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四十話:詩織の過去

ผู้เขียน: 渡瀬藍兵
last update วันที่เผยแพร่: 2025-05-29 19:02:35

 それは、大雨の中だった。

 前すら見えなくなるほどの雨が、地面を叩いている。まるで空そのものが泣き崩れているかのような、容赦のない豪雨。

「凄い雨だ……」

 雨音に呑み込まれながらも、悠斗の声がかすかに漏れた。

『母さん!!! お願い! 分かってよ!!』

 突然、玄関の奥から詩織の切羽詰まった叫びが轟いた。

 悠斗は恐る恐る扉に手を伸ばす。だがここは記憶の世界だ。指先はすり抜け、何にも触れられない。それでも——中の光景は、残酷なほど鮮明に見えていた。

(このやり取りは……)

 もう、終わりが近い。それだけは、わかっていた。

『ダメだ!! 結婚なんて認めないよっ! 男なんてもんは信用しちゃいけないんだ!』

『母さんっ!』

『黙りなっ!!』

 悠斗の背筋が、強張った。今まで聞いたどの場面とも違う、渇ききった叫び。あの夫を打った夜に近い激情——だが声の質が違う。あの時は怒りだった。今は、恐怖だ。娘を失うことへの、剥き出しの恐怖。

『母さんっ! どうしてわかってくれないの!? あの人はそんなんじゃないの!』

『はっ!! どうだかね! 男ってのは女を騙すもんさ! きっといつかしっぽを出してお前を傷つけていく。あたしゃそれに耐えられないんだよ!』

『っ! お願い! 冷静になって! あの人のことをそんなふうに言わないでよ! あの人は……! あの人はお父さんとは違う!』

『ちゃんと、私を愛してくれている!』

『信じられるかい! 思い出してみな! お前が紹介した彼氏、みんなろくでもない奴ばかりだったじゃないか!』

『それは別れたからであって、みんながみんなそうだったわけじゃないでしょ!? ちゃんと将来のことを思って別れた人だっていたの!!』

 悠斗は胸を押さえた。どんどん歯止めが利かなくなっていく二人の言葉が、記憶の壁に跳ね返り、反響し、悠斗の身体を貫いていく。

(この場面だったのか……! あの、身を焼くほどの後悔は……!)

 かつて流れ込んできた、あの激情。胸の底を焦がすような、あの感覚。その正体が——今、目の前で再生されている。

『お願いだから……! 信じてよ! あの人は……竹本さんは私を愛してくれてるの……! だから、結婚を認めて!』

『嫌だね!! どうせろくなもんじゃないんだ! ……お願いだよ! 詩織、私はお前に傷ついて欲しくないんだ!』

 ——それが、限界だった。

『くっ……!!! 母さんバカ!!!! もう知らない!!』

『ちょっと! どこに行くってんだい! 詩織!』

 玄関の扉が、勢いよく開け放たれた。

『もう……! こんな家出て行ってやるんだから!!!』

『待ちな!! 詩織! 詩織っ!!!』

 詩織は振り返らなかった。激しい雨の中へ飛び出し、その背中はあっという間に豪雨に呑まれていく。

『どうして……! なんでわかってくれないの……! あの人はそんなんじゃない……!』

 静依はもう近くにいない。それでも詩織は、雨に打たれながら吐き出し続けていた。

 ——本当は、困らせてやるつもりだっただけだった。数時間して戻れば、お互い熱が冷めて、もう少し建設的に話し合えると思ったから。

 ——でも……そうはならなかった。

『はぁ……はぁ……。こんな所まで来ちゃった……。そろそろ戻らないと……流石に心配するよね……』

 雨を一時しのぐために、彼女はそこに入った。びしょ濡れの身体を抱え、荒い息をつきながら、あの勢いで飛び出したことを少しずつ後悔しはじめていた。

『はぁ……。熱くなって、思ってもないこと言っちゃったし……謝らないと……』

 ——でも、このまま帰るのも、まだ気持ちの整理がつかなかった。私はトンネルを抜けて、遠回りで家に帰ろうと——そう、決めた。

 詩織がトンネルの中腹あたりを歩いていた、その時だった。

 背後から——凄まじいクラクションが、トンネルの壁を震わせた。

『えっ?』

 振り返った瞬間、視界が白く灼けた。眩い光が、すべてを塗り潰していく。

 次の瞬間。

  凄まじい衝撃音。

 全身を撃ち抜くような衝撃が、詩織の身体を襲った。足が地面から離れ、天井と地面が目まぐるしく反転する。

 その表情には、絶望と驚愕と——何かを言いかけたまま凍りついた言葉の残骸が、張りついていた。

 鈍く、低い音。鉄と骨が軋み、砕ける音が、トンネルの底から這い上がってくる。悠斗は両耳を塞ぎたかった。だが身体が動かない。目も、耳も、閉じることを許されなかった。

『っ! うそだろ!? なんでこんな雨のなかトンネルに人がいるんだよ!!』

 トラックの運転席から、男が降りてきた。顔は真っ青に変わり果て、足もとがふらついている。ポケットから携帯を取り出し——指をかけたまま、止まった。

 躊躇っている。

「っ! 早く!! 救急車を!」

 悠斗は叫んだ。声が割れた。喉が裂けるほど叫んだ。だが——届くはずがなかった。ここは記憶の中だ。何も変えられない。何も、救えない。

 男はやがて、携帯をポケットに戻した。そして詩織の身体を掴み、トンネルの壁際へと——転がした。

「そ、そんな! そんな場所に彼女を置いたら……!」

 暗がりの端。車のライトも届かない、トンネルの隅。そこに押しやられたら、誰の目にも映らない。

 実際、それからしばらくして何台かの車がトンネルを通過した。ヘッドライトが壁を舐め、エンジン音が反響し——そして、何事もなく去っていく。誰一人、彼女の存在に気づくことなく。

『……いたい……。いた……い、いたいいたいいたい……』

 声にならない声が、暗闇の底から漏れていた。

『いたい……よぉ………………母さ……ん…………』

 最後に呼んだのは、竹本の名前ではなかった。喧嘩別れしたまま飛び出してきた、あの人だった。

 ——私は、母さんを裏切った。母さんをまた……一人にしてしまった。

 ——ごめんなさい……ごめんなさい……母さん……

 声が、途切れた。雨音だけが残った。暗いトンネルの隅で、誰にも見つけてもらえないまま——詩織の時間が、ゆっくりと止まっていく。

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