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4話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 07:53:58

怜士は瀬里奈を見た。

けれど、何も言わなかった。

やがて梨花へ目を向ける。梨花は彼を見返し、口元に小さな笑みを浮かべた。

「では、撮影を再開します」

スタッフの声で、瀬里奈は我に返った。

「西園寺様、こちらへお願いします」

「はい」

瀬里奈は何も聞かなかったように、元の位置へ戻った。

カメラマンも、スタイリストも、朝から自分たちのために動いてくれている。

ここで感情のまま撮影を中断するのは違うと思った。

「先ほどはすみません。お待たせしました」

瀬里奈が頭を下げると、カメラマンは慌てて首を振った。

「いえ、とんでもないです」

怜士が隣へ立つ。

「もう少しおふたり、近づいてください」

一歩。

瀬里奈は言われた通り距離を詰めた。

怜士の手が腰へ回る。

「はい、こちらを見てください」

シャッターが切られる。

瀬里奈は笑った。

ホテルで育ってきた。

どんな時でも、人前に立つなら、その場にいる人を不快にさせない。

父が何度もそうしていたように。

最後の1枚まで撮り終えると、瀬里奈はスタッフひとりひとりに礼を言った。

「ありがとうございました」

「こちらこそ。お疲れさまでした」

デッキを離れる時だけ、瀬里奈は一度も怜士を見なかった。

少しして、部屋へ戻ろうとしていた瀬里奈を梨花が追ってきた。

「瀬里奈さん」

足を止める。

梨花はひとりだった。

「さっきはごめんなさい」

「何が?」

「航平のこと。あの人、昔から口が軽いから」

梨花は申し訳なさそうに眉を下げた。

「怜士も、ああいう時にちゃんと怒ればいいのにね」

瀬里奈は黙って梨花を見た。

ついさっき、笑っていた口元。

今は心配そうに下がっている。

「少しだけ話さない?」

「今?」

「うん。ここだと誰か来るでしょう?」

梨花は廊下の先を指した。

「マリーナデッキ、今開いてるみたい。海も近くて気持ちいいよ」

瀬里奈は一瞬迷った。

「話ならここでもいいでしょう」

「ふたりで話したいの」

梨花は声を落とした。

「昨日のこと、ちゃんと謝りたいから」

瀬里奈は梨花の顔を見た。

何を今さら。

そう思った。

けれど、このまま曖昧な言葉だけを聞き続けるのも嫌だった。

「分かったわ」

マリーナデッキは、上層階とはまるで違っていた。

海面が近い。

船尾に設けられたデッキからは、白く砕ける波がすぐ下に見えた。

海上アクティビティの準備中なのか、少し離れた場所ではクルーが器材を確認している。

その向こうには怜士と航平たちの姿もあった。

「ここ、気持ちいいでしょう?」

梨花が手すりのほうへ歩く。

「上から見るのと全然違う」

「話って?」

瀬里奈が聞いた。

梨花は振り返った。

「昨日のこと」

先ほどまでとは違い、声が小さかった。

「瀬里奈さんに見せつけるつもりなんてなかったの」

「そう」

「信じてないでしょう?」

「何を信じればいいの?」

一瞬、梨花の顔から笑みが消えた。

けれどすぐに、困ったような表情に戻る。

「私、怜士を取ろうなんて思ってない」

瀬里奈は答えなかった。

「本当よ。怜士と結婚するのは瀬里奈さん。それは分かってる」

「だったら昨日のことは?」

「……好きな気持ちだけは、どうしようもないでしょう?」

梨花は寂しそうに笑った。

「7年も我慢したの」

「我慢?」

「だって瀬里奈さんは、ずっと堂々と怜士の隣にいられたから」

瀬里奈は梨花を見た。

「それを、私に言うの?」

「責めてるわけじゃないよ」

梨花は慌てたように首を振る。

「ただ、瀬里奈さんにも少しだけ分かってもらえたらって――」

その時だった。

船体が大きく揺れた。

「きゃっ」

梨花の身体が海側へ傾く。

瀬里奈は反射的に手を伸ばした。

梨花の腕を掴む。

次の瞬間。

梨花の手が、瀬里奈の手首へ絡みついた。

「っ……!」

強い。

引かれて踏み出した足が滑り、腰が手すりにぶつかった。上半身が海側へ反る。

靴の先で床を捉えようとしたが、踏ん張れない。

右手では梨花の腕を掴んでいる。梨花の左手も、瀬里奈の右手首に食い込んでいた。

「危ない!」

怜士の声がした。

顔を上げると、怜士がこちらへ走ってくる。

「怜士!」

梨花が、空いている右手を伸ばした。

瀬里奈も左手を伸ばす。

ふたりの手が、同時に怜士へ向いた。

ほんの一瞬。

怜士の視線が、ふたりの間を動いた。

そして――

彼が掴んだのは、梨花だった。

怜士が強く引く。

梨花の身体が彼のほうへ戻り、瀬里奈の手首に食い込んでいた指がほどけた。

瀬里奈の右手も、梨花の腕から滑り落ちた。

瀬里奈は足を床へ戻そうとした。けれど、身体はもう手すりの外へ傾いていた。

伸ばした左手の先に、怜士がいる。

その姿が、急に遠ざかった。

青い空。

白い船体。

瀬里奈の身体が、海へ落ちた。

冷たい。

それが最初だった。

海水が一気に鼻と口へ入り、息が止まる。

上下が分からない。

ドレスが水を含み、脚にまとわりつく。

瀬里奈は必死に腕を動かした。

泳げる。

泳げるはずなのに。

身体が重い。

ようやく水面へ顔を出した。

「っ……!」

咳き込む。

上を見る。

マリーナデッキに人影が並んでいた。

怜士もいる。

その腕の中に、梨花がいた。

朝の笑い声が、不意に蘇った。

「婚約破棄できないからって、瀬里奈さんを海に落として梨花と結ばれようとか考えるなよ?」

冗談だった。

皆、笑っていた。

今、自分は本当に海の中にいる。

「救命浮環!」

クルーの声が響いた。

オレンジ色の浮環が水面へ落ちる。

瀬里奈は腕を伸ばした。

一度、指先が滑る。

もう一度。

今度は掴んだ。

ロープが張り、身体が船へ引かれていった。

デッキへ引き上げられた時、足に力が入らなかった。

クルーが大きなタオルを肩へかける。

「西園寺様、呼吸は大丈夫ですか?」

「……はい」

「医務室へご案内します」

「少しだけ……待ってください」

声が震えた。

海水が髪から滴り落ちる。

「梨花、大丈夫か?」

怜士の声が聞こえた。

瀬里奈は顔を上げた。

怜士は梨花の両肩を掴み、その顔を覗き込んでいる。

「怪我してないか?」

「私は大丈夫」

梨花はすぐに瀬里奈を見る。

「それより瀬里奈さんが……」

怜士もようやくこちらを向いた。

「大丈夫だろ?」

瀬里奈は返事をしなかった。

怜士のシャツは乾いている。

梨花の服も、濡れていない。

「怜士」

「何だよ」

「私の手も、見えてたよね」

怜士の眉が寄った。

「は?」

「さっき」

瀬里奈は彼を見る。

「私も手を伸ばしてた」

一瞬、沈黙が落ちた。

「仕方ないだろ」

怜士が先に目をそらした。

「あの一瞬でふたりとも掴めるわけない」

瀬里奈は何も言わない。

「それに、お前は泳げるだろ」

怜士は続けた。

「梨花は泳げないんだ」

海風が、濡れた身体を吹き抜けた。

「瀬里奈さん、本当にごめんなさい」

梨花が近づいてきた。

目には涙まで浮かんでいる。

「私が足を滑らせたせいで……」

瀬里奈は梨花を見た。

「私を助けようとしてくれたんだよね。本当にありがとう」

「もういいわ」

「でも――」

「今は、少し離れて」

瀬里奈はタオルを押さえ、クルーのほうを向いた。

「医務室へお願いします」

それだけ言って歩き出した。

振り返らなかった。

医務室で簡単な診察を受けたあと、瀬里奈は自分の部屋へ戻った。

熱いシャワーを浴びても、身体の芯に残った冷たさはなかなか消えなかった。

髪を乾かし、鏡の前で腕を上げる。

その時だった。

右の手首に、赤い跡がある。

瀬里奈の手が止まる。

ひとつ。

ふたつ。

3つ。

指の形に沿うように、くっきり残っていた。

落ちる直前。

梨花が掴んだ場所。

瀬里奈は指先で、その跡に触れた。

少し痛んだ。

しばらくして、鏡から目を離す。

そのままクローゼットの横にある小さな金庫の前へ行った。

暗証番号を押す。扉が開く。

瀬里奈はパスポートを取り出して小さなバッグへ入れ、ファスナーを閉めた。

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