財閥の御曹司と付き合って四年になるが、彼は今も彼女を抱こうとしなかった。 桐谷時乃(きりたに ときの)は母親に電話をかけた。 「お母さん、前に言ってたパイロットの面接......お願いしてもいい?」 電話の向こうで、母は驚きの声を上げた。 「えっ、本当に?でもあなた、海栖市に残って結婚するって......あれだけ空を飛ぶのが好きだったのに、全部やめちゃったじゃない」 けれど、薄明かりの中で見たのは――別の女の子に夢中になり、不安に揺れながら想いをぶつける、彼の姿だった。 時乃は、つい苦笑いを漏らした。 瑞樹市に戻れば、私はまた空を飛べる。 そう、誰かの愛を乞いながら、不倫の泥沼でもがく女にはならない。 自由に空を翔けるパイロット・時乃に戻るのだ。
더 보기再び意識が戻ったとき、彼女は病院のベッドにいた。隣には、ずっと看病してくれていた叙一の姿があった。目を開けた瞬間、彼は強く時乃を抱きしめた。「やっと目を覚ましたね。どれだけ心配したかことか。時乃、本当に怖かった」肩に落ちるあたたかい涙が、彼の想いが偽りでないことを物語っていた。時乃はかすれた声で尋ねた。「隼人は?」叙一は抱きしめた腕をゆっくり解き、静かに答えた。「植物状態になった。全身、ひどい火傷だ。見に行く?」「......行く」命を救ってくれた人だから。重症病棟の前で立ち止まった。ガラス越しに見えるのは、生命維持装置に繋がれた隼人の姿だった。運が良かったと言う人もいる。あんな大火災のなかで、紗良は全身が焼け焦げて戻らなかったのに、彼だけはかろうじて命を拾った。だが時乃にはわかっていた。これは生き地獄の始まりに過ぎない。紗良の言葉は、皮肉にも現実になったのだ。「時乃さん」不意に声をかけられて振り向くと、そこには隼人の両親の姿があった。「彼があなたにしたこと、今になってようやく......報いを受けたのかもしれません。でも今、そばにいてくれれば......ほんの少しでも、変わるかもしれないんです。どうか......」母親の目は真っ赤で、言葉の端には懇願がにじんでいた。けれど時乃は、しばらく黙ったままだった。彼が命を賭して自分を救ってくれたこと。それは事実だった。だが、そもそもこの災いを連れてきたのも彼だった。彼女は何も、彼に借りなどない。会う?いや、やめておこう。しばらくして、小さく首を横に振った。「やめておきます」「なぜ?あれだけあなたを守って......それでも、心は動かないの?」「おばさん、隼人が私にしてきたこと、あなたが一番知っているでしょう?」「あの人が苦しんで、何もできず横たわる今の姿は、かつての私と同じ。報いとしては、十分なんじゃないでしょうか」「だからもう、関わりたくないんです。彼から離れるって決めたのは、もう二度と会わないためですから」「もし彼が目を覚ましたら、伝えてください。私は彼を、許しますって。命をかけて償ってくれたから、私は、もう憎んでいません」そう言い残し、時乃は背を向けて歩き出した。そして数
それから数日、時乃は二度と隼人の姿を見ることはなかった。彼が海栖市に戻ったのか、それとも別の場所で機会を窺っているのか。だが、もはやそれも時乃にとってどうでもよかった。その代わりと言うように、叙一との関係は、日に日に深まっていった。彼の穏やかな気遣いや優しさは、かつて隼人といた日々の中では決して得られなかったものだった。外出すれば車で送り迎えがしてくれ、空腹を感じる暇もないほどに気がを配ってくれ、贈り物が絶えず届く。花束も、毎日違う種類のものが当たり前のように届けられた。「え、時乃、もしかしてもう付き合ってるの?」そばにいた同僚が目を丸くして聞いた。叙一は花束を抱きしめながら、時乃を見つめた。その瞳には、ほんの少しの期待が宿っていた。「まだ、そこまでは」時乃が答えると、叙一の瞳がほんのり曇った。だが、次の言葉でまた、灯がともった。「でも、いい関係よ。とにかく、展演会が終わってから......ね」この数ヶ月、彼女は展示会に全身全霊を注いできた。基地でも最大級のイベントとして、皆の期待を一身に背負っていた。そして展演会当日。準備もすべて整い、彼女は舞台に立とうとしていた――その瞬間。「っ......!」何か硬いもので頭を殴られ、視界が真っ暗になった。次に目を覚ましたとき、時乃は廃れた工事現場にいた。薄暗い空間の中、向かい合っていたのは、車椅子に乗った仮面の女。「久しぶりね、時乃」女が口を開き、ようやく彼女が誰なのか気づいた。紗良だった。「何がしたいの?」時乃は冷静を装いながらも、目の端で周囲を見渡した。人気はなく、照明もない。二人きりの空間だ。「何がしたいって?時乃、なんで私だけがこんな目に遭って、お前はのうのうと幸せになってるのよ!」紗良の声は、怒りと狂気に満ちていた。あの日の出来事――鴉ノ苑での地獄のような一夜は、彼女を完全に壊してしまったのだ。時乃がスクリーンの中で光り輝く姿を見たとき、彼女の中の憎悪と嫉妬は極限にまで膨れ上がったのだ。──どうしてよ!?自分は顔を焼かれ、二度と歩けない身体になったというのに。どうしてあの女だけ、あんなに幸せそうに生きてるの!?「......幸せよ。少なくとも、隼人から離れてから、私はす
レストランを出ると、すでに夕暮れになっていた。叙一の父・青司はよく喋る人だったが、決して出しゃばらず、時乃の仕事ぶりを評価する言葉だけを残してくれた。彼女の私生活や家庭のことを詮索するような話題は一切なかった。見えないところで気を配られながらも、変に干渉されることがない。時乃は、末広家のそういう姿勢が心地よかった。叙一が基地まで送り届けてくれ、時乃が宿舎へ戻ろうとしたそのとき、玄関先に誰かがしゃがんでいるのが目に入った。隼人だ。彼は街灯の下に立っていた。ぼんやりとした灯りが彼の影を長く引き伸ばし、どこか寂しげで物悲しかった。「どこに行ってたんだ?」時乃は、どうやってまた基地に入ってきたのかなんて聞く気もなかった。そのまま彼の前を通り過ぎようとした。だが、その腕を隼人が掴んだ。「時乃、なんで俺にこんな冷たくするんだ?あいつがあんなに立派な身分だからか?」彼は自分でも気づかないうちに嫉妬に狂っていた。たった今、時乃が叙一の車から降りてきたところを見てしまったのだ。彼女の口調、笑顔――かつて自分だけが見ていたはずのそれが、いまや他人のものになっている。それが、耐えられなかった。だが時乃は彼の赤くなった目を見つめながら、心の底からあざ笑った。彼はまだ、自分が正しいと思っているのだ。五年も愛した相手が、こんなにもくだらない人間だったとは――笑える話だ。「隼人、自分がどれだけ滑稽か、わかってる?私の足を動けなくしたのはあなた。動けるようにしてくれたのは叙一。あなたは私を無視し続けてきたけど、彼は私を尊重してくれたの。私は犬じゃない、人間よ。いや、犬だって誰が自分に優しいかくらい、ちゃんと見分けるわ」「それに、立派な身分だから何?私は桐谷家の娘。お金も権力もあるわ。お金に困ったことなんて一度もない。あなたが私を選んだんじゃない、私があなたを選んだの。わかる?」その言葉を口にした瞬間、時乃の胸につかえていた何かがふっと消えた。長い間、隼人という男に縛られていた。でも、今やっと分かった。こんな男、愛する価値なんてなかった。隼人は黙っていた。彼女の言葉が、矢となって彼の胸に深々と突き刺さった。どの言葉も、どの一音も、否定しようのない真実だった。そうだ――彼は、あま
そのとき、オフィスの扉が再び開け放たれ、スーツ姿の中年男性が入ってきた。その姿を目にした瞬間、時乃はすぐに気づいた。海栖市で知らぬ者はいない、末広家の当主・末広青司(すえひろ せいじ)だ。「青司さん」隼人も彼の姿を見てすぐに立ち上がった。瑞樹市の末広家は、今やこの国のトップクラスに君臨する財閥であり、宗方家が近年手がけた事業の多くも、末広家の支援があってこそ成立してきたのだった。当然、隼人もその名を知らぬはずがない。「青司さん、お騒がせしてしまって申し訳ありません。先ほどは、つまらない相手に少し説教をしていただけでして......お邪魔になっていなければよいのですが」いつもは高慢な隼人も、このときばかりは珍しく敬うような態度を見せた。しかし、青司は冷ややかに彼を一瞥して言った。「つまらない相手?隼人さんのおっしゃることは、つまり俺の息子が貴方の目に入らないただのクズだと?そういうことかね?」隼人は沈黙した。彼の言葉に、室内の空気が凍りついた。時乃は隣の叙一を驚いた表情で見た。彼もまた、彼女と目を合わせ静かに頷いた。「息子さんとは、この医者のことをおっしゃっているのですか?」隼人は信じられないという表情で二人を見つめた。地味な装い、落ち着いた雰囲気。彼の素性は何度も調べたが、ただの海外帰りの医者に過ぎなかった。まさか末広家の長男だったとは。「どうした?隼人さん、俺の言葉すら信じられないのか?」青司は高みの見物のように言い放ち、続けて責任者の方を向いた。「基地のプロジェクトは我々末広グループが引き継ぐ。理由はただ一つ、時乃さんの能力を信頼しているからだ。さて、そろそろお引き取り願おうか?」責任者は慌てて隼人を外へと案内した。不満げな隼人の表情を見送りながら、時乃は思った。きっと今ごろ、怒りで頭がいっぱいのはず。小さい頃から甘やかされて育った隼人が、こんな屈辱を受けたのは初めてだろう。そう考えながら、彼女の気持ちはなぜか晴れやかになった。オフィスのドアが閉まった。叙一がふと横を見ると、隣でぼんやりと笑っている時乃の姿が目に入り、思わずくすっと笑ってしまった。「そんなに嬉しいのか?」不意に問われ、時乃は頬を赤くした。「君が、時乃ちゃんだね。前から噂
怒りと悲しみで胸が張り裂けそうだった。彼女は思い切り、隼人の頬を平手で打った。「隼人、あなたって本当に最低!あんなことをされた後で、まだ私があなたを愛し続けるとでも思ってるの?!?私の骨髄を紗良に提供したとき......そのとき、私がどれほど痛かったか、想像したことある!?」「時乃」「名前で呼ばないで!あなたに名前を呼ばれるだけで反吐が出る」時乃は手を振り払い、きっぱりと告げた。「分かった、呼ばない。でも、俺は諦めない。お前が怒っているのは分かってる。俺は行動で償うから」隼人はそう言い残し、背を向けて去っていった。時乃の全身から力が抜け、冷や汗が背を伝った。今のすべてが夢ではないことを、肌が覚えていた。隼人は本当に瑞樹市まで追ってきた。しかも、自分を連れ戻すために。足元がふらつき、頭の中は真っ白だった。「大丈夫?」隣にいた叙一が心配そうに支えてくれた。時乃は、額を押さえながらかすかに首を振った。「大丈夫」隼人が来ることは、薄々わかっていた。でも──まさか、こんなにも見苦しいやり方で来るなんて、思いもしなかった。「さっきはありがとう」もし叙一が来ていなかったら、自分はあの場を抜け出せなかっただろう。隼人の性格上、簡単に引き下がるはずがないのだから。「構わないよ。君を守れるなら、それでいい。彼があんな様子じゃ、君の安全が危ぶまれる。必要なら、力になるから」その後の数日間、時乃は常に緊張して過ごした。隼人がいつまた現れるか分からなかったから。だが、叙一のそばにいることで、少しずつ心が落ち着いていった。彼の姿を何日も見なかったことで、ようやく終わったのかとほっとしたのも束の間。基地から、投資家の迎えを頼まれた。彼女が向かった先で再び目にしたのは、まさかの隼人だった。その瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。「時乃、こちらが新しい投資主の隼人さんだ。今後は君が担当で、彼との窓口をお願いしたい」責任者がそう紹介したが、当然、二人はとっくに顔見知りだった。「時乃」隼人が彼女の前に歩み寄り、抱きしめようとしたその手を、時乃は無言で叩き落とした。そして、冷たく言った。「主任、この案件は私には無理です。ほかの人をあたってください」時乃はそう言い捨てて踵
海栖市を離れてからこんなに経ったのに、まさか隼人が自分を追ってくるなんて。少し前には紗良との婚約話まで流れていたというのに!今さら何のためにここへ?時乃の反応に、隼人の心臓はギュッと締めつけられた。けれどすぐに気を取り直した。あれだけ多くのつらい思いを、彼女は我慢してきたのだ。今さら自分が頭を下げるくらい、どうってことはない。「時乃、怒ってるのは分かってる。俺が悪かった。紗良のことも、ちゃんと片をつけた。もしそれでも気が済まないなら、お前の思う通りにしていい。とにかく、お前がまた笑ってくれれば、それでいい」隼人は静かにそう言って、彼女の袖をそっと掴んだ。その仕草は、まるで愛に飢えた子どものようだった。けれど、時乃の全身を嫌悪と恐怖が襲った。片をつけた――その言葉の意味を、彼女はよく知っている。隼人は海栖市の財界で名を馳せた男だ。まともな手段で終わらせるはずがない。しかも、長年連れ添った紗良さえも容赦なく排除する彼の心は、どれほど冷えきっているのだろうか。確かに、紗良は罪を犯したかもしれない。けれど、彼女をそうさせた原因は誰だった?あの苦しみの日々を与えたのは、他でもない彼自身だ。今さら、彼女を罰したからすべて水に流して戻ってこいとでも?それは、ただの独りよがりで、自己満足でしかない。取り戻すなんて言葉、笑わせるな。彼はただ、自分の所有物が離れていくことに耐えられないだけだろう。五年も彼に尽くしてきた自分が、今、離れていく。それが気に入らないだけだ。彼女が沈黙しているのを、自分の言葉を信じてもらえていないのだと勘違いしたのか、隼人は焦ったようにスマホを取り出し、紗良の写真を見せてきた。そこには――鎖で縛られ、血まみれになった女性の姿が写っていた。特に膝は皮膚が剥がれ、肉がむき出しで見るに堪えない。「......お前の膝が傷ついたって聞いて、同じように、彼女の両脚を折ってやった。もしそれでも足りないなら......」「......ッ!」時乃は胃の中がかき乱されるような吐き気に襲われ、思わず口を押さえながら、力いっぱい彼のスマホを叩き落とした。「やめて!......本当に気持ち悪い!」スマホが地面に落ちる音に、隼人は呆然とした。彼女の憎悪に満ちた
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