Se connecter「西園寺のこと?」
航平の言葉が、耳の奥から離れなかった。
展望ラウンジを出ても、瀬里奈は怜士たちのところへ戻らなかった。
西園寺ホテル。
その名前を聞くと、今でも最初に浮かぶのは父の背中だった。
子供の頃、瀬里奈にとってホテルは大きな遊び場だった。
ロビーの柱の陰に隠れ、父を驚かせた。
宴会場の準備をしているスタッフに混ざり、白いクロスの端を引っ張って叱られたこともある。
学校が休みの日には、フロントの奥にある父の執務室で宿題をした。
「お父様、まだ帰らないの?」
「ホテルには今日しか来ないお客様がいるからな」
父はそう言って笑っていた。
あの頃は、その意味など分からなかった。
ただ、父がホテルを好きなのだと思っていた。
今なら分かる。
父にとって、西園寺ホテルは仕事だけではなかった。
だから瀬里奈も、手放せなかった。
「西園寺様、お探ししました」
声をかけられ、瀬里奈は振り返った。
船のブライダル担当者が、タブレットを胸に抱えて立っていた。
「午後の撮影ですが、予定どおりでよろしいでしょうか」
「撮影……」
「はい。おふたりのウェディングフォトです」
一瞬、返事ができなかった。
昨夜あんなことがあって、それでも婚約者と並んで写真を撮る。
考えれば考えるほど、おかしな話だった。
けれど、結婚をどうするのか。
この船をどうやって降りるのか。
そして、さっき聞いた「西園寺のこと」とは何なのか。
何ひとつ答えが出ていない。
担当者の後ろでは、スタッフが衣装ケースを運んでいた。
何日も前から準備されていたものだろう。
「……分かりました」
気づけば、そう答えていた。
午後。
グラン・ルミエール号の最上階にあるブライダルサロンには、海からの光が差し込んでいた。
ラックには数着のドレスが並んでいる。
「西園寺様でしたら、こちらはいかがでしょう」
スタイリストが取り出したのは、アイボリーのドレスだった。
肩のラインは美しく開いているが、左の首元から肩にかけては繊細なレースが重ねられている。
「こちらのレースは位置を少し調整できますので、気になる部分があれば自然にカバーできます」
スタイリストは瀬里奈の襟元へ一瞬視線を向けたものの、それ以上は何も聞かなかった。
瀬里奈はドレスへ手を伸ばした。
「綺麗……」
「今日は風も穏やかですし、船尾デッキで撮るとすごく映えると思います」
「では、これを――」
「もっと隠れるのはないのか?」
背後から怜士の声がした。
瀬里奈の手が止まる。
怜士はタキシードのジャケットを片腕にかけ、こちらへ歩いてきた。
「首まで隠れるやつ」
スタイリストが少し戸惑う。
「こちらでも傷あと自体はかなり目立ちにくくなりますが……」
「撮影はデッキでもするんだろ」
「はい」
「他の客だって見る。もっと隠れるものにしてくれ」
瀬里奈は怜士を見た。
「人に見られるのが嫌なの?」
「わざわざ見せる必要ないだろ」
怜士はそれだけ言った。
瀬里奈の指が、ゆっくりドレスから離れた。
服の下。
左の首筋から肩にかけて、火傷の痕が残っている。
あの日。
炎の向こうに怜士がいると聞いて、瀬里奈は走った。
熱かった。
煙で前が見えなかった。
誰かに止められた気もする。
それでも怜士を見つけた時、怖いとは思わなかった。
ただ、生きていてほしかった。
病院で初めて傷を見た時、瀬里奈はしばらく鏡から目を離せなかった。
怜士はその横にいた。
「そんなに隠すなよ」
そう言って、襟元へ伸ばした瀬里奈の手を止めた。
「俺は気にしないから」
あの言葉だけは、ずっと覚えていた。
この傷が残っても、怜士だけは知っている。
どうしてできた傷なのか。
何のために負った傷なのか。
それだけで十分だと思っていた。
「わあ、そのドレス綺麗」
明るい声が割り込んだ。
梨花だった。
淡いピンクのワンピース姿でサロンへ入ってくる。
「瀬里奈さん、着ないの?」
瀬里奈が答えるより先に、怜士が言った。
「別のにする」
「そうなの?」
梨花はドレスを眺めたあと、瀬里奈の首元へ目を向けた。
「あ……そっか」
困ったように眉を下げる。
「でも、首元まで隠れるほうが瀬里奈さんも安心じゃない?人に見られて嫌な思いをすることもないし」
スタイリストが別の1着を取り出した。
首元まで柔らかなレースで覆われたドレスだった。
「こちらでしたら、かなり自然にカバーできます」
瀬里奈はしばらく見つめた。
「……お願いします」
「じゃあ」
梨花が先ほどのドレスへ手を伸ばした。
「瀬里奈さんが着ないなら、私、今夜のパーティーでこれ着ようかな」
梨花は笑いながら、ドレスを自分の身体へ当ててみる。
「ねえ怜士。私に似合いそう?」
「好きにすれば」
怜士はスマートフォンを見たまま答えた。
梨花は満足そうに鏡へ向き直った。
瀬里奈は何も言わなかった。
撮影は船尾デッキから始まった。
白い船体の向こうに、果てのない青い海。
潮風が吹くたび、ベールが大きく揺れる。
上階へ続く階段の向こうには、普段は立ち入りを制限されているデッキが見えた。
白い円の中央に、大きく記された「H」の文字。
ヘリデッキだ。
瀬里奈はほんの一瞬だけ、そこへ目を向けた。
空を飛べたら、この船から出られるのに。
そんな考えが浮かび、自分でも馬鹿らしくなって視線を戻した。
「もう少し近づいてください」
カメラマンに言われ、怜士が瀬里奈の腰へ手を回した。
瀬里奈の身体がわずかに固くなる。
「もう少し自然な感じでお願いします」
自然に。
昨夜、向かいの部屋で梨花を抱いていた男と。
瀬里奈は海へ視線を逃がした。
「西園寺様、こちらをお願いします」
シャッター音が続く。
怜士の指が腰にある。
7年前なら、その手に触れられるだけで嬉しかった。
今は、その手の温度さえ遠く感じた。
「はい。一度休憩にしましょう」
スタッフの声がして、怜士が手を離した。
瀬里奈も一歩離れる。
「わあ、綺麗に撮れてる」
いつの間にか近くまで来ていた梨花が、モニターを覗き込んだ。
「ねえ、せっかくだから私も一緒に撮ってもらっていい?」
瀬里奈は梨花を見る。
「3人で?」
「うん。幼馴染だし、今日くらいいいでしょう?」
梨花は屈託なく笑った。
「結婚したら、こんなふうに3人で旅行することも減るかもしれないし」
「今日はウェディングフォトよ」
瀬里奈は静かに言った。
「あ……そうだよね」
梨花は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。私、また余計なこと言っちゃった」
そう言いながら、一歩下がる。
「梨花」
怜士が呼び止めた。
「1枚くらいいいだろ」
瀬里奈は怜士を見る。
「私はいらないわ」
「瀬里奈さん、怒らないで」
「怒ってない」
瀬里奈はカメラマンへ軽く頭を下げた。
「少し休憩します」
その場を離れようとした。
背後で、梨花の弾んだ声がする。
「じゃあ怜士、ふたりで1枚だけ」
振り返るつもりはなかった。
けれど、シャッター音に足が止まった。
梨花は怜士の腕を両手で抱き、身体を寄せていた。
さっきまで瀬里奈が立っていた場所。
白い船体。
青い海。
タキシード姿の怜士。
その隣で、梨花が笑っている。
「もう少しこちらを向いてください」
事情を知らないカメラマンが声をかける。
梨花は怜士の腕に頬が触れそうなほど寄り添った。
まるで、ふたりのウェディングフォトだった。
瀬里奈は目をそらした。
撮影が再開されるまでの間、怜士はデッキの端で航平たちと話していた。
瀬里奈が近くを通ると、航平がこちらを見た。
「それにしても、瀬里奈さん徹底してるな」
「何が?」
別の友人が聞く。
「その首」
航平が自分の襟元を指した。
「朝も隠してたし、ウェディングドレスまでハイネックだろ?」
「航平」
梨花が困ったように笑う。
「そういうこと言ったら失礼よ」
「悪い悪い。でもちょっと気になっただけ」
航平は笑いながら怜士を見る。
「まさか新婚初夜のベッドでもハイネックのつもりかな?」
一瞬、風の音だけが聞こえた。
瀬里奈の足が止まる。
「航平、それは――」
梨花がたしなめるように言った。
けれど、その声には笑いが混じっていた。
瀬里奈は怜士を見た。
冗談でも、そんなことを言うなと。
彼が言ってくれるのを待った。
けれど、怜士の視線は梨花へそれかけた。
「怜士」
瀬里奈は彼を見つめたまま、口を開いた。
「今の言葉、聞こえていたでしょう?」
怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。瀬里奈は一度も出なかった。何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。どれも変わっていなかった。「……ただいま」誰もいない部屋に、小さく言った。寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。下の道を、自転車が通り過ぎていく。帰ってきたのだ。ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。瀬里奈は短い文を消した。そのまま蒼介との画面を開く。【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】送信してから、もう一文だけ添えた。【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。返事は、着替えを選んでいる間に届いた。【分かりました。今日はゆっくりしてください】瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。ここでは、誰に見られるわけでもない。髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。……冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。今日はもう、紅茶が冷める前
窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。怜士がどこに立っているのか、もう分からない。瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。「寒くありませんか」顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。「少しだけ」差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。「ありがとうございます」蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。さっき、皆の前で言った。結婚しません、と。もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。そう思った途端、窓の景色が滲んだ。声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。「すみません」「聞こえません」思わず彼を見る。蒼介はヘッドセットに軽く触れた。「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。……着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。カーテンも、テーブルの水も揺れていない。瀬里奈は入口で立ち止まった。海ではない。窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」蒼介の声に振り向いた。「そこまで、すみません」言ってから、機内での言葉を思い出した。彼の眉がわずかに上がる。「……ありがとうございます」今度は頷いてもらえた。ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったような静かな表情に戻っていた。「結婚式は、いつですか」「明後日です」蒼介は一度だけ頷いた。「分かりました。こちらでも、それまでに確認できることを整理します」「お願いします」それ以上、結婚について聞かれることはなかった。通話が終わる。暗くなった画面を見ながら、瀬里奈は小さく息を吐いた。翌日の夕方。船長主催のキャプテンズ・ディナーが開かれた。スイート客と招待されたVIPだけが入れるメインダイニングには、シャンデリアの光が降り注ぎ、窓の向こうには黒い海が広がっている。入口では船長が1組ずつ客を迎え、記念撮影を終えた人々がシャンパンを手に席へ向かっていた。船がゆっくり揺れるたび、天井のクリスタルが細かな光を散らす。ピアノと弦楽器の生演奏。磨かれた銀のカトラリー。白い花の向こうを、正装したスタッフが音もなく行き交う。窓の外では、船が残す白い航跡だけが、月明かりの下で長く伸びていた。明日は結婚式。そのために乗船した親族や、両家と長く付き合ってきた人々も多かった。瀬里奈がテーブルへ向かうと、梨花が怜士の隣に立っていた。「あ、瀬里奈さん」梨花はにこやかに振り返る。「まだ体調、完全じゃないでしょう?私が怜士の隣に座るから、瀬里奈さんは端でゆっくりしたら?」海へ落ちたことを気遣っているような口調だった。「ありがとう」瀬里奈は微笑んだ。「でも今日は、私にご挨拶くださる方も多いから。自分の席に座るわ」梨花の笑顔がわずかに止まった。「そう……だよね」瀬里奈は、自分の名前札が置かれた席へ座った。以前なら、場を乱したくなくて譲っていたかもしれない。今日は、その必要が分からなかった。船長の乾杯が終わると、何人もの人が瀬里奈へ声をかけた。「瀬里奈ちゃん、いよいよ明日だな」「ありがとうございます」「お父様がいたら、きっと喜んだだろう」胸の奥が少しだけ痛んだ。父なら、今の自分に何と言うだろう。瀬里奈は笑顔を崩さず、頭を下げた。別の女性が懐かしそうに目を細める。「小さい頃はホテルのロビーを走っていたのにね。結婚したら、少しはホテルのことから離れて休めるでしょう?」瀬里奈は一瞬だけ言葉を選んだ。「いいえ。これからも関わっていくつもりです」「あら、そうなの?」「はい。まだ、やりたい
ベッドで目を覚ました時には、もう10時を回っていた。瀬里奈はスマートフォンを手に取る。今夜20時。鷹司蒼介との通話。その予定を確認し、ベッドを出た。遅めのブランチを取るため、プールデッキ横のレストランへ向かった。白いパラソルの向こうには、どこまでも海が広がっている。怜士たちはすでにテーブルにいた。「昨夜、ひとりでショーに行ったんでしょう?」梨花が聞く。「ええ」「寂しくなかった?」「思っていたより、ずっと楽しかったわ」航平が笑った。「へえ。瀬里奈さん、急にひとり旅満喫してるじゃん」「ひとり旅ではないけど」「怜士への当てつけ?」瀬里奈は顔を上げた。「ひとりでショーを見るだけで、誰かへの当てつけになるの?」航平の笑顔が止まった。「いや、そういう意味じゃ……」「ならよかった」瀬里奈は何事もなかったようにメニューへ視線を戻した。「瀬里奈さん、昨日からちょっと雰囲気変わったよね」梨花の目が、瀬里奈の首元へ向く。今日もハイネックではない。火傷の痕が少し見えていた。「そう?」「うん。服も――」「瀬里奈」怜士が遮った。「昨日の書類、今日中にサインしておけ」「まだ確認が終わってないわ」「何を確認することがあるんだよ」「私が署名する書類でしょう?」瀬里奈は彼を見る。「私が確認するわ」怜士の眉が寄った。「昨日説明しただろ」「説明されたことと、私が確認することは別よ」以前なら、まず「分かった」と答えていた。けれど今は、その一言が出てこなかった。「昨日から何なんだよ」航平が笑う。「まだ海に落ちたの怒ってるんじゃない?」瀬里奈は彼を見る。「怒ってはいないわ」「じゃあ何?」「一度海に落ちたら、自分の足元くらい自分で確認したくなるものよ」航平は黙った。怜士と梨花は顔を見合わせる。まだ、少し拗ねているだけだと思っているようだった。午後、瀬里奈は部屋で資料を整理した。父の信託資料。1年前の鷹司グループからの提案書。二階堂から求められている議決権委任契約。議決権を二階堂側へ委任すること。発効日は婚姻成立時であること。挙式前に署名を求められていること。必要な部分だけを整理し、契約の趣旨が分かる資料にまとめた。父のホテルの情報を、相手が鷹司だからといって無造作に渡すつもりはない。開示して







