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第八話:壊れているのは

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-10-01 20:46:57

恐怖ではなく、純粋な『問い』が口をついて出た。

「…………あなたは、なんでそんな姿になってしまったんですか」

しかし、女は答えてはくれない。ただ、濁った瞳で虚空を見つめている。

「……どうして、彷徨っているんですか?」

『ァ……ァ……ァァァ……』

意味をなさない、苦痛の音だけが漏れ聞こえる。

「ちょ、ちょっと!!! 輝流!! なにしてるの……! だ、誰と話してるの!?」

「おいおい……急にどうしたんだよ……!」

穂乃果と智哉の悲鳴のような声。二人の瞳は、俺の背後にある『無』を捉えている。俺だけが、この世界の理から外れた一点を視ている。

「……お前たちには、目の前にいるこの人が見えないのか?」

その俺の言葉に、二人の顔が真っ青になっていく。

「えっ……輝流……まさか、今、目の前にゆ、幽霊がいるの……?」

「ひ、ひっ…!!!」

「ああ……」

俺は、目の前の惨状を、検分するように、淡々と口にした。

「顔は潰れてて、多分目は見えてない。それに……ありとあらゆる関節が真逆に折れてる。……余程強い衝撃を受けたんだろうな」

智哉に至っては、もうガクガクと震え、声にならない喘ぎを漏らしている。

「輝流……そ、そんな説明は……いらないって……」

穂乃果の声が悲鳴に変わる。

その時だった。

『なんで……私が……ぁ……ぁ』

『なんで…! どうして……!! なんで私がァァァァァ……!!!!!』

『なんで…!!! なんでなんでなんでなんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇ!!!!!!!!』

女が、天に向かって絶叫した。

空気がガラスのように震え、耳鳴りと共に脳が圧迫されるような感覚。それは音というより、純粋な『苦痛』の波動だった。

「っ……」

隣で、智哉の身体がぐらりと揺れる。その鼻から、つ、と赤い血が垂れた。

っ……!まずい。これは、ただそこにいるだけの霊じゃない。

「穂乃果、智哉を連れて離れるぞ!」

「う、うん!」

俺は智哉の腕を肩に回し、駆け出した。背後から、穂乃果の必死の息遣いが聞こえる。大丈夫、ちゃんと付いてきている。

***

俺たちはすぐにその場を離れたが、女はあの場所から動くことはなかった。

「……智哉、大丈夫か?」

「あ……あぁ……悪ぃ……」

唇を紫色にして、智哉はかろうじて頷く。見るからに大丈夫ではなさそうだ。

「謝るなよ。俺が勝手にあの女の元へ行ったのが原因だな…。悪かった。これから気を付ける」

「ね、ねぇ、輝流」

不意に穂乃果が話しかけてくる。その声は、まだ恐怖に震えていた。

「さっきさ、あなたが女性の霊を見て……全身の関節が反対方向を向いてたって、言ったよね……」

「……ああ」

「私、その女の人の死因が、分かっちゃったかもしれない……」

「なんだって……?」

穂乃果の言葉が、アスファルトの道の上に、今はもうないはずの二本の鉄のレールを幻視させた。

「十年前の話なんだけど……あの辺りにはね、線路があったって、おじいちゃんから聞いたことがあるんだ」

「線路……」

「うん。でも、その線路はもう撤去されてる。理由は、そこで飛び込み自殺があまりにも多かったからだって……おじいちゃんの資料で読んだことがある」

「そうか…………」

「だから……その……全身が反対方向に折れてたって聞いて、その線路のことを思い出したんだ」

……なるほど。それなら、あれほど骨が折れ曲がっていたのも、顔が潰れてしまっていたのも、理解できる。

電車のスピードで、ぶつかったとしたら、あんなふうになってしまうだろう。

だが……気がかりな事がひとつ残っている。仮に飛び込み自殺だとして……。

なんで、あの女は 『なんで私が』と叫んでいたんだ?

普通、自殺ならそのような問いは出てこない筈だ。

原因は……他に何かあるのか……?

他殺……ただの事故……その線もあるかもしれない。

なんて、刑事めいた不釣り合いな事を考えていた。

「ね、ねぇ……」

穂乃果がおそるおそる、俺の顔を覗き込む。

「私、幽霊なんて目に見えないのに、輝流が駆け出して、そんな……事故にあったような見た目の女性がいるって聞いてね……すごく、怖くなっちゃったんだ」

彼女が感じているのは、幽霊への恐怖だけじゃない。俺という存在そのものへの、畏れだ。

「輝流は……本当に、怖くないの……?」

智哉の背中を擦りながら、穂乃果は不安そうに俺にそう尋ねてくる。

「ああ……。不思議な事に、恐怖は感じなかった。そんなことより、あの苦しそうな人をどうしたら解放できるか、そればっかり考えてた」

「輝流……本当に、強いね」

違う。

これは、強いんじゃない。

穂乃果たちが感じる恐怖。それこそが正常なんだ。

壊れているのは、この二人なんかじゃなくて──

──俺自身。

彼らのいる『正常』な世界と、俺のいるこの歪んだ世界の間には、決して越えることのできない透明な壁が存在する。

彼らの優しさが、その壁の厚さを、俺に嫌というほど自覚させた。

それがなんだか、ひどく、寂しく感じた。

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  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十二話:招かれざる客

    俺は、目の前にある古びた玄関のドアノブに手をかけた。ひやりとした、錆の浮いた鉄の感触。 どうせ開かないだろう、という予感はあった。力を込めて捻り、引く。が、がちり、と硬い感触が手に伝わるだけで、扉はびくともしない。 「……まあ、そうだよな」 左腕に、穂乃果の指が食い込むのを感じる。ほとんど全体重を預けられているせいで、少し動きにくいな。 「裏手を見てみるか」 「うん…」 家の側面に回り込み、生い茂った雑草をかき分ける。建物の影になった場所は、ひどく空気が湿っていた。 裏庭へ抜けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 裏庭の、朽ちかけた縁側の下。そこに、黒く変色した染みが、べったりとこびりついていた。まるで、何か大きな獣でも引きずったかのような、おびただしい量の痕跡。 「なんだ、これは…」 声が、掠れた。隣で、穂乃果が俺の顔を不安そうに見上げる。 「ど、どうしたの…?」 穂乃果が首を傾げる。 「何か見えるの…?」 その言葉に、はっとする。俺の視線を追う穂乃果の瞳には、ただの不審だけが浮かんでいる。 ……まさか。この、おびただしい量の血痕が、こいつには見えていない、というのか? 「……いや、なんでもない」 今余計な事を言っても、こいつを不安にさせるだけだ。そう考えた俺はかぶりを振ると、その禍々しい痕跡から目を逸らし、穂乃果の腕を引いて再び玄関へと戻った。裏手の窓も、雨戸が固く閉ざされていて入れそうになかった。 「やっぱり、戸締りくらいはしてるよな…」 「うん……管理してる人がいるんだろうしね…」 穂乃果がそう呟き、諦めの空気が漂った、その時だった。 ──カチャリ。 乾いた金属音が、やけにクリアに響いた。二人同時に、音のした玄関の方を振り返る。 「今の音は……?」 俺が呟くと、穂乃果がごくりと喉を鳴らす。 「…げ、玄関……だよね」 「ああ、見てみよう」 俺は、まるで何かに引き寄せられるように玄関へ歩み寄ると、もう一度、冷たいドアノブに手をかけた。 さっきと同じように、捻って、引く。 すると、 キィィィィン……、 今までが嘘のように、重く、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。 中から、黴と埃が混じった、淀んだ空気がどっと溢れ出す。 おかしい。さ

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