「お嬢さん、この婚姻証明書の番号は偽物ですよ」 山口真奈(やまぐち まな)は目を見開いた。 「そんなはずないです。もう一度確認してください」 「確認した結果、証明書の番号も押印も偽物でした。妊娠の登録には、正式で有効な書類が必要なんです」 真奈の指先がかすかに震えた。偽の婚姻証明書をぎゅっと握りしめ、ふらつく足取りで産婦人科を後にした。 急いで家に戻ると、リビングには六年間行方不明だった姉・山口結菜(やまぐち ゆな)の姿があった。 「真奈、やっと帰ってきたのね」 母が一番に駆け寄ってきて、真奈の手を取った。目には涙が溢れていた。 「真奈、結菜は病気なの。肝臓がんの末期で、もう時間がないのよ。彼女の最後の願いは、航平と結婚すること……お願い、叶えてあげて」
view more慎也はそっと手を伸ばし、真奈の寄せられた眉間を優しくなぞった。そして彼女の手を両手で包み込むように握りしめ、心配そうに言った。「何か辛いことがあったら、ちゃんと俺に言って。力になれるから」「どんなことでも?」真奈は意識を戻し、目の前で片膝をつく男をいたずらっぽく見つめた。慎也の瞳がわずかに深くなり、静かにうなずいた。「どんなことでも、だよ」「じゃあ、今夜は書斎で寝てほしいな」真奈はにっこり笑ってそう言うと、立ち上がって数歩離れ、部屋のドアの方を指さして軽く手を振った。「それじゃあ、島村さん、さっさとこの部屋から出ていただけます?」慎也は眉を少しだけ上げ、ゆっくりと立ち上がって真奈に近づいていき、そして彼女をふいに腕の中に引き寄せた。「それはダメ」「さっき『どんなことでも』って言ったじゃない!」真奈はぷくっとふくれながら抗議した。声には自然と少しの甘えが混じっていた。「それ以外なら、なんでも叶えてあげるよ」そう言いながら、慎也は真奈を抱き上げると、くるりと向きを変えてベッドの方へ歩き出した。「きゃっ!」真奈は思わず声を上げ、慎也の首にしがみついた。頬が彼の温かい胸元に触れ、彼の確かな鼓動が耳に届く。彼の爽やかで心地よい香りが全身を包み込み、抵抗しようとしていた動きが次第に止まっていった。「慎也……」真奈は囁くように名前を呼んだ。その声はふわふわと柔らかかった。「ん?」慎也は彼女に視線を落とす。深い眼差しが寝室のやわらかな灯りの下で星のようにきらめいていた。彼の目に映る星の海には、彼女だけが存在していた。「何かご命令ですか?」慎也はゆったりとした足取りでベッドの傍まで進む。けれどすぐには彼女を下ろさず、そのまま抱いた姿勢を保ったまま、少しだけ身を屈める。温かい息が耳元をかすめ、真奈はびくっと肩を震わせた。「下ろしてよ!」真奈の声はさらに小さくなり、わずかに恥じらいを帯びていた。慎也はくすっと低く笑いながら、抱きしめる腕をさらに強くした。「真奈、俺は一生君を離さない」そう囁くと、彼はそっと身体を折り、真奈を柔らかなベッドの上へそっとおろした。そのまま彼の体が覆い被さるように近づく。肘を立てて彼女の身体を囲むようにし、その長い指先で彼女の前髪をそっとか
その後のある日、真奈は友人と一緒に絵画展を観に行った。友人がトイレに行っている間に、彼女の前に航平が立ちはだかった。彼の目には深い陰りが宿っていて、震える手で書類を差し出してきた。「真奈、俺が悪かった……結菜にはもう、それ相応の代償を払わせた。お願いだ、もう一度だけチャンスをくれ。どう償えばいいのか、君が望む通りにするから」真奈は彼を一瞥することもなく、身体を横にずらして通り過ぎようとしたが、再び彼に行く手を阻まれた。「真奈……俺たち、本当にもう可能性はないのか?」彼女は顔を上げ、冷ややかな眼差しで彼を見つめながら、静かな声で言った。「航平、私は三年間ずっと妊娠の準備をしてたの。妊娠が分かったとき、もう名前まで考えてた。でも、あなたはその子を自分の手で殺したのよ」航平の身体がその言葉にピクリと震え、顔色が一気に真っ白になった。真奈は彼に背を向け、そのまま立ち去った。その数日後、山口家に資金繰りの悪化が囁かれ始め、陽斗は経済犯罪の容疑で逮捕された。真奈が外出しようとしたとき、両親が玄関で彼女の前に立ちふさがった。真奈の母は涙をこぼしながら、哀しみに満ちた声で訴えかけてきた。「真奈……昔は私たちが目を曇らせて、結菜の本性を見抜けなかった。あなたにあんなに辛い思いをさせて……全部、私たちのせいよ。許してほしいなんて言えない。ただ……お願い、あなたのお兄ちゃんを助けてちょうだい。航平に一言お願いしてくれれば、きっと陽斗を見逃してくれるはずだから……」真奈はわずかに眉をひそめ、淡々とした目で彼女を見つめた。「山口夫人、あなた、勘違いしてるわ。山口家のことは、私――真奈とは一切関係ない。陽斗が法に触れたなら、法の裁きを受けるだけ。それと航平については……」そこで彼女は口元に淡い皮肉を浮かべた。「誰を見逃すか、誰を潰すか、それは彼の問題であって、私には何の関係もない」真奈の母はその場でふらりと体を揺らし、今にも崩れ落ちそうになった。真奈の父は暗い表情で娘を見つめ、かすれた声で訴えた。「真奈……俺たちが悪かった。だけど、少しぐらい……少しぐらいは許してくれないか?俺たちは君の実の親なんだぞ。君のお兄ちゃんが……このまま一生、刑務所に入ったままでもいいのか?」「私にチャンスをくれって?あなたた
「いいよ、真奈。食べたいものがあったら、何でも作ってあげるからね」慎也の父は、真奈を見つめるその瞳に、限りない慈しみを湛えていた。まるで世界でたった一つの宝物を見るかのように。その様子を目の当たりにした真奈の父は、瞳孔を大きく見開き、叫ぶように声を張り上げた。「真奈!こっちを見てくれ、俺たちを見てくれ!」しかし真奈は一切立ち止まらず、振り返ることもなく、ただまっすぐに歩みを進めていく。その場にいた真奈の父と母の傍に立っていた陽斗は、その光景に眉をひそめ、不機嫌そうに一歩前へと踏み出した。そして真奈たちの前に立ちはだかる。「真奈、両親が呼んでるんだぞ?聞こえなかったのか?」そのとき、一番端を歩いていた義兄・島村新司(しまむら しんじ)が一歩前に出て、真奈を庇うようにして立ちはだかった。「お前は誰だ?なんでうちの妹にそんな口きいてんだ?」「お前の妹だと?」陽斗は目の前の男を睨みつけ、怒りをあらわにした。「真奈は俺の妹だ!いつからお前の妹になったんだよ!」島村新司は鼻で笑い、少しも引かずに言い返した。「妹を守らない兄貴なんて、兄貴じゃねぇよ」その言葉に、陽斗の瞳孔が一瞬で縮み、手が無意識に握りしめられる。――俺は……本当に、真奈を守ったことなんてあったか?陽斗は顔を赤くしながら、真奈を見つめ、慎重な口調で謝罪の言葉を口にした。「真奈……ごめん。本当に、今まで悪かった。俺たちが、君の気持ちをずっと無視してた。長い間、あんなにも辛い思いをさせて……もし……もし戻ってきてくれるなら、これからはちゃんと償いたい。君のこと、大事にするから」だが真奈は顔色一つ変えず、淡々と答えた。「結構です。私には、もう私を愛してくれるお父さんとお母さん、それにお兄ちゃんがいます。あなたたちに、もう何も求めていません」そう言い残すと、真奈は慎也の父母、島村新司の腕を引いて、その場を離れていった。追いかけようと一歩踏み出した陽斗だったが、真奈の母に腕を強く掴まれた。真奈の母は目を赤くしながら、そっと首を振った。「もういいの。私たちが悪かったのよ。あの子がこれから幸せでいてくれるなら、それだけで十分……それが一番大事なことよ」そのとき、不意に小さな男の子が駆け寄ってきて、嬉しそうに叫んだ。「ママ!パパ!や
「もう忘れたよ、あなたってほんとにヤキモチ焼きなんだから。息子の南くんと同じ、いつも勝手に嫉妬してさ」真奈は慎也の胸にだらんと寄りかかり、心地よい体勢を見つけると、ゆっくりと目を閉じた。彼女は実は、ずっと前から慎也を見たことがあった。当時の彼は島村家のクールなお坊ちゃんで、まるで氷山のようだった。だけど、どれだけ冷たくても、彼に群がる女性たちの勢いは止まらなかった。その後、あるパーティーの場で、彼女は偶然にも慎也を助けることになる。彼が海鮮アレルギーで倒れたとき、たまたま彼女がアレルギー薬を持っていたのだ。それで、助けられた。回復した彼は、彼女に名刺を一枚差し出し、どこか影のある瞳でじっと見つめてきた。「山口さん、君の恋愛運は今かなりヤバい。これから波乱万丈なことになるかも。これはうちの弟がやってる『死亡偽装サービス』の連絡先だ。何かあったら彼に電話して。優先的に対応させるから」彼女はそれを信じた。そして、本当に偽装死が必要になったとき、その番号に電話をかけた。まさか、そのサービスの責任者が慎也本人だったなんて、思ってもみなかった。最初はあくまでビジネス関係で、金銭のやり取りもきっちりしていた。でも、何度も顔を合わせるうちに、どうしても気持ちが揺れ動いてしまった。ある夜、彼が夜空いっぱいに花火を打ち上げ、笑顔で彼女に書類の入った封筒を差し出した。「山口さん、君のことが好きだ。この中には俺の全財産が入ってる。全部君にあげる。結婚してくれる?」「いいよ!」そのときの彼女は、心から嬉しくて、胸が高鳴っていた。もう恋なんて信じちゃいけないって思ってた。でも、それが慎也だったから、もう一度だけ信じてみようと思った。次の瞬間、慎也が真奈の腰の柔らかい部分をつまみ、少し危うさを含んだ甘い声で言った。「南くんが嫉妬するのは俺の知ったこっちゃないけど、俺が嫉妬するのは当然だろ?」そう言いながら、彼は彼女の柔らかな髪に顎をすり寄せた。「真奈、君をどこかに隠してしまいたいよ。変な奴らがいつまでも君を狙ってくるからさ」真奈は彼の腕の中で少し動き、さらに心地よい位置を見つけると、口元をほんの少しだけ上げた。「島村社長、あなたの独占欲ってちょっと強すぎじゃない?」「俺の独占欲は、妻に対してなら正当だろう
「真奈!」航平の瞳が大きく見開かれ、すぐさま立ち上がって慎也と真奈の方へと歩み寄った。彼は早足で真奈の前に立ち、その目には激しい光が宿っていた。唇がわずかに開き、こう告げた。「真奈、やっぱり君は生きてたんだ……ずっと探してたんだよ、すごく長い間……やっと、戻ってきてくれたんだな」真奈は淡々と彼を見つめていた。まるで見知らぬ他人を見るような目だった。「この方、何かの勘違いでは?」「ありえない」航平は食い気味に否定し、さらに一歩踏み出そうとした――が、慎也がその前に立ちはだかった。「何をするつもりだ?これは俺の妻だぞ」「お前の……妻?」動揺した航平は呆然と慎也を見た。体の横に垂れた手が小刻みに震える。彼は再び真奈の顔を見つめた。心の中で必死に否定しながら、彼女の口から出る言葉を待っていた。次の瞬間、真奈は慎也の手をぎゅっと握り、二人の薬指に光る結婚指輪を見せつけた。「すみません、私とあなたは面識がありません。今後は島村夫人とお呼びください」「君は……君は俺の妻だっただろ?どうして島村夫人なんて呼ぶんだ……?」「私は島村さんと結婚していますから」真奈は一切の感情を見せず、事実を淡々と語った。「嘘だ!そんなはずない!」航平の叫びが一気に会場中に響き渡り、その鋭さに周囲の視線が一斉に集まった。会場内で展示品に注目していた人々が、一斉に彼らの方を向いた。ざわめきが広がり、記者たちのカメラがフラッシュを光らせ始める。古美術品よりもよほど刺激的なスクープの気配に、誰もが色めき立った。だが航平はそんな視線やフラッシュの光など一切気にしていなかった。彼の目はただ真奈だけを見つめていた。あの懐かしい顔の中に、偽りの痕跡を必死に探し出そうとしていた。しかしそこにいたのは、かつての真奈ではなかった。彼女の目には、かつての愛情も優しさも、何一つ残っていなかった。ただ冷たい光だけが、航平を突き刺していた。「真奈、お願いだ……俺の顔をちゃんと見てくれ!」航平はほとんど懇願するように手を伸ばし、彼女の頬に触れようとした――が、その指先は慎也の手で容赦なく叩き払われた。「小林さん!」慎也の声は冷たく、そして威圧感に満ちていた。彼は真奈の前に立ち、彼女を庇うようにして航平を睨みつける。「ここは
結菜は結局、詐欺罪や傷害罪に該当しないという理由で、警察から釈放された。その知らせを受けた航平は、すぐに部下を使って彼女を連れ去らせた。真奈の父と母、そして陽斗もこの件を知っていたが、何も言わず、航平が復讐を遂げるのを黙認していた。その後も、彼らは人を澄海に派遣し、真奈の遺体を探し続けたが、手がかり一つ見つからなかった。やがて、航平の部下が、結菜が生前に自分の口座からある機関へ巨額の送金をしていたことを突き止めた。航平はその機関を調べさせたが、結局何も掴めなかった。ある日、小林家のお爺さんから、航平に電話がかかってきた。「航平、お前の嫁のことで、小林家の中がめちゃくちゃだ。これまで家のことを疎かにしてたのは、まあ見逃してやるとしても、最近の島村家のガキが調子に乗りすぎてる。一週間後のうちのオークションには絶対顔出せ。小林家はまだ終わってないって、世間に見せつけろ」これだけ言われてしまっては、航平に拒否する余地などなかった。彼はこめかみを押さえながら、低く答えた。「はい、分かりました」電話を切った途端、今度は小林お婆さんからの電話がかかってきた。「おばあちゃん、何かご用ですか?」航平が不思議そうに聞くと、すぐに小林お婆さんの怒鳴り声が返ってきた。「叱るために決まってるでしょ!あんたって子は、真奈みたいないい子がいながら大事にしないで、こそこそ偽装結婚なんかして、何考えてるのよ!?結局、自分の嫁を自分の手で失くして……どうすんのよ、これから」航平はスマホを握る手に力が入り、胸に再び鈍い痛みが走った。真奈を追いかけて三年、結婚して三年、合わせて六年間一緒にいたのに――最後には他の女と籍を入れるなんて、彼女はどれほど絶望したのだろう。目を閉じると、またあの時の光景が脳裏をよぎった。妊娠していた真奈を、自分が突き飛ばしたあの瞬間。あの一件で、彼女は流産し、二人が三年も待ち望んだ子どもを失った。しかも、それが自分の手で。航平は苦笑しながら目を開けた。「おばあちゃん、本当に……俺が間違ってました。ずっと人を澄海に送って、真奈の手がかりを探してるんです。なんか、どこかでまだ生きてる気がして……」そうでなければ、遺体が見つからないなんておかしい。「はあ……おばあちゃんがこんなこと言
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