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8.二十年前の写真

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-10-01 20:46:57

展開は、俺が思っていたよりも早かった。

 翌朝。教室に入って自分の席へ向かう途中、隣の席に突っ伏している見慣れた後ろ姿が目に入った。

 穂乃果だ。

 いつもなら俺より先に来て、誰かしらと話しているか、窓の外を眺めてぼんやりしているかのどちらかなのに、今日は机に頬を押しつけたまま動かない。

「おはよう」

 声をかけると、穂乃果はゆっくり顔を上げた。

「おはよ〜……」

 ふにゃ、と力の抜けた声が返ってくる。

 その顔を見て、俺は少しだけ眉を寄せた。

「おはよう……って。その目の下の隈はどうした」

「これ?」

 穂乃果は自分の目元を指で触ってから、困ったように笑った。

「これね、実は……あの件を調べてたら、ちょっと夢中になっちゃってさ。えへへ」

「えへへ、じゃないだろ」

 思ったより声が低くなった。

「大丈夫か。結構ひどいぞ」

「大丈夫、大丈夫。私が頑丈なの、知ってるでしょ?」

 胸を張ってそう言う穂乃果は、いつもより明らかに眠そうだった。

 頑丈、ねえ。

 俺の記憶にある穂乃果の“頑丈”は、だいたい無理をしたあとで風邪を引くまでが一セットだ。小学生の頃も、中学の頃も、本人だけが本気で「平気」と思っていて、周りが気づいた時には熱を出していた。

 そういうところは、あまり変わっていない。

「とりあえず」

 穂乃果は鞄をごそごそ探ると、一枚の写真を取り出した。

「ねえ、浅生くん。この人を見てくれないかな」

 差し出された写真を受け取る。

 古い写真だった。少し色褪せていて、端が白く擦れている。

 写っているのは三人。四十代か五十代くらいの男女と、その間に立つ若い女性。二十歳前後だろうか。柔らかく笑っているのに、どこか儚い印象があった。

「これは……」

 言いかけて、そこで止まった。

 あの夜、自販機の白い光の下に立っていた女。

 濡れた髪。血の気のない顔。こちらを見つめる目。

 写真の中の女性と、完全に同じとは言えない。夜だったし、相手は血に濡れていた。けれど、目元の形と、口元の薄い笑みの名残に、引っかかるものがあった。

 俺は写真の中の若い女性を指で示した。

「たぶん、俺が見たのはこの人だ」

「……やっぱり」

 穂乃果の声が、小さく沈む。

 眠気でぼんやりしていた顔から、ふっと柔らかさが消えた。怖がっているのとは少し違う。見つけてしまったものを、ちゃんと受け止めようとしている顔だった。

「多分、浅生くんが見たのは……本物の霊だと思う」

「……」

 普通なら、そこで笑うところなのかもしれない。

 馬鹿馬鹿しい、とか。寝不足で変なことを言うな、とか。

 けれど、俺は笑えなかった。

 黒い石の冷たさが、まだ指先の奥に残っている気がしたからだ。

「その人ね」

 穂乃果は写真に視線を落としたまま続けた。

「二十年くらい前に、あの辺りにあった線路で亡くなってるみたいなの。廃線になる前の話。記事の切り抜きが残ってて……事故、だったって」

「そうか」

 口から出たのは、それだけだった。

 血だらけの女。

 濡れた裸足の音。

 返して、と動いた唇。

 断片だったものが、一本の線で繋がっていく。繋がったところで、答えになったわけじゃない。ただ、昨日まで輪郭のなかった不気味さに、人の顔と名前が与えられた。

 その方が、妙に重かった。

「ちなみに、返してって言われたかもしれないって話なんだけど……ごめん。そこまでは、私が先にダウンしちゃって」

 穂乃果は申し訳なさそうに眉を下げた。

「まだ全部は調べきれてないの。おじいちゃんの資料、思ったより多くて」

「謝らないでくれ」

 俺は写真から顔を上げた。

「ここまで調べてくれただけでも、十分助かった」

「でも……」

「ありがとう、穂乃果」

 そう言うと、穂乃果は一瞬きょとんとした。

 それから、みるみるうちに頬が赤くなる。

「そ、そんな。私は別に、大したことなんて……」

 言いながら、彼女は両手を膝の上でもじもじと動かした。さっきまで眠気で半分死にかけていたくせに、こういう時だけ妙に反応が早い。

 こっちまで気まずくなって、俺は視線を窓の方へ逃がした。

 その時、始業のチャイムが鳴った。

「……っと。もう時間か」

「う、うん。また昼休みに話そ」

「っても、席隣だけどな」

「あ、そっか」

 穂乃果が小さく笑う。

 その笑い方がいつも通りで、少しだけ安心した。

 けれど授業が始まってから、穂乃果の頭は何度もかくんと落ちた。

 教師の声が黒板の前で流れていく。チョークの音。ノートをめくる音。教室のあちこちでシャーペンが走る音。

 その中で、隣の席の穂乃果だけが、ゆっくり睡魔に沈んでいく。

 かくん、と肩が傾くたびに、俺は机の下で指先を伸ばして、そっと彼女の肩を支えた。

 穂乃果はそのたびに、はっと顔を上げる。

 そして俺を見る。

 俺は何も言わず、黒板を見る。

 何度目かで、穂乃果は小さく口を動かした。

 ごめんね。

 声にはならなかった。

 俺はノートの端に短く書く。

 寝るな。

 それを見た穂乃果は、少しだけ頬を膨らませた。

 それでも、また数分後には頭が落ちた。

   *

「今日はありがとうー……浅生くん……」

 昼休みになる頃には、穂乃果の声は朝よりさらに溶けていた。

「気にすんな。俺も遠慮しなかったのが悪いしな」

「浅生くんが悪いわけじゃないよ。私が勝手に気になっちゃっただけだから」

「その結果がその顔なら、十分問題だろ」

「う……」

 穂乃果は反論できないらしく、視線を机の上に落とした。

 それから、少しだけ表情を引き締める。

「浅生くんはこの後、あの場所に行くの?」

「ああ」

 隠しても仕方がない。

「調べるって言ったら、落ち着かなくてな。俺は今日、このまま行ってくる」

 穂乃果の指が、机の端をきゅっと掴んだ。

 眠そうだった目に、はっきりとした不安が戻る。

「……なら」

 彼女は一度、言葉を飲み込んだ。

 それでも、すぐに顔を上げる。

「わ、私も行く」

 その声は震えていた。

 怖いと知っていて、それでも俺をひとりで行かせないための声だった。

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