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3話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-14 23:05:13

「西園寺のこと?」

航平の言葉が、耳の奥から離れなかった。

展望ラウンジを出ても、瀬里奈は怜士たちのところへ戻らなかった。

西園寺ホテル。

その名前を聞くと、今でも最初に浮かぶのは父の背中だった。

子供の頃、瀬里奈にとってホテルは大きな遊び場だった。

ロビーの柱の陰に隠れ、父を驚かせた。

宴会場の準備をしているスタッフに混ざり、白いクロスの端を引っ張って叱られたこともある。

学校が休みの日には、フロントの奥にある父の執務室で宿題をした。

「お父様、まだ帰らないの?」

「ホテルには今日しか来ないお客様がいるからな」

父はそう言って笑っていた。

あの頃は、その意味など分からなかった。

ただ、父がホテルを好きなのだと思っていた。

今なら分かる。

父にとって、西園寺ホテルは仕事だけではなかった。

だから瀬里奈も、手放せなかった。

「西園寺様、お探ししました」

声をかけられ、瀬里奈は振り返った。

船のブライダル担当者が、タブレットを胸に抱えて立っていた。

「午後の撮影ですが、予定どおりでよろしいでしょうか」

「撮影……」

「はい。おふたりのウェディングフォトです」

一瞬、返事ができなかった。

昨夜あんなことがあって、それでも婚約者と並んで写真を撮る。

考えれば考えるほど、おかしな話だった。

けれど、結婚をどうするのか。

この船をどうやって降りるのか。

そして、さっき聞いた「西園寺のこと」とは何なのか。

何ひとつ答えが出ていない。

担当者の後ろでは、スタッフが衣装ケースを運んでいた。

何日も前から準備されていたものだろう。

「……分かりました」

気づけば、そう答えていた。

午後。

グラン・ルミエール号の最上階にあるブライダルサロンには、海からの光が差し込んでいた。

ラックには数着のドレスが並んでいる。

「西園寺様でしたら、こちらはいかがでしょう」

スタイリストが取り出したのは、アイボリーのドレスだった。

肩のラインは美しく開いているが、左の首元から肩にかけては繊細なレースが重ねられている。

「こちらのレースは位置を少し調整できますので、気になる部分があれば自然にカバーできます」

スタイリストは瀬里奈の襟元へ一瞬視線を向けたものの、それ以上は何も聞かなかった。

瀬里奈はドレスへ手を伸ばした。

「綺麗……」

「今日は風も穏やかですし、船尾デッキで撮るとすごく映えると思います」

「では、これを――」

「もっと隠れるのはないのか?」

背後から怜士の声がした。

瀬里奈の手が止まる。

怜士はタキシードのジャケットを片腕にかけ、こちらへ歩いてきた。

「首まで隠れるやつ」

スタイリストが少し戸惑う。

「こちらでも傷あと自体はかなり目立ちにくくなりますが……」

「撮影はデッキでもするんだろ」

「はい」

「他の客だって見る。もっと隠れるものにしてくれ」

瀬里奈は怜士を見た。

「人に見られるのが嫌なの?」

「わざわざ見せる必要ないだろ」

怜士はそれだけ言った。

瀬里奈の指が、ゆっくりドレスから離れた。

服の下。

左の首筋から肩にかけて、火傷の痕が残っている。

あの日。

炎の向こうに怜士がいると聞いて、瀬里奈は走った。

熱かった。

煙で前が見えなかった。

誰かに止められた気もする。

それでも怜士を見つけた時、怖いとは思わなかった。

ただ、生きていてほしかった。

病院で初めて傷を見た時、瀬里奈はしばらく鏡から目を離せなかった。

怜士はその横にいた。

「そんなに隠すなよ」

そう言って、襟元へ伸ばした瀬里奈の手を止めた。

「俺は気にしないから」

あの言葉だけは、ずっと覚えていた。

この傷が残っても、怜士だけは知っている。

どうしてできた傷なのか。

何のために負った傷なのか。

それだけで十分だと思っていた。

「わあ、そのドレス綺麗」

明るい声が割り込んだ。

梨花だった。

淡いピンクのワンピース姿でサロンへ入ってくる。

「瀬里奈さん、着ないの?」

瀬里奈が答えるより先に、怜士が言った。

「別のにする」

「そうなの?」

梨花はドレスを眺めたあと、瀬里奈の首元へ目を向けた。

「あ……そっか」

困ったように眉を下げる。

「でも、首元まで隠れるほうが瀬里奈さんも安心じゃない?人に見られて嫌な思いをすることもないし」

スタイリストが別の1着を取り出した。

首元まで柔らかなレースで覆われたドレスだった。

「こちらでしたら、かなり自然にカバーできます」

瀬里奈はしばらく見つめた。

「……お願いします」

「じゃあ」

梨花が先ほどのドレスへ手を伸ばした。

「瀬里奈さんが着ないなら、私、今夜のパーティーでこれ着ようかな」

梨花は笑いながら、ドレスを自分の身体へ当ててみる。

「ねえ怜士。私に似合いそう?」

「好きにすれば」

怜士はスマートフォンを見たまま答えた。

梨花は満足そうに鏡へ向き直った。

瀬里奈は何も言わなかった。

撮影は船尾デッキから始まった。

白い船体の向こうに、果てのない青い海。

潮風が吹くたび、ベールが大きく揺れる。

上階へ続く階段の向こうには、普段は立ち入りを制限されているデッキが見えた。

白い円の中央に、大きく記された「H」の文字。

ヘリデッキだ。

瀬里奈はほんの一瞬だけ、そこへ目を向けた。

空を飛べたら、この船から出られるのに。

そんな考えが浮かび、自分でも馬鹿らしくなって視線を戻した。

「もう少し近づいてください」

カメラマンに言われ、怜士が瀬里奈の腰へ手を回した。

瀬里奈の身体がわずかに固くなる。

「もう少し自然な感じでお願いします」

自然に。

昨夜、向かいの部屋で梨花を抱いていた男と。

瀬里奈は海へ視線を逃がした。

「西園寺様、こちらをお願いします」

シャッター音が続く。

怜士の指が腰にある。

7年前なら、その手に触れられるだけで嬉しかった。

今は、その手の温度さえ遠く感じた。

「はい。一度休憩にしましょう」

スタッフの声がして、怜士が手を離した。

瀬里奈も一歩離れる。

「わあ、綺麗に撮れてる」

いつの間にか近くまで来ていた梨花が、モニターを覗き込んだ。

「ねえ、せっかくだから私も一緒に撮ってもらっていい?」

瀬里奈は梨花を見る。

「3人で?」

「うん。幼馴染だし、今日くらいいいでしょう?」

梨花は屈託なく笑った。

「結婚したら、こんなふうに3人で旅行することも減るかもしれないし」

「今日はウェディングフォトよ」

瀬里奈は静かに言った。

「あ……そうだよね」

梨花は申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんなさい。私、また余計なこと言っちゃった」

そう言いながら、一歩下がる。

「梨花」

怜士が呼び止めた。

「1枚くらいいいだろ」

瀬里奈は怜士を見る。

「私はいらないわ」

「瀬里奈さん、怒らないで」

「怒ってない」

瀬里奈はカメラマンへ軽く頭を下げた。

「少し休憩します」

その場を離れようとした。

背後で、梨花の弾んだ声がする。

「じゃあ怜士、ふたりで1枚だけ」

振り返るつもりはなかった。

けれど、シャッター音に足が止まった。

梨花は怜士の腕を両手で抱き、身体を寄せていた。

さっきまで瀬里奈が立っていた場所。

白い船体。

青い海。

タキシード姿の怜士。

その隣で、梨花が笑っている。

「もう少しこちらを向いてください」

事情を知らないカメラマンが声をかける。

梨花は怜士の腕に頬が触れそうなほど寄り添った。

まるで、ふたりのウェディングフォトだった。

瀬里奈は目をそらした。

撮影が再開されるまでの間、怜士はデッキの端で航平たちと話していた。

瀬里奈が近くを通ると、航平がこちらを見た。

「それにしても、瀬里奈さん徹底してるな」

「何が?」

別の友人が聞く。

「その首」

航平が自分の襟元を指した。

「朝も隠してたし、ウェディングドレスまでハイネックだろ?」

「航平」

梨花が困ったように笑う。

「そういうこと言ったら失礼よ」

「悪い悪い。でもちょっと気になっただけ」

航平は笑いながら怜士を見る。

「まさか新婚初夜のベッドでもハイネックのつもりかな?」

一瞬、風の音だけが聞こえた。

瀬里奈の足が止まる。

「航平、それは――」

梨花がたしなめるように言った。

けれど、その声には笑いが混じっていた。

瀬里奈は怜士を見た。

冗談でも、そんなことを言うなと。

彼が言ってくれるのを待った。

けれど、怜士の視線は梨花へそれかけた。

「怜士」

瀬里奈は彼を見つめたまま、口を開いた。

「今の言葉、聞こえていたでしょう?」

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