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第5話

Author: 今日こそ完結
私はありったけの力を振り絞り、平静を装って流れ落ちる鼻血を拭った。

「のぼせただけ。ここ、乾燥してるから」

「なら、腕のこの傷はどういうことだ?」

腕を引っ込め、無理に落ち着き払った声で言う。「湖のほとりで、何かにちょっと刺されちゃって」

悟は眉間に深く皺を寄せ、私の目をじっと見つめる。私の本心を探ろうとしているかのようだ。

しばらくして、彼は私の手を離した。その声には苛立ちが滲んでいる。

「まったく、いい大人なのに、どうしてそうそそっかしいんだ」

彼は口を開きかけて、なおも何か言いたそうにしていたが、そこへ奈央がドアをノックした。

「悟、ヘアゴム取ってくるのに時間かかりすぎじゃない?お母さんから電話してって言われてたでしょ、ちゃんと折り返してあげて」

「わかってる」

悟の顔に苛立ちがよぎったが、それでも電話をかけ直した。

彼の母親の弾んだ声が、少し離れていても、私の耳にはっきりと届く。

「悟、やっとわかってくれたのね。奈央は本当にいい子だって言ってたでしょ。昔のあの女とは大違い。全身から安っぽい油の煙の匂いがして、思い出すだけで吐き気がするわ!

彼女には何の取り柄もないし、あなたの足手まといになるだけ!これから会っても、絶対に近づいちゃだめよ!」

「母さん!」

悟は顔をこわばらせ、バツが悪そうに私を一瞥すると、慌てて電話口に言った。

「こっち、まだ用事があるから。じゃあな」

電話を切ると、ぎこちなく口を開いた。

「母さんは……そういう意味じゃない。気にするな」

私は口の端を歪め、力なく笑って首を横に振る。

「うん、わかってる」

ずっとわかってる。悟の母親が二年前に、もうそう思っていたことを。

悟は気まずさを紛らわそうと、別の話題を探して口を開きかけている。

けれど、私はこれ以上この話を引き延ばしたくなかった。疲れすぎたし、痛みもひどすぎる。

「大丈夫。全部、理解してるから」

顔をドアに向け、そこに立つ奈央に言った。

「酒井さん、星野さんが、明日もあなたたちを途中まで送って、車を取りに戻れるようにしてほしいって、同意したから。早く帰って休んで」

「絵里!俺は……」

悟が焦った顔で、何かを言い募ろうとする。

私は視線を上げ、淡々と彼を見つめた。

「何?まだここに残るつもり?お母さんに、あなたの恋をもっと心配さ
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