ちも。 湊さんは何も言わなかった。 私の震える声にも、ぎこちない仕草にも、あえて触れようとはしなかった。 「明日のパーティーのことで話があって」 湊さんの声は、いつも通り穏やかだった。 けれど、その言葉の選び方に、どこか慎重さがにじんでいた。 「何かあったの?」 私は、できるだけ平静を装って問い返す。 「明日、あの人も、僕の母親も来るってこと、ちゃんと伝えておかなきゃって」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮こまる。 息を吸うのも忘れてしまいそうになる。 お義母様。 その名前を聞くだけで、あの夜の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。 冷たい視線、突き刺すような言葉、何も言い返せなかった自分の情けなさ。 「お義母様が…」
あれから、お義母様が来ることはなかった。その静けさは、むしろ不気味だった。あの人が何もしてこないはずがない。そう思っていたからこそ、何も起きない日々が続くほどに、私は逆に落ち着かなくなっていった。何かが迫っている気配だけが、背後にずっと張りついていた。けれど、湊さんは変わらず穏やかだった。私の不安に気づいているのかいないのか、いつも通りに笑ってくれる。そして何も起きないまま、パーティーの前日を迎えることになった。「…ふぅ、」クローゼットの前で、ひとつ息を吐く。胸の奥に溜まっていたものを、そっと外に逃がすように。それでも、心のざわめきは消えなかった。ゆっくりと手を伸ばし、取っ手に触れる。冷たい金属の感触が、指先にじんわりと伝わってくる。扉をそっと開けると、上の奥の方に隠しておいた箱がある。手を伸ばして取り出すと、指先にうっすらと埃がついた。私はそれを軽く払って、箱の蓋に手をかける。中には、淡いピンクのドレス。柔らかなチュールに、繊細なレース、胸元にあしらわれた小さな花の刺繍。どれも、あのときの私が選んだものだった。初めてのパーティー。湊さんの隣に立つ自分を想像して、鏡の前で何度も合わせてみた。少し背伸びした色だったけど、それでも、着てみたかった。けれど、あの夜…私はこのドレスに袖を通すことなく、ただ箱の中に戻すしかなかった。私が、湊さんに見合う人間だったら、このドレスを着て、笑えていたのだろうか。それ以来、このドレスは箱の中でずっと眠っていた。まるで、私の期待や喜びごと、封じ込められていたかのように。
「母親のことだけどさ…」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまった。母親というたった一言が、私の中の警報を鳴らす。無意識に背筋がこわばって、手のひらにじんわりと汗がにじんだ。あの人の顔が、声が、玄関のドア越しに響いたあの音が、一瞬で脳裏に蘇る。「ん?」私は、なるべく平静を装って返事をした。でも、声が少しだけ上ずっていたのを、自分でも分かっていた。湊さんは、そんな私の変化に気づいたのか、一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。「今日のところは引き下がったけど、また絶対来ると思うんだよね」あの人が、また来る。その現実が、じわじわと体の内側に染み込んでくる。指先が冷たくなっていく。心臓の鼓動が、少しずつ速くなる。呼吸が浅くなって、喉の奥がきゅっと詰まる。また来る。その予感は、私の中でもずっとあった。今日の訪問は、ただの始まりに過ぎない。むしろ、拒まれれば拒まれるほど、執着を強めてくる。あの人は、諦めない。私がどれだけ拒んでも、どれだけ距離を取っても、家族という言葉を盾にするだろう。私は、唇を噛みしめた。怖い。でも、湊さんの前では、その言葉を簡単には口に出せなかった。「あー、うん。パーティーの前に、必ず来るから。多分また…」言いながら、胸の奥がじわりと重くなる。私が傷つく言葉を、笑顔のまま投げかけてくる。私の準備も、努力も、存在そのものも、すべて間違いだと告げるような口ぶりで。「あの人が来ても、もう中には入れさせない。僕がちゃんと断るから」湊さんの声は、静かだった。それは、私を守るための言葉だと分かっている。でも、同時に、あの人を敵として扱うことでもある。「え、」思わず声が漏れた。それはいい案とは思えない。否定したいわけじゃない。でも、現実はそんなに簡単じゃない。 あの人は、理屈が通じる相手じゃない。むしろ、もっと強引な手に出るはずだ。「嫌?」湊さんの声は、少しだけ不安げだった。その視線に、私は小さく首を振った。「嫌というか…そんな事しても、お義母様が黙って諦めるような人じゃないのは知ってるから。だから、なにかされそうで、怖い」その言葉を口にした瞬間、胸の奥に沈んでいた恐怖が、じわじわと浮かび上がってきた。どんな手を使ってでも、この家に入ってこようとするだろう。私の不安は、ただの思