LOGIN土曜日の朝から、雨が降っていた。窓を閉めていても、細かな雨音が部屋の中まで届いている。瑠衣は朝食を終えたあと、いつものように書庫のテーブルを整えた。しばらくして玄関のチャイムが鳴り、立ち上がる。
扉を開けると、灯が傘を持って立っていた。コートの肩に雨の跡が残り、革靴のつま先も少し濡れている。傘を閉じた灯から水滴が落ち、玄関の床に小さな丸い跡が増えていった。 「濡れましたね」 「駅から少し歩きましたから」 瑠衣はすぐに洗面所へ向かい、棚からタオルを一枚取った。戻って差し出すと、灯は受け取って肩を軽く押さえた。瑠衣は玄関の床へ目を向け、濡れたところを拭くために布を取りに行く。灯が靴を脱ぐ音がして、視線を戻すと革靴がいつもの場所に並んでいた。先週はその場所を何度も見ていたのに、今日はそこにあることを確かめても手が止まらなかった。 「ありがとうございます」 灯はタオルを返し、瑠衣はそれを受け取った。雨はまだ玄関の外で降り続いている。瑠衣は傘立てへ目をやり、灯の傘を端へ寄せてから書庫へ戻った。濡れた床をもう一度拭いておく。灯は話の続きをしていた。朝食のことから学校のことへ話が移り、最後には「暇でしたから」という短い言葉で途切れた。瑠衣は自分の本を膝に置いたまま、灯がページをめくるのを見ていた。聞きたいことはまだあった。けれど質問を重ねれば、灯が話したくないことまで引き出してしまうかもしれない。そう思うと、口元まで出かかった言葉を一度飲み込んだ。 それでも、父の姿だけが抜け落ちていることが気になった。瑠衣は本の角を親指でなぞり、それから一度だけ灯の顔を見た。灯は開いた本へ視線を落としている。瑠衣は少し迷ってから、静かに口を開いた。「父は、その頃どうしていたんですか?」 灯の手が止まった。開いたページの端に指を置いたまま、すぐには答えない。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外から車の音が一度聞こえ、遠ざかっていく。その音が消えてから、灯は視線を本へ落とした。「近くにはいました」 瑠衣は頷いた。それだけでは分からないことが多かったが、もう一度聞く言葉をすぐには選べなかった。灯は本を閉じず、指先だけをページの上に置いている。瑠衣はその横顔を見ながら、次の質問を考えた。「父のことは、何て呼んでいたんですか?」「兄さん、と」 その呼び方を聞いた瞬間、瑠衣の指が本の端で止まった。自分が父を呼ぶときとは違う。けれど、それ以上のことは考えずに次の問いを口にする。「一緒に暮らしていなかったんですか?」「はい」 灯は短く答えた。瑠衣は頷きながら、その言葉を頭の中で繰り返す。一緒には暮らしていなかった。それでも、近くにはいた。さっきの答えと並べると、二つの言葉の間に知らない時間があるように思えた。「たまに顔を合わせることはありましたが」 灯はそこで言葉を止めた。視線を本へ戻し、ページの角を指で整える。瑠衣は何も言わずに待った。続きが出てくるかもしれないと思ったが、灯はそれ以上話さなかった。 少しして、灯は別の日のことを話し始めた。「祖父の家で、本を読んでいました」 瑠衣は顔を上げる。灯の声は変わらない。「そこへ兄さんが来ま
灯は前に続きを、いつもの調子で話していた。瑠衣は向かいに座り、手元の本を閉じたまま聞いている。灯はカップへ手を伸ばして一口飲み、それから視線をテーブルへ戻した。「朝、目が覚めると、知らない部屋でした」 灯の声は静かだった。昨夜のことを特別な出来事として扱う様子もない。ただ、覚えていることを順番に置いていくように話している。「昨夜借りた本が枕元にありました」 瑠衣は小さく頷いた。灯の指がカップの取っ手から離れる。「廊下を歩くと、台所から音がしていて」「祖父が朝食を作っていました」「起きたか、とだけ言われました」「はい、と答えました」 瑠衣は黙って聞いていた。灯はそれ以上朝のことを付け足さず、本の表紙へ目を落とした。瑠衣は閉じた本の表紙へ目を落とす。朝の食卓で祖父が何を話したのか、灯がどんな顔で食事をしていたのか。細かなところまでは聞かされていない。それでも、灯が覚えているのは本だけではなかった。起きたときの部屋、廊下の音、台所から聞こえた物音まで、灯の言葉には残っている。「席について」「食べなさい、とだけ言われました」 灯はそこで一度だけ言葉を止めた。瑠衣が顔を上げると、灯は少し先を見ている。朝の食卓を思い出しているようだった。「味噌汁の匂いがしていました」 瑠衣は目を瞬いた。灯は窓の外へ視線を向けたまま続ける。「炊いたばかりのご飯もあって。湯気が上がっていました」 灯は両手を膝の上へ置いた。「朝は寒かったので、味噌汁の椀を持つと手が温まりました」 その言葉だけが、少しだけゆっくり落ちた。瑠衣は何も挟まずに聞いている。「食事の途中に、本は読んだか、と聞かれました」「はい、と答えたら、そうか、と」 灯はカップを持ち上げた。口をつける前に、また置く。「それだけでした」 瑠衣は祖父の声を思い浮かべた。短くて、余計なことを言わない声だった。灯もその声を思い出しているのか、しばらくテーブルの木目を見ていた。灯はカップを持ち上げた。湯気の向こうで目を伏せる。祖父の家で迎えた朝を思い出しているのか、ほん
午後、灯はいつもの席で本を開いていた。昼食の片付けが終わってから、二人はそれぞれ好きな本を手にしている。窓から入る光は先週より少し強く、机の上に置いたカップの影が床へ伸びていた。瑠衣は向かいでページをめくりながら、ふと灯の手元を見る。古い本は今日も灯のそばに置かれていた。擦れた表紙の角を灯が親指で一度撫で、それから栞を抜く。昨日までの話が頭に残っているせいか、瑠衣は文字を追いながらも何度かその本へ目を向けた。「その頃から、この本を読んでいたんですか?」 灯が表紙へ目を落とした。「この本は、もう少し後です」 灯は本を閉じ、表紙を眺めたまま少し黙った。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外を車が通り過ぎ、音が遠ざかっていく。「じゃあ、最初に読んだ本は?」 灯は視線を上げた。「覚えています」 そう答えてから、灯は目の前の本へ指を置いた。しばらく動かさず、昔の記憶をたどるように視線を伏せていた。 灯の記憶の中で、古い玄関の前に小さな灯が立っていた。夕方だった。門から玄関までの短い道に、長く伸びた影が落ちている。灯はその影を踏まないように足元を見ながら立っていた。両手で荷物を一つ持っている。重さを確かめるように持ち替えたところで、玄関の内側から物音がした。鍵が外れ、扉が開く。祖父が顔を出した。「上がりなさい」 灯は返事をせず、荷物を持ったまま一歩下がった。祖父が扉を大きく開ける。灯は玄関の中を見て、それから自分の足元へ視線を落とした。靴のつま先を揃えるようにして脱ぐ。片方を置き、もう片方も並べた。荷物を抱え直してから、土間を上がる。廊下には見慣れない家具があり、壁には時計が掛かっていた。時計の針が動く音だけが聞こえる。灯は何度か振り返ったが、玄関の扉はもう閉じていた。 祖父は先に歩き、廊下の奥へ進んだ。灯は少し間を空けて後ろをついていく。部屋の前で祖父が襖を開ける。灯は中を覗き、入口のところで立ち止まった。部屋には布団を敷くための空いた場所があるだけだった。持っていた荷物を隅へ置くと、そこだけが妙に小さく見えた。祖父が振り返る。灯は荷物の置かれた場所を一度見てから、もう一度部屋の中を見た。祖父は何も急かさず、襖を半分開けたままにした。
土曜日の午後、瑠衣と灯は並んで本を読んでいた。窓から入る光が少しずつ傾き、テーブルの上の紙を照らしている。瑠衣がページをめくる音に合わせるように、向かいでも紙が動く。灯は本を読むとき、周囲の音が聞こえていないように集中していた。カップへ手を伸ばすときも栞を挟み、戻るとすぐに同じ場所から読み始める。瑠衣が椅子を引いた音にも顔を上げない。やがて灯がページの端を指で押さえたところで、瑠衣は本から目を離した。「小さい頃から、本を読んでいたんですか?」 灯がゆっくり顔を上げる。「そうですね」「祖父が買ってくれた本を?」「最初は、そうだったと思います」 灯はそこで一度本へ目を戻した。指先が開いたページの上で止まり、しばらく動かなかった。瑠衣は灯の向かいに座ったまま、しばらく自分の本を開かなかった。ページの途中に置いた栞が少し斜めになっている。直そうとして指を伸ばし、途中でやめた。灯の本のページをめくる音が、一定の間隔で続いている。静かな部屋では、その音だけが妙にはっきり聞こえた。 灯の視線が本の文字から離れた。遠くを見るように少しだけ目を細める。「最初の一冊は、祖父と本屋へ行ったときのものです」 灯はそう言って、膝の上の本を閉じた。話すために閉じたというより、昔の場面へ手を伸ばすような動作だった。その日のことを話す灯の声は、いつもよりゆっくりしていた。瑠衣は何度か相槌を打とうとして、結局何も言わずに聞いた。本屋の棚の高さや、祖父が立っていた場所まで灯は細かく話さない。それでも、一冊を選ぶまで待っていたことだけは伝わってきた。瑠衣は膝の上で指を組み直した。「棚の前で、ずっと迷っていました。祖父は隣にいましたが、急かしませんでした」 小さな灯が棚の前に立っている。背の高い棚を見上げ、何冊か手に取っては戻している。祖父は少し離れた場所で腕を組み、その様子を見ていた。灯が一冊を手にすると、祖父はその表紙へ目を向ける。「それでいいのか」 灯は本を胸の前へ抱えたまま頷いた。祖父はもう一度表紙を見てから、その本を灯の手から受け取った。レジへ向かう背中を、灯は数歩遅れて追いかける。店を出ると、紙袋を両手で抱えた。袋の中には、選んだば
平日の夜、瑠衣は祖父の古い手帳を机の上に開いた。昨日見つけた一行を、もう一度確かめる。「灯の本を買う」。その文字の上へ指を置きかけて、触れずに止めた。日付を見る。瑠衣自身がまだ幼かった頃だった。さらに前のページをめくる。そこにも本の購入記録がある。灯の名前が残っていた。もう一枚めくる。年が変わっている。それでも、同じ名前が見つかった。瑠衣はページの端を押さえながら、ゆっくり次の頁へ進んだ。古い紙が指先で擦れる。別の日付。別の購入記録。その中にも灯の名前がある。瑠衣は手帳を閉じず、そのまま最初のページまで戻った。店の名前の横に金額があり、その下へ小さく題名が書かれている。文字の大きさはほとんど変わらない。祖父が毎回同じように記録していたことが分かる。灯の名前を見つけたところで、瑠衣はページの角を折らないように指先で押さえた。次のページへ進む。さらにその次へ進む。記録が途切れる年もあったが、灯の名前は何度か現れた。瑠衣は手帳を閉じる前に、最初に見つけた一行へもう一度目を戻した。 土曜日の午後、灯がいつものように訪れた。二人で本を読み、途中でお茶を淹れる。いつもの時間が流れていたが、瑠衣は机の端に置いた手帳へ何度か目を向けた。灯が本を閉じたところで、瑠衣は手帳を持ち上げる。表紙を指先で撫でてから、灯の前へ置いた。「祖父の手帳を見ていたんです」「そうですか」 灯は手帳へ視線を落とした。瑠衣は開いたページを指で押さえる。「灯さんの本を買った記録が、いくつもありました」 灯はすぐに答えなかった。手帳の文字を眺めてから、カップへ手を伸ばす。取っ手を持ったまま少し考えるように指を止めた。「昔は、よく買ってもらいました」 瑠衣はその言葉の中にある「昔」を拾うように、顔を上げた。手帳へ置いていた指も動かなくなる。昨日の本棚と、古い記録が頭の中で重なった。「本を買ってもらうときって、いつも一緒だったんですか?」 灯は少し考えてから頷いた。「たぶん、そうだったと思います」 瑠衣はその答えを聞いて、手帳の文字へ目を落とした。祖父が一冊ずつ本を選び、記録を残していたことだけが静かに残った。 瑠衣は手帳を閉じずに、灯の前へ置いたままに
平日の仕事を終えた瑠衣は、自宅の棚から古いアルバムを取り出した。夕食を済ませてから片付けをするつもりだったが、手帳の一行が気になって先に棚へ向かった。表紙を拭いてからテーブルへ置き、留め具を外す。厚いページを指先で押さえると、乾いた紙が小さく鳴った。 最初のページには祖父が若かった頃の写真が並んでいた。まだ髪が黒く、今より細い顔で庭に立っている。隣には祖母がいて、その二人の後ろに古い家の縁側が写っていた。ページをめくると、親戚が集まった日の写真が続く。夏の庭で撮ったものもあれば、冬の炬燵を囲んだものもある。食卓を囲む大人たち。その端で椅子に座る瑠衣の母。さらに次のページには、幼い瑠衣が祖父の膝に乗っている写真があった。祖父の手には一冊の本がある。瑠衣は写真の角を指で押さえた。ページをめくる。灯の姿はどこにもなかった。何枚か戻って見直してから、瑠衣はアルバムを閉じた。留め具を戻す音が、いつもより大きく聞こえた。 翌日の夜、瑠衣は祖父が使っていた書斎の棚を整理していた。窓を閉めると、古い紙と木の匂いが少し濃くなる。実家から持ち帰った古い本や書類を一度床へ下ろし、奥に残った埃を布で拭いていく。棚の下段には、背表紙の文字が薄くなった本が何冊か残っていた。その間に手を入れると、硬い表紙が指に触れる。引き出してみると、茶色い手帳だった。角は擦れて丸くなっている。表紙を払うと細かな埃が落ちた。 表紙には何も書かれていない。開くと、日付の横に買った本の題名や店の名前が細い文字で並んでいた。子ども向けの本を三冊買った日もある。その下には、短い一行が残っていた。文字はほかの記録より少し濃く見えた。「灯の本を買う」。その前後には本の題名と金額が並んでいる。別の日には絵本を二冊、さらに別の日には児童向けの読み物を一冊。誰のために買ったものなのかまでは書かれていない。瑠衣はページを一枚戻し、日付を確かめた。それから、さっきの一行へ視線を戻した。瑠衣の指が止まった。 手帳を開いたまま、瑠衣は椅子に座った。ページの端には小さな折り目がいくつもある。ところどころ鉛筆の跡も残っていた。祖父は買った本を忘れないように記録していたらしい。瑠衣は文字を指でなぞらず、そのままページをめくった。別の月にも同じような記録があり、買った本の題名だけが几帳面に
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい
「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで