LOGIN広い車内。
智也は、人一人分以上大成とかなり距離を取って座っている。 後部座席は、運転手のいる運転席とは分厚い黒色のガラスで隔てられていて、シーンとした重い雰囲気が漂い緊張感が張り詰めている。 智也は窓の外を見つめ、手で座席の縁をぎゅっと握り、服の端をそっといじり、唇を軽く噛む。 ――何度も心の中で自分に言い聞かせる。「落ち着け、感情を制御しろ」と。 しかし、無意識に横を見ると、二人の間に保たれていた距離が知らぬ間に縮まっていた。 智也は動かなかった。 大成の身体が彼に近づいてきたのだ。 「緊張してるか?」 「い、いや……大丈夫です」 大成は柔らかく低く笑い、抗えない声で続ける。 「リラックスしろ。懇親会はそんなに大規模じゃない」 「……はい」 智也は、大成の目を見て頷いたが、この緊張が、懇親会へのものだけでないのはもはや明確だった。 ごく普通を装っていた智也だったが、その大成の声が甘くて、そして、今にも智也と大成の肩が触れそうで、肩の力を抜く所か内心増々狼狽していた。 静かな車内で、智也の激しく打つ鼓動が大成に聞こえてしまうんではないかとも思ってしまう。 5分ほどで車は市内中心の30階建て高級ホテルの前に停まった。 豪華な空気は智也の日常とはまるで異なり、思わず息を呑む。 降りようとしたその時、黒い整ったホテルの制服を着たボーイが横で待っていた。 降車し、智也は大成の後ろに続こうとした。 ――その瞬間、大成が突然振り向き、そっと彼を抱き寄せた。 不意を突かれた智也の心臓は跳ね上がり、手足が一瞬止まる。 慌てて後ろに下がろうとするが、大成の腕に引き寄せられ、慌てて横に回り、礼儀正しく彼の手をそっと外した。 大成は一瞬戸惑い、手の中に残る余韻をまだ感じているかのように眉をわずかに上げ、低く落ち着いた呼吸が微かに荒くなる。 だが次の瞬間、いつもの社長の口調に戻り、低く指示する。 「鈴木さん。私の後ろでは無く、私の横を歩いてくれ」 智也は頷きながら、大成の横に慎重に歩み寄る。 心臓はまだ騒ぎ、肩越しに漂う熱に意識が揺れる。 エレベーターで25階のフレンチレストランへ到着し、赤いカーペットの廊下には「本日貸切」の表示。 (さすがAJは凄いな。こんなホテルの店を貸切るなんて……) 智也は感嘆すると、大成と並び店内に共に入った。 「不破様。今回は当店をお貸し切り頂き、誠にありがとうございます」 支配人自らが、頭を深々と下げ丁重に出迎えた。 すると出入り口左右には、この店のウェイター達とソムリエ、料理人の大勢が荘厳と居並び、彼らも大成に頭を下げた。 だが、智也が照明の光を抑えた落ち着いた雰囲気の広い店内を一見したが、他の客所か、AJの関係者一人すらいない。 客は大成と智也だけ。 (どういう事だ?!) 智也が困惑してると、大成が振り返り優しい声をかけた。 「鈴木さんと二人だけでゆっくり食事したかったから貸切った。さあ……行こう」 (嘘だろ?!本当に?!俺と食事する為だけに、それだけの為に貸切ったのか?!2人だけの懇親会?) 智也には、ただただその理由が驚愕だった。 そしてこの空間を大成と智也だけで独占するなんて事が、余りに現実離れし過ぎていた。 支配人の案内で、二人は店内で一番の特等席であろう窓際の席に通されると、更に綺羅びやかな美しい東京の夜景が一望出来た。 しかし、今の智也はそれを見る余裕すら無い。 今真正面に座る大成に対しても、ハイヤーの中からの智也の緊張は続いている。 そこに、大成の落ち着いた声がした。 「何が食べたい?」 智也は神経を削りながら答えた。 「僕は……すいません……こういう所は慣れてなくて。社長にお任せしてもよろしいですか?」 智也がそう言うと、大成は目尻を下げて頷いた。 だが、次に大成がメニューを見ながら言った言葉に智也は驚く。 「鈴木さんは、肉より魚や海老や貝の方が好きだったな。野菜は、黄色野菜より葉ものが好きで。ならスープは、肉系のポタージュより魚介系のビスクがいいな」 大成は、あまりに大した事無いように自然に言ったが、智也はそれを聞き信じられなくて激しく動揺した。 (俺の、好みとかも……そんな事まだ覚えてたんだ……) 智也がその感情のまま大成を見ていると、大成がメニューから視線を智也に移した。 智也と大成の視線が深く交わり合い、智也は思わず体を硬直させた。 すると、再び大成の甘い声がした。 「覚えてる。今でも君の事なら何でも……忘れられなかった……」 「……」 智也はその言葉の意味を考える。 昔の自分への贖罪なのか、それとも別の意味があるのか。 理解できないまま、胸と喉が詰まる感覚だけが残った。 すると、大成も一度目を伏せて一拍間を置いた。 しかし大成は、再び智也を見詰めて優しく問いかけてきた。 「鈴木さんも今は大人になった。酒は飲むのか?」 智也は社交が得意ではなく、宴席にはほとんど顔を出さない。 成人してからも、必要な場以外で酒はほとんど口にしなかった。 だが、大成の特別な人に語りかけるような低い声は、拒絶できなかった。 「好きなお酒を教えてくれ。今の君を知りたい。まだ知らない君を……」広い車内。智也は、人一人分以上大成とかなり距離を取って座っている。後部座席は、運転手のいる運転席とは分厚い黒色のガラスで隔てられていて、シーンとした重い雰囲気が漂い緊張感が張り詰めている。智也は窓の外を見つめ、手で座席の縁をぎゅっと握り、服の端をそっといじり、唇を軽く噛む。――何度も心の中で自分に言い聞かせる。「落ち着け、感情を制御しろ」と。 しかし、無意識に横を見ると、二人の間に保たれていた距離が知らぬ間に縮まっていた。智也は動かなかった。大成の身体が彼に近づいてきたのだ。「緊張してるか?」「い、いや……大丈夫です」 大成は柔らかく低く笑い、抗えない声で続ける。「リラックスしろ。懇親会はそんなに大規模じゃない」「……はい」 智也は、大成の目を見て頷いたが、この緊張が、懇親会へのものだけでないのはもはや明確だった。 ごく普通を装っていた智也だったが、その大成の声が甘くて、そして、今にも智也と大成の肩が触れそうで、肩の力を抜く所か内心増々狼狽していた。静かな車内で、智也の激しく打つ鼓動が大成に聞こえてしまうんではないかとも思ってしまう。 5分ほどで車は市内中心の30階建て高級ホテルの前に停まった。豪華な空気は智也の日常とはまるで異なり、思わず息を呑む。 降りようとしたその時、黒い整ったホテルの制服を着たボーイが横で待っていた。降車し、智也は大成の後ろに続こうとした。――その瞬間、大成が突然振り向き、そっと彼を抱き寄せた。不意を突かれた智也の心臓は跳ね上がり、手足が一瞬止まる。慌てて後ろに下がろうとするが、大成の腕に引き寄せられ、慌てて横に回り、礼儀正しく彼の手をそっと外した。 大成は一瞬戸惑い、手の中に残る余韻をまだ感じているかのように眉をわずかに上げ、低く落ち着いた呼吸が微かに荒くなる。だが次の瞬間、いつもの社長の口調に戻り、低く指示する。「鈴木さん。私の後ろでは無く、私の横を歩いてくれ」 智也は頷きながら、大成の横に慎重に歩み寄る。心臓はまだ騒ぎ、肩越しに漂う熱に意識が揺れる。エレベーターで25階のフレンチレストランへ到着し、赤いカーペットの廊下には「本日貸切」の表示。 (さすがAJは凄いな。こんなホテルの店を貸切るなんて……) 智也は感嘆すると、大成と並び店内に共に入った。 「不破様。今回は当店を
信じがたい衝撃と、懐かしい鼓動が胸の奥で混ざり合う。逃げ出したいほどの感情の波が押し寄せた。だが、智也は必死に冷静を装い、深く息を吸って震えを押し殺した。――あれは、もう何年も前のことだ。彼は自分に言い聞かせた。相手が、あの頃の自分を覚えているはずがないと。けれど、胸の鼓動だけはあの日とまったく同じだった。智也は背筋を伸ばし、視線を定める。今は仕事の場であって、再会の舞台ではない 。――そう、自分に言い聞かせた。しかし、そう思いながら次の瞬間、やはり胸の奥に疑問がよぎる。(……全く反応がない……?)指先がかすかに震え、その震えは腕全体へと広がっていった。だが智也は知らなかった。不破大成の唇の端が、ほんのわずかに、意味深く持ち上がっていたことを。「社長、鈴木智也と申します。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます。」「……ああ」大成は淡々とした声で応じた。名前を聞いても、特に反応はない。まるで、初対面の相手に対するような冷静さだった。(……よかった。今日は“初めて会う”ということにしておこう……)智也は大成の顔を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。プレゼン用の機材はすでにAJ側のスタッフによって準備されていた。まもなく会議室にはスーツ姿の幹部たちが次々と入ってくる。皆、智也よりずっと年上で、圧のある雰囲気をまとっていた。そして、智也のプレゼンが始まった。テーマは、AJグループが東京の中心に建設予定の38階建て新ホテルの室内デザイン案。智也は資料をめくりながら説明を続ける。緊張で手がわずかに震えていたが、それでも視線とテンポを保ち、一人のプロとして職務を全うしようとした。ただ、大成の鋭い視線が向けられるたび、心の奥がざわめくのを止められなかった。プレゼンが終わると、会議室は一瞬、静寂に包まれた。誰も言葉を発しない。空気が張り詰め、時間が止まったかのようだった。――そのとき。パチ、パチ、パチ、パチ……拍手の音が響く。智也が顔を上げて見ると、それは大成だった。彼が手を叩くと、周囲の幹部たちも次々と拍手を始め、会議室には温かな音が広がった。智也は少し驚き、すぐに深く頭を下げて礼を述べた。近くの中年幹部が笑顔で言う。「素晴らしかったよ。これからも社長、そしてAJの期待に応えるよう、頑張
(これがAJグループの本社ビル……)空間デザイナーの鈴木智也は、きちんと仕立てられたスーツを身にまとって、東京都心にそびえ立つ、38階建ての巨大なAJグループ本社のビルを近くで見上げて内心感嘆した。その端正で清らかな顔立ちはスーツによって一層際立ち、ビジネス街を行き交う男女が思わず振り返ってしまうほどだった。智也の顔立ちは繊細で柔らかく、僅かに上がった眉目には穏やかさと聡明さが漂う。輪郭は、はっきりしているのに決して硬さを感じさせない美しいラインを描いている。白く滑らかな肌。自然でふっくらした唇。光が彼の肌に落ちるとやわらかな輝きへと変わっていくようだった。「本当に、俺達の会社みたいな小さな所がAJグループから新規ホテルの内装デザイン任されるのが決まったのも、全部鈴木のお陰だよ」上司でありスーツ姿の部長で中年の別所がそう言いながら、穏やかな視線を智也に向けた。「そんな事ないです」「いや、鈴木は、本当に才能があるし、何よりそれ以上にいつも誰よりも勉強して努力してる。俺は、それを本当に知ってるから言ってる」 別所のその言葉で、智也は増々照れながら「はい……ありがとうございます」と小さく返事をした。不意に、晴れ晴れとした秋の初めの爽やかな風が智也の頬を撫でた。「ハイ!行きましょう!別所部長!」智也がそう言うと2人は颯爽と、AJグループのビルに吸い込まれるように入って行った。AJビルは、縦に長いだけで無く、横にも大きい。そこですれ違う人も多く、ガラス張りの部屋も沢山並びそこで働く人も多い。智也の前にはAJの社員とそれに続く別所の背中が見える。「わ~!」「凄いイケメン過ぎる……新しい広告のモデルさん?」どこからかそんな女性達のヒソヒソ声がしたが、人や部屋が多過ぎて誰かわからない。智也は、その容姿から普段から多くの人から視線を向けられるのは慣れてるとは言え、やはりそれは苦手だし、今日はいつもより多く受けている。智也の気持ちが乱れてきたし、会議室が近づくに従ってプレゼンへの緊張感が高まってきた。そして呼吸が浅くなるのを感じ、周りにはわからないように意識して空気を取り込み始めた。智也達は、会議室の前に来た。「鈴木様。まずあなた様からお入り下さい」そして何故か、先導してきたAJの社員は、別所では無く、一番最初に智也に入室を促した